尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

山奥、一夜の「怪異」

2015-11-30 06:00:00 | 旅行

 先週火曜日に公開した、塩竈神社「神輿荒騒動」の報道(2)の続きです。この騒動の反響記事として紹介した「日下部博士の信仰物理学」をじっくり再読してみました。・・・どこもおかしくない科学的な議論です。やはり頭の片隅に偏見があったようです。「信仰物理学」という名称に、どこかオカルトっぽい印象を持っていたからだと思います。そう反省させてくれたのは、先週二十五日山奥での体験です。その日のことを綴ってみます。

 この日を挟んだ数日、私は群馬県の、新潟県境近くの山奥に位置する知人の山小屋に一人滞在しました。ここは冬になると名にし負う豪雪地帯です。家屋は築三十年を越すすこし西南方向に傾いている趣きのある山小屋ですが、温泉に浸かり秋枯れの景色を堪能したくて出かけたのです。風呂から上がって腰掛けていると、幽かに微動を感じます。自宅にいるときも同じことがあり、歳のせいによる変調かなとも思います。昼間は、ここから見える県道をときどき往来する車の音が聞こえるだけで、崖下の渓流の音も聞こえてきません。ときどき林間から小鳥の声が聞こえるだけです。とても静かです。

 ところが夜になると山奥の音風景は一変します。夕方暗くなり雨戸を締めます。テレビもラジオもつけないでいると、いろんな音が聞こえてきます。家の内部からは冷蔵庫の幽かな唸り音、風呂場の方からは温泉が湧いてくる音が聞こえてきます。では、家の外部からの音はどうかというと、経験者にはお分かりいただけると思いますが、けっこうさまざまな音が聞こえてくるのです。夜行性の大小の動物がここら辺りにけっこういることは知っています。明るい内に目撃したのは、ツキノワグマが県道を斜めに横断するところ、アナグマの親子連れには何度か、孤高のキツネ、重量感のあるニホンカモシカ、それからお馴染みのニホンザルは気が抜けません。あと、えーと、テンが勢いよく斜面を下っていくアスリート顔負けの姿も見たことがあります。

ですから、夜になってクマザサの茂みをなにかが通るガサガサ音、イヌともなんとも判断の出来ないなき声、風に吹かれた枯れ枝が落ちてトタン屋根にぶつかる音、樹木にピシッと亀裂が走るような音が聞こえても、そんなに気にはなりません。だいたい音から想像できるのでとくべつに怖いということはないからです。でも、山に詳しいひとの話によると、ときに人間のギャーという悲鳴のようなものも聞こえるそうです。残念ながら私はまだ聞いたことがありません。風が強い日は植物どうしがこすれあったり、ぶつかりあったり、と想像できる場合も少なくありません。だけど、やはり風の音はなんとなく昼間でもいやなものです。

 さて、この日、夜更けになると、それほど大きくないものがガサッ、ドサッとおちる音が家の周囲から断続的も聞こえてきます。聞き覚えがあるような、ないような曖昧な音です。トタン屋根に固い木の実のようなものが落ちるなら、すぐに判りますが、何だがこれまたバサッと落ちる音です。建物が時にビシッと出す音は自宅でも経験済みですが、なんだか今夜は回数が多い。食器を洗っていると、突然ドン、と大きなものが小屋のどこかにぶつかる音が聞こえ、思わず「だれ!」と叫んでしまいました。だからといって、真っ暗な外に出て確かめようかどうか。躊躇しながら「面倒だ」といいわけする自分は、少し怖いのです。

だんだん気味悪くなってきて、明朝起きたらすぐに確かめようと、早めに布団に潜り込みました。でも、なかなか寝つかれません。ここに来てから感じる大地の微動、これまであまり聞いたことのない音の数々、家の周辺に原因になるものが何もないとすれば、これは何か大きな変動の兆候ではあるまいか。まさか山肌の表層崩壊?ならば長雨が続いていたとか、そういう前段があるはずだがそれもない、などとウトウトしかけたとき、小屋が建つ石垣の一角が崩れるような音がして半身を起こし、どうしていいかわからず、しばし呆然としていました。すこしたって石が崩れる音は続く気配がないことをいいことに、そのまま寝入ってしまいました。

──朝、目を覚まして窓の方に視線をやると、明るくなっています。しまった、寝過ごしたか、と思って雨戸を勢いよく開けると、──そこは、みぞれ交じりの雪が積る、辺り一面の雪景色です。茫然として、ただ昨晩あれこれ考え不安な時間がまるで夢のように感じられます。その落差に感動しているというか。周囲を見回せば、たしかにみぞれ雪が葉っぱや枝に積ると、みずからの重みでバサッと落ちてきます。子規をパクって、「クマザサのばさりばさりとみぞれけり」とでも詠みたい気分。屋根に積ったやつもズルズルと滑って軒下にドーンと落ちる音を出しています。これで、私は腑に落ちました。

やっぱり山の朝は最高の気分。闇夜の不安をすっかり吹き飛ばしてくれる。・・・「信仰物理学」とはこういう「無知」からくる不安を吹き飛ばしてくれるものではないか。これは真面目に考えていい問題だ、そんなふうに思ったのです。


映画評論家・佐藤忠男の予科練体験(2)

2015-11-28 06:00:00 | 

(前回の)こういうエピソードから、戦争末期を生きた少年兵(予科練)体験とはどのようなものだったかを調べていきたいのですが、佐藤忠男さんの予科練志願は、彼の「私の実感としての〝予科練〟」(『別冊一億人の昭和史 予科練』毎日新聞社 一九八一)に書いてあったのですが、それは<少年たちのエリート・コース>だったというすぐれた指摘です。まずは、この視角から他の事例を調べていきたい。

 さて、佐藤さんのエピソードの続きです。彼は中学受験をやめ、予科練に入隊しますが、当時をこうふりかえります。

しかし軍隊では一つも戦闘に役立たない無駄な労働をやっただけであったし、敗戦になってみると、いつのまにか進学コースからはみ出して、そのことの愚痴をだれに言ってみてもはじまらない立場にいる自分を見出しただけであった。自分の忠誠心、愛国心を証明したいために、泣いて中学への進学をすすめる母をふりきってまで少年兵に行ったのだ、などとは、自分のバカさかげんをふいちょうするようなもので、恥ずかしくっていえたものではなかったからである。/以来、私は、少年時代、青年時代を、いろんな種類の労働と、企業内学校や定時制高校をなどでの学習で過ごした。少年時代には、私は、進学した同世代の少年たちをうらやんだ。しかし、いまになって思うと、あの時代を労働で過ごしたことを、私はたいへん良かったと思う。というのは、私の心の中に、しだいにひとつの確信が育ってきたからである。それは、人間の生きることの基本は労働にある、ということである。(『戦争はなぜ起こるか』ポプラ社 二〇〇一 /は段落)

 せっかく自分にも立派な忠誠心が存在することを立証しようと、気負って軍隊に入ったものの、「一つも戦闘に役立たない無駄な労働」をさせられるだけでした。どんな訓練かといえば、同じ本に書いてあるのですが、「かんかん照りの太陽のもとに、毎日、山に横穴を掘ったり、クワ畑をイモ畑にするためにクワの根を抜いたりする作業」ばかり。「でも、なにかヘマをやるたびに、鬼のようにこわい下士官からこん棒でしりをぶんなぐられたり、腕立てふせを三〇分もやらされたり」、と。これらの光景は、後年の我々から見るまでもなく、当時の少年兵の多くが、「こんな訓練ばかりで、敵に勝てる筈がない」と不安に思っていたことを言外に語っています。

 ただ口にしたら下士官に殴られますから、自分は国のために死ぬればいい、と死への恐怖を克服しようと自分に言い聞かせ、「勝てるはずがない」とは思わないようにしていたと思われます。私は、このような戦争末期の現象を「戦時下の人間や組織の崩れ」、簡単に<崩れ>と捉えたいと思います。このように捉えると、命を捨てても国を守ろうと本気で考えていた多くの兵隊さんをコケ(虚仮)にし否定してきた数々の<崩れ>、たとえば、人間魚雷や人間機雷などが視野に入ってきます。さらには、銃後における学徒動員の少年少女に対し自らを欺くことをしてきた数々の<崩れ>を捉えることが出来るはずです。たとえば、風船爆弾、陶製手榴弾(地雷)の製造や竹槍訓練など。また前回に、佐藤さんたち中学受験生に卑劣な手段で天皇制国家に対する忠誠心を試そうと考えた校長が引用に出てきましたが、これを容認していた教員たちも含めて学校教育における<崩れ>とみなすことができます。<崩れ>は、銃後にも見られたのです。

 <崩れ>は私の造語です。まだ十分熟していませんが、絶望的な状況下で生まれる、「空気」や「雰囲気」や「世相」のようなものです。もっといえば、と太宰治の『右大臣実朝』の一節に、人間現象を「明るさは滅びの姿であろうか」と見てゆく視角にいちばん近い。これが、「戦時下を生きた少年兵(予科練)体験」を調べるための第二の視角です。つまり少年兵が<崩れ>とどう向き合ってきたか、そしてこの向き合い方が、少年兵あがりの彼らの、戦後の学びに関係していることは、佐藤さんの回顧からも見てとれるはずです。ここまで視野に入れます。

最後第三の視角は、「少年」兵と呼ばれる特殊性に配慮しつつ考えるということです。つまり戦時下における少年期の問題です。


映画評論家・佐藤忠男の予科練体験(1)

2015-11-27 06:00:00 | 

 佐藤忠男さんという一九三〇(昭和五)年生まれの、高名な映画評論家がいます。著作が一〇〇冊以上に及ぶ方です。佐藤さんの本はまず分かりやすい文章で、しかも読者の体験と重ねて考えられるエピソードがちりばめられていること、加えて明晰な分析がなされているという長所が、幅広い読者を持っていると思われます。だから、そのうち一冊くらいは読んだ経験をもつ人も多いのではないかと想像します。その佐藤さんの著作ですが、少年期の自伝的な記述に注目すると、必ずといってよいほど戦時下での旧制中学受験のエピソードが出てきます。たとえば、昭和十七~十九年の頃のことです。

 小学生のころは、私は、親にいわれるまま、中学に進学するつもりでいたのだが、戦時下の異常な学校の状態で、なにかヘマをやるたびに、教師から、それはお前の忠義の心が足りないからだ、と決めつけられるようなことが重なり、あまりに口惜しくて、自分が忠義な少年であることを証明するいちばん手っ取り早い方法として、進学を拒否して、小学校高等科を卒業するとすぐ軍隊にいったのだった。それが軍隊へのいちばんの近道だったからである。(『戦争はなぜ起こるか』ポプラ社 二〇〇一)

  佐藤さんがいう「ヘマ」とは何でしょうか。他の著作には書かれているので、紹介します。「ヘマ」は二つありました。まず、当時中学校は義務教育ではなかったので、受験のために大抵の小学校では中学進学者に対して補習が用意されていたようです。放課後、その模擬面接での失敗談です。佐藤少年は当時かなりの本好きでしたから、他の受験生より深い答を考えたのだと私には思われます。彼は、面接練習担当の教師から出される質問意図をあれこれ斟酌しているうちに、答えそびれてしまったのです。正解は当時皇国に育つ少年の忠義を表す決まり文句で、ナンダそんなことか、だれでもが思うような答えでした。これにがっかりした担任が一時的にせよ、そんなヤツは受験の資格がないとまで言い放ちます。佐藤少年はつまり担任に恥をかかせちゃった、と簡単には言うことのできない自己と教師と時代への複雑な言葉にならない想いと向き合っていたと思われます。これが一つ。

 後日、佐藤少年が進学を止めようかどうか鬱々としていたときです。担任が補習時に言い放ったことを反省したかのように、再び進学を励ましてくれたので、「ここは大丈夫」という担任推薦の中学校を受験しました。しかし、手応えは十分だったのに不合格だったのです。仕方なく、小学校高等科を二年間やってから再受験しようと決めたあと、受験事情に詳しい教師らの雑談から、思いがけない真相を知ります。それは、その受験した中学校では受験生に番号札つけ、校長の「畏れ多い話」を聞くときの態度如何によって、天皇に対する忠義の薄い受験生をあらかじめ落としておこうという秘密試験、いってみれば「だまし討ち」的なふるい落としです。

 どんなやり方かというと、受験生を一同に集め・整列させておいて、登壇した校長がなんの前ぶれもなく天皇御製の和歌を詠誦する、そのときにサッと頭を下げられない受験生の番号を教員がチェックしておくというものです。佐藤少年は御製の意味とかを考えているうちに、少々遅れて頭を下げたのをチェックされたというわけです。そのようなことをやる校長だということをあとで知るのです。これが二つめの「ヘマ」です。

 私は、このヘマという一語に、佐藤さんの人生経験から来る滋味のようなものを感じますが、当時十二歳の少年はそうはいきません。そのような校長、そのような中学校、そのような受験のあり方に怒りを懐き、密かに受験をやめることを決意します。そして高等小学校を卒業したあと彼は海軍飛行予科練習生(略称「予科練」)に志願するのです。「だまし討ち」までして、忠義を試したいなら、手っ取り早く少年兵になって証明してやる、そういうヤケ(自暴自棄)に近い少年期~青年期にかけての心情であることは十分に理解できます。


司馬遼太郎の見た会津人気質

2015-11-26 06:00:00 | 

 ずいぶん前のこと、たしか三十代の半ば頃、司馬遼太郎の『街道をゆく』の一冊で会津西街道編をパラパラめくっていた時のことです。この中で今でも忘れられない記述に目が止まりました。地元の読者たちに囲まれての場面だったと思います。そこで司馬が感じた会津人気質について触れたくだりです。話題が、中央で活躍する会津出身者のことになったとき、同席していた地元の一人が、さも後輩のことを腐すように批評するありさまに驚いた司馬が、どんな関係か訊ねると家族でも親戚縁者でもないことが分かって、また驚いたことが書かれてあったと思います。会津人とは摩訶不思議な気質だと受けとった司馬の戸惑いが、私には大変印象的だったわけです。

 私にも同じように思う経験があったので、まず恥ずかしくなったのです。でもふりかえってみますと、(今はどうなっているか知りませんが)これまで同郷人を腐すように話す機会は親戚や友人との会話からも幾度も見聞きしてきました。たしかに家族でも親戚でもないけれども、住んでいた同じ町・村そして同じ学校出身、濃密さに無関係に何らかの繋がりさえあれば、みな関係があって縁者という意識があった気がします。これを戊辰戦争のときに「賊軍」にされた悔しさが共有されてきたことに淵源をもつと言っても、私に限り間違ってはいません。維新後の屈辱的なエピソードは何回も聞いてきたからです。(でも、長州も薩摩も好きです、あ、それから土佐も)

ですから、同郷人というだけで自分のことのように韜晦(とうかい)に及ぶのだと思います。つまり自分が誉められ(た、と思い込み)過ぎた謙遜をすることと同じなのです。毀誉褒貶に敏感というか不器用というか、裏返せばそれだけ仮想共同体への同属意識が強いということになります。もちろんその範囲が大きくなればしだいに希薄になっていきますから、同郷人といっても強弱があるのは当然です。しかしここで述べたことは、利害関係が介在しない精神的な問題であって、利害を間に挟んだ同郷意識はまた別問題です。

 ところで、都会(異郷)で暮らす者にとってこの裏返った同属意識は厄介です。同郷の有名人が話題になったりすると、思わぬところで腐してしまいそうな自分に気付くからです。都会では、個人対個人の関係が基本ですから、例外はありますが、出郷者の多くが故郷との繋がりを棚上げにして暮らしています。そんなところで高評価の同郷人を腐して不可解だと思われたり、逆に自慢して顰蹙を買ったりとはなはだ疲れる話です。異郷生活の難しさでしょうか。

 

 こんなことを考えていた時分からだいぶ月日もたち、我が子たちも成人し息子も娘も、今では各々気候風土の異なる地方で暮らしています。彼らが帰ってくると、多少の苦労を垣間見せながら、異郷での暮らしを生き生きと語ってくれます。親としては何よりも嬉しいことですが、それ以上に私たち夫婦が、息子や娘が暮らす町に魅力を感じ、興味を持つようになりました。(もちろん美味しい食べものあってこそですが)自然の風景から史跡まで、飽きさせない場所がたくさんあります。異郷の異郷たる所以でしょうが、これまで今住む町をそのような目で見ることは希薄でした。生活に追われていたからでしょう。

 このように家族が、──やはり近くより遠くがいいのですが──暮らす異郷に興味を持ち、ひいきをすることを、私は「親密性バイアス」と呼んでいます。バイアス(bias)とは偏りとか偏向を意味しますが、「身びいき」と言ってしまっては、なんだか独善的なイメージが浮かびます。でも、バイアス(bias)にはもう一つ、電機部品が正常に動作するようにかける一定の電圧の意味があります。毀誉褒貶に敏感すぎて不器用な会津人気質が残存する自分にバイアスをかけ、もっと気楽に故郷を想い、興味深く異郷を見てゆけるようにしたい。もっといえば、私たちが住む町をもっと深く知りたい。そんな気持ちからの命名です。

  先日、実家でお産をした娘が夫と赤ん坊と三人で新幹線に乗って富山に帰りました。私と妻は娘が連れてきた愛犬を車で送っていきましたが、魚津という港町で良い一冊を見つけました。この本の話を始めたくて、こんな長いまえがきになりました。


境界文化の核心

2015-11-25 06:00:00 | 

 小さな話。つい最近、新刊書に挟まれている「読者カード」に感想を書いて投函した。自称本好きなのに生まれて初めてのこと。壮挙かもしれません。感想は書いてしまったものの、少し困ったことに、カードには職種・専攻を記入する枠がありました。職種は「元教員」でも「無職」でもいいですが、専攻なあ、としばし宙をにらみました。

少年時代だったら、躊躇なく「木工です。今は金具と木材の組み合わせに夢中」なんて枠をはみ出してでも記入していたでしょうが、すでに過去のこと、今はそうはいかない、とまじめに考えてしまう自分がチョットなさけない。出版社は営業として書籍に関する興味・関心を訊いているのだな、と思い直す。これでも困った。ほんとうは困るほどのことでもないが、あまり深く考えたことがないので、しばらく考えてみることにしました。考えるポイントは自分がずっと関心をもってきたことは何だったか、です。

 いろいろ読んできました。少数だが繰り返し読んだものもあれば、一読したきりの本もたくさん。「ツン読」だけのはもっと多い。分野は多岐に渡ります。多くは研究的に、つまりナゾ解きのために読んで考えてきました。大抵は中途半端。それでも呑み会の席で簡単に友人知人に語って終る場合(実はこれが楽しい)、参加しているいくつかの研究会にレポートしたもの、共著に名を連ねる論文など。

・・・ようやく気がついたこと、それは複数の領域が重なり接近するところつまり境界にナゾを感知すること。そこで「境界文化論」と記入しました。こんな研究名称が世の中に通用しているのかどうか、まあ関係ないけれど、これで、なんだか少しホッとしました。自分が興味関心をもって考えてきた内容を串刺しにできそうな予感がしたからです。「できそう」、と思ったのだから、私の独学はまだ終っていない。

 境界文化の核心は、やはり「ことば」です。ことばは、まず母の言葉すなわち日本語です。これを「国語」と書くと、何だかナショナルなイメージだけがつきまといますが、それを承知で使います。国語を考えるためには、自分が成り立つために他者が必要であるように外国語との比較が必須です。比較といっても、両者の単語や用法を対等に比較研究している方はいっぱいいるでしょうが、いつも外国語を念頭において「実際的」に国語および国語教育を考えてきた人物がいるでしょうか。管見では、その一人としてまず柳田國男を挙げることができます。そのまえに、少々、昔話をします。

 私は、これまで、というか言語については若い時分に関心を持っていました。ですが、それは「日本語はどういう言語か」、つまり言語一般からみた日本語の特殊性への関心です。理論的な関心ばかりです。これで中国・韓国で生まれ育った子供たちにも日本語を教えられると思いながら教職に就きました。当初、私は、彼らが日本語を使えるようになり、日本人の子供たちと話ができるようになれば、それで自分の役目は果たせると考えていました。しかし子供たちの現実はそんな簡単なことで済むはずはありません。

 彼らの親の多くは日本語を忘れなければ生きていけなかった、いわゆる「中国・韓国残留日本人孤児」と呼ばれる人たちでした。戦後長いあいだ母国日本に帰ることを夢見て、幼い頃から「外国」でそれぞれの厳しい戦後を生きてきた人たちです。その子供たち(小学生)が私の仕事の相手でした。したがって当然子供たちはまったく日本語を知りません。ですから、日本語を学ぶ思いにおいて、親たちと変わらない熱いものがありました。ところが、当時、彼らが出会う日本語は、悲しいことに「中国(韓国)に帰れ」という差別語だったのです。帰ることができたとしても、やはり「日本鬼子」という差別語がまっていました。

 ここで、仕事に対する私の意識は一変しました。二つの言葉の間で宙づりになった子供たちの体験を必死に聞きとり受けとめることを抜きに、彼らと向き合うことはまず不可能だったからです。ですから、当時、よい言葉とは何かを問われたら、なにより差別しない言葉、差別しない日本語だ、と答えたと思います。しかし、では、どうすればよいか。・・・自分の体験をふりかえりながら、「柳田国男の国語および国語教育論」の数々を年代順に読んでいきたいと思い書きはじめました。最終的には、かつて馴染んだ児童向け読みもの・『少年と国語』の徹底解明です。(言っちゃった)


塩竈神社の「神輿荒れ騒動」報道(2)

2015-11-24 21:06:00 | 

 前回の新聞記事の後半です。この騒動に関心をもった人物の意見が掲載されています。当時、正しくは東北帝国大学理科大学の物理学教授・日下部四郎太です。(記事中「東北理化大学」は誤植) 

・・・、信仰物理学上より、同事件を調査したる東北理化大の日下部博士は、帰来語って曰く、『よく各地にあることで御輿其ものが乱暴するにあらざる事勿論だが、然りとて舁ぎ人の悪意に出づるとのみ解釈すべきものではない、一つの力を物体に加へて、力の方向通りに動くのは、重心に作用した時のみで、一つの力でも重心以外に加はつた場合には物体は力の方向と違つた方向に動く、神輿を舁いだ場合は、二ツ以上、十六の力が重量百貫以上の一ツ神輿に加へられ、かつ指揮者もなく、舁ぐ人相互に沈黙して進行するのだから、其運動量は極めて複雑なものとなつて居るので、個人々々の意思に反した方向に進退することは、物理学上より明かに説明することが出来る、此個人の意思以外に動く所が、理解力のない人々に、神意として誤信せらるゝに到つた原因である、もし神輿の舁ぎ手に練習を為さしめ一人をして指揮せしむるならば、何等の騒ぎもなく、殆ど指揮通りに神輿は進退する筈である』(仙台電話)

  記事の後半は、神輿荒れの現象を信仰物理学的に解釈する内容です。まず警察が神輿の「舁ぎ人」が民家を壊したのは「悪意」だと受けとめたことは、昨日のブログで確かめました。日下部教授は、まず悪意とばかりは言えないと警察の意見を諭します。というのは、神輿の重心に作用する力は作用した方向に動くが、たくさんの担ぎ手が黙って歩きはじめれば、力は多方向に作用し神輿が個々の意図した方向に進退するとは限らないと解説します。たとえば、「悪意」を持った担ぎ手がいたとしても、その通り動くとは限らないと述べているわけです。だからといって、この個人の意思通りにいかない行動の原因を、「神意」として受けとめることは、「理解力のない人々」の「誤信」だと、町民たちをも諭します。そこで、神輿の指揮者を決め、その指揮通りに動く練習をすればこんな騒動は起こらないはずだ、教授はこう述べたと報道しているのです。

 この記事が、日下部教授の「信仰物理学」的解釈を通して「近代科学による啓蒙」を意図していたのか、それとも、当時は近代科学による迷信打破というムードが流布しており、そういう世相を追認したのか。この大正八(一九一九)前後は、日本の近代科学はどのような流れにあったのか、少し調べてみようと思いますが、その根拠の一部となるかもしれない新聞記事を紹介します。いわば反響記事です。騒動報道があってから、およそ三ヶ月後、大正八年六月十七日に東京朝日新聞とは異なる「東京日日新聞」紙上で、「日下部博士の信仰物理学」という記事がでます。

 東北帝国大学一瞥 七   日下部博士の信仰物理学          枝風生

信仰問題は精神上に属し、物理学の範囲ではないやうに思はるゝが、併し社会状態の最初から考へると、信仰の本は精神的なるも、其精神を起す原因は自然現象である。人間の力以上のものゝ存在を認めて、其処に初めて信仰も起るのである。/日月星辰は素より、疾風や迅雷や、総て人間の力で抵抗出来ないものに対する恐怖の観念、それが信仰となるので、昔は狐、蛇の如き動物をも、神として之を祀った。神と云ふ語は、上に通じ、畢竟人間以上の不可抗力といふ云ふ意味にならぬ。/山を神秘として祭るのも、それが火山的に屡爆発したり、或いは気候の変化甚だしく今晴れたかと思へば、直ぐ曇り、又は俄に荒れたりするので、其変幻極まりなき現象を見て恐怖し、之を崇拝するからである。崇拝するにつれて、迷信も起る。/自然現象の中で、人間に崇拝さるゝ根拠あるあるものに就き、物理学上から説明を試みようとするのが、教授日下部四郎太博士の信仰物理学である。「信仰物理学」の名は、博士が勝手に命じたものである。/つまり、人間の信仰の対象となって居るものを、物理的に研究するのが其目的で、博士は岩石の力学的研究をも行ひ、之に成功した。/かの千年前より有名なる、山形県浮島沼の小島が、風なきに揺々に動き廻るのも、博士の研究によつて、それが温度の不平均の為に気流が起り、水が動くからである事が確められた。/即ち其島を形造つて居る蘆の根が、水と共に動くのである事が分つたので、茲に千古の疑問は解決されたのである。/恐山の神秘も博士によつて、啓かれた。塩竈神社の神輿も博士の研究材料となされつゝあり。博士の信仰物理学の鋭鋒当るべからず。(記事の中央に写真があつた)」

  時代は、「塩竈神社の神輿荒れ」を物理学的に解釈する日下部説を支持する層があったことは確かなようです。


塩竈神社の「神輿荒れ騒動」報道(1)

2015-11-23 06:01:44 | 

 久しぶりに書いてみます。キッカケは、礫川全次著『独学の冒険』(二〇一五 批評社)を読んだことです。この本は、私の研究活動において欠如していた点を気づかせてくれた、得がたい一冊です。私のような半端な「独学」者や、「独学」志望者には朗報といって良いものです。なにか独学上の悩みがあったら一読をお勧めします。

 さっそく、いま気になっている問題を書いてみます。

 興味をもったキッカケは、今年の夏に「神輿かつぎ」を実見したことです。神輿をかつぐ人間たちが、汗水をたらし重さに耐えながらヨロヨロ歩く苦しみの表情がふと恍惚然として見える瞬間にであったのです。もしかして、これが「神」が乗り移るということかと思いました。この一瞬の体験を反芻しながら、こんなことを考えました。

 「神」を普遍性と読み換えてみる。すると、自分の意思でありながら自分だけの意思ではないように思える人間行動というのは、ありえる。たとえば、宗教的熱狂、政治的熱狂、芸術的熱狂など、なにか自分と異なる存在に憑かれたように見える人間行動の数々。また「神」を他人だと捉え直してみる。すると、人間はいつも自分の意思だけで行動するとは限らない。そう思っているだけで、実際には他人の意思を斟酌して生きている。自分と他人の意思が二重化、あるいは浸透し合っているのだ。もっと広い社会の意思さえ重ねることができる。

 こう考えたら、なんだ、これは社会的人間として生きる我々の基本的な構造ではないかと気付きトーンは落ちましたが、今まで考えてきた「われわれ性」とか「問題の共同」と同じ考え方だと分かり興味が深まり、改めて祭礼における「神輿かつぎ」の事例を探してみようと思ったわけです。そこで読んでみたのが、柳田国男『祭礼と世間』(ちくま文庫版全集)です。柳田は宮城県の塩竈神社における「神輿荒れ騒動」について強い関心をもっていたことが分かりました。

 これがどのような騒ぎだったのか新聞報道で確かめておきます。騒動があったのは大正八年三月十日。東京朝日新聞には三月十七日に報道されました。この記事は、炉辺叢書版『祭礼と世間』(大正十一年 八・二〇 郷土研究社)に再録されていたものです。今回はこれを紹介します。記事内容は、前半に騒動の概要、後半は社会的な反響に分けて読むことができます。長いので二回に分けて紹介します。まず前半、騒動の概要です。

 難しい漢字があります。ご存知の方には失礼ですが、「舁」は第二水準の漢字で「か(く)」と訓読し、ヨが音読みです。①物を肩にかけて運ぶ、特に二人以上で肩にかつぐ、②だます、という意味があります。いまでは「担ぐ」と表記することが多いですが。以下の新聞では、「舁ぐ」「舁いで」と表記する例も見られます。

 

◎神輿荒れの騒動

神意か否か塩竈神社氏子と警察署の紛糾

                      本年も民家数戸を破壊す。日下部博士出張して調査

国幣中社塩竈神社の神輿荒れは、古来有名なるものにて、年毎に必ず数戸の民家を破壊するを常とし、これ神意に出づるものなりとて、古来不平を懐くものなかりしに、去十日の帆手祭に、例の如く十六人の舁子に担はれたる神輿は、塩竈町内を暴れ廻り、民家四戸を破り、塩竈警察署に乱入したる後、午後十時漸く御堂に帰還したるが、警察署に乱入したる際、之を制せんとしたる警察官との間に活劇を演じたるより、町民は大に憤慨して町民大会を開き、町長氏子総代等県庁に押寄せて、警察側の不敬を難じ警察側は又神輿の影に隠れて私怨等を晴らさんとする行動は、公安上断じて許すべからずとなし、此際真の信仰を徹底せしむる為には、飽く迄迷信打破に努力せざる可らずとなし、問題は愈紛糾を極めんとし、大に世の注目を惹き居れるが、(大正三年三月十七日 後半は次回に)

 

 騒動の発端は、毎年の伝統である「帆手祭」の「神輿荒れ」にあります。それは、神輿がねり歩くとき、毎年のように数戸の民家が破壊され、しかもこれは「神意」であって、古来不平を懐く者はいなかった、とあります。

 ところが、さる大正八年三月十日の帆手祭では神輿を舁く氏子連中が、町内を暴れ廻り民家四戸を破ったうえ塩竈警察署にまで乱入しました。その際、神輿を制しようとした警官たちと揉み合いになり、ようやく午後十時頃に帰ったという「事件」だったようです。「揉み合い」で犯罪に相応する怪我人が出たかどうかは記載がないので、それほどのことはなかったと思われます。

 これではおさまりがつかなかったのが、町長氏子総代をはじめ町の氏子連中でした。大いに憤慨してなんと「町民大会」まで開いて、宮城県庁(仙台)に押寄せ、塩竈警察署の「不敬」を糾弾したのです。これに対して、警察側は「神輿の影に隠れて私怨等を晴らさんとする行動は、公安上断じて許すべからず」とあるところが、なんとも興味深い。警察側は、ふだんから町民(氏子)たちが「私怨」を懐いていることを図らずも吐露しているからです。これには騒ぎに直接参加しなかった町民たちもカチンときたにちがいありません。そのうえ、警察側(署長か)「此際真の信仰を徹底せしむる為には、飽く迄迷信打破に努力せざる可らず」なんて言っています。これでは町民の憤慨の炎に油を注ぐようなものです。