帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 二月七日(今日、川尻に船いりたちて)

2013-02-16 00:06:53 | 古典

    



                         帯とけの土佐日記


 土佐日記 二月七日(今日、川尻に船入りたちて)

 
七日。今日、川尻に船が入って漕ぎ上るときに、川の水、干上がっていて、思案にくれ困りはてている。船が上ることは、たいそう難しい。このようなときに、船君の病人、もとより、こちこちしき(武骨な…露骨な)人で、かうやうのこと(これまで述べて来たような歌のこと)、さらさら知らなかった。それでも、淡路の御老女の歌について愛でて、みやこほこりにもやあらん(都が誇らしいからかしら…宮こ自慢かしら)、かろうじて、あやしげな歌を捻り出した。その歌は、

きときてはかはのぼりぢのみずをあさみ ふねもわがみもなづむけふかな

(やっとやって来たところが、川上り路の水が浅くて、船もわが身も難渋する今日かな……宮こを見せようとやって来たのに、かはのぼり路の、みづ浅くて、ふ根もわが身もゆき患う京だなあ)。

 これは、病をしているので詠んだのでしょう。ひと歌では飽き足りないので、いまひとつ、

とくとおもふふねなやますはわがために みづのこゝろのあさきなりけり

(早く都へと思う船を困らせるのは、我が為に、水の心が浅かったのだ……早く京へと思う夫根悩ませるのは、我が為に、をみなの情が浅さかったのだ)。

この歌は、みやこちかくなりぬ(都が近くなった…宮こ近く成りぬ)喜びに堪えられずに、言ったのでしょう。淡路の御老女の歌に劣っている。

 「ねたき、いはざらましものを(ねたましい、言わなかったらよかったなあ)」と悔しがるうちに、夜になって寝たのだった。


 言の戯れと言の心

「こちこちしき…骨骨しき…武骨な…露骨な」「みやこ…京…宮こ…絶頂」「ほこり…誇り…自慢」「かは…川…水…女」「ぢ…路…女」「あさみ…浅いために」「浅…少ない…十分でない」「ふね…船…おとこ」「けふ…今日…京…絶頂」「みづのこころ…水の心…女の心…女の情」「ねたき…妬き…(老女の艶情の歌が)妬ましい…寝たき…(病なので)寝たい」「たき…たし…希望する意を表す」。


 
歌は清げな姿がない。歌の心は、宮こ(絶頂)へと思うものの、難渋する男の有り様の説明であり言い訳である。心におかしいとは思えない。
 
こちこちしき(露骨な)歌である。淡路の御老女の歌にさえ劣っている。このような批評だとして、妥当だと思えれば、歌が正当に聞こえているのである。


 伝授 清原のおうな
 聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系 土佐日記による。