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帯とけの土佐日記
土佐日記 二月七日(今日、川尻に船入りたちて)
七日。今日、川尻に船が入って漕ぎ上るときに、川の水、干上がっていて、思案にくれ困りはてている。船が上ることは、たいそう難しい。このようなときに、船君の病人、もとより、こちこちしき(武骨な…露骨な)人で、かうやうのこと(これまで述べて来たような歌のこと)、さらさら知らなかった。それでも、淡路の御老女の歌について愛でて、みやこほこりにもやあらん(都が誇らしいからかしら…宮こ自慢かしら)、かろうじて、あやしげな歌を捻り出した。その歌は、
きときてはかはのぼりぢのみずをあさみ ふねもわがみもなづむけふかな
(やっとやって来たところが、川上り路の水が浅くて、船もわが身も難渋する今日かな……宮こを見せようとやって来たのに、かはのぼり路の、みづ浅くて、ふ根もわが身もゆき患う京だなあ)。
これは、病をしているので詠んだのでしょう。ひと歌では飽き足りないので、いまひとつ、
とくとおもふふねなやますはわがために みづのこゝろのあさきなりけり
(早く都へと思う船を困らせるのは、我が為に、水の心が浅かったのだ……早く京へと思う夫根悩ませるのは、我が為に、をみなの情が浅さかったのだ)。
この歌は、みやこちかくなりぬ(都が近くなった…宮こ近く成りぬ)喜びに堪えられずに、言ったのでしょう。淡路の御老女の歌に劣っている。
「ねたき、いはざらましものを(ねたましい、言わなかったらよかったなあ)」と悔しがるうちに、夜になって寝たのだった。
言の戯れと言の心
「こちこちしき…骨骨しき…武骨な…露骨な」「みやこ…京…宮こ…絶頂」「ほこり…誇り…自慢」「かは…川…水…女」「ぢ…路…女」「あさみ…浅いために」「浅…少ない…十分でない」「ふね…船…おとこ」「けふ…今日…京…絶頂」「みづのこころ…水の心…女の心…女の情」「ねたき…妬き…(老女の艶情の歌が)妬ましい…寝たき…(病なので)寝たい」「たき…たし…希望する意を表す」。
歌は清げな姿がない。歌の心は、宮こ(絶頂)へと思うものの、難渋する男の有り様の説明であり言い訳である。心におかしいとは思えない。
こちこちしき(露骨な)歌である。淡路の御老女の歌にさえ劣っている。このような批評だとして、妥当だと思えれば、歌が正当に聞こえているのである。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系 土佐日記による。