尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

打ちこわし被害を受けない商人的百姓家

2017-03-09 10:27:45 | 

 前回(3/2)は、「天明三年浅間山大噴火と打ちこわしと八右衛門」と題して、十七歳の八右衛門が心の刻んだと思われる大災害とそれに続いた打ちこわしについて紹介しました。浅間山大噴火の勢いが利根川の洪水を引き起し下流の前橋南東の東善養寺村にも大きな水害を及ぼしたこと、これが引き金になって一帯の百姓らの不満が在方商人を標的にした打ちこわしになって現れたことを見ました。私は火山災害が単に噴火にとどまらず河川を媒介にして下流域に火炎まじりの水害を及ぼすことに驚くとともに、災害時を契機とした民衆騒擾の激しさにも心づくことがありました。それは災害と政治は密接な関係にあるということです。時代の政権がフォローできない大災害下では政治的不満が爆発することがあり、かつまた尾を引くのです。

 噴火災害と打ちこわしの間(あいだ)には、<浅間山噴火→田畑の作物が土砂に埋まり潅漑用水路である広瀬川(利根川支流)が干上がるすべての農作物が不熟に百姓は食糧不足と年貢未納の深刻な不安におそわれる>という連鎖が存在しました。酒屋はこんな凶作に乗じて、このあたりの<米を買占め米価高騰米穀欠乏>の原因をつくります。質屋も借金の利息をむさぼります。当時の在方町では酒屋で質屋という兼営もふつうだったそうです。このとき前橋では、銭相場が変動し、米・小麦・油の価格も上がり、十月にはいって穀屋などが打潰されている状況でした。

 東善養寺村から南西へ半道(半里)ほど行くと力丸村になります。ここに、酒屋で質屋を営む羽鳥定七という者がいました。八右衛門の近辺で、百姓たちがまず打ちこわしに向かった対象はこの羽鳥定七の家でした。次いで駒形宿に引き返して近江屋茂右衛門の家を打ちこわします。その往復の途中に八右衛門が寺奉公を終えたあと引き取られた林本家がありました。この林本家も打ちこわしにあったのでしょうか。

 

≪羽鳥家を打ちこわした百姓たちは、今度は駒形宿に引き返して近江屋茂右衛門を打潰すことになった。宿場には、周辺の村々の百姓から余剰を吸いとる商人や商人的農民が成長しやすいが、近江屋という屋号から見て、近江出身のいわゆる近江商人の一人だったかもしれない。そこをめざす百姓たちが力丸村から駒形宿へ引き返す道筋に、ちょうど東善養寺村がある。八右衛門が身を置いていた林本家はこの時、次のような目にあった。

本家七右衛門、その節は相応に相暮らし、土蔵も三つありて、質商売をいたしけるが、利足(利息)も脇々よりは安くとりし故、潰す事ハゆるすべし。そのかわりに夜食ノ仕度を致すべし。近江屋を潰して帰るまでに飯を焼(炊)き出すべしとある。なにぶん迷惑の事なれども潰さるゝにはましなるべしと、夜食ノ仕度をいたしけるに、なにぶん大勢の事なれバ、はなはだ難儀の事どもなり。(巻之三)

 七右衛門は、質屋を営業し土蔵を三つ持つほどの百姓だから上層農民であることはまちがいない。周辺の農民から利子を取りたてる金融業者を営むことから、打ちこわしの候補に挙げられたのだろう。しかし結局、林本家は打ちこわされなかった。打ちこわしというものが、周囲の農民をどれくらい苦しめているかという、悪業相応の制裁を加える百姓たち自身の制裁方式だとすれば、林七右衛門宅が夜食の炊出しだけで済んだのは、七右衛門と周囲の農民のあいだに矛盾はあるものの、百姓たちの眼には、林家が、力丸村の羽鳥定七や駒形宿の近江屋茂右衛門などとはっきり区別される存在として映っていたのである。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二〇~一頁)

 

 引用には、私がこれまでに心づくことのできなかった事実が述べられています。一つは打ちこわしの標的が居村に限定されないということです。百姓たちが苦しめられてきた商人や商人的百姓は居村を越えて存在したことが分かるばかりでなく、打ちこわしの「勢い」というものは、いったん発動したら簡単にはおさまりがつかないことが多いのではないかと思われます。この「勢い」は、打ちこわしの波及の一因となることも明らかです。打ちこわしの「勢い」とは何かその本質をつきとめたいものです。

 二つは、近在の商人あるいは商人的百姓でも打ちこわしを受けない商人的百姓家があるという事実です。八右衛門が身を寄せた本家の林家がそうでした。質屋を営んでいたが利息をむさぼるようなことがなかったことが理由で打ちこわしを免れたことが書いてあります。逆にいうと、村々の金持ち百姓で何代も続いた家というのは、僅かしかないのではないか。後々まで続いた家があったとすれば、それは村内のために何か貢献をなしつつ蓄財した家だということになります。おそらく代々のうちに没落しなかった、このような家が時代を経て村の名望家になっていったのだと思われます。十七歳の八右衛門は善養寺における修業に次いで、我が本家という身近な場所で村のリーダー的資質とはどのようなものか、そのお手本を見ていたのかもしれません。