前回(昨日)は、庄司が資料①~④を携えて、三浦つとむのもとを訪ね、直接資料を手渡したという想定は誤りだったと気づき、庄司は九月二九日に先の資料を郵送したあとで、その日のうちに資料③と④を改定し、資料⑤を作成したのではないかということ、そして三浦からの助言が返信というかたちで届くことになったのだという想定に訂正しました。とすれば、私が縷々綴った「三浦つとむからの学び、その核心」という出来事は、彼の言語教育構想が授業にかけられている途上に生じたということになります。
ですからこの出来事の影響を資料上で確かめていくとすれば、本書の第Ⅲ部「言語教育試論と小学生のコトワザ観」の第3章「授業にみるふたこまの様相」、第4章「小学生のコトワザ観の諸相」の二本が挙げられますが、これらは本書(一九七〇、七・二五)での発表が初めてということになり、以前の正確な執筆日の記入はなく、ただコトワザの授業終了が「十二月十八日」という一行があり、この言語教育試論(言語教育構想)による教育実践は、一九六五年の九月~十二月十八日に実施されたことが知られるだけです。
三本めは、資料⑥「表象論としてのコトワザのもつ論理」(十一・一)です。題名にあるように。「表象」概念の示唆は、三浦つとむからの学びのうちではもっとも重要で、庄司のコトワザ研究を大きく飛躍させる「ツバサ」になったものですが、その辺の影響が確認できるかどうかは不確定です。四本目の資料は、前回に紹介した資料⑤の「付記」で挙げられていたもの、それは本書の第Ⅱ部「コトワザの論理と教育」の第6章「コトワザの教育過程の体系化」を指します。この第6章を収録する「コトワザの論理と教育」という長い論文は、一九六七年十一月に『成城学園五十周年記念論文集教育篇』に発表された同題名論文を改稿したもので、いってみればコトワザとその教育について、最初の体系的論文で完成度の高いものです。まえがきが長くなりましたが、書誌的には以上のように押さえて、さっそく資料⑤「言語教育の体系化への歩み」(九・二九)を再び追ってみましょう。
前(8/24)のブログ「児童言語文化学とコトワザ教育の「あいだ」」で引用した冒頭には、庄司が最初に三浦の著書(『弁証法とはどういう科学か』)から得たヒントで描いた問題解決に関する図式、≪「経験」―「諺・金言」―「弁証法」≫において中間に位置する「諺・金言」=コトワザを、自分の言語教育構想の「核心的な柱」に据えたことが書かれています。私は、これを資料①や②から飛躍したものだと考え、これらと資料⑤のあいだに「三浦からの学び」が媒介していると予想したのですが、先にも書いたようにこれはナシです。とするとこの「飛躍」の謎をそれなりに再解釈しておく必要があります。
問題解決法として科学の強調(資料①)と「小学生のおしゃべりコトバ」を採集研究した経験(資料②)を一連のものと見直してみると、コトワザを中間に置いた、「経験」―「コトワザ」―「科学」>という図式を描くことができます。ここから一つの認識の発展に気づきます。つまりコトワザ以前に位置する「経験」とコトワザ以後に位置する「科学」の二つの段階がハッキリしますと、それらに挟まれた場所が浮き彫りになってくるということです。それがコトワザへの「飛躍」、いや、つまり認識の発展による「移行」(正しくは「転位移行」、のちに庄司はこの用語を多用するようになる)と、とらえればいいのではないかと考えます。もっといえば、物事の以前の段階あるいは以後の段階をよく調べてみれば、その「物事」はより鮮明にならざるを得ない。これも認識の発展ととらえることができるのです。庄司が資料⑤「言語教育の体系化への歩み」(九・二九)の冒頭でまず把握したのは、そのような「問題解決法としてのコトワザ」だったと、とりあえず再解釈しておきます。
この把握はたちまち庄司の、あるコトワザ体験を思いおこすことになりました。それは妹さんの結婚話でのことで、叔母さんが夫婦になるときには、必ず考えておかなければならない「釣りあい」の問題を「われなべにとじぶた」というコトワザでもって熱心に説いているのを聞くという一事でした。庄司は「なるほどタイシタモノダ、こういう問題の解決法が、現に生きている。いろいろと決めかねている結婚問題という重要なところで生キテイル、ということをまざまざと、わたしはそこにみた」と書き付けています。ここからが教師兼研究者・庄司和晃の真骨頂というべきか、以下のような問題(疑問)メモを次々と案出していきます。(→で私のコメントを付けて引用します)
≪・それら〔暮しの中で使われている多様なコトワザ〕がどのように形成されてきたのか。(無名の先人たちの生き方なども)→研究的姿勢がなければこんな疑問は出てこない。( )の中には疑問をヨリ一般的な観点で扱うとどう言えるか、という一言がある。
・コトワザにはどんなものがあるか。(コトワザとは何か)→特殊性と本質性において考えようとしている。
・コトワザと憶えやすさ。(おぼえやすさと実用性の度合い)→憶えやすさを実用性という一般性においてとらえている。
・君たちはどんなコトワザを知っているか。(その採集と整理)→眼前に教室の子供たちを思い浮かべ、個別性や経験性の段階に下りて考察しようとしている。
・それをどんなときに使っているか。(同じく採集と整理)→コトワザの使われ方を採集と整理という一般性において扱おうとしている。
・使って役にたったということがあるか。(つまり問題解決の指針となったか)→コトワザ体験という経験段階の把握から「問題解決の指針」という一般性において扱おうとしている。
・コトワザをなんで知ったか。(友だちからか大人からか)→コトワザを知るキッカケという経験レベルの把握を、横に広げてヨリ具体的にとらえようとしている。
・コトワザの種類。(役にたつものとたたぬもの)・・・等々。→「種類」というのは一般性の高い把握のしかたである。個別性を超えた段階にいるからである。
そのようなことがらだけでも、かれらに知らせたいものが多くある。これは学校教育の体系の中になっていい、とわたしは思ったわけである。≫(本書 七一~二頁)
以上のコメントを参考にしながら、庄司の提出した問題(疑問)読んでいただくと、すでにこの段階で認識の「のぼり(抽象化)・おり(具象化)」を無意識的であれ、自在に使い分けている様子が伺われると思います。特に先述の問題(疑問)を、異なるレベルで再把握したことを( )書きにして、問題メモそのものを立体化している方法を自分のものにしていることにも気づかれたと思います。庄司はこのとき三十六歳。私もこれに近い年齢であったと記憶していますが、当時、この箇条書きを一読して、すごい技量の先生がいるものだと思ったことがあります。もうちょい広げていえば、経験的なレベルを超えようとしている教師にはこの程度の問題(疑問)の案出は容易だったのかもしれません。(自分の力量の未熟さに気づかされたときでした。)
このような庄司の無意識的な認識の「のぼりおり」は、以下につづく叙述にもハッキリと見て取ることができます。(「のぼりおり」を意味する箇所に下線を引いて引用します)
≪あとさきになるが、それらのことから、この教育は一種の「哲学」教育だわい、と思うようにもなった。それを言語教育内にくみいれて、教材化してみようというのが、わたしのねらいのひとつである。/人間は如何にして「原則的」なものを見出してきたか、という点では広い意味の科学教育である。前代人の生き方、百姓や漁師などの職業によってどうなのか、ということでは一種の歴史教育ですらある。それをどう使っていくかという面では、実践的課題にさおさすことにもなる。三浦氏のいうことでいくと弁証法的思惟の意味をくみとらせることによって、意識的に使う訓練にもなる。/ともかく、従来の国語・文学・文法などの教育とは、よほど違った言語教育がでてくる可能性がたぶんにある。≫(本書 七二頁)
ここでも庄司は認識の「のぼり・おり」を意識しないにせよ、実際に使っていることが見て取れると思います。のちにコトワザ研究を通して自前の認識理論である「三段階連関理論」を発見するための土壌は、どこか別の知らない場所にあったのではなく、自分の経験という土壌から再発見したものだった可能性がほの見えてきました。以上のような「のぼりおり」を経てコトワザ教育を、「広い意味の科学教育」、「一種の歴史教育」、「人生観の教育」、「弁証法を意識的に使う訓練」というふうに、一段と高みに立ってのちに、次節で「体系化への構想おぼえがき」を綴っていきます。ここには「おりる」ために「表象」という認識が多用されているはずです。次回はそこをみていきたい。まだ、三浦つとむからの返信は来なかった頃だと思われます。