尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

外国の影響を受けていない文化はない

2016-12-31 14:29:16 | 

 前回(12/31)は、英語教育廃止というムードのなかで堂々と英語教育の意義を論じた福原麟太郎の「英語教育の目的と価値」(研究社刊 一九三六.十二)をひもとき、まず第Ⅰ章「英語教育ということ」を読んでみました。英語教育とは、英語教授と区別したうえで教育としての特殊性(独自性)を踏まえたものでなければならず、その独自性とは自文化認識を深めて進展させることにありました。では、なぜ「英語」でなければならないか。福原は、第Ⅱ章「文化の交流について」で、文化の進展とは一般にどのようなことをいうのかを書いています。日本ではなぜ英語なのかを論じるために、論理的な布石でしょう。今回はこれを紹介します。(漢字及び仮名遣いを現代ふうに変えてあります)

 

≪一般にある一国の国民文化は、常に外国の文化の影響を受けて発達しているのである。ギリシャの紀元前五世紀の文化は実に偉大である。然しそれがギリシャ国内で独りで発達したとは考えられない。アクロポリスの丘の上にある美術館が所蔵するもののなかには、クリート(クレタの英名)島の美術館が所蔵するものと著しい類似の特徴を持っている。そしてそのクリート美術なるものは又エヂプトの美術とつながっている。もっと新しい国に於ては尚更それが激しい。十五世紀のヨーロッパ文化はあらゆる国に於てイタリア文化である。十七世紀のヨーロッパ文化はあらゆる国に於てフランス文化の影響を受けている。十九世紀の日本には英仏独の文化が混りあって甚だしい影響が見られる。≫(川澄哲夫編『英語教育論争史』四一〇~十一頁)

 「一国の国民文化は、常に外国の文化の影響を受けて発達している」というのは特別な知識ではないと思われます。ギリシャ文化やルネッサンスを学習するなかで出会うことがらであると思います。そうだとすれば日本の西洋文化の摂取が、その優越性を誇る大きな指標となっているのはなぜでしょうか。おそらく摂取法の独自性と、一般にどの国の文化も外国文化の影響を受けて進展しているという知識がゴッチャにされて来たからだろうと考えます。つまり、日本はアジアでいち早く西洋化に成功したために、どの国の文化も外国の影響を受けて来たという一般的認識が希薄化したのではないでしょうか。世界史標準で考えれば、明治維新後の西洋化(近代化)など特別なことではなかったと見直すことができます。著者は、このあと、英語文化の複合性を具体的に説いていきます。つまり純粋な英国文化などなかったということが分かってきます。

 ≪我々は英語を教えるものであるから如何に英国文化が、外国文化の影響を受けて発達して今日に至ったかを考え、一国の文化が決して独りで発達しうるものでないことを先づ確かにしてみよう。これは、英国ばかりに該当するのでなく、あらゆる国に於て真実なのであるが、便宜上英国を選むのである。

 往昔(オウセキ)、英国の島に今日の英国人達の祖先が移り住んだ時、あの島にはケルトの文化があった。そこへほとんど文化というべきものを持たない、或は非常に低い文化をもった海賊民族たるアングロ・サクソンが移住して来たのである。そして。ケルト文化を持った原住民をウエイルスやアイスランドやスコットランドの山奥へ追い込んだ。しかしやがて彼等が定住して彼等の生活を始めるようになると、やはりケルト文化を、学ばざるを得なかったのである。それから当時この島へ渡ってきたキリスト教文化を採用せざるを得なかったのである。その証拠にはアングロ・サクソンの領域で最も文化の早く発達したところは、ケルト民族の住所に近い北部英国と、キリスト教の渡来した南部英国とであった。そしてこの国に発達して後にヨーロッパ叙事詩の一つになったアーサー王物語の如きは、北西部あんぐろ・サクソンとケルトとの境界線のあたりで両民族の混血によって発生し、のちにキリスト教的色彩をつけられたのである。又この国の叙事詩の随一「ベオウルフ」の如きは、海賊民族たるアングロ・サクソン即ちティートン民族の題材を唄って、これにキリスト教的道徳が加味されているのである。

 こうして発達したアングロ・サクソン文化は十二世紀の終りにノーマン(ノルマン)人の来寇を受けて、戦に敗れ、国を彼等の手に任してしまったので、これからノーマン文化が、ようやく生長してきたアングロ・サクソン文化を圧倒するに至る。これが所謂ノーマン人制服である。例えばノーマンの王ウイリアム一世はシメオンという建築師を連れて来て英国中に多くのノーマン式寺院を建てさせた。言葉もノーマン式になった。ノーマンは元来アングロ・サクソンと等しいテュートン民族であるけれど、国土はフランスの一部であって、フランス文化を持って来たわけであるから、全く異種の文化によって英国は培われるに至ったのである。

 然し国民の生活というものは恐ろしいもので、さしも圧迫されたアングロ・サクソン民族が、ようやく活力を恢復して来た。そしてノーマンをうまく利用して同化して、ここにアングロ・サクソン再生が行われた。今日の英国民というのはこの異種文化に成功したアングロ・サクソンとノーマンの混血であり、今日の英国文化は、この文化混血に源している。この時代がざっと十四世紀末葉である。(以下略)≫(前掲書 四一一頁)

 

 このくらいで十分だと思われます。固有の英国文化があったように受けとめていたのは、誤解だったと相対化できるのではないでしょうか。昨今、難民を含めて国内に外国人が増えて行くのを苦々しく思い、彼等を排斥して自文化の純粋性を守ろうというような時代錯誤的な議論が増えてきたように思います。そんなものはないのです。あるとすれば、異国文化との相互関係による文化形成があるだけです(この意味では独自性も固有性も存在しますが)。また、引用で興味深いのは、いにしえのケルト文化の島にアングロ・サクソン人がやってきた歴史、十二世紀末になるとアングロ・サクソン文化が定着した島にノルマン人が来寇したなど、異文化同士の交渉史は柳田國男の山人論を彷彿とさせます。私の中では山人論もいつのまにか、柳田特有の議論だと思い込みがちになっていたことを自覚します。もっと世界史のなかに位置づける必要を感じました。もちろん日本においても純粋文化などありえない、と私は思います。純粋性にとどまらず独自性・固有性の過度な物言いはおそらくそのような根拠が希薄であることに気付いてしまった者たちの仕業なのかも知れません。


陸軍大学教官・角健之中佐の講演「列強の機械化戦準備」(昭和14年)

2016-12-30 14:46:46 | 

 前回(12/23)は、まだノモンハン事件が発生する前の昭和十三年(一九三八)、五月には西住大尉が戦死しています。その翌年の正月に大々的に催された戦車イベントの一つ、「戦車大講演会」の記録本、『闘ふ戦車』(朝日新聞社 一九三九)の「まへがき」を紹介しました。そこでは、国民に向かって、陸軍と歩調を合せる朝日新聞社が、当時の国民に何を求めていたかが書いてありました。すなわち「戦争が国家総力戦であり、国防が国民国防である現代に於ては銃後の国民も亦これら軍備の認識を一層深め、国防に協力して国土の安泰と国家の隆昌を記せばならぬ」、と。国民も、軍備認識を深め国防に協力しろ、こう言っていたわけです。お粗末なことに、ここでフト思い出したのですが、昭和十三(一九三八)年四月には第一次近衛内閣により戦時法令「国家総動員法」が公布されています。当時長引きそうな日中戦争を背景に、「戦時に際して必要な労働力・工場・機械・資材などの人的・物的資源を、政府が議会の証人なしに勅令で統制・運用できるよう制定。以後、これによって各種統制法令を発布して戦時統制経済を確立し、国家総力戦体制を構築した」(『旺文社 日本史事典』)法令です。この路線にまず大々的な戦車イベントや「軍神西住戦車長」物語形成もここに位置づける必要がありました。ここで補足しておきます。考えを修正していく必要が出るかもしれません。

 さて、今回は、国家総動員法による「国家総力戦体制」を構築していく過程で発生した、昭和十三年七~八月の張鼓峯事件における敗北について、です。『現代史資料 日中戦争3』(みすず書房 一九六三)の解説をザッと読んでみると、この事件では、戦闘に当っていた日本軍がソ連軍の反撃で甚大な損害を受け孤立していたところに、モスクワでの停戦協定が成立して殲滅の危機を逃れたことを知りました。ソ連の機甲軍団の反撃を猛烈な勢いで受けたようなのです。この影響はどのような形をとって国内の陸軍に伝わっていたのか。今回紹介するのは、『闘ふ戦車』に収録の、陸軍大学兵学教官・陸軍中佐・角健之による「列強の機械化戦準備」という講演記録です。引用内容は、ソ連の機械化戦準備情報と日本の対応についてのみです。他国の情報は省略します。この講演を行った角中佐はもちろん張鼓峯事件の結末を知った上で話しています。どのようなつもりで講演していたのかは次回に考えます。今回は引用のみです。(漢字と仮名遣いを現代ふうに変えてあります。)

 

軍機械化を急ぐ列強

(前略)最後に看逃すことの出来ないソ連邦赤軍の機械化である。顧みれば一九一八年世界大戦の末期、赤軍として起ち上がり今や二百万の大軍を擁する彼は、スターリンの赤色独裁暴力政権を背景とし、飽くこと無き軍備の充実に邁進して居るが、其の機械化の状況は真に目覚ましきものがある。即ちソ連は将来戦の運命を決する要素は空に空軍、地に戦車と考えて、あらゆる困難を排し、あらゆる国民生活を犠牲にして、戦車機械化部隊の拡充に邁進して居るのである。

試みに赤軍機械化の中心をなして居る戦車の膨張状況を述べれば左の如くである。

一九三四年・・・約三〇〇〇台

一九三五年・・・約四〇〇〇台

一九三六年・・・約六八〇〇台

一九三七年・・・約七五〇〇台

 今やソ連は八〇〇〇輌に近き戦車を整備し、これを独立戦車旅団や連隊に編成、或はこれに自動車化部隊を合せて強力なる機械化兵団とし、これらを無数に整備している。彼等は我等の機械化軍は世界最強也、この最強の機械化軍は世界一の空軍と共に相呼応して開戦劈頭(へきとう:最初)より赤の敵、東西の敵を同時に叩き潰すのであると豪語して居る。事実、戦車部隊等の青年将校の自負心は自惚れと言おうか、実に其の実力を知らざる哀れむべき者と思われる位に慢心(まんしん)して居るのである。

 さて然らば其の実質はどうか。第一に機械化軍の中心をなして居る戦車を見るならば、英米等各列強の戦車技術の粋を集め、或は技家を高給で招聘(しょうへい)したりして日に夜をついで戦車の大量生産を企図し、その製作にかかるものも決して馬鹿にならず、クリスチー、ビッカース、アンヒピア級の戦車を大小六種に亘(わた)って作り、現に機関銃五、軽砲二、野砲一を有する三〇屯(トン)級の重戦車さえも数百台有し、水陸両用の小型戦車数も千を突破する状況である。

 またこれらの製造能力も年産数千を算し、且つ、自動車の製造に於ても亦(また)第二次五ヶ年計画実施以来其の製造実績は、掛値(かけね:多く見積もっても)を見ても年産十万余と称せられて居る。こうした独裁的国家の統制重工業を背景として、空の飛行機と共に戦車、機械化部隊の充実に邁進(まいしん)を続け、今や十個に上る機会化軍団、二十余箇の戦車旅団を有し、或は各師団にも戦車部隊を有し、開戦と共に一挙に相手を蹂躙(じゅうりん:ふみにじる)し去らんとしている。

 実に彼等が誇る如く、其の戦車、機械化部隊を数的に見れば確かに世界一であろう。メーデーや革命記念日に見るモスクワ赤色広場の於ける堂々七百台に上る戦車の大分列(ぶんれつ:分けて並ぶ)の如きは空中の大飛行群と相対照してヨーロッパ名物の一と云うことが出来よう。

 しかしこの厖大(ぼうだい)なる戦車部隊を作らんがために彼等は如何に国民の生活を犠牲にして居るか、また軍其のものに於ても衣食住方面に於てあらゆる節約をなして兵に不自由な思いをさせて居るかの事実を我等は見逃すことが出来ない。国民に乞食同様の生活をさせ、兵に人間らしい食物を与えず、如何なる苦しみを嘗めさせても空に飛行機、地に戦車を増し、世界驚異の的となり、或は徒に隣邦(りんぽう)を刺戟して好戦的行動に出で居る赤軍は果して何を考えて居るのであろうか。想像に難くないのである。

 さて、赤軍の機械化は右に述べたように不可解な程に拡張して来て居るが、それは何の為かと申すならば、話は至って簡単である。彼等は国内情勢より見て如何に豊富な戦争資源を持っていても長期作戦をやり度(た)くない。従って軍の作戦は飽く迄も速戦即決主義に徹底しなくてはならない。これが為には戦場到る所、敵を一挙にやっつける殲滅(せんめつ:皆殺し)戦を指導しなくてはならない。したがって飛行機と軍の機械化は絶対に必要だと云うのであって、戦車なくては地上の戦は論ぜられないと云うのである。

即戦即決の要請

 以上甚だ簡単ながら列強機械化の概況を申し述べた。列強が狂奔(きょうほん)して居る戦車或は軍の自動車化は、果して将来戦のため価値あるものであろうか。私は其の価値を空軍と斉しく地上軍に無くてはならない絶対のものであると断言して憚(はばか)らないのである。戦車なき、機械化兵団無き軍は将来戦の落伍者である。

 欧州大戦の経験は何を教えたか。「戦車があれば同一の損害で十倍の戦果を収める」というのが欧州大戦の一つの結論であったのである。私は私(ひそ)かに思う。今次の事変に於ても皇軍に更に多くの戦車があったならば、我が忠勇なる将兵の戦死は尚少くして更に大なる効果を収めたであろう。また今次の事変に於て、戦車が如何に活躍したか、その事例は枚挙するに遑(いとま)ない程沢山あるが、上海の堅陣(けんじん)の突破も、徐州会戦に於ける隴海線(ろうかいせん:中国の東西交通の幹線、全長一七五九キロメートル)の遮断も、広東の迅速なる攻略も、常に其の先駆をなして居たものは戦車であった。山東省の迅速なる蹂躙は我が自動車化部隊により遂行されたのである。

 今や国軍の戦車技術は絶大の進歩を遂げて居る。列強亦然り。トーチカを圧倒する重戦車も、時速七〇キロを出す快速戦車も、水中を泳ぐ水陸両用戦車も出現した。将来の地上作戦軍の戦法は此の戦車機械化軍の出現によって大なる変化を帰しつつある。他日東亜の大陸に暴戻(ボウレイ:乱暴で道理に反する)なる敵国軍に一大鉄槌を下し殲滅的海戦を指導せんが為には、軍の戦車化、自動車化が絶対に必要である。かくして我々は速かに敵を撃滅する事により戦争の期間を短縮して速やかなる平和を招来することが出来るのである。支那事変が始まり已に一年有半、今、国民の全部を挙げて其の目が戦車に注がれ、軍の機械化の価値を深く認識せられつつあるのは、国軍招来線のために欣(よろこ)びに堪えない所である。≫(東京朝日新聞社『闘ふ戦車』一九三九 六七~八〇頁)


下級武士とて黙ってはいない!

2016-12-29 13:57:17 | 

 いま木曜日のブログは、青木美智男「天保一揆論」(『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九)を読んでいます。前回(12/22)で、第二節「天保前半期の一揆・打ちこわし──その歴史的意義」を読み終え、今回から第三節「大塩の乱と幕藩政治の動揺」に入ります。まず「下級家臣団の政治批判と兵乱」からです。著者が引用する古文書がやや読みにくいと思われるので、[ ]で補ったり、送りがなをつけたり、また適時読点を入れました。また半角( )内の小さなカタカナはこれまで同様、引用者が加えたふりがなです。さらに分かりにくいと思われる固有名詞には〝 〟を付しました。

 

≪これまでみてきた天保七年(一八三六)までの貧しい百姓や貧民層を中心とした一揆と打ちこわしが、幕藩領主層に深刻な危機意識をもたらしたことはいうまでもない。とくに、「流民ノ乱」(『三川雑記』)化し、これまでの一揆・打ちこわしとは様相を大きく変えたことが脅威となった。しかも武力によって一揆勢力をともかくも鎮圧したものの、依然、米価は下落せず、所によっては逆に値上がりを見せたところもあったので、天保七年末から八年前期にかけても、各地であいついで一揆と打ちこわしが激発していたからである。前述したように三河加茂一揆でも、かの大弾圧ときびしい探索にもかかわらず、再蜂起のための「寄合い」が持たれていた。

 諸藩は、「巳年(ミドシ)のけかち」による労働力減退と極端な凶作による減収、貧しい百姓の蜂起と「明年ハ御田地、大体ハ仕付[け]相成[ら]ず申すべし」といわれた耕作放棄によって年貢収入が激減したところへ、一揆の発生を未然に阻止しようとして、飢人(ウエビト)らへの施米(セマイ)を領外からの高い米を購入してまで実施せねばならなかったから、家臣団への禄米給与もままならなくなるほどの財政窮乏におちいった。

 このため南部藩では、家臣が「兎角御救助は申すに及ばず、右扶持米・御払米も出、秋迄、御米配方[も]心元なく、万一御渡米、相成兼(カネ)候ては諸子の命に相拘り申すべし」(『内史略』)と扶持すら満足に支給されず、生死にかかわる状態におちいっていることを藩主に訴え、にもかかわらず「御国中の米穀を専ら相集め候ては人気(ジンキ)相縮まり餓死人幾程出来候も斗りがたく」と、領内米の買い集めによる救済では「人気」にかかわり、餓死者をどれくらい出すかはかり知れないので、「御救済の第一」は「他領御買入」であることを願い出ねばならぬほどであった。

 そして南部藩内ではついに、「〝(新田)幾治〟(下級家臣の名?)、万一餓死仕候哉(ヤ)、又者(または)出奔(シュッポン)にもこれあるべき哉、本人に一円[の者は]相見得申さず候」(保坂智「天保期南部藩における家臣団の動向」)と、餓死か出奔に追いこまれる下級家臣が発生し、さらに「御家中困窮に迫[り]候に付、女中方、夜中[に]物乞に参り、猶又侍衆、夜中合力に参り色々の乱妨(ランボウ)これあるに付」(同)と、家臣団の「物乞」「合力強要」が横行し、または「御城下近在之畑へ、日暮に相成候得は、五人七手組、刀を抜、畑主番人を追散らし、畑物奪取、猶また夜行者追剥致し」と集団で強盗を行なうなど盛岡城下近在が無法化するにいたった。このような家臣の出奔者=階級離脱者は保坂智の調査によれば、天保三年(一八三二)から十年のあいだに百六十三名に達したのであった。

 この点は、奥羽の他の藩の場合、いずれも同様で、たとえば白河藩では、「足軽共儀は弐人扶持切(キリ)の御充行(オジュウコウ?:あてがうこと)、非常の年柄、嘸々(サゾサゾ)困窮の儀と存ぜられ候、此上困窮の所より御暇(オイトマ)等相願い、中には心得違にて出奔致し候者抔(ナド)出来候ては御不唱(不肖?)にも相成候」(『公余録』下)と南部藩と類似の状況が下級家臣団に生まれていたのであった。

 そして、この階級離脱の動きは、さらに家臣団から藩政批判へと発展し、さらに一揆・打ちこわしなど百姓に共鳴する家臣団を生み出すにいたる。南部藩の例をあげれば、天保七年末、〝鬼柳関所〟を越えて仙台藩への逃散に対する処罰者のなかに、多数の家臣がいることが注目されるが、その中には「勤筋不埒(キンキンフラチ?:勤務態度が悪い)」というだけでなく、「百姓共愁訴ニ付、申出止むを得ざる事」というかれらの行動に共鳴した比較的上級家臣や、さらに「百姓共愁訴後、種々の落書唄等流行 御上(オカミ)を誹謗し、御役人中を嘲弄(チョウロウ)するの事のみ也、其[の]内〝傑丸〟、〝騒動欽飲〟、〝左京散〟という薬の能書出、傑丸は大老上総殿を誹謗し、騒動飲は御政事を嘲(アザケ)り。御役人中を謗(ソシ)り」(『岩手の百姓一揆集』)という藩政批判を行った家臣がふくまれている。そして秋田藩でも、前述した天保五年の一揆の際に、「徒党の舌頭(ゼットウ:言葉のこと)は雲然村市太郎と申者、肝煎を嫉(ネタ)ミ斯斗(コレバカリ)候由、西長野・川原村等の者語らい候よし。角館給士の内にも十日斗り已然(イゼン:以前)より宅に居らざる者これある由」(『角館誌』)と角館藩給人のなかから指導者が出たのではないかと疑われ、秋田藩梅津外記の家臣・星山源蔵が北浦騒動の首謀者の一人として逮捕投獄されたといわれる。また一揆の前夜「数万人民、皆愚にあらす、豈斯(アニカク)得んや、虎の怒るに当るべからず、人心壱度動くかは大水之寄が如く」(『中村伝五郎上書』)と、百姓たちの力量に明確な認識を持ち、藩政を批判する家臣があらわれたのであった。

 さらに、天保六年九月、熊本藩で起こった伊藤・大塚事件のように、時習館に学ぶ藩士の子弟(十九名)を中核にして、近郷百姓ら六十余名による一揆計画が発覚するほどの、分裂状態が生れるにいたった。子弟たちは百姓らに鉄砲訓練をほどこし、一揆連判状を作成して、藩役人らの私曲を糾弾しようとした。これは、従来型の御家騒動等とは異なるあらたな領主内部の対立とみるべきであろう。≫(青木美智男前掲書 二五四~六頁)

 

 天保七年ころまでの一揆・打ちこわしは、幕藩領主層にどのような影響を与えたのかが語られています。その波及の仕方を順追って整理すれば、一揆・打ちこわしの主要因である米価高騰と諸物価高騰の大波は、とうぜん禄米をもらって暮らす武士階級にもやってきます。彼等は消費者である点では、貧しい百姓や都市貧窮民と同じです。特に藩内家臣団のうち下級の者へのダメージが大きくなります。餓死者を出す、出奔する、合力を強要するなどが頻繁に発生していきます。

 映画やテレビドラマでいえば、『壬生義士伝』の主人公は東北南部藩の下級武士です。彼は家族を餓死から守るために、藩を出奔し京に出て新撰組に入り剣の腕を活かして給金を貯め故郷に仕送りする話でした(思い出すたびに目頭が熱くなります)。このようないわば「階級離脱」は、やがて藩政批判をへて、一揆・打ちこわしへの共感を醸成します。なかには、指導者になる者もいたかもしれません。あるいは出奔を思いとどまった武士のなかには、反乱を企てるものが現われてきます。

 また引用には藩政批判の事例がでてきます。いわゆる落書ですが、家臣によるものが含まれているそうです。それにしても、「百姓共愁訴後、種々の落書唄等流行 御上(オカミ)を誹謗し、御役人中を嘲弄(チョウロウ)するの事のみ也、其[の]内〝傑丸〟、〝騒動欽飲〟、〝左京散〟という薬の能書出、傑丸は大老上総殿を誹謗し、騒動飲は御政事を嘲(アザケ)り。御役人中を謗(ソシ)り」(『岩手の百姓一揆集』)は、皮肉タップリです。当時大老になった「上総守」はだれだったのか。〝騒動欽飲〟も面白い、騒動を悦んでいたのはだれなのか。「右京太夫」という官職をつけていたのはだれなのか。


コトワザは口と耳で「ヨム」ものだった

2016-12-28 06:00:00 | 

 前回(12/21)は、前代の読み書き教育はその期間も短かったけれども、優秀者だけを抜擢するような教育ではなく、土地で正しいとされている言葉と、嘲り笑われるような間違いの言葉とのけじめをできるだけハッキリと心づかせることに目的が置かれたこと、そのために「笑いの利用」に走ったことを読み取りました。「笑いの利用」とは、まちがったことを言って笑われるのはイヤだけども、人の間違いが面白かったときにはみんなで笑うという群の心理を活用することでした。柳田國男は、こういう笑いは慎みが足りないけれども、みんなと共に笑えるということは、孤立の危険を回避する必要な手段であったこともつけくわえていました。

 前回は心づきませんでしたが、柳田が言いたかった「笑いの利用」とは、他人の間違った言葉づかいを馬鹿にして笑うことではなく、面白いから笑うということだったのではないかと思います。昨晩『ビリギャル』という映画を見ましたが、中学高校とまったく勉強をしなかった主人公さやか(有村架純)が、大学受験をこころざし個人指導の予備校に通い始めたころの、間違って覚えていたことの数々を想像していただくとよいと思います。あるいは『男はつらいよ』の寅さんの言い間違いなどがピッタリかも知れません。しかしどのような笑いであれ、一般には間違いに気付くことは、恥ずかしく辛いことであることはまちがいありませんが──。さて、今回はこの群(むれ)の心理を活かして効果をあげた昔の国語教育の紹介です。

 

≪こういう群心理を教育の上に利用したもので、何よりも有効であったかと思われるのはコトワザである。聴いて誰一人会得せぬ者はない土地の言葉で、短く調子よく気の利いた文句を、しかも多分の滑稽味(こっけいみ)を含めて、物のたとえや人の批判に用いるという技術が、よそでは見られぬ程度にわが邦には発達しているとしても、それは少しも偶然な現象ではない。単に物ずきな退屈凌(しの)ぎに、これほど数多くの俚諺を作り、または暗記している者はあり得ない。一方に響きの声に応ずるごとく、これを聴いて破顔する者の群があるとともに、たまたまその笑いの対象となって、孤立の不快と寂寞とを痛感し、それに懲りて再び同じ失敗をくり返すまいとする覚悟が、当の本人は申すに及ばず、傍にあってもさも心なげに、クツクツ笑っている者の腹の中にも、生ずることを期していたからである。何百年の長い期間にわたって、昔のコトワザの数多く伝わっているのは、必ずしも最初の考案者の力ではなかった。後々これを覚えていて、ちょうど似合いの場所に応用する者が絶えなかっただけでなく、さらにその周囲の人々がこれを牢記(ろうき:しっかり記憶する)し、また警戒していた結果でもある。だから、「焼鳥に綜緒(へお:小鷹の脚に結びつけるヒモ)つける」という無益の念入りをひやかした諺の意味を忘れてしまって、今では「焼鳥に塩」という者が多いように、誤解を重ねつつもなお残っているものもあるのである。技術や天候の判断に関する多くの知識は、諺と同じ形にして与えればよく保存せられた。つまりは一度も口にすることのない人々までが、始終心の中で熟読し、玩味しているものが諺であって、それが我々の言語生活を豊富にしたことは、かえって民謡のごとく聴けばすぐに合唱するものよりも、また一段と有力だったのである。弊はもちろん免れなかったことと思うが、とにかく効果は現代の教科書よりも、何倍か根強くかつ持続していた。

 ヨムという動詞は、文字が国語に利用せられる以前から存在した。たとえば南方の島々では雀(すずめ)をヨムンドリ、長い歌物語をユンタという処もある。歌をよむというのは高らかに唱えることであったらしく、物の数を算えることもまたヨムで、目的はやはり誤りのないことを確かめるにあった。お経を読むというのも、中身とは関係がなく、元は一つ一つの文字に宛てていうこともできない空読みの徒さえ多かった。近世はもっぱら素読(そどく)とこれを呼んでいる。何を書いているのやらも知らずに、口だけ動かすということは無駄な労力のようだが、もともと知る前からの尊信が深かった上に、こうして飽きずにくり返しているうちには、いつかはおいおいにその内容をわが物にし得るという希望を、小さな頃から諺などの例によって経験していたのである。≫(柳田國男「昔の国語教育」一九三七/ちくま文庫版『柳田國男全集』第二二巻 百九~百十一頁)

 

 学校の国語教育で使われる「読む」とは、教科書の文章(文字)を口に出して読む(音読)、目で字面を追って読む(黙読)などを指します。しかし、柳田が言うには、文字が使われる以前からヨムという言葉はあって、その意味は「誤りのないことを確かめる」ことにあったというのです。ピンと来ない方もいらっしゃることでしょう。でも、音読が教科書の文字列の読み方を間違えていないかどうか耳で確かめ、黙読が文字の形や意味を間違えていないか目で確かめることだと言えば、納得していただけるかも知れません。これは現代ふうの理解の仕方ですが、おなじく「(読むとは、)誤りのないことを確かめる」ことだといっても、昔の国語教育は違っていました。どう違っていたのでしょうか。

 コトワザを教科書にしながら「読み方」を鍛えたのです。どのように鍛えていたのか。 ── 「一方に響きの声に応ずるごとく、これを聴いて破顔する者の群があるとともに、たまたまその笑いの対象となって、孤立の不快と寂寞とを痛感し、それに懲りて再び同じ失敗をくり返すまいとする覚悟が、当の本人は申すに及ばず、傍にあってもさも心なげに、クツクツ笑っている者の腹の中にも、生ずることを期」する方法です。なんだか、難しい物言いですが、どこか心惹かれる一節です。いわゆる柳田の文学的表現というやつかも知れません。この一節の勘所は、群の教育にあります。また個々には口で笑われることを畏れ、コトワザ(教科書)を「始終心の中で熟読し、玩味」することです。これが「ヨム」こと、つまり「誤りのないことを確かめる」ことなのです。私も上記の太字にした一節をさっそく「ヨンデ」みたい。 ── ヨムことは本質的に繰り返しを要求することが実感できます。そうそう、もうひとつ大事なことを記録しておくことをわすれました。柳田國男においては、「読む」こともこころ(肚)でするものらしいことです。


なぜ「予想コトバ案」を用意したのか

2016-12-27 09:42:34 | 

 前回(12/20)は、庄司和晃による、子供という謎(正体)を解くための、「自然交渉」と「人間(友だち、周囲の人々)交渉」という「二つのカギ」について紹介しました。子供の謎とは、ここでは学年毎に異なった様相を見せる子供の考え方です。それを捉えるためのカギ、でもいいですが、私は「フィールド」とした方が、そのような分野をイメージできるのでぴったりきます。考え方の変化を見てゆくには、その折り目を見てゆけばいいわけですが、折り目をどうやって見つけるのか。前回でも触れたように、庄司は子供の思考における変化に及ぼす構造を「自分中心からあちら中心へ」と押えています。 ── この段階で例えば私ならば、と実際場面を想定してみます。子供たちの自然交渉という機会を見つけたら、そのフィールドに自分も参入し、子供同士の対話に耳を傾け、ときには周囲の一人として「人間交渉」というフィールドにも参入しながら、「自分中心からあちら中心へ」と変化する折り目を見つけようとします。これで折り目を見つけることは十分可能なのではないか、と考えてしまいます。ところが、庄司はさらに折り目を見つけ出すための「予想コトバ案」という手がかりを用意しているのです。一読してみると自ら採集した小学生のコトバ群から構成したものと思われます。でも、なぜ「予想」や「案」なのでしょうか。なぜ、これほど緻密に観察のための手がかりを準備するのか。今回は、「ウサギへの予想コトバ案」を紹介して、この疑問を考えてみます。

 

ウサギへの予想コトバ案

 もし、もし、カメよ、カメさんよ・・・の歌とともに多少はにくしみをもちながらも親しんできたウサギを例にとってみよう。ものがたり本とか歌の世界とかでのみ交渉してきた1年生の子どもたちに、いまホンモノのウサギを見せたらどんなコトバだしをもってかわいらしい手をさしのべるであろうか。

 △1年生△

  何といっても、

「あたしにだかしてちょうだい」

とくるであろう。

「なでさすってやりたいわ」

「まあ、かわいい」

というまえに、もうなでさすっているのではなかろうか。

愛情とか親しみとかが中心のようだ。

 △2年生△

「こいつ、あとあしではねるよ」

1年生の気もちは多分にあるが、運動、機能がもんだいになってくるようだ。友だちがウサギのはね方をまねでもしようものなら、

「ウサギはそんなはね方しないよ」

と、とがり口をみせるであろうし、お母さんへの報告なら、まず、

「お母さん、ウサギのあるき方知ってる?」

と、さも得意そうにちょっと袖をひっぱって問いかけるのではないだろうか。またあかちゃんウサギをおじさんにでも見せてもらったのなら、家にかえってから、

「赤ちゃんを生んだんだよ、5ひき生れたよ」

「赤ちゃん、毛のなかにムクムクしているの見せてもらったんだよ」

「こんなかわいいんだよ、手にのっかったんだよ」

と手まね足まね、ほっぺたをまっかにしながらお母さんに告げることであろう。

さて──

 △3年生△

お父さんが茶目ッ気をだして「まえあしでピョンコピョンコはねまわるだろう」と真顔でいおうものなら、

「ちがわい、あとあしだも」

とムキになって、コトバがえしをするであろう。この「ちがわい」というコトバがひんぱんにとびでてくるのが3年生としての1つの目じるしのようである。そして、

「育てるには何を食べさせたらいいの」

というのが関心のマトになってくる。やがて──

 △4年生△

「これオスか、メスか」

夫婦関係をまじめに問いはじめてくる。育て方への目の向け方にしてもぐっと深まる。

「こいつは赤ちゃんを毛で育てていたぜ」

というふうに。これが──

 △5年生△

ともなると、

「これは野ウサギだぜ」

「アンゴラはとっても毛がだいじなんだぜ」

と生産とか利用とかをもんだいとしはじめるらしい。4年生にもでてくるがしんけんさの度合いは五年生より弱い。そして──

△6年生△

「なるほど、うまくできているんだな」

とか、

「いきるのにぐあいよくできているんだね」

とかのコトバを発するようになる。生きるための身体構造、生物の環境への適応性というようなもんだいがしだいに強まってくるようである。

以上がウサギへの予想コトバ案である。

同じようなかたちで「こちらがわからの子どもへの問いかけコトバ案」をかんたんに示してみよう。(庄司和晃「子どものコトバと行動についての諸考察」『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』所収 成城学園初等学校 一九七〇 三二四頁)

 たしかに、これだけの予想をしておけば実際との違いは十分把握できるにちがいありません。実際に「予想コトバ案」通りであれば、そこから目的から外れない「問いかけ」が可能になってくるはずです。これは授業を「教育実験」と捉え直す成城学園的な教育実践の準備だといえましょう。また、こう考えることもできます。いわゆる授業研究における適切な「発問」や「指示」を考案する為の資料という位置づけです。しかし、庄司はなぜこれほど緻密な手がかりを準備しようとするのか。それのためには、現在読んでいる論文「子どものコトバと行動についての諸考察」(一九五六~七)のまえがきに戻ったほうがよさそうです。

 

 ≪はじめに:趣旨とするところは、「小学生の言語生活とその考察」の場合と同様である。が、ここではとくに子どものコトバと行動に焦点をあわせて、数多くのエピソードをないまぜながら、小学生の言語生活を多面的に浮きあがらせてみたい。そして、そういう子どものコトバと行動のありかたに対して、こちらがどのように受けとめて、いかに対処すればよいかのめどについて考察を加えていくことにしたい。≫(前掲書 二九九頁)

 

 引用では、論文「小学生の言語生活とその考察」の趣旨と同じことがまず述べられています。この論文は、一九五七年および一九六八年に書かれた文章を章立てにして構成されたもので、『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』に収録されるときに、「小学生の言語生活とその考察」として一本化されたものです。「まえがき」を確認しますと、

 

 ≪はじめに:小学生の言語生活における教育以前ともいうべき自然なありかたの諸側面を明らかにし、コトワザの間接教育やコトバ上の一般教育のひとつの基盤をみきわめてみよういと思う。そして、コトバの習得過程やコトバのあやつりぐあい、および表象性に富むコトバのあらわしかたや子どもの造語能力というものを、自分の採集したコトバ群をもとにして具体的に示しながら考察を加えていきたい。(以下略)≫(前掲書 二七七頁)

 

 と述べていますので、ひとまず「予想コトバ案」作成の目的は、やはり自分の採集したコトバ群をもとにして、教育以前の、小学生のコトバの習得過程を描くという趣旨がベースにあったことを確認しておきます。ここに緻密に「予想コトバ案」を緻密の描こうとする趣意を認めることができます。次に、現在読んでいる論文「子どものコトバと行動についての諸考察」(一九五六~七)のまえがきに戻ると、小学生のコトバと行動に焦点を合わせ、数多くのエピソードをないまぜながら彼らの言語生活を多面的に浮き上がらせてみたいこと、そしてそれをどう受けとめ対処すればいいか、その「めど」について考えたいと、より教育実践に備えた趣意になっていることを認めることができます。とすれば、ひとまず、この「めど」というのが、のちに授業研究の世界で云々される「発問・指示」と重なるといえます。

 


対馬藩 御隠居様の意見表明

2016-12-26 12:40:31 | 

 前回(12/19)は、朝鮮通信使中官の崔天宗殺害事件の処理をめぐって、幕府と朝鮮、主に朝鮮国王英祖による事件の処理を見ました。今回は(2)「対馬藩における事件の処理」を通して「人々のこころ」を見ていきたいと思います。四月七日未明に起きた崔天宗の殺害事件が正式に対馬藩に伝えられるのは五月三日のことですが、対馬藩は翌日四日に鈴木伝蔵の家内の者(父はすでに亡く伝蔵は独身二十二歳だったので留守宅には妹と弟だけ)に対して「町預・家内闕所」の処分、さらに五日には父と離縁後実家にいた実母と婚家の異母姉に謹慎処分(十九日にはそれぞれに家に「お預ケ」になる)。また従兄弟たち五名も謹慎処分になります。また先の四日に伝蔵の逃亡に手を貸した二名の通詞の留守家族に「禁足」、同じく通詞四名の留守家族に「謹慎」処分。さらに藩内には、家中・市中・寺社・在方の各層・各地に対してこの件の裁許が済むまでは「自ら相慎み、諸事質素」に暮らすよう命じられた。対馬藩が自ら進んで謹慎する態度に出たわけですが、その対応も早いものです。また事件の犯人以外に家族親戚まで処分される不条理はこの時代ならでのものですが、おそらくその耐え方(心持)は現代社会と比べてどうなっているのでしょうか。そんななかで、藩全体が謹慎・自粛にもかかわらず三ヶ条に渡る意見表明を行なった人物がいました。前藩主の宗義蕃です。以前「伝達問題」でうっすらと浮かびあがっていた対馬藩における強硬論の中心人物らしく思われます。早速見てゆきましょう。(太字は引用者)

 

≪こうした自主的な「謹慎」状態に入る一方、五月二〇日、御隠居様(前藩主宗義蕃)は三ヶ条にわたって今回の非は朝鮮側にあるとの明確な意見表明を行った(「(御留守)毎日記」)。

この意見表明は鈴木伝蔵の処刑決定が対馬藩国元へ伝えられたものの、いまだ処刑執行の済んだことが国元へ伝わる以前に出されたものである。そうした情勢下、御隠居様は今回の事件が前代未聞であり、日朝両国の「耳目を驚シ」た重大な事件であるという一般的な指摘をするにとどまらない。これは対馬藩「士民」の浮沈を左右するところまで関わった事件なのだとする危機意識を背景に、今回の事件について非は朝鮮側にあるとの主張を展開する。

 

○ 御隠居様より御自筆の書付をもって仰出された写

 今度大坂表で発生した事件は前代未聞のことであり、既に天下の御裁断と成り、(日朝)両国の耳目を驚し、対馬藩における士民の浮沈、国家(対馬藩)の不安について重大な事態となった。(今回の事件が発生した)根源について論じようとする場合に大切なのは、鈴木伝蔵が、崔天宗と口論した上で打擲にあったということの虚実、その一点である。というのも、朝鮮通信使は日朝修好の大使であるから、彼国(朝鮮)の法令・制度が厳重に守られねばならないのが当然であろう。しかるに随行員のうち日本人を打擲するという法外な行為を行ったところから刃傷沙汰になったわけだから、まずもって崔天宗こそが国禁を犯した罪人である。

 朝鮮国では人を打擲することを尋常な行為と心得ており、また打擲された方もさしたる恥辱だとも思わない下賤な風習である。そうしたところから今度のような打擲などという法外な行為が引き起こされたのである。(朝鮮通信使の)の三使は彼国の高官なのだから、義や理は明察されるはずであろうから、鈴木伝蔵が打擲にあった事情について証人をとって明らかにして伝えれば、崔天宗が禁を犯したという誤りから事件が発生したということはお分かりになり、最初に提出された文書(四月七日、事件直後の声明書)は卒忽(粗忽?)であったと後悔されるであろう。その文書を撤回なさるよう(幕府で)取りはからっていただきたい。

 日本の風習では、踏み蹴り、唾を掛け、あるいは打擲など、恥をかかされたときには決して容赦しない、という点については、朝鮮通信使が来日する前に渡海訳官へ伝えた約定(講定節目)のなかで互いに確認をし、三使も御存知であろう。にもかかわらず、随行員のなかに法外なことを行う者があったから、帰国途中に思いのほかの滞留となった。(以下略)

 

 意見表明の第一条では、今回の事件のポイントは鈴木伝蔵が崔天宗と口論のうえ打擲されたということの実否にあるという。この指摘自体は穏当な発言だろう。しかしながら、同じ箇条の後半部では既に崔天宗が鈴木伝蔵を打擲したことを自明の事実とし、崔天宗が国禁を犯した犯罪者だと主張する。御隠居様はなぜ崔天宗が打擲したと断定できるのだろうか。

 御隠居様は第二条で、朝鮮人は人を打擲するのも当然と考え、打擲された方も大した恥辱にも思わない、朝鮮人にはそういう「下賤な風習」のあることを指摘する。一方、第三条ではそうした朝鮮人の風習とは異なる日本人の風習について述べる。踏み蹴られたり唾を掛けられたりまたは打擲にあった場合には決してこれを容赦しない。これが日本の風習なのである。そうした日朝間の風習の違いについては通信使派遣前にあらかじめ文書で交わしてあるのに、従者が法外な行為に出たからこうした事件に至ったのだという。

 この意見表明の特徴は、御隠居様の経験的知識に照らして打擲事件があったと主張しているところにあろう。伝蔵を訊問した幕府が打擲事件の有無を判定するところまで踏み込めなかったにもかかわらず(第一章)、である。≫池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 六六~八頁)

 

 著者のコメントで強いインパクトを感じたのは二つあります。一つは、御隠居様が、崔天宗のふるまいの中に「打擲」があったかどうか定かでないのに、「事実あった」ことにして意見表明をしたことです。つまり不確かな事実を立論の前提にしていることです。こういうことは賢愚によらず今でも意外に多いのではないかと思います。もう古い話になってしまいましたが、三浦和義の「ロス疑惑」問題をめぐって吉本隆明と鮎川信夫の両詩人のあいだに起きた小さな論争を思い出しました。三浦和義の妻を殺害したのは夫の三浦本人に違いないと主張する鮎川信夫に対して、吉本隆明はマスコミを通じて三浦和義がどんなに疑わしいとしても、犯人と決まったわけではないことを繰り返し主張していた場面を思い出しました。私もまた「唐人殺し」の事件を追いながら、いつの間にか鈴木伝蔵の供述を裏づけなしにそのまま信じている自分に気づかされました。朝鮮人の高官であれば、目下の者など虫けら同然に扱っているものだ、とすれば打擲は当然あったという予見がいつのまにか染みついていたのです。

 二つめは、相手の風習の劣っていることを指摘しながら、自国の風習について相手がどう思っているか斟酌できない態度についての指摘です。互いの風習に違いがあるのは当然なのに、正しさは一方にだけ存在すると思い込んでしまう。両方が異なっているという「正しさ」に思いが及ばないわけです。言い換えれば、自分が当たり前だと思っていることを、日々疑うことの難しさでしょうか。疑わなくてよいからそれを前提に暮らせるわけですから、この難しさは暮らしそのものの仕組みに根ざしているのでしょう。「真理は条件づき」(ディーツゲン)だという教えは、アタマで分かっていても実際に使うのは難しいものです。


諄々と説くのには理由があった

2016-12-25 14:43:56 | 

  一昨日のブログを休んでしまい一日ずれました。前回(12/17)は、昭和九年の杉村楚人冠の「外国語と芝居気」を紹介しました。これは外国語を使うことは芝居に似ていておっくうになってきたという、これまでには見られなかった議論でしたが、外国語というコミュニケーションの言語と、自分の本心(を表わす言語)とのズレを示唆する重要な史料だったと思います。しかし、時代は「英語教育廃止」というムードが広がりつつある世相でした。「昭和十一年国防方針」(六月)には、仮想敵国として米国とソ連、それに中華民国と英国が反映されていました。当時の英語教育界はこのムードを何とか打開したかったはずです。この年の十二月に福原麟太郎は「英語教育の目的と価値」(研究社刊)を発表します。この文章は川澄哲夫編『英語教育論争史』の解説によれば、病床にある岡倉由三郎に代って筆を執ったもので、「過去の英語教育批判に対して、周到に用意された反論」でした。今回からこの資料を、順を追って読んでいきたいと思います。長文であるばかりでなく、日本の英語教育論争史では重要な論文だと思われるからです。(章立ての見出しを太字に、漢字と仮名遣いは現代風に変えてあります)

 

Ⅰ 英語教育ということ

 英語教育というのはどういう事であるかというと、英語を通じて行う教育ということである。英語という知識を授ける──それは特殊な知識であるが、すべて教育は特殊知識を縁として被教育者の精神を陶冶(トウヤ)するものであるから、英語を教えながらもその精神陶冶に力を尽す、そういう立て前で、英語教授といわないで英語教育という。

 だから英語教育は英語教授と区別されなければならない。英語教授というのは英語の知識を授けることである。通訳を養成したり、いわゆる英作文を教えたりしている所では、教育ということは考えないで、単に英語の知識を授ければいいと考えているかも知れない。そういうところでは英語教授をしている。ベルリッツ(Berlitz)学校などというのが西洋へ行くと大きな都市には必ずあって、旅行者などの為に外国語の手ほどきをしている、あれなどは英語教授で満足しているようである。然(シカ)し我々はそうでない。英語を通じて教育を行うのである。知識を与えることも必要であるが、精神を陶冶することが重要である。そこで英語教育という。実際は名称自身にそれだけの区別はないのであるが世間に用いなれた英語教授という言葉を用いないわけはそこにあるのである。誤解を防ぐというか、新しい名で注意を喚起するというか、とにかく私どもは英語教育というのが、日本に於いて、学校で教える英語の課業を呼ぶに最も適当な名であると信じている。

 教育であるから、英語の実用的な知識を授けるほかに、精神的な食物としても英語を教える。そして教育である以上、英語の課業を統一する理法はこの精神的な食物を与えること、即ち精神陶冶の側にあるべき筈である。学校の課程は如何なるものも常にその点に主旨を置いてある筈である。職業を教える学校でない限り実用価値よりもこの後者、すなわち教養価値が主位に置かれなければならない。いや職業を教える学校に於いてもこの二つは並行すべきである。学校は教養の為である、たんなる知識商店ではない。──そういうのが我々の主張である。

 然し実際教室に出て教えるとなれば、これはたしかに教授である。その教授を教育的に意義あらせる為には、英語教育という精神に依ってそれが裏づけられていなければならない。そこで英語の知識を機縁として如何なる教育、即ち精神陶冶を行いえるかが問題となる。

 思うに教育という事業は、己れの受け継いで来た文化を認識体得しこれを被教育者に伝え、その文化の進展をはかる方針を考えしめることにある。教育上の訓練陶冶は皆そこに因を発している。道徳を教え知識を授けるのもそれゆえに外ならない。英語を教えていても、It is a dog. という。そのIt に対してis がくるという事実の裏では、秩序法則の精神を生徒の頭に叩き込むことが出来るでであろう。又Good morning ! という表現は、「お早う」という日本語の表現と観念の用い方がまるで違っている。ここに東西文化の比較が行われて、己れの文化の特異性をさとり、それへの反省がなされるであろう。これが即ち英語の知識を機縁として行いうる教育ではなかろうか。かかる教養的機会を最も重要な収穫として見る観点にあって英語教授の方針を考えるのが英語教育論である。英語を教授しながら、精神的教育を施す、その理法である。英語教授は常に英語教育論をそのうしろにひかえていなければならない。

 英語教育ということは、だから、一般教育論から出発する。一般教育論は、己れの受け継いだ文化を認識しこれを進展せしめる必要から出発する。日本人に取っては先づ日本の文化についてそれが考えられなければならない。英語教育は然らばその一般教育のうちで如何なる関係を持っているか。

 以上が私の論の出発点である。英語の教育ということを教授ということから区別する。教授法は教育の方針に準拠する。教育の方針は日本の文化の認識とそれを進展せしめる為の考察に依存する。≫(川澄哲夫編『英語教育論争史』四〇九~一〇頁)

 

 諄々と説くような、一面くどいと感じるくらいの文章ですが、議論を丁寧に説明することで、出発点になる議論を読者の頭に根付かせたいという趣意かもしれません。それほど英語教育界にとっては、その意義を世間に説いてきかせる必要に迫られた時代だったことを忘れてはならないと思います。それゆえこの第Ⅰ章は、「英語教育は英語教授と区別せよ」というシンプルな主張で始めなければならなかった。すなわち、英語「教授」を実用目的とすれば、英語「教育」にはそこにとどまらない価値がある、それゆえその価値は何かといえば、英語の知識を教えながら精神の陶冶を目指すということだ。陶冶とは、生れながらにもっている能力を存分に開化させるということ。では、英語教育ではどのような精神陶冶をしようというのかといえば、それは自分が受け継いできた文化を認識しさらに進展させることである。これを、編者にならって、英語教育「文化教養」説と呼んでおきましょう。たったこれだけの主張だったのですが、福原麟太郎の主張は、英語を異文化と捉え直しその教育を実用性(役に立つ)と価値性(為になる)の二つを区別して把握する方法であることを、ここで確認しておきます。


『闘ふ戦車』(朝日新聞社 昭和十四年)

2016-12-24 07:40:26 | 

 前回(12/16)は、昭和十三(一九三八)年五月十七日に中国大陸徐州戦で戦死した西住戦車長が「軍神」として形成されてくる過程と中国大陸北部における戦況との関係を考えました。当初、昭和十四(一九三九)年五~八月のノモンハン事件にあたりをつけて、その背景について調べてみましたが、時期的にはむしろこの事件の前哨戦とも見られる張鼓峯事件からの影響の方が大きいのではないかと考え直したところでした。張鼓峯事件は西住大尉の戦死と同年の七~八月に発生した国境紛争です。辞書的知識は前回紹介しましたが、細部はともかく出撃した日本軍はソ連の機動部隊に壊滅寸前までに叩かれました。この事件は陸軍にどのような影響を与えたのか調べていきたいところです。

 一方、「軍神・西住戦車長」形成の契機については、菊池寬『昭和の軍神 西住戦車長伝』と服部裕子「子ども向け伝記『軍神西住戦車長』論──軍神形成と作品の特徴」を通じて、以下のことが分かっています。それは西住の上官だった細見惟雄大佐が彼を武人の典型として顕彰したいとの思いから、同年十二月十七に陸軍省記者倶楽部向けの講演会で語ったところ、聴衆が感激し、翌日十八日に新聞各紙が書き立てたことが嚆矢になったこと。この細見大佐の講演は十二月二十六日夜のラジオでも放送されました。また翌年になると、陸軍の花形兵器である戦車に関する催しが、一月八日から十五日にかけて東京朝日新聞主催、陸軍省の講演で「戦車大展覧会」が靖国神社で開かれ、千六百発の弾痕のある西住の戦車遺品が展示されたこと、そしてこの展覧会に合わせて戦車百五十台が銀座街を通る「戦車大行進」(1/8)や、陸軍関係者による「戦車大講演会」(1/11)が催されたことなどです。

 後に、東京芝公園にある三康図書館のレファレンスで、この「戦車大講演会」の講演記録は『闘ふ戦車』(朝日新聞社 一九三九)となって二月十日に発行されていることを知りました。この本は頁数が少ないとはいえ、かなり急いだという印象が否めません。目次を紹介すると、「まへがき」、「徐州戦を偲びて(陸軍歩兵大佐 岩仲義治)」、「戦車はかく闘へり(陸軍歩兵大佐 細見惟雄)」、「軍機械化の急務(陸軍歩兵大佐 園田晟之助)」、「列強の機械戦準備(陸軍歩兵大佐 角健之)」、〔附〕「軍神西住大尉」(旧部隊長 細見大佐)の順になります。今回は、この『闘ふ戦車』の「まへがき」を紹介します。これで昭和十四年当時、大マスコミを通して国民が軍部から何を求められていたのかが分かります。(漢字のみ現代ふうに変えてあります)

 

≪軍の機械化、戦車隊の拡充が、国防上いかに緊急の重要事であるかは、今次事変の作戦経過によつて国民の均しく認識してゐる事実である。或は陣地戦に或は機動線に、我が戦車機械化部隊の示した驚異的戦績は、国民の脳裡に深く印象づけられたものであつて、荒鷲部隊の活躍と共に今次事変作戦の大きな特徴であると言つても過言ではない。と同時に、これはまた将来戦の勝敗を決する重大素因であるとも言へるのである。されば暴風警報下にある欧米列国は、何れも其の軍備拡張の重点を、軍の機械化と飛行隊増強に置き、其のその整備に日もまた足らぬ状態である。

 もちろん我が軍当局に於ても、これが整備には萬遺憾なきを期して居るものと信ずるのであるが、戦争が国家総力戦であり、国防が国民国防である現代に於ては銃後の国民も亦これら軍備の認識を一層深め、国防に協力して国土の安泰と国家の隆昌を記せばならぬ。

 さきに朝日新聞社が東京、大阪、名古屋の大都市に於て戦車展覧会、戦車講演会を主催したのも、この趣旨からであつて、本書の公刊もその為であるに外ならない。

 本書は去る一月十一日、日比谷公会堂で催された「戦車大講演会」の講演速記を収録したものである。最後の「軍神西住大尉」は旧[一字不明]二十六日故大尉の旧部隊長なりし細見大佐が東京中央放送局から全国に放送し、国民に多大の感銘を与へた放送原稿である。本書を公刊するに際して快諾を与へて下された細見大佐、岩仲大佐、園田大佐、角中佐に対して厚く感謝する次第である。昭和十四年二月 編者≫

 

 奥付をみると、このまえがきの著者は本書の編集兼発行人の比佐友香という人物です。ネットで調べると、戦時中に数冊編集していることが分かりました。


貧しい百姓らと都市貧民層の連携

2016-12-22 11:14:54 | 

 前回(12/15)は、前々回同様天保前期の一揆・打ちこわしが単に暴徒の仕業ではなかったことを確かめました。そこには指導者の計画性、商人などによる悪徳行為の摘発から正義の起ち上げ、それによる内部「悪党」の発見、米横流しルートの把握などすぐれた情報収集力などの特徴が浮かびあがってきました。今回は、残る一つの特徴です。

 

≪天保期でそれ以前に見られなかった新しいたたかいとして注目されるのは、貧しい百姓らと都市貧民層の連携であろう。たとえば、天保四年の野州烏山藩領の打ちこわしのように、烏山城下周辺村民の城下乱入に引きつづき、それに呼応して、「余程今日は食に飢候ものこれあり」といわれた「金井町のもの宜しからず候よし、依て入口より始め打破り候由」(『栃木県史』史料編近世四)と町内の「一日くらし之もの」が蜂起した。それは「町在ともに数多のもの、米直段(ネダン)引上候なと候、其妬(ネタミ)を以右体のしまつにてもあるや」(同)と町民も村民もともに蜂起しうる状況が生じていたことによるものであろう。そしてさらに、天保七年にいたると、南部藩南方一揆の場合のように、十一月十九日、大迫通亀ヶ森の貧しい百姓らが宮田織部知行所肝煎覚十郎を頭人として盛岡に押し寄せるや、貧民たちが「越訴(オッソ)の百姓共城下へ入り候わば、御町の者共加勢致し候とて腕をまくり居り候由に候、依ては万民不服事と相見え候」(森嘉兵衛『南部藩百姓一揆の研究』)と彼らへの同調を示し、七、八千人に及ぶ勢力になったので、城内は「申すべき様これなき混雑」という大混乱を領主層内部にもたらした。岩泉町の製鉄業者佐々木三蔵をして、「誠に乱世に御座候」といわしむるほどの激しい対立をみせるにいたったが、貧しい百姓・貧民の共闘の成立をもって、「万民不服」ととらえた点こそ重要である。

 最後に、注目しておかなければならないのは、一揆勢のなかから「世直し」を求める意識が明確にあらわれ、さらに「世直し神」が創造されるにいたったことであろう。この意識は、天保前期の場合をみれば、天保四年の播磨加古川筋一揆に早くも「又は天狗世直しと記せし幟多し」(『雑記後車の戒』)とあらわれているように、「姦悪」とか「不仁の輩」らへの憤怒を通して、指導者が打ちこわしを「為万民捨命」とか「天下泰平我等生命為万民」という意識を根柢に「世直し」と正当化し、一揆勢を勇気づけていこうとしたことを意味している。そして、この「世直し」意識をさらに神格化して蜂起を正当化し、武力で弾圧する権力に堂々と対決し、世直し神の下での飢餓のない幸福な世界をたたかいによって現実化するにいたった。天保七年三河加茂一揆の百姓たちの場合がそうである。≫(青木美智男『百姓一揆の時代』校倉書房 一九九九 二五三~四頁 太字は原文では傍点箇所)

 

 上の引用に前回同様に小見出しをつけてみると、⑦貧しい百姓らと都市貧民層の連携 →より高度な正義(「世直し神」)の起ち上げ、という特徴を見出すことができます。悪徳商人の発見という契機だけでなく、「貧しい百姓・貧民の共闘の成立」という契機によって正義の旗印を意識的に高度化したことです。これを幕藩権力側からみれば「暴徒」がより危険な存在となって立ちはだかってきたことを意味します。必然、弾圧はより激化したと思われます。次回は、いよいよこのような天保飢饉期の一揆・打ちこわしが、幕藩権力にいかなる打撃を与えたかを見てゆきます。


笑いの利用と「いじめ」問題

2016-12-21 13:05:03 | 

 前回(12/14)は、昔の国語教育が比較的短期間で済んだ理由の三つめについて確かめました。それはいわゆる「読み書き」のために費やされる期間が短かったことでした。では、これからの読み書き教育はどのように行なわれるべきか。柳田國男はこれを説いていく際に、一日として使われぬことはない「口と耳」に注目して考えてゆくこと、またこの方面こそがこれまでの優秀者だけを抜擢するような読み書き教育にしないための方策であることに注意を促していました。この点から昔はどうだったのかを説いていきます。今回はここからです。

 

≪この点(優秀者だけを抜擢するような教育にしないこと)にかけては旧弊な実地教育の方が、遙かに確実に目標を見つめていた。多くを望まぬ代りに一人前として通用するだけの言葉を覚えなければ成功とは見なかった。それがほぼ婚期に近づいて、安心してもう好いということを得たのである。馬鹿聟(ばかむこ)・おろか嫁の昔話などは、その消極的な一つの証拠ということができる。こういう話は小さい者も悦んで聴こうとするが、それはおそらく彼等の兄姉が面白がるからで、目的は主としてやや成長して、今に大人に成ろうとする少年たちに、土地で正しいとしている言葉と、嘲(あざけ)り笑わるる間違いの言葉とのけじめをできるだけ明瞭に知らしめるにあったかと思う。現在の教え方が生真面目(きまじめ)な正攻法ばかりで、ゆとりも楽しみも見ておらぬのとは正反対に、昔の国語教育は笑いの利用に走り、遊びの分子がやや多過ぎた弊はある。これは久しい歳月に養われた国民の集合性、すなわち孤立を忌み畏れる淋しがりやの気風から、ことに効果を生じやすかったためであって、あるいは日本ばかりの特徴と言えるかも知らぬが、他の国の実地と比べてみる手段がまだ得られない。とにかく長者の口元に注意し、その機嫌の好い時はきっとおかしいことをいうものときめてかかり、そうしたら急いで笑いましょうと、かねて用意しているかとも思われる、娘や息子たちの様子は今でもよく見られる。識(し)りつつそうする者は少ないでもあろうが、古来の慣行が癖になっているのである。人を笑うということは慎みの足らぬ行いだが、人とともに笑うことは必要であった。ひとり取り残されて笑わずにいるということは、自分が笑われる場合でなくとも、淋しい頼りない状態であったからである。(柳田國男「昔の国語教育」一九三七 ちくま文庫版『柳田國男全集』第二二巻所収)

 

 ここで、いったん切ります。以前は「一人前として通用するだけの言葉」を教えることに目標が置かれていたことが説かれています。その方法の一つは、幼い子も悦んで聴こうとする馬鹿聟・おろか嫁の昔話などを聴かせ、土地で正しいとされている言葉と、嘲り笑われるような間違った言葉との「けじめ」をできるだけハッキリと知らせることに注意が払われたことです。間違った言葉づかいをすれば嘲笑されることを自ずと心づかせる実際的な教育であったわけです。ですから、そのような話を聴くことは面白いけれども、ちゃんと聴かなければ自分も笑われるのですから、勢い、語り手の「口」への注視、それに自分の「耳」はより鋭敏になっていったことでしょう。ここで柳田國男は昔の国語教育における「笑いの利用」について重要なことを書いている気がするので、あえて脱線してみましょう。

 引用では、間違った言葉づかいを嘲笑することは「慎みの足らぬ行いだが、人とともに笑うことは必要であった」と説いていますが、これがひとつの「いじめ」の芽になりうることは、今の時代ならばたいていが察知できるにちがいありません。人間関係における「いじめ」はすべてが悪だという意識が普及していると思えるからです。しかし、全ての「いじめ」は悪だという観念が社会に浸透していけばいくほど、内部に「いじめ」が発生しやすくなることもまた確かなことです。一般に外部に向かって正しさ(善)を強調しすぎると、内部にもその正しさという規範が適用され、悪(いじめ)の摘発が増えていくからです。やがてわずかの悪(いじめの芽)をも許容しない雰囲気が醸成されてくると、たとえば教室の子供たちは人づきあいに躊躇しだんだん臆病になってきます。すると、一人ひとりは結局、孤立感を深めていくことになります。

 さて、柳田は間違った言葉づかいを笑うことは慎みが不足しているけれども必要なことだと説いていました。その理由は「ひとり取り残されて笑わずにいるということは、自分が笑われる場合でなくとも、淋しい頼りない状態であったから」だというものです。つまりわずかな悪(いじめの芽)は慎みが足りないけれど、これを許容しなければかえって孤立を深めてしまうことを憂慮しているわけです。それほど前代の子供たちにとっては、群の教育が重要だったということです。もしこの柳田のいう小さな悪の許容がいけないというのであれば、先述したように子供たちの孤立感は深まることでしょう。では反対にわずかな悪(いじめの芽)でも許容してしまえば、いじめが増えたり大きな事件になっていくのでしょうか。

 私の教員経験では、そのようにはならなかったと勝手に思っています。わずかな悪は誰にでもあることを諭したうえで許容してきたからです。ですから教室のあちこちに小さないじめはあったはずです。ただ増えなかったし大きな事件にもならなかっただけです。しかし、ここに現場教員の悩みがあることもまた事実なのです。何を許容し何を許容すればいいか、現場の先生は迷います。ウッカリ許容したために、いじめられた子供の苦しみに気づかないまま、後に重大な事件になってしまうことは今でもよく見られることです。

 重要なことは、いじめは絶対にいけないという規範を含めて、過剰な正しさを浸透させることを止めることだと思われます。一言でいえば、寛容性に富んだ教室空間をつくることです。教員である自己にも子供にも小さな悪はいくつもあることを認める雰囲気(相互関係)を作ってゆくことが肝要だと考えます。とはいえ、このような教室空間を作っていくことが難しい状況にあることもまた否定できません。実際に荒れている教室を建て直していくことは大変な気力と労力を必要としますが、それを困難にしている条件の一つが学校管理の強化です。これを緩めるのもまた難しいとすれば、ハテサテどうすればいいのか。── しかし、たいていの教員は自分なりのやり方をもっているはずのものです。

 近頃では、文科省もどんな学校でもいじめがありうるという前提でこの問題に対処しているようですが、かつて「いじめ」には健全な一面もあったと肯定しているとは思えません。あい変らずすべてのいじめは悪なのです。ですが、柳田國男の「笑いの利用」論が、小さな悪に含まれる健全な一面を示唆していたことは見てきた通りです。これを歴史的な事実としてまず知ることが、個々のレベルでの工夫を生み出すことに繋がるのではないか。これだけは信じることができます。