<西部邁師の論(46)。民主主義;『公民』のみが、政治参加の資格を持つ。 共和制を、担保するのは、国民の歴史感覚>
◇、公心と私心の2重性
『市民』のことを、英語でシチズン、仏語でシトワイヤンといいますが、それらは、シティ(都市)に、戸籍や住民票を、登録した人々などという、意味では『ない』のです。
「シヴィル。」とは、「礼儀正しい。」ということですが、『礼儀』の体系は、どこから来るのでしょう?
それは、『公共空間』のルール、マナー、エチケットから、ということになります。
「公共空間。」に入るためのチケット(切符)、それが、「エチケット。」の意味なのです。
市民の持つべき、パブリック・マインド(公心)を明示するために、『公民』(パブリック)という言葉を使うことにします。
実際の市民が、プライヴェート・マインド(私心)をも、持つことは、言うまでもありませんが、政治という、公共空間に現れるとき、市民は、『公民』として、振る舞わなければなりません。
公民の言葉づかいのなかに、私心が、含まれることになるのは、当然のことです。
人は、誰であれ一面では、独個の『個人』(インディヴィデュアル・マン)であり、他面では、何らかの集団に帰属する、「集団人。」(コレクティヴ・マン)でありまして、そして、個人も集団人も、『私心』から、離れることはできないのです。
そういう、制限がついた上でのことですが、人々が、『公心』を、表面にかかげてはじめて、国家にまとめ上げられるものとしての、「公共空間。」が、出来上がると見なければ、なりません。
フランス革命の『権利憲章』における、「人および市民の。」という限定も、その「公民性。」をさしているのです。
「民間部門。」のことを、プライヴェ―ト・セクターと呼んで、パブリック・セクター(政府部門)と区別するのは、アメリカ流ですが、それは、『誤解』を招く言い方です。
民間部門の基礎に、人々の『公心』が、据えられていなければ、政府が、まともな、公共部門になるはずも、ありません。
そして、人々に、『共通』の公心の出所は、となると、これまでの議論でも明らかでしょうが、住民にあっての『歴史』の流れ、それのもたらす、『慣習』の体系、そこに内包されている『伝統』の精神を、参照する以外にないのです、
公心を生み出すのは、『伝統』精神を「判断基準。」に、しなければ、ならないでしょう。
(続く)