尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

松本三之介の「国民的使命観の歴史的変遷」

2016-02-29 13:23:27 | 

 私はこれまで、(まあ、当たり前ですが)日本近代思想史における「国民的使命観」という研究テーマの存在を知りませんでした。そこで見つけたのが、松本三之介「国民的使命観の歴史的変遷」(近代日本思想史講座 第八巻『世界のなかの日本』筑摩書房 一九六一)です。今回はこれを読んでいきます。「国民的使命観」とはいったいどういう意味なのでしょうか。まず松本三之介氏の解説を聞きます。第一節の冒頭に、こうあります。

 ここで言う国民的使命観とは、政治的・文化的統一体としての国民(ネイション)が、世界にたいして何を寄与することができるか、または寄与しなければならないかという使命意識のことである。また、あるいはそれよりも若干広い意味で、統一体としての国民が外なる世界──アジアおよび欧米──に向っていかなる態度または姿勢をとるべきかという問題にたいする指導的意見のことであると言ってもよかろう。このような意味における国民的使命観は、日本において、どのように形成され、どのような内容と特質をもったか。それを主として歴史的に考察しようというのが本稿の意図である。そしてこの使命観が統一的な国民を担い手とする以上、国民にたいする日本的使命の伝道者とも言うべきオピニオン・リーダーが主たる考察の対象となるのは、おそらく当然だろう。

  「国民的使命観」とは、一言でいえば、国民的自覚にともなう対外的な態度や姿勢のありようです。これが考察可能なのは近代以降のことです。なぜならば、「国民」が登場するのは、明治国家が「国民国家」としてできあがっていく過程の中であるとすると、「国民的使命観」も明治国家の成立過程と併行して自覚されてきたと考えられるからです。さて、この「国民的使命観」はどのように自覚されていったのか、ざっくりと要約してしまうと、まず幕末です。この時期は欧米列強の圧力に対して、まず独立的な統一国家を確立するのが急務であって世界に向けてどのような態度や姿勢が望ましいかを考える段階にありません。とにかく国民国家を形成しながらも不平等条約改正が大きな課題となっていきます。そのため対外的には剛よりも柔、硬よりも軟で行くしかなかったのです。これが転機を迎えるのは日清戦争の勝利よってです。アジアの大国・清に勝ったことで、国民的な自覚が高まり、世界の中の日本という自覚を得ます。ようやく列強に対して不平等条約改正交渉が現実味を帯びてくるわけです。しかし「三国干渉」によってまだまだ列強の圧力に抗する力がないことを自覚させられますが、日露戦争の勝利によってようやく不平等条約改正が実現するのです。その結果、単に世界の中の日本にとどまらず、日本の国際的地位が高まります。幕末に結んだ不平等条約からおよそ五十年の年月をかけてようやく独立国家の建設という目標を実現したわけです。以上を私なりにその変遷を段階化してみると、(一) 非・国民的使命観の時代(維新期) ── (二)前・国民的使命観の時代(日清戦後) ── (三) 国民的使命観の時代(日露戦後)と受けとめることができます。著者の論述の重点は第二、第三の段階にあります。

 このあと二・三節で、著者はこの変遷において日清戦後以降のオピニオン・リーダーと目された岡倉天心と徳富蘇峰を通して、それぞれの国民的使命観の成立過程をたどっていきます。しかし、ここでは第四節までの文脈を辿るために、第三段階の「国民的使命観の時代」に彼らがどのような使命観を持つことになったのかだけを浮彫りにしたいのですが、今回はこの二人を選んだ理由、両者の共通点、相違点を述べた箇所を引用して、次回に繋げます。

・・・日清戦後の国家的自覚は、多く戦勝にもとづく国家への自負と現状にたいする満足感とを背景とし、したがってそこにおける西洋文明への対決の仕方には、かつての国粋保存旨儀(三宅雪嶺)や国民主義(陸羯南)には見られぬ積極的な自己主張の姿勢を感じとることができる。それでは、これまでひたすら摂取につとめ、追究しつづけてきた西洋文明にたいして、今やようやくひとり立ちの段階に入ろうとする近代日本は、どこに自己の立脚点を見出そうとするのだろうか。なぜなら形づくらるべき国民的使命観の性格もまた、世界にたいする国民的自己主張の足場をどの点に求めるかに規定されるところ少なくないからである。/さてこのような日本の自己認識の仕方は二つの基本的方向をとった。ここではそれを二人の代表的思想家によって代弁させることにしよう。すなわち、一人は岡倉天心(一八六二~一九一三)であり他は徳富蘇峰(一八六二~一九五七)である。周知のように両者はともに日清戦争を契機とする国民的自覚の高揚を背景に、国民的使命観の形成と鼓吹に主導的な役割をはたした。そして日本および東洋がこれまでヨーロッパにたいし余儀なくされていた従属的地位につき覚醒をうながしその克服を強調した点でも、両者はともに同じ時代の課題を担っていた。しかし日本がアジアないし世界において占めるべき地位、果たすべき役割について、当時の両者が示した思考態度には全く対蹠的なものすらあった。それは一言にして言えば、天心の日本にかんする自己認識ないし使命観が基本的には審美的なロマンチシズムによって支えられていたのにたいして、蘇峰のそれが権力的リアリズムによって裏打ちされていた点にもとづくと思われる。(前掲書 八八頁)


〝外国語は人生の闘争における武器だ〟

2016-02-27 06:00:00 | 

 今回は、翻訳家・吉川勇一氏の「人民の手による国際主義(抄)」を紹介します。出典は安藤彦太郎編『現代史への挑戦』(時事通信社 一九七六)に収録されていたものです。私が土曜日に読んでいる『英語教育論争史』への再録は、おそらく「中国の英語学習」だけが抄録されたものだと思われます。ここで引用するのは、吉川氏による中国の英語教育用放送教材についての観察です。

  (中国においては)学校での英語教育以外に、一般の人びとの間で外国語の学習熱は非常に高いようである。とくにラジオ放送による講座が広範に利用されている。(中略)/こういう人びとがどんなつもりで英語を勉強しているのだろうか。その模様を、この上海放送講座初級英語の教材の中の会話でみてみよう。「第二課・われわれは革命のために英語を学ぶ」は、次のように呉さとん王さんの二人の英語での会話である。

「手にもっているのは何だい、王さん?」

「英語の教科書さ。今、工場の業余学校で英語を勉強してるんだ」

「そりゃあいい。むつかしいかい?」

「うん、むつかしい。だけど〝生まれつき出来る〟者なんていないのさ。一生けんめい練習して英語をよく勉強しなくっちゃ」

「そうだとも。われわれは革命のために英語を勉強してるんだからな」

「そのとおりさ。世界には英語を話す人たちが多い。われわれは英語を用いて、世界の人民からその革命的経験を学ぶことができるんだ」

「まったくそのとおりだよ」

「マルクスは〝外国語は人生の闘争における武器だ〟といっている。この言葉をいつも忘れるわけにはいかない。ところで呉さん、君は労働者大学生だったな。君も英語を勉強しているんだろう。ぼくの勉強を助けてくれないかい?」

「いいとも、お互いに助け合おうじゃないか。」

 同じテキストの中には、上海のドックで、アフリカから来た船員と語り合う話や、中国の労働者住宅を訪ね外国の来賓との会話など、国際都市上海らしい交流の場面も多くとり入れられている。/これらの教材の英語は、すべて中国人の教師の手になるものばかりであって、英米人の古今の有名作家の文章など一つも登場してこない。これは、まず目につく日本での教材との著しい相違である。内容に外国人は登場してくるが、それはマルクスの外国語の勉強ぶりの紹介、革命中国のために献身したカナダの医師ベスーンの物語、『インタナショナル』の作詞者ウジェーヌ・ポティエ、同じく作曲者ピエール・ドジェイテール、それにエドガー・スノーの物語などである。/外国事情が教材になっている課もあるが、「イギリス」という課ではイギリス植民地没落の歴史を、「ニューヨーク・スラム街の生活」という課では、そこでの労働者の抑圧された悲惨な状態を、「ミシシッピ河」という課では、過去の黒人奴隷の話と現在の公害による汚染の話、そして「グリーンランド」の課では、そこを舞台としての米ソ二大帝国主義国の覇権争いの話が紹介されている(以上は「上海市大学教材・非英語専業用・文化」の『英語』テキスト)。(『英語教育論争史』九七五~九七六頁)

  この観察は、一九七〇年代半ばころの中国における初級英語の放送教材ですので、現在とは少し変っているかもしれません。しかし、日中両国の外国語への構えが著しく異なっているという感想は、現在も変らないのではないでしょうか。外国語の放送用の教材を自分の国でつくるという場合、目的は自国の利益のためです。これを外国人が非難する筋合いのものではないでしょう。日本人はこの辺の感覚が曖昧です。外国語はあちらのものだから「あちら中心主義」で行きましょうという発想になります。辺境民族日本の学習癖の影響でしょうか。たとえば「お客様は神様です」なんてフレーズがまかり通ってしまう、「おもてなしの心」が大切にされる国柄なのです。しかし、「あちら中心主義」は「こちら中心主義」とワンセットです。どちらをレベルアップしようとも、互いに他を媒介し合わなければ、それは無理というものです。中国の「こちら中心主義」には、中国らしい「あちら中心主義」が見え隠れしていると考えるべきではないでしょうか。


小学三年の八月十五日

2016-02-26 06:00:00 | 

 私の小学生だった時のことをふり返ってみると、中学年(三、四年生)というのは不思議な年頃だったという感じがします。「現実」をどう見ていたか、と思い返してみても何だか夢見ていたような気がするのです。三年生の教室は二階にあって、階段を挟んでいわゆる「障害児学級」があったことを覚えています。階段の上り下りの時にちらっと見える教室の様子が、なぜかとても気になっていました。今でもその教室を見ている自分の像がはっきり見えます。また同じ三年生のときですが、学校の映画会で見た『漂流島』だったか、大きな帆船が難破して無人島に漂着した子供たちの冒険物語にずいぶん昂奮しクラスメートによく話し掛けたこと、特に映画の中で作られるツリーハウスにずっと憧れていたこと、その延長だと思うのですが、四年生になってからはマチの里山で、クラスの男子まるごと参加の一大戦争ごっこを計画準備。事前に担任に察知され母と子は別々に大目玉を喰らったこと。そういえば厚板を切り抜いて何丁も「ライフル」や「機関銃」も作った。銃身には工事現場でもらってきた半端な塩ビ管をセット。そこに2B弾を入れて撃ち合おうとしたことがいけなかったのか。私はクラスメートの前で叱られ、母は学級PTAの場で謝罪させられたこと。帰ってきた母は、私を叱らず「もうやンないよね。」と一言だけだったこと等々。というわけで、中学年の代表として一九三七(昭和十二)年生まれの画家・作家である赤瀬川原平さんの体験記「まっかな葉鶏頭」を紹介します。赤瀬川さんは小学三年生のとき大分市内で終戦を迎えます。出典は前回と同じ『子どもたちの8月15日』(岩波新書 二〇〇五)です。

 戦争との接触は、・・・まずはサイレンによる警戒警報、空襲警報があった。大きくなっては途切れ、鳴っては途切れるサイレンの音は、上空の不安が進行中であることを、子供の耳にもしっかりと伝えた。それとラジオの敵機来襲を告げるニュースの緊張。九州の大分だったので、「豊後水道、北上中・・・」という音節をよく覚えている。目には見えない運命が、そうっと忍び寄っては遠ざかっていくような、そんな不安を感じていた。そして米の配給が厳しくなり、野菜や魚も配給になった。町内の大人たちがみんなで分けるけど、大根も人参も各戸に均等には行き渡らない。そこで包丁が登場した。路上で生の魚が慎重に切り分けられるのを見て、本当に物がないんだと思った。しまいには家庭内に余っている金属類の供出が始まった。軍艦を造る鉄がないので、国中の家庭から余っている食器類を集めるのである。小さなスプーンと巨大な軍艦を頭の中で比べてみると、気が遠くなりそうだった。子供ながらにも、さすがに末期が近づいているのを感じた。(中略)

 庭に防空壕が掘られ、一回目はあまりいい出来ではなく、別の場所にしっかりしたのを造り直した。それでも空襲時に避難していると、どこか遠くに落ちたらしい爆弾で、上に盛った土がばらばらこぼれ落ちて、心細かった。

 町中に焼夷弾が落とされ、家の垣根にも飛び散った油脂が燃えはじめたのをみんなで消して歩いた。そのころ、町内の家全部の天井板を剥がすよう通達がきた。焼夷弾が不発で天井裏に留るのを防ぐためだというが、よくわからなかった。でも、屋根裏の太い梁がむき出しになり、がらんどうの空間に登って、子供心には新しい冒険が増えた気がした。(中略)

 ある夜、予告なく近所の女学校の校舎が爆撃を受け、その時は防空壕に避難する暇もなく、みんな押し入れの中で蒲団をかぶりながら、これで死ぬのだと思った。暗い押し入れの中から、閉じた襖の隙間がぴかぴかと光りつづけて、妙に怖くないのが不思議だった。

 学校では授業がだんだんまばらになり、放課後の校庭で町内の小父さんたちが集団で竹槍訓練をしていた。小母さんたちはお寺の境内でバケツの水を標的に向かってびゅっと飛ばす防火訓練をしていた。登校日もまばらになって、縁故疎開や集団疎開もはじまって、だんだん規則がわからなくなり、ある日学校に行くと、もう教室には生徒は誰もいなかった。先生が苦笑いして、当分報せが行くまで来なくてもいいよと言われた。

 (八月十五日は)大事な放送なので全国民が聴くように、といわれていたので、子供ながら何かは感じていたのではないだろうか。放送は始ったが雑音だらけで、そのガリガリという雑音の合間を縫って、何かお能とか謡にも近いような、鼻音にかかったようにしゃべる声が聴こえてきたが、子供にはまるで意味がわからない。正座したまま庭を見ると、かんかん照りの空気の中に、深紅の葉鶏頭がおおっぴらに咲いていた。そのうち母が、「お声がお変わりになって・・・」と涙を拭きはじめたので驚いた。(中略)

 一瞬中断された生活は、また引きつづき始まり、やはりそれからは緊張が解けたことを感じた。空腹はなおもつづくけど、爆弾のこない世の中になったのだ。

 いつの間にか登校が再開されて、学校の空気が変った。直立していたものが、とりあえずしゃがみ込んで広がっていく感じがあった。先生が新しくなり、軍隊での苛立ちをそのまま持ち帰ったみたいに、やたらに生徒を殴る先生がいた。反対に生徒に自習ばかりさせて、窓際でぼうっとしている先生がいた。あるいは「自由」というものを固く考え過ぎて、授業科目を生徒各自の自由にした揚句、その失敗に悩んで辞めていく先生もいた。気がつくと、もう戦後がはじまっていたのだ。(一三六~一四〇頁)

 あまり細くない樹木の枝を、目をつぶり軽く握ったまま幹の方に滑らせてゆくと、ところどころタンコブのように腫れ上がった箇所に当たります。こんなふうに赤瀬川さんの体験記はたんたんと述べていく記憶の所々にいくつものタンコブのような「意識のさわり」を感じる文体です。それは言ってみれば三年生が感じはじめる現実の裂け目です。そこから「こちら」とは異なる「あちら」の不思議な世界、すなわち①異界へのリアルな感じ方が始まっていく時期、これが私の中学年のイメージです。ものものしいけど、「異界リアル主義」。これに尽きます。あとの特徴はこれから派生するものだけです。②現実感覚がバランスを失うことがあること、③多様性が視野にはいること、④それゆえ行動範囲が広くなり前よりずっと活発になってくること、④記憶のディテールがいつまでも鮮明であること。こんなところでしょうか。


騒擾(そうじょう)とはなにか

2016-02-25 06:00:00 | 

 これから学んでゆくテキストは井本三夫監修 歴史教育者協議会編『図説 米騒動と民主主義の発展』(民衆社 二〇〇五)です。以後『図説米騒動』と略称します。この本文が始まる前に「この本に書かれている主なこと」という十一頁に及ぶ要旨が提供されていますので、これを本文と照らし合わせて読んでいこうと思います。読んで、米騒動全体についての私なりのイメージを造ってみたい。さて、この要旨には本文にほぼ対応した二十一個の小見出しがついていますので、その順に沿って読んでいこうと思いますが、その中の段落ごとに小分けしてやっていきます。最初の小見出しと冒頭の段落は以下の如くです。

食糧と社会の矛盾  農民が作った作物を、領主層や地主に取り上げられるのを減らそうと起こす、一揆や小作争議が農民騒擾(そうじょう)と呼ばれるのに対比して、それを買う消費者たちが値上がりや滞りに抗議するのは、食糧騒擾と呼ばれます。食べて働くことと働いて物を生産するのとは、循環する一組の過程で、それが繰り返されることで社会が発展していくのですから、働いている人たちが食べられないような、何らか矛盾した社会状況が生ずると騒ぎが起こり、社会が根もとから動かされて、その矛盾が解消された新しい段階の社会になるまで鎮まりません。だから農民騒擾や食糧騒擾は社会矛盾の発生とともに生まれ、社会の変革運動の一環として働くのです。(八頁)

 まず、「騒擾(そうじょう)」とはどういう意味でしょう。広辞苑には「騒ぎ乱れること。騒動、擾乱」とあります。また「騒動」とは「①多人数が乱れさわぐこと、②非常の事態。事変、③もめごと。あらそい。」とあります。さらに「擾乱(じょうらん)」の意味は二つあって、①は「入り乱れること。乱れさわぐこと。また、乱し騒がすこと。騒擾。」とあり、②は気象学の用語で、急に異常気象(高気圧・低気圧・竜巻・積乱雲)が発生してしばらく続いて消滅する現象をいうそうです。以上の辞書的意味の共通性を抽出すれば、「にわかに多人数があらそい大騒ぎとなり、やがて消滅する非常事態」というイメージが浮かびあがります。でも、ちょっと傾げたくなるのは、「あらそい」にはどうも相争う二つの勢力があり拮抗しているというイメージがつきまといます。そして警察や軍隊は中立な立場にいるというふうに見えます。これはどうも変です。私が知る「騒擾」事例の範囲では、拡大した勢力が少数の拠点をねらうこと、または警察や軍隊の暴力が「暴れる」大群衆を制圧するというイメージが印象にあります。もうひとつ変なのは、辞書的な定義には「暴力性」が含まれていないことです。「暴動」という言葉がありますが、この意味を調べてみると、「徒党を組み、騒動を起こすこと」とあり、「暴力」には触れていません。はて?これはどういうことでしょうか。実際には歴史的な「騒擾、騒動、擾乱、暴動」と形容のつく事件には人間(警察・軍隊も含めて)の暴力行為が行なわれることは誰でも知っています。すこし穿(うが)ってみると、これらの騒擾等の、『広辞苑』の記述には騒がれては困る側の意向が影響しているのでしょうか。すこし驚きました。こんな辞書的な意味では社会的・歴史的現象としての米騒動の実際は見えてくるはずもありません。そこで「騒擾」のイメージには、「時に、あるいは大抵は人間の暴力行為が含まれている」と付け加えておくことにします。まとめると、騒擾とは「集団によってにわかに引き起こされる目的的な騒動のことで、暴力が伴う場合とそうでない場合がある」と定義しておきます。とりあえず、です。

 さて、引用には二つの位相における騒擾が位置づけられています。一つは近世~近代における位置づけです。「地主」という言葉が普及するのは近世以降だからです。ここで二つの騒擾がでてきます。「農民騒擾」と「食糧騒擾」です。前者は「農民が作った作物を、領主層や地主に取り上げられるのを減らそうと起こす、一揆や小作争議」、つまり農(畜)産物の生産過程から発生する騒擾と、「それを買う消費者たちが値上がりや滞りに抗議する」つまり消費過程から発生する騒擾です。この二分法はわかりやすいものです。二つめの位相は、「食べて働くことと働いて物を生産するのとは、循環する一組の過程で、それが繰り返されることで社会が発展していく」と、もっと一般的な人類史に共通の位置づけといえます。つまり後者の普遍的な構図が底にあって前者の構図を規定しているという普遍ー特殊の二重の関係です。二つの騒擾にはそれぞれ二重の関係が貫かれているということになります・

 後者の一般的な方を図式化してみますと、一方(右側)に、たとえば鍬をもった人間を置いて、他方(左側)に自然を象徴する「山と田んぼ」でもを描いておき、人間と山や田んぼ(自然)の間に「労働」と記入してある構図をイメージしてみます。そして、構図の上部には、人間から自然(山や田んぼ)に向けて山なりの矢印を引いて上に「生産」と記入します。また下部には、自然から人間に向けて谷なりの矢印を引いて下に「消費」と記入します。この構図はいわば自然哲学的なイメージです。このままでは社会が見えません。そこで人間側の下に、小さく「家族(子供・老人)」などと書き加え、同様に自然(山や田んぼ)の上側に「地主・地主・資本家」など書き加えます。そして三つめに、消費の矢印の右側下に「流通関係者、運送屋、米問屋、米屋」と書き加えます。こうすると、自然(山や田んぼ)を巡る三者関係が視野にはいります。つまり社会が視野に入ってきます。そして、この構図の、生産の矢印の側に「農民騒擾」、消費の矢印の側に「食糧騒擾」と記入しておけば、引用が喚起するイメージははっきりしてくるのではないでしょうか。最後に、以上の構図全体をのせるように長い下線をひいておきます。そして下線の下側に、「食べて働くことと働いて物を生産するのとは、循環する一組の過程で、それが繰り返されることで社会が発展していく」と記入しておけば出来上がりです。ただ、留意点があります。この構図に記入された前代の「領主」はともかく、人間(労働者)、地主、資本家、運送屋、米問屋、米屋などは固定的な呼称ではありません。近代においては、たとえば、労働者でありながら地主でもあり資本家でもあるという多重性の認識は、思えば誰でも思いあたるような常識です。固定的に見ていると騒擾における人間の行動様式の多様性がとらえられなくなる怖れがあります。

 引用から抽出できる要点はもう一つありました。段落最後のくだり「農民騒擾や食糧騒擾は社会矛盾の発生とともに生まれ、社会の変革運動の一環として働く」についてはどのようなイメージが造れるか、です。これは抽象度が高く難しい問題ですが、私がイメージした構図からは、農民騒擾も食糧騒擾も社会を動かす根本的な生産と消費の、それぞれの過程から生じるのですから、その循環に支障を来すのは当然だと理解できます。だが、この騒擾がまっすぐ社会の変革運動の一環として働くかどうか今はよく分かりません。具体例をもっと学んでから、「騒擾」と「社会の変革運動」の<あいだ>にどんなイメージが造れるか、じっくり考えてみたいと思います。


柳田國男の「幼言葉分類の試み」

2016-02-24 06:00:00 | 

 若いときに「昔の国語教育」(一九三七.七)を読んだけれど、さっぱり歯が立たなかったということを前に書きました。なぜさっぱり分からなかったのか。今考えると、柳田の文脈がとらえ切れなかったからだと思います。どうしてとらえられなかったのか、これも少しなら思いあたります。彼は文章の中で意味の似た日常語を多用しますが、その少しずつの意味の違いを把握しないで読むから文脈を見失うのではないかと考えます。たとえば、子供の成長段階を表す言葉です。稚児と小児あるいは幼児などを定義しないで使っていることなどがその一つです。この意味で、当時この論文と同じ一九三七年の二月に公表された短篇「幼言葉(おさなことば)分類の試み」を読んでおけば、もう少し「かじる」ことができたのではないかという気がします。ちょうど「昔の国語教育」の第一節「最初の選択」の解読が終りましたので、今回から数回に分けてこの短篇を読んでみようと思います。そのあとで戻りたいと思います。

 短篇「幼言葉分類の試み」の「幼言葉」とは一体何を指したものでしょうか。「幼」とは幼い子供すなわち「幼児(ようじ)」のことです。ではこれは生まれた子供のいつからいつまでを指すのか。柳田は生まれた赤ん坊が小学校に入学するまで全体を「幼児(おさなご・ようじ)」と呼んでいます。「穉い(いとけな・い)」という漢字を使って「穉児(おさなご)」と読ませる場合もあります。「いとけない」とはかわいらしい、あどけないという意味です。「穉」は「稚」の異体字ですので、「稚い」を「穉い」と書くこともあります。

 また生後一年くらいまでを、今では「乳児(にゅうじ)」と書きますが、「乳呑み児」「稚児(ちご)」「嬰児(みどりご・えいじ)」と書くこともあります。さらに「嬰児(みどりご)」を「緑児」と書くこともありますが、柳田は「緑児」「稚児(穉児)」をもっと先の満二歳くらいまで含んで使っているフシがあり、困ってしまいます。つまり柳田の用語は辞典で調べればおおよそは分かる、とは言えないことが少なくないのです。若い当時は、ここで挙げた用語はみな同じ意味だと勝手に解して呼んでいたのですから、理解できるはずがありません。

 とは言え、同じ意味でありながら相互の微妙な違いはまだ私にはわかりません。しかし、この短篇には「稚児」と「小児」とはどう区別して使うかきちんと書かれています。せめて柳田が自分で定義している用語くらいは先に紹介しておきたい。「昔の国語教育」の第一節「最初の選択」では、親たちが子供に語って聴かせるだけの「耳言葉」の重要性がそこの大きな文脈を成していました。しかし子供は耳言葉を興味深く聴いたとしても、その全部を口にすることはありえません。そこで柳田は幼児が自分から発する言葉で、いつか使わなくなってしまう言葉だけを「幼言葉(おさなことば)」と呼びます。これは柳田の造語です。他の用語についてはこう記しています。

  私たちの幼言葉と申しているものが、(中略)中途に一段のかなり著しい変り目があるのです。大事に育てられる一人子などならば四つ五つ、並の貧しい家では丸二歳にもなるかならぬかの頃に、今まで相手をしてくれた成人の手を離れ、外へ出て遊ぶようになって、忽然として彼等の言語生活が改まります。後々の兵営でも工場でも見られぬような、思いきった旧習破壊が始まるのであります。私はこの前の方を稚児語、次を小児語とでも分けておきたいと思っています(以下略)。(第四節 ちくま文庫版『柳田國男全集』第二十二巻 五六〇頁)

 ・・・この第一段の幼言葉と、次の小児の用語との中間に、またもう一つの欄を設けて、両者の橋架けとして役立っている、耳言葉ともいうべきものを集めてみなければならぬのであります。(第五節 同前五六二頁)

  つまり、入学前までの幼児が発する言葉全体を「幼言葉」と呼び、それは前期/後期の二つに分けられること、前期を「稚児語」、後期を「小児語」と名づけ、両者を繋ぐ耳言葉を前期と後期に中間に位置づけるというものです。その境目は、満二歳になる頃あるいは四、五歳の頃というわけです。これはこれで明解です。また、ここに「幼言葉分類の試み」が書かれていることもまた確かです。──なんだか面倒くさいことを書いたかも知れません。でも、辞書でも意味を確かめにくい、面倒くさそうな記述から思いがけない知見が得られるのもまた柳田國男の魅力なのです。


心にくみいれること 「もとで」になること

2016-02-23 06:00:00 | 

 前回(2/16)は、一年生の「こちら中心」とも言うべき言葉づかいが、実は「あちら中心」を媒介して成立していることを述べました。また、「こちら中心」を言い表す言葉を「ハラの言葉」、「あちら中心」を言い表すのを「アタマの言葉」と区別するうえで、庄司先生の自己と他者(自然)を実感的に表す「こちら」と「あちら」という日常語が役立ったことを述べました。今回はその続きですが、私にとっては今回の方が重要です。さきに今日のポイントを言っておくと、「ハラの言葉は養われ、成長する」ということです。

 庄司先生は、『ちからのつく りか 1年』(国土社 一九五六)の「あとがき」で、幼稚園児から一年生にかけて、こちら中心の子供の言葉づかいを紹介したあと、こちら中心の考え方、もののいい方をする一年生は「自然とこんなふうに手をとりあっています」と述べ、アリについての一年生と母親の会話を紹介したあと重要な指摘を残しています。再録します。

一年生    「アリンコがいたよ」

おかあさん  「そう?」

一年生    「どうする?」

おかあさんはおせんたくに夢中です。

おかあさん 「どうしなくてもいいのよ、かみつきはしないのよ。」

一年生    「だって、ぼくの手の中で動いているよ。こっちむいたよ、ほら、ゆびの上にあがってきたよ、おかあさん!どうする?」

おかあさん  「そんなものすててしまいなさい。」

一年生    「・・・・・・。」

 このように、一年生は、親しみをもって虫や草花をみつめているものです。そして、そのたびに自然の一つ一つを心のなかにくみいれ、自分の世界を広げていっています。/この経験というものがつみかさなって、やがて、やがて統一的に系統的に自然をもとでとなっていきます。そうした意味で、虫や草花と一つにとけあって親しむ一年生の時期は、理科教育の面からも、また人間性を育てる上からもすこぶるたいせつなときであるといえます。(太字は原文では傍点箇所)

  こちら中心の物言いだった「イタイ!」という言葉がシッポを踏まれたネコの想定を抜きに語れなかったように、引用中の一年生にとってもあちらのアリンコがどうなっているかを気づかうことなくしては、こちら中心でアリンコを語ることはできません。それゆえアリンコをとても気にしていることがわかります。アリンコが「手の中でうごいているよ。こっち向いたよ。ほら、ゆびのうえに上がってきたよ」とあちら(アリンコ)に心を馳せているようすがよく描写されています。言ってみればアリンコの動きをまるで自分の動きのようになぞっていることが分かります。そして、ついに母親に「そんなものすててしまいなさい。」と言われ、「・・・・・」という沈黙がやってきます。この沈黙こそ、実物観察だけでは獲得できない「捜しても見られず季節にもよらず、形を具えないいろいろの心持ちや感覚」(柳田國男「昔の国語教育」)をおもいっきり養う時間にほかなりません。別様にいえば、「意識に根を指し体験に養われて、表面に顕われ出るまで」(同前)の時間を意味します。

 このような沈黙のなかで、一年生は激しくあるいはゆっくりと、ときにはボンヤリと自己との対話に没頭していると考えることができます。ここのプロセスを庄司先生は「自然の一つ一つを心のなかにくみいれ」る、と書いています。よい言葉だと感じます。単に心に入れるのではないのです。「組み入れる」とは、心の構造の一要素にしていくということです。この構造物を庄司先生は「もとで」と書いています。私の用語でいえば「ハラの言葉」です。この「もとで」が豊かに養われていくことが、改めて自然や他者を見る目を肥やしていくのです。いいかえれば、ハラの言葉が新たな自然の姿や他人を発見してゆく、つまり「アタマの言葉」(あちらについての言葉)をも養っていくのだと考えることができます。簡潔に言えば、「もとでと自然」、「ハラの言葉とアタマの言葉」、「こちらとあちら」の相互作用が両者を共に養っていくのです。とすれば、こちら中心の「一年生のコトバ」への着目は、たんに理科教育だけにとどまる問題ではありえません。先生が「人間性の教育」にまで言及する理由が腑に落ちます。


社会主義運動と国民的使命観

2016-02-22 06:00:00 | 

 前回(2/15)は三宅雪嶺の『明治思想小史』(一九一三)をひもとき、「国民的使命観の変遷史」という文脈の所在を確かめている途中でした。ところが雪嶺が言及しているのは「新問題社会主義」であったことを確かめました。今回はその続きです。雪嶺は、日本における社会主義運動の由来を以下のように述べていきます。出典は中央公論社『日本の名著 陸羯南・三宅雪嶺』(一九七一)。

  明治二十年までは薩摩の暴動を鎮圧した勢いで容赦なく不平連を処分したのであるのに、社会党を設けたのがあり、日本の籍を免れ外国人のごとく治外法権になろうとしたのがある。当時の社会党はわずかに欧州における社会党の名を聞き、そのいかなる性質のものかを知らなんだのであるが、名称はすでに存在し、噂にも議論にも上って居った。社会党の実質を知りはじめたのは明治十五、六年より政府がドイツの政治に則ろうとしたのに伴って居る。ドイツより帰り来る者はマルクス、ラッサル等のことを述べる。ワグネルのことを述べる。英米の書ほど広まって居らぬがため、その主義の広まるのも遅かったが、講壇社会主義の紹介されてより学理上にもっとも根拠あるかに考えられ、急に実行し得ずとも理に置いて正しいとする者の増して来た。ことに新知識をもって任ずる官吏は、ビスマルクを崇拝するとともに国家社会主義を政治上の福音のごとく心得、直接もしくは間接に事実になったところもある。主義といわず、むしろ社会主義と呼ばるるを憚ったが自ら主義あると信じた形があった。

 しかし穏和なものばかりおこなわれるわけにはゆかず、少数ながら国家社会主義に反対し、民主社会主義とも言うべきを唱えたのがある。その人を見れば貧にして言うに足らず、そのなすところもわずかばかりの小冊誌を刊行するに過ぎぬが、世間を騒がしたること少なくない。三七、八年役までさほど注意を惹かず、書生の悪戯ぐらいに考えられたが、戦役のために国威が揚がり、強国の仲間入りし国家として大いに誇るべき位置に上がったと同時に一国を標準とせず、世界を標準とし、世界における人類としていかにするがもっとも幸福なるかを考えうる傾向を生じた。にわかに変化の起こったのでなく、西園寺文相のころから世界主義の名が用いられ、候自らその奨励者であると伝えられたが、世界の強国と戦いこれに勝っては、観察の範囲がとみに広くなり、ややもすれば東西南北を一目にみるような感じをする。日本は世界を相手とすると言う半面、日本のみが国ではない、日本がいやならどこへでも往くがよいということになり、さきに自由民権を唱えたのは国家内に自由を求めたのである、国家が世界に打って出たうえはさらに世界に自由を求むべきであるとするのがある。もとより明らかにこれを意識しこれを求める者はきわめて少なく、ほとんどあるかなしであるが、これに興味を覚ゆる者はいろいろある。なにほどか学校で知識を得、なお血気定まらざる者は国家に束縛せられぬのをすこぶる面白く感じ、あるいは世界的の社会党に加わろうとし、あるいは世界的の無政府党に加わろうとし、夢見たような話でも夢に面白味を感じた。(四一八~四二〇頁)

  私の引いた一本目の下線部に留意しながら一読していただければ、文脈は明らかに日露戦争後に社会主義運動が変化したことが語られており、それはにわかに起きた変化ではなく、「西園寺文相のころから世界主義の名が用いられ、候自らその奨励者であると伝えられた」という動きが以前から背景として流れていたためだ、と述べていることが分かります。ですから「戦役のために国威が揚がり、強国の仲間入りし国家として大いに誇るべき位置に上がったと同時に一国を標準とせず、世界を標準とし、世界における人類としていかにするがもっとも幸福なるかを考うる傾向を生じた」というように、「変化」したのは社会主義運動であることは明らかです。ここで「世界主義」を「一国を標準とせず、世界を標準とし、世界における人類としていかにするがもっとも幸福なるかを考うる」ことだとすれば、佐藤能丸さんの論文(2/15のブログ参照)で、この時期の思想潮流(社会主義運動)を「世界主義の台頭」と呼ぶことはよく分かります。しかし、このことが「日本における国民的使命観の変遷史に画期がもたらされた」ものだと言えるためには、雪嶺の語る「社会主義運動」が「国民的使命観の変遷史」という文脈に沿っていることが前提になります。日本における「国民的使命観」と社会主義運動の関係について知りたいところです。もう一つ、留意しておきたいのは、引用の二本目下線部「日本は世界を相手とすると言う半面」以下のくだりです。ここは次章以下の「不平の由来」「無政府主義」「自己実現と自暴自棄」に繋がる結び目です。雪嶺の筆は、大逆事件から修養主義という世相(思想的潮流)に及んでいきます。そこに発生する国民的使命観と修養主義との関係も調べたいところです。


言語学者・鈴木孝夫の「EnglishからEnglicへ」

2016-02-20 06:00:00 | 

 今回は、英語教育を「根本からとらえなおす」資料の三つめ。鈴木孝夫「EnglishからEnglicへ」(『英語教育』 一九七一年一月)を紹介します。著者は言語学者です。あらかじめ、以下の引用では横文字がいくつか出てくるので、あらかじめ意味を確かめておきましょう。イングリックEnglicとは、この第8章解説によれば、英語国民だけが独占的に使っている英語ではなくて、使用者の母国語の影響と、彼の個性が横溢した、英語にして英語に非ざる言語のことです。前回出てきた「ピジンイングリッシュ」と同じと考えて差し支えありません。また「~ic」というのは接尾語です。「~的な、~に関する」という意味で形容詞や名詞になります。似た例に、たとえばエコノミーeconomyに対するエコノミックeconomicや、ヒステリーhysteriaに対するヒステリックhystericなどでしょうか。

 ・・・英国固有の文化、文学、世界観と結びついた言語、そしてその分派であるアメリカの言語をEnglishと従来通り呼ぶなら、私が、今説明したような言語(国際補助語としての英語──引用者)は、EnglicとでもInterlingua(二言語間の言語 同前)とでも呼び変えるべきだと思う。EngulishとEnglicとは、たしかに歴史的発生的には密接な関係があるが、今では別の存在なのであり、機能も異なっているのだとするのである。ちょうど起源的には中国のものであった漢字が、日本語の中で換骨奪胎されて、発音から意味までひどく違ってしまっているのと同じように考えればよいのだ。われわれの大多数が習得しようとしている言語を、英語と呼ぶから、英語だと思うから、thousandをsで発音したりtで発音すると間違いだと言うことになる。英国ではこう言わない、米国ではそう発音しないといった瑣末主義particularism完全主義perfectionismのとりこになって、なにも言えない、書けないところに追いこまれてしまう。日本人以外の多数の人々と交流する手段として、今のところ、好むと好まざるとにかかわらず、一番利用度の高い国際補助語がEnglicなのである。

 このように考えて、あたりを見まわしてみると、驚いたことに、英語を母国語としない多くの国の人々はすでに、この線にそって、堂々と実行しているのに気がつく。先年来日した世界的言語学者ロマン・ヤーコブソン博士の口から出る英語は、まさにEnglicであった。博士の母国語であるロシア語の発音、調子がまるだしである。文法も、あとでテープを調べてみると、かなりの間違いがある。しかし、博士の講演をきくと、はじめは奇異に感じ、聞きにくかったものが、いつの間にか気がつかなくなり、すばらしい内容と親しみのある人格に、こちらがすっかり取込まれてしまうのである。フランス人の英語は下手だとか、インド人の英語は捲舌(まきじた)で分かりにくいとか、スペイン語系の人の英語はsとzの区別がないとか、今までよく言われるのは、これらの人々の使う言葉を狭い意味での英語という見地からのみ批判しているからなのだ。もっと大切なことは、お互いに勝手な自国語で話したのではまったく意志が通じないことの多い、多元的な現在の世界で、英語に近い言語としてのEnglicを使えば、立派に意志が通じるという認識である。今こそ英語教育を英文学者・英語学者の手から切り離すべき時である。そして英語はもはや英語国民の特権的言語ではないことを認識すべきである。(『英語教育論争史』 九三九~九四二頁)

  これまで紹介してきた鶴見俊輔さんの「日本語と国際語」が哲学的議論、小田実さんの「判ればいいのです」が実践的議論だとすれば、鈴木孝夫さんのは言語学的な議論といえます。三者に共通しているのは、異なる言語間の理解はまず通じればいいこと、と同時にあいだに立つのは不完全な外国語でよい、とする考え方です。これに異文化受容という問題を重ねてみると、どのような示唆が得られるでしょうか。あといくつか読んでみます。


小学一年生の八月十五日

2016-02-19 06:00:00 | 

 前回は「十四歳の八月十五日」という話題で、その時十四歳(十月には十五歳)だった佐藤忠男さんの敗戦体験を調べました。それは一言でいうと「少年の理想主義」といっていいかも知れません。今回以降いくらか、その下の世代は八月十五日をどう迎えたのかを調べてみたいと思います。比較することで世代ごとの特長がより際立つはずです。今回引用の出典はすべて『子どもたちの8月15日』(岩波新書編集部 二〇〇五)からです。戦後六十年の節目に出版された、当時四歳から十二歳だった国民学校世代に執筆してもらった八月十五日前後の体験記です。ここからどのような記述を引用するかその観点は、私自身の幼かった時分の記憶と小学校教員としての経験を合わせたメガネで読んでみて、「これは何年生らしいな」と思える作品を選んでそこから抽出してみようと思います。小学一年生に低学年らしさを代表させると、まず絵本作家の佐野洋子さんの体験記「青い空、白い歯」が、一年生らしいと思いました。佐野さんは一九三八(昭和十三)年生まれ。敗戦を中国大陸の大連で迎えます。

  昭和二十年四月に小学校に入った。赤れんが造りの立派な学校だった。(中略)/ルーズベルトが死んだ日の事を覚えている。社宅の裏庭生け垣の側で、六年生のカッチャンが、「ルーズベルトが死んだ、勝った勝った」と踊り狂っていたのだ。異様な熱狂はすぐ子分共に伝染し、私達は五、六人「ルーズベルトが死んだ、死んだ」と輪になって踊り回った。そのあと、その辺の枝を拾って、生け垣をバシバシたたき回った。私はルーズベルトの写真も見たことがなく大統領という言葉さえ知らなかった。アメリカの天皇だろうと思った。(中略)

 その日私達は十二時に学校の校庭に集まった。ものすごい晴天だった。私の一生の中で大連の昭和二十年八月十五日より青い空はない。あの日の光より明るい天気を知らない。生徒の前に先生達が一列に並んでいた。異様な空気だった。私は覚えていない。軍服に黒いブーツをはいた校長が、なにか話していた。何をいったのか覚えていない。すると拡声器から大きなザーザーザーという音がした。鉄板に砂を流す様な音だった。男の子が「天皇陛下の声だ、天皇ヘイカ」だと小さい声でいい、それがさざ波のように伝播して行った。ぶつぶつにとぎれて変な音がきこえる。フツウの人の声と話し方ではないのである。ザーッザーッの中から「ターガタキヲタエ、シービガタキヲシノビ」(太字は原文では傍点)という声がきこえた。その声だけがザーッザーッの中から現れたのである。私はあんまり変なことばと調子だったので、自然に笑いが腹から湧き上がるのである。周りを見ると皆下を向いてやっぱり笑うのをがまんしている男の子たちの顔があった。しかし、生まれて初めて人々は天皇の声をきくのである。異様な緊張も張りつめていたのである。

 そのあとのことは覚えていない。(中略 家に帰って)「負けたの」と私がいうと、母が「終ったの」といった。「勝ったの」とまたきくと母は「終ったの」といった。私が裏庭に出ると子ども達がガヤガヤした。私はボスのカッチャンの側に行った。カッチャンは「負けたんじゃない、終ったんだ」と母と同じことをいっている。カッチャンは「負けたんじゃないから勝ったんだ」といった。「終ったことは、勝ったんだ」と誰かがいった。「勝った、勝った」と皆が叫んだが、そこにいた全部の子どもが、何かインチキくさい匂いを感じていた。「ワーイ勝った、勝った」。皆、またルーズベルトの時と同じに踊り狂いだした。その踊りはルーズベルトの時と何か違っていた。どこか心棒が抜けている様な気がした。勢いも弱いのである。私達は勝った、勝ったと踊りながらはっきり負けたんだと自覚したような気がする。(中略)

 二学期になって初めて学校へ行った。どやどやと坐ったばかりの時、先生が荷物を全部持って廊下に出なさいといった。そのまま階段を下り始めた時、下から中国人の小学校の生徒がどーっと列になって上って来た。中国人の小学生八月十五日のはだしの子どもと同じ笑い顔をして歯を出していた。私達は無言のまま階段ですれ違い、それが学校に行った最後の日になった。先生は何もいわず私達も押し黙ったまま家に帰った。私は真新しい六角形に折った紅白のはちまきを机のふたの下に忘れて来た。

 私はそれだけが、惜しかった。(以上 一七四~一七八頁)

  佐野さんの文章全体を読むと個性までが際立って伝わるのは、やはり著者の筆の冴えといったものでしょうが、そこから著者の個性を一枚一枚はがして、私が「一年生らしく」思った要点を列記してみると。①おもしろそうな六年生にくっついていること、②大きな子の行動が伝染しやすいこと、③あまりよく知らないことでも独り合点していること、③目先の勝ち負けにこだわっていること、④先のことは考えていないこと、など挙げられます。これをまとめていえば、一年生に特有の「こちら中心主義」だと考えます。こういうと何だか一年生に対してうすっぺらな印象を与えるかも知れませんが、そうではないのです。「こちら中心」にふるまいながら、一年生はその印象をその都度内面に組み込んでいるのです。ルーズベルトが死んだといって踊ることと、その日に「勝った勝った」とやや無理やり踊ったときの子供たちの心持ちはずいぶん違います。引用にはありませんが、その日に通りがかった顔も手足も真っ黒に汚れている中国人の少年が著者たち日本の子供を見て笑ったときの白い歯が印象的に語られているくだりがあります。これも最後に学校を去るときの場面で繰り返されています。ここでの心持ちもまた同じではありません。このように「こちら中心」を重ねながら、一年生はその都度の印象を自分の心を組み入れて、「あちら」側をより広く深く認識していくための「もとで」をつくっているらしいことが分かるのです。


米騒動をイメージで捉える

2016-02-18 06:00:00 | 

 前回書いた「よき入門書の条件」を満たしてくれそうな一冊を見つけました。井本三夫監修・歴史教育者協議会編『図説 米騒動と民主主義の発展』(民衆社 二〇〇四)です。表題と奥付だけからも、「歴史教育者協議会」という団体が分担執筆し、その編集委員会が編集した一冊であり、それを井本三夫氏が監修したということがわかります。つまりこの本は集団で作られたものです。が、目次を見ると監修者の井本三夫氏が多く(およそ四割)を執筆しており、私は井本氏に学びたいと思って始めた「米騒動入門」ですので、これ幸いというべきです。この本の扉には(目次の前に)編集委員会による「この本の構成と読み方」という二頁ほどの文章が配置されています。一読すると、まずこの本をどのように読んでほしいかを意識して編集したんだなということが印象附けられます。と同時に、読者にあれこれ読み方を「指図」しているわけですから、小説のように「どう読んでも結構」という種類の本ではないことも確かなようです。いわば『学習参考書』に近い。この二頁には、前文の後に「章立てと読み方」「新しい資料・発見を加える」「戦後の民主主義や今日の食糧問題との関係を考える」「概略を知るには」、と各章ごとの内容概略の紹介と、それをどう読んでほしいか、さらに研究資料についての補足を分かりやすく記述しています。前文を紹介します。

 第1次大戦末、1918(大正7)年の米騒動は日本の近代で最大の民衆運動だったと言われます。この本の特色は、それを各県ごとの動きに即して学べるよう、各県の歴史に詳しい先生方に分担して頂いてあることです。けれどもまたこの本は、米騒動のことだけを書いているのではありません。1910年代後半から米騒動をへて1920年代前半にかけての時代は、日本の民主主義が大きく発展した時代です。この本は米騒動とそれを1つのものとして捉えて書いています。両者は別々に論じられることが多く、そのため米騒動は単なる大きな事件に過ぎないかのように、民主主義の方はそれと縁のない議会中心の論議かのように、両者の間の大事な関係がはずされた見方が拡がっているのはただされねばなりません。そのためこの本では、両者を長すぎない1つの言葉で表せるよう、「米騒動・民主勃興期」と書いています。(一頁)

 1918年の米騒動は、シベリア出兵が発表される時点で起こったため、国際的条件としてはそれだけが語られがちです。けれどもそれ以前に、帝国主義戦争と言われる第1次世界大戦のなかで、列強が総力を上げて破壊しあったために、食糧・物資の著しい値上がりが世界的に生じ、それが日本にも浸透していたことが基盤にあります。また国内的条件にしても、強く列強に迫られた維新期での方向付けを通じ、帝国主義の時代と言われる国際条件に強く条件づけられたものでした。(同前)

  まず「大正七年の米騒動」とはなにか、ズバリ「日本の近代で最大の民衆運動」だったと述べています。ここではずせないポイントは、米「騒動」ではなく、この事件は「民衆運動」だったと述べている点です。単なる「騒動」ではないという理由は、その頃つまり「1910年代後半から米騒動をへて1920年代前半にかけての時代は、日本の民主主義が大きく発展した時代」だと位置づけているからです。そう位置づけてみると当該の「米騒動」は「民衆運動」の一つと理解できるというわけです。だから米騒動研究は「米騒動・民主勃興期」として学ぶべきことを提案しているのです。

 さらに引用の後段では、米騒動発生の国際的条件として「大正七年の米騒動」以前から「帝国主義戦争と言われる第1次世界大戦のなかで、列強が総力を上げて破壊しあったために、食糧・物資の著しい値上がりが世界的に生じ、それが日本にも浸透していた」という時代的基盤があったこと、また国内では、もっと以前から世界史における帝国主義の時代という拘束を受けた上での「維新期での方向付け」があったことが指摘されています。

 入門期にある者が学習対象全体についての簡潔なイメージを持つことは、学習者自身の興味・関心を具体化していくための大事な手続きだと思います。上の概括を読んで私の脳裏に去来するのは、ありふれていますが波のイメージです。大きな流れを作る潮流を人間の歴史に喩えるならば、その表面で発生している波(物理学的には「波動」)のイメージです。十九世紀半ばぐらいから「帝国主義の時代という波」が日本列島に押寄せてきたこと、大正時代になると第一次世界大戦勃発による「食糧・物資の著しい値上がりという波」がその上に重なったと思えること、そこで発生した「大正七年の米騒動」という波、これを「日本の民主主義が大きく発展した時代」という波と受けとめること。すると、これらの波と波がぶつかったところでは、なにが起きているのだろうか、という興味関心が生まれます。波同士の相互作用が気になってきます。

 ところで、この本には目次のつぎに「この本に書かれている主なこと」と題する十一頁におよぶ本文の概括があります。これならば、全体イメージを作るのに好都合と思い、この本を選んだ大きな理由になりました。というわけで、この概括の文章を本文で補いながら読んでみることで、「米騒動」についての私なりの全体イメージを造形してみたいと思います。ようやく「私の米騒動入門」が踏むべきステップをみつけました。