帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの土佐日記 正月廿二日(よんべのとまりより)

2013-02-06 00:09:43 | 古典

    



                                      帯とけの土佐日記


 土佐日記 正月二十二日(昨夜の泊りより)


 廿二日。昨夜の泊りより、他の港を目指して近づいて行く。はるか遠くに山が見える。歳九つばかりの、をのわらは(男の童)、歳よりは幼いのである。この童、船を漕ぎ行くにつれて山も行くと見えるのをみて、あやしいことよ、歌を詠んだ。その歌、

こぎてゆくふねよりみればあしひきの やまさえゆくをまつはしらずや

(漕いで行く船より見れば、遠くの山さえ一緒に行くのに、近くの松は知らないの・ついて来ないよ……こいで逝く夫根より見れば、あの山ばさえゆくのに、まつは感知しないのか)、

といった。をさなきわらは(幼い童…小さなおとこ)の言としては似つかわしい。


 言の戯れと言の心

 「としここのつ…年齢九歳…疾し九つ…早すぎが多い」「八…多い…九つ…八余り一…多過ぎ」「をのわらは…男の童子…おとこ」「ふね…夫根…おとこ」「見…覯…媾」「やま…山…やまば」「ゆく…行く…逝く」「まつ…松…待つ…女」「しらず…知らず…無関心…感知しない」。


 「おとこ」の立場で歌を詠む例は、伊勢物語に幾つかある。その内、伊勢物語第五十九章の歌で、古今集雑上の冒頭にある歌を聞きましょう。

 物いたく病みて、死に至りければ、おもてに水そそぎなどして、いき出でて、

我が上に露ぞおくなるあまのかは とわたる船のかいの雫か

(我が上に露がおりている、天の川、水門渡る彦星船の櫂の雫か……ぼくの上に露がおりた、吾女の貝かは、門わたる夫根の櫂の雫か)

となむいひて、いきいでたりける。


 おとこの歌と知って、言の心を心得て読まなければ、歌の清げな姿しか見えない。歌を聞くために必要だから、おとこの詠む歌をここに示してある。

 


 今日(廿二日)、海は荒れ気味で、磯に雪が降り波の花が咲いた。あるひと(或る女)が詠んだ、

なみとのみひとつにきけどいろみれば ゆきとはなとにまがひけるかな

(なみは・波とばかり一義に聞いていたけれど、色みれば白い雪と花とに、見まちがえてしまったことよ……汝身とばかり一つに聞いていたけれど、色見れば、逝きと花とに、まぎれてしまうことよ)。


 言の戯れと言の心

 「なみ…波…白波…汝身…並み…おとこ」「ひとつ…一つ…一義」「いろ…色…色彩…色や形ある儚いもの…色情」「ゆき…雪…逝き…ことの果て…白」「はな…花…波の花…汝身の花…白」「に…比較の基準を示す…変化の結果を示す」「まがふ…紛れる…見間違える…見うしなう」。


 波に寄せて、うたかたの、はかないおとこ花を詠んだ。

多様に戯れる「なみ」と云う言葉の「言の心」を心得ることは、歌を詠み、歌を聞くために必要である。


 夫の喪中に言い寄ってきた男を門前払いしたところ、恨みごとを言ってきたので、紫式部の返した歌を聞きましょう(紫式部集)。

かえりては思ひしりぬや岩かどに 浮きて寄りける岸のあだ波

(……ひっくり返って思い知ったか、岩角に浮かれて寄って来た、無用のおとこ汝身)。


 「岩・磐・石…言の心は女」「かど…角…門…女…おんな」「岸…来し…来た…波が砕ける所」「あだ波…不実な男波…無駄な汝身…無用の並み」。


 
伝授 清原のおうな
 
聞書 かき人知らず(2015・11月、改定しました)

 
原文は青谿書屋本を底本とする新日本古典文学体系土佐日記による。