尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「腹」や「身内」は真実を知っている

2017-03-28 06:00:00 | 

 前回(3/21)に続いて、フィクションとしての文芸作品の中に見える「応声虫」の扱われ方を見ていきます。今回の作品は曲亭(滝沢)馬琴の『南総里見八犬伝』(一八一四~四二年刊)です。これは読本(よみほん)といって、絵を主とした草双紙・絵双紙に対して、文を読むことを主とした本の呼称で、江戸後期の小説の一種を意味します。馬琴のこの作品は読本の代表作品といっていいものでしょう。さて、『南総里見八犬伝』で「応声虫」はどう扱われているのでしょうか。よみ仮名をたくさん振りましたので、かえって読みづらいかもしれません。(引用中の引用におけるよみ仮名は半角カタカナを使って区別しました。また一箇所だけある下線部は、該当する漢字が見つからずひらがな表記に替えてあります)

 

≪近江の胆吹山(いぶきやま:伊吹山)に、但鳥跖六業因(ただとりせきろくなりより)という盗賊の頭領がいた。寺院や豪民を襲って、財を奪うことを繰り返しただけではない。「孕(ハラメ)る婦(オンナ)を奪(ウバイ)拿(ト)らし、生(イキ)ながらその腹を裂(サカ)して、胎内(ハラコモリ)の子を蒸(ムシ)て啖(クラ)ひ、炙(アブ)らしもして」酒の肴にするなど、残虐非道の限りを尽し、人々から「胆吹山の鬼跖六(オニセキロク)」と恐れられていた。その跖六業因(せきろくなりより)が、京都の祇園会を見物するため、物売りの姿を装い、手下の者三、四人を従えてやって来る。山鉾が通るのを、群衆のなかで見物していたまさにその時、業因(なりより)に異変が起こる。その様子を馬琴は、こう描写している。

 「怪(アヤシ)むべし。業因(ナリヨリ)が、肚裏(ハラノウチ)に声ありて、忽然(コチネン)として叫ぶこと、応声虫に異ならず、年来他(トシコロカレ)が做(ナ)しゝ悪事を、云云(カクカク)としゃべる声、高やかにして、人の耳を、串(ツラ)ぬく可(バカ)りに聞えしかば、・・・」。これまで自分がしてきた悪事の限りを、激しくまくし立てる腹中の声が、群衆の中で鳴り響いた。慌てふためいたのは業因自身である。腹を押さえたり、胸をたたいたりしたが、腹の「声」は納まるどころか、ますます激しく罵り続けた。周囲の人々は、それを目の当たりにして、驚き恐れた。こうして悪事が露見したことによって、業因は緝捕使(とりてつかい)の大将に捕らえられてしまう。

 右に引用したように、馬琴は「応声虫に異ならず」と書いているが、次の「巻之四 第九十八回」で「博士(はかせ)」を登場させ、「応声虫」についての見識を披露している。「博士」はこう述べる。「応声虫といふ奇病は、その病人がものいへば、腹内(ハラノウチ)にも声ありて、又その如くものいふのみ。則是响(スナワチ コレ ヒビキ)の音に応ずるに異ならず。その病人は黙然(モクネン)たるに、腹中(フクチュウ)に声あるにはあらず、恁(カカ)れば但鳥業因(タダトリ ナリヨリ)が、腹内(ハラノウチ)に声ありしは、応声虫にあらざる也」。

 このように「博士」は、当人が声を出していないのに、腹の方から一方的に言葉を発するのは、「応声虫」ではない、と断言している。また「博士」は、怨霊による可能性について、「是を怨霊の所為(ワザ)といへるは、拠(ヨリドコロ)あるに似たれども、そも推量の外を出(イデ)ず」と、これも否定し、「毒悪の冥罰」によって「奇病」を得たのだと結論している。

 「冥罰」はともかくとして、業因(なりより)の奇病が何であるかをめぐって、「応声虫」と「怨霊」との両者が取り上げられていることに留意しておきたい。≫(『「腹の虫」の研究』二三~四頁)

 

 馬琴が「博士」を使って説明する「応声虫」は、当人の発話に応えるものだけがそう呼ばれ、勝手に喋るのは応声虫ではないと紹介されています。なぜこういう現象が起きるのか、それは当人の音声が腹の内に響きそれが反射するからだと説いているように読めます。生理学的な説明なので、これはこれで不思議ではない。ですが、自分の腹が勝手に喋りだすのにはやはり驚きます。馬琴は「博士」にどう説明させているのか。「怨霊」のせいとも考えられるが、「毒悪の冥罰」のせいだ、と結論づけています。馬琴の「勧善懲悪」路線ゆえの自然な判断なのかもしれません。

 人に知られたくない自分の悪事を公衆の面前で、自分の「腹」の声が勝手にペラペラと喋り出す。これはどう考えても奇っ怪にして恐ろしく恥ずかしい事態ですが、こんな事はあり得ないという風には思えません。たとえば、ひと頃現代社会に頻発した「会社内部」からの告発を思い起こすからです。「会社内部」も「腹の声」も、「身内」と言い表すことができる点がなんだか妙ですが、これら二つの言葉には、真実を知る存在というニュアンスが含まれていることに心づかされます。また、これに対して馬琴の考える応声虫は、当人からの呼びかけがなければ応ずることができませんので、自分のコントロール下にある存在。勝手に喋り出すのは自分ではコントロールできない外部の影響を想像させます。以上から、ここでの応声虫の扱われ方には、やはり読者の好奇心に応える記述、すなわち説話性を増幅させる効果があることを認めることができます。