尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「のぼりおり」が無意識的に駆使されているメモの案出

2017-08-31 20:56:57 | 

 前回(昨日)は、庄司が資料①~④を携えて、三浦つとむのもとを訪ね、直接資料を手渡したという想定は誤りだったと気づき、庄司は九月二九日に先の資料を郵送したあとで、その日のうちに資料③と④を改定し、資料⑤を作成したのではないかということ、そして三浦からの助言が返信というかたちで届くことになったのだという想定に訂正しました。とすれば、私が縷々綴った「三浦つとむからの学び、その核心」という出来事は、彼の言語教育構想が授業にかけられている途上に生じたということになります。

 ですからこの出来事の影響を資料上で確かめていくとすれば、本書の第Ⅲ部「言語教育試論と小学生のコトワザ観」の第3章「授業にみるふたこまの様相」、第4章「小学生のコトワザ観の諸相」の二本が挙げられますが、これらは本書(一九七〇、七・二五)での発表が初めてということになり、以前の正確な執筆日の記入はなく、ただコトワザの授業終了が「十二月十八日」という一行があり、この言語教育試論(言語教育構想)による教育実践は、一九六五年の九月~十二月十八日に実施されたことが知られるだけです。

 三本めは、資料⑥「表象論としてのコトワザのもつ論理」(十一・一)です。題名にあるように。「表象」概念の示唆は、三浦つとむからの学びのうちではもっとも重要で、庄司のコトワザ研究を大きく飛躍させる「ツバサ」になったものですが、その辺の影響が確認できるかどうかは不確定です。四本目の資料は、前回に紹介した資料⑤の「付記」で挙げられていたもの、それは本書の第Ⅱ部「コトワザの論理と教育」の第6章「コトワザの教育過程の体系化」を指します。この第6章を収録する「コトワザの論理と教育」という長い論文は、一九六七年十一月に『成城学園五十周年記念論文集教育篇』に発表された同題名論文を改稿したもので、いってみればコトワザとその教育について、最初の体系的論文で完成度の高いものです。まえがきが長くなりましたが、書誌的には以上のように押さえて、さっそく資料⑤「言語教育の体系化への歩み」(九・二九)を再び追ってみましょう。

 前(8/24)のブログ「児童言語文化学とコトワザ教育の「あいだ」」で引用した冒頭には、庄司が最初に三浦の著書(『弁証法とはどういう科学か』)から得たヒントで描いた問題解決に関する図式、≪「経験」―「諺・金言」―「弁証法」≫において中間に位置する「諺・金言」=コトワザを、自分の言語教育構想の「核心的な柱」に据えたことが書かれています。私は、これを資料①や②から飛躍したものだと考え、これらと資料⑤のあいだに「三浦からの学び」が媒介していると予想したのですが、先にも書いたようにこれはナシです。とするとこの「飛躍」の謎をそれなりに再解釈しておく必要があります。

 問題解決法として科学の強調(資料①)と「小学生のおしゃべりコトバ」を採集研究した経験(資料②)を一連のものと見直してみると、コトワザを中間に置いた、「経験」―「コトワザ」―「科学」>という図式を描くことができます。ここから一つの認識の発展に気づきます。つまりコトワザ以前に位置する「経験」とコトワザ以後に位置する「科学」の二つの段階がハッキリしますと、それらに挟まれた場所が浮き彫りになってくるということです。それがコトワザへの「飛躍」、いや、つまり認識の発展による「移行」(正しくは「転位移行」、のちに庄司はこの用語を多用するようになる)と、とらえればいいのではないかと考えます。もっといえば、物事の以前の段階あるいは以後の段階をよく調べてみれば、その「物事」はより鮮明にならざるを得ない。これも認識の発展ととらえることができるのです。庄司が資料⑤「言語教育の体系化への歩み」(九・二九)の冒頭でまず把握したのは、そのような「問題解決法としてのコトワザ」だったと、とりあえず再解釈しておきます。

 この把握はたちまち庄司の、あるコトワザ体験を思いおこすことになりました。それは妹さんの結婚話でのことで、叔母さんが夫婦になるときには、必ず考えておかなければならない「釣りあい」の問題を「われなべにとじぶた」というコトワザでもって熱心に説いているのを聞くという一事でした。庄司は「なるほどタイシタモノダ、こういう問題の解決法が、現に生きている。いろいろと決めかねている結婚問題という重要なところで生キテイル、ということをまざまざと、わたしはそこにみた」と書き付けています。ここからが教師兼研究者・庄司和晃の真骨頂というべきか、以下のような問題(疑問)メモを次々と案出していきます。(→で私のコメントを付けて引用します)

 

≪・それら〔暮しの中で使われている多様なコトワザ〕がどのように形成されてきたのか。(無名の先人たちの生き方なども)→研究的姿勢がなければこんな疑問は出てこない。( )の中には疑問をヨリ一般的な観点で扱うとどう言えるか、という一言がある。

コトワザにはどんなものがあるか。(コトワザとは何か)→特殊性と本質性において考えようとしている。

コトワザと憶えやすさ。(おぼえやすさと実用性の度合い)→憶えやすさを実用性という一般性においてとらえている。

君たちはどんなコトワザを知っているか。(その採集と整理)→眼前に教室の子供たちを思い浮かべ、個別性や経験性の段階に下りて考察しようとしている。

それをどんなときに使っているか。(同じく採集と整理)→コトワザの使われ方を採集と整理という一般性において扱おうとしている。

使って役にたったということがあるか。(つまり問題解決の指針となったか)→コトワザ体験という経験段階の把握から「問題解決の指針」という一般性において扱おうとしている。

コトワザをなんで知ったか。(友だちからか大人からか)→コトワザを知るキッカケという経験レベルの把握を、横に広げてヨリ具体的にとらえようとしている。

コトワザの種類。(役にたつものとたたぬもの)・・・等々。→「種類」というのは一般性の高い把握のしかたである。個別性を超えた段階にいるからである。 

 そのようなことがらだけでも、かれらに知らせたいものが多くある。これは学校教育の体系の中になっていい、とわたしは思ったわけである。≫(本書 七一~二頁)

 

 以上のコメントを参考にしながら、庄司の提出した問題(疑問)読んでいただくと、すでにこの段階で認識の「のぼり(抽象化)・おり(具象化)」を無意識的であれ、自在に使い分けている様子が伺われると思います。特に先述の問題(疑問)を、異なるレベルで再把握したことを( )書きにして、問題メモそのものを立体化している方法を自分のものにしていることにも気づかれたと思います。庄司はこのとき三十六歳。私もこれに近い年齢であったと記憶していますが、当時、この箇条書きを一読して、すごい技量の先生がいるものだと思ったことがあります。もうちょい広げていえば、経験的なレベルを超えようとしている教師にはこの程度の問題(疑問)の案出は容易だったのかもしれません。(自分の力量の未熟さに気づかされたときでした。)

 このような庄司の無意識的な認識の「のぼりおり」は、以下につづく叙述にもハッキリと見て取ることができます。(「のぼりおり」を意味する箇所に下線を引いて引用します)

 

≪あとさきになるが、それらのことから、この教育は一種の「哲学」教育だわい、と思うようにもなった。それを言語教育内にくみいれて、教材化してみようというのが、わたしのねらいのひとつである。/人間は如何にして「原則的」なものを見出してきた、という点では広い意味の科学教育である。前代人の生き方、百姓や漁師などの職業によってどうなのかということでは一種の歴史教育ですらある。それをどう使っていくかという面では、実践的課題にさおさすことにもなる。三浦氏のいうことでいくと弁証法的思惟の意味をくみとらせることによって、意識的に使う訓練にもなる。/ともかく、従来の国語・文学・文法などの教育とは、よほど違った言語教育がでてくる可能性がたぶんにある。≫(本書 七二頁)

 

 ここでも庄司は認識の「のぼり・おり」を意識しないにせよ、実際に使っていることが見て取れると思います。のちにコトワザ研究を通して自前の認識理論である「三段階連関理論」を発見するための土壌は、どこか別の知らない場所にあったのではなく、自分の経験という土壌から再発見したものだった可能性がほの見えてきました。以上のような「のぼりおり」を経てコトワザ教育を、「広い意味の科学教育」、「一種の歴史教育」、「人生観の教育」、「弁証法を意識的に使う訓練」というふうに、一段と高みに立ってのちに、次節で「体系化への構想おぼえがき」を綴っていきます。ここには「おりる」ために「表象」という認識が多用されているはずです。次回はそこをみていきたい。まだ、三浦つとむからの返信は来なかった頃だと思われます。


庄司は資料を三浦に「手渡し」たのではなかった(仮定の一部修正)

2017-08-30 16:22:37 | 

 前四回のブログで、「三浦つとむからの学び、その核心」(上・中・下・補)と題して、庄司和晃が三浦つとむの助言から学んだ四項目──①「諺・金言」に限定されたもの、②それは「前論理学的段階」、③「コトワザ研究をやってみたら」、④コトワザは「表象」──を「核心」とよび、庄司が獲得したコトワザ研究の方向性を三つ──①コトワザの「矛盾したあいまいさ」の自覚、②コトワザを異なる段階との関連性で研究すること、③コトワザを「認識の発展」という問題意識で研究すること──に整理してみました。そのうえで改めて資料⑤の「言語教育の体系化への歩み」(一九六五、九・二九)を読んでみようと思ったわけです。

 これまで私は、庄司が一九六五年の九月二九日に、三浦つとむ『弁証法とはどういう科学か』から得た着想を図式化したもの(A「経験」──B「諺・金言」──C「弁証法」)を含めた資料①「科学の論理形成にさおさすもの」(一九六五、八・十二記)、②「言語教育と科学教育の周辺」(一九六五、九・二二記)、③「言語教育と科学教育についてのMemo」(一九六五、九・二九記)、④「テキスト:試案」(一九六五、九)を携えて、直接三浦のもとを訪ねたという仮定のもとで、庄司のコトワザ研究の始まりを追跡してきました。その根拠は、

 

その後、上記の諸論文とテキスト試案を、三浦つとむ氏にお渡ししたところ、Bの「諺・金言」のことがらについて多大のご示唆を受けた。≫(「認識理論の創造への出発」(一九六五、十一・十七)、本書冒頭に所収)

 

という記述にありました。しかし、ここで誤読したようです。そう気がついたのは、三浦つとむの追悼集(横須賀壽子 編『胸中にあり 火の柱──三浦つとむの遺したもの』明石書店 二〇〇二)に収録されている庄司論文「体系的な理論づくりを学びとる」を何気なく再読していたら、当時が以下のように回想されていたことに気づきました。

 

「段階」の一事におどろく/問題解決の論理構造、その図式的発見で、コトワザの世界が、新たな文化遺産として、わかってきたとき、このことを三浦さんにつたえたいなあと思いました。/そこで、そのことを綴ったプリント類を送りましたところ、多大の教示をいただきました。≫(前掲書 一四三頁)

 

 たしかに前者には「お渡しした」と書いてあっても、「手渡しした」とは書いていません。後者にはハッキリ「プリント類を送りました」と書いてあります。ウーン、またやってしまったかという落胆が襲ってきて、また「鵜呑みの半助」的性格が出てしまったかと、という思いもやってきましたが、しばし考えているうちに、四種類の資料は郵送したと考えるほうがスッキリすると思い直しました。

 というのは、資料③「言語教育と科学教育についてのMemo」と、同じ日付けになっている資料⑤「言語教育の体系化の歩み」(一九六五、九・二九)の関係を解釈するうえで無理がないと思えたからです。当初、私はこう想像しました。庄司は、九月二九日に書き終えた資料③を他の資料ともども、その日のうちに三浦に会いました。そしたらその助言によって、自分の「体内の組織がえ」が一挙に遂行されるような深い共感を得たために、その日のうちに資料③を改稿して資料⑤を作成することになった、と。しかし、資料⑤には三浦と会ってその助言に大きな示唆をうけたことが記述されていてもおかしくないのに、その痕跡がないのを不思議に思っていました。しかもこの資料は三浦に「渡した」なかには含まれていないわけですし・・・。

 しかし、九月二九日に資料①~④を郵送したと考えればすっきりします。庄司は送ったその日に、資料の③を、資料④「テキスト:試案」ともども改稿したのだと考えられます。そして、一九七〇年に本書『コトワザの論理と認識理論』を編集する際に、第三部の「言語教育試論と小学生のコトワザ観」の第1章に資料②(「付記」で資料①)を当て、第2章に資料③④を改稿した資料⑤「言語教育の体系化への歩み」を当てたわけです。本書におけるこの論文は一九六五年九月二九日の日付けがありますが、本書への掲載に際して、以下のような「付記」が一九七〇年二月六日付けで、加えられています。

 

「付記」/以上のごとき、おぼえがき的な展開と次に示す実践の中途から、Ⅰの視点〔同資料⑤「言語教育の体系化への歩み」の第Ⅰ節「コトワザの教育への展望をもつ」〕に立ちつつ直接的にコトワザを中核とする言語教育へと収斂していくのである。その教育体系は、第二部の第6章「コトワザの教育過程の体系化」に掲げてみたとおりである。(1970.2.6)≫(本書 七六頁。〔 〕は尾﨑の補足)

 

 この引用から分かるのは、資料⑤にしたがい言語教育構想(「言語教育試論」)を授業にかけている途上で、おそらく、三浦つとむからの「助言」が届き、コトワザを中核とする教育実践へと修正・展開したのだと、いう可能性です。だとすれば、私が縷々綴ってきた「三浦つとむからの学び、その核心」は、まさに庄司の教育実践の渦中で生まれ、その後の展開に活かされたと考えることができます。かえって、その意義深さが腑に落ちたという気がしました。(・・・・紆余曲折ばかりのブログですみません。)


三浦つとむからの学び、その核心(補)

2017-08-29 14:29:41 | 

 前回(昨日)は、コトワザは「表象」と位置づけることができるという、哲学者言語学者・三浦つとむの助言を庄司はどう受けとめたのかを考えました。そこを要約しますと、表象とは論理性と感覚性の両方を伴った認識(シルエットのようだ!)の一つのかたちであると自覚したことは、「前論理学的段階」にあるというコトワザの性格をより鮮明にしていきました。一つはコトワザの感覚性は経験的段階へ、その論理性は論理学的段階へ繋がっていくことで、コトワザを、異なる段階との関連のなかで研究する方向を決定づけていきます。二つはコトワザを、経験的認識と論理学的認識のあいだに位置する「過渡的」段階とみることで、コトワザを認識発展論として研究する方向性を手にするわけです。今回は、三つ補足します。

 このような見通しを得た庄司は、おそらくその日(九月二九日)のうちに、三浦のもとに携えて行った資料③「言語教育と科学教育についてのMemo」と資料④「テキスト:試案」を一挙に書き改め、資料⑤「言語教育の体系化への歩み」へと仕上げていったものと考えられます。このようなパワフルな行動を可能にしたのは、いうまでもなく、コトワザ論を「表象論」として展開できるという手応え、そのさきに「自分認識理論の創造」への見通しを得たことです。果たしてそれがどれほどの感動であったのか。以下の引用がこれを雄弁に語っています。

 

この表象論=コトワザ論をいかに展開するかに、自分が自分となるか、他人様の尻にくっついてしまうか、自分の理論をもつ主体的な人間になるかどうか、にかかわる問題といってよいのである。「よいのである」というなまぬるい問題ではない。重にして要なる課題なのだ。コトワザ論という形での表象論は自分の研究の生き死ににかかわることがらなのである。自分の認識理論を構築するキイポイントであり、前段階を統一的につかむ所業なのだ。思えばえらいところにつきあたったものである。自分が真の意味においての人間誕生にかかわる重大事に直面しつつあるという自覚をわたしはもつ。解説家・資料展示者・単なる人様の讃美者・普及者になりおわってしまうかどうか、本ものの思想家となりうるかどうか、という一大時期にさしかかっていることをまざまざと思わざるをえない。≫(「認識理論の創造への出発」、本書八頁)

 

 もうひとつここで記しておきたいことは、これまでも指摘してきたことです。たとえば、ある山頂に立って前方に広い眺望を得たとします。後方をふりかえったとき、登っているときは気付かなかったけれど、斜面がいく筋もの谷川によって削られている風景を目の当たりにすることがあります。そして大きく見れば、どの谷川もその先端が頂上付近に集まっている(正確には頂上付近から発している)ことに改めて気付くのです。庄司の場合にかぎらず、一般になにか新たに研究上の見通しを得たときには、過去の研究蓄積の再編集が一箇所に集中してはじまるのではないでしょうか。このことは、これまでは庄司の論文から拾い出した断片によって確かめてきたのですが、ここでは庄司自身が直接書いているのでぜひ紹介しておきたい。

 

仮説実験授業の体験以前に、はいまわり的にちくせきしたぼう大な児童言語、様々な授業メソッド、大ぎょうにかまえた種々なるりくつ等を瓦礫と化してしまうか、それともつきざる泉として宝の貯水池となしてしまうかそこへ深いかかわりをもつ。そればかりではない、仮説実験授業ならびに予想授業や科学史授業のもつ論理をダイナミックなものとしてとらえて構想する「科学教育」、ひいては「教育」を“学”たらしむるか否かにもじゅうぶんなかかわりをもつ。

 

 こうしたかかわりの中枢にあるのがコトワザ論を表象論として展開していく研究ですが、表象について復習するつもりで、三浦つとむの名著『認識と言語の理論(第一部)』に収められている「表象の位置づけと役割」(三浦つとむ選集第三巻『言語過程説の展開』勁草書房 一九八三)に目を通してみました。読んで、「表象」はそもそも認識の能動的な役割を担っていたことに改めて気付かされました。そう、表象は認識の一つのかたちだったのです。しかし、表象的認識は表現されない限り私たちの感覚にふれないわけですから、つい関心は「表現としての表象」に集中してしまいます。でも、これはたいへん多様な世界であることはすこし調べてみれば分かります。

 なぜ、「認識としての表象」を忘れていたのかと問われれば、多様性が生みだす面白さにひきずられてきたのかもしれません。また、私の授業実践おいても「表現としての表象」は、子供たちの認識上の「のぼりおり」に重要な役割を果たしていることも分かってきたつもりですが、子供たちにどんな表象を提示すればいいのかと考えてきたことをふりかえると、やはり「表現としての表象」ばかりに気をとられて、「認識としての表象」という根本的な視角を忘れてしまったのだという気がしています。三浦つとむは上記に論文の終りで、「(表象)のような重要な認識の形態が従来の認識論においては軽視され、あるいは無視されている理由はどこに求められるか」を以下のように書いています。これが今回最後に書いておきたいことです。

 

第一に、表象それ自体が矛盾した不明瞭な存在だというところにある。感性的認識か理性的認識か、あれかこれかと割り切ってしまう形而上学的な考え方をすると、表象はいわば中間的な存在であるから、どちらにも入らない中途半端なものは切りすてようということになりかねない。第二は、個々の単純な表象を断片的に扱ったところにある。断片的に他から切りはなしてとりあげるかぎり、感覚にくらべて感性的なものを相当多く失ったその意味で抽象的な認識であるというにとどまってしまう。表象として複雑な発展したありかたを、認識のダイナミックな過程に位置づけてとりあげなければ、その有用性をとらえることができない。第三は、実践との関係で理解しようとしなかったところにある。科学の応用という実践の過程を具体的に検討してみるだけでも、表象の果す役割の重要性はほぼ納得できるのであるが、哲学者もそして心理学者も、認識の発展の中に構造的に実践を含めてとりあげる姿勢を欠いていたのであった。≫(三浦前掲書 四八頁)

 

 表象が軽視されてきた三つの理由が述べられていますが、庄司のコトワザ=表象研究は、すでにこの三つの理由をクリアーしていることが分かります。第一は、表象の「矛盾した不明瞭さ」です。庄司はこの矛盾した不明瞭さを、自分のコトバで「ヌエ的性格」「人魚的性格」「アイノコ的性格」と覚書に連ねています(「認識理論の創造への出発」、本書八頁)。コトバを重ねてその矛盾した不明瞭さを意識立てていることに気付かれると思います。言ってみれば、「表象」のもつあいまいさを、表象的ネーミングによって逆に浮き彫りにしています。曖昧だからこそ面白いとさえ感じていたかも知れません。これも庄司のコトワザ研究の方向性の一つとして数えておきたいと思います。

 第二の理由は、表象を断片的に扱ったことです。庄司は表象としてのコトワザを異なる段階との関連において研究しようとしています。これでは表象を軽視も無視もできないはずです。第三の理由は、実践との関係で理解しようとしなかったことを挙げています。庄司は小学校の教室を現場とする研究者です。研究方向の一つである「認識の発展」という問題意識は、目前の子供たちに対する教育実践を構想し計画し実践するという力動的な認識活動のなかに必然的に実現されていきます。ここにも表象の役割は大きかったはずです。

 次回から、資料⑤「言語教育の体系化への歩み」(一九六五、九月二九日)に戻り、その言語教育の実践構想や授業後の小学生の感想などから、庄司のコトワザ研究=表象研究の三つの方向、(1)曖昧さの「自覚」、(2)異なる段階との関連性、(3)認識の発展性、の三つがどう実現されていったのか。これを読みとっていきます。庄司のコトワザ研究の始まりにおける「原初のかたち」というゴールが、うすぼんやりと見えてきたようです。


三浦つとむからの学び、その核心(下)

2017-08-28 23:09:01 | 

 今回は残りの(エ)庄司図式の「諺・金言」は、「表象」と位置づけられること、「表象」概念をハッキリ教えた三浦の助言について考えます。ここでまず「表象(ヒョウショウ)」という用語の意味が気になると思われます。ここでは、簡単に以下のように押さえもらえばいいと思います。庄司自身が徐々にこの「表象」概念を深めていく過程を追跡するつもりだからです。まず「表象」とは、私たちがある対象を認識するときに自分で思い浮かべたり、ひとから与えられたりするシルエット(影絵)のような画像だと考えておいて下さい。表象は頭や心に在って人間の認識活動に利用されるのですから、表現されない限り外部からは見えません。また「シルエット(影絵)」といえば、かたち(輪郭)は分かるけれど、それ以外はただの黒い影になって見えません。これに似たものが私たちの頭や心の中で活躍しているのです。このぐらいにして、庄司は、三浦つとむの助言をどう受けとめたのか、彼の叙述から探っていきましょう。

(エ)コトワザは「表象」として位置づけられる

さらに、三浦氏は、諺・金言というものを、論理学・認識論的には前論理学的段階であり、それ〔諺・金言というもの〕は無体系であるとともに感性的なものが残っているということにおいて、そのように〔論理学・認識論的には前論理学的段階として〕理解しうるといい、それ〔諺・金言というもの〕のもつ論理は表象としてとらえられているものだ、という。

 

 先ず上の長い一文の前半です。「論理学・認識論的には前論理学的段階であり」とはどういう意味でしょうか。まず「論理学」とは、人間思考の法則性(と前に書きましたがここで訂正します)を含んだ、すべての個別学問(科学)に共通な法則性を扱う学問です。コトワザ(諺・金言)は、その前段階に位置するということが「前論理学的段階」ということの意味です。とすれば論理学も前論理学も、結局人間が何かを認識するときに利用される論理(知識)であり、一つの道具ということができます。「認識論的」とは、そういう観点を意味すると考えます。

 次に、一文の後半です。このコトワザ(諺・金言)は、「無体系であるとともに感性的なものが残っているということにおいて、そのように理解しうるといい、それのもつ論理は表象としてとらえられているものだ、という。」とあります。コトワザ(諺・金言)は、高次の論理学大系からいえば、たしかに無体系です。たとえば「大は小をかねる」といえば、「しゃもじは耳かきにならぬ」と互いに否定するような表現がたくさんあります。つまり多様な「ものの見方・考え方」が互いに一匹オオカミ的であるために体系にはならないわけです。

 また、殆どのコトワザが物事の感覚的なありようを扱った表現になっていることに注目すると、コトワザらしさに心づきます。たとえば「猿も木から落ちる」と「どんなすぐれた人でも失敗することがある」を比べてみれば明瞭ですが、コトワザらしいのは前者でしょう。後者はそれを抽象化したもので、前者の意味を表現するふつうのコトバ使いにすぎません。つまり感性的なものがくっついている論理だというのがミソ(コトワザらしさ)なのです。そして大事なことは、このような「感性+論理」という二重性格をもった認識は「表象」と呼ばれる、とまずは、このように三浦の「表象」論を受けとったことです。このような表象という概念を獲得することによって、コトワザ自体の輪郭をハッキリさせ、庄司のコトワザ研究に方向性がでてきたからです。続きをみていきましょう。

 ≪つづいて、その〔諺・金言というもの、の〕論理は特殊性の中でとりあげられたものであり、具体的なくらしということでは日常生活に使う道具の論理というすがたで問題になってくる、すなわちコトワザというものは、一方では経験とつながっているからとらえやすいし、他方では論理としてすぐに使えるだけに抽象されていることになる、という。≫

 

 「表象」としてとらえられたコトワザの二重性格を改めて見直すと、コトワザが掬いとった経験則は、体系的な論理学のように広い範囲を扱いそこから普遍的な法則を掬い上げた学問とは異なり、たしかに生活経験という特殊性から導き出された論理です。だからこそ、「日常生活に使う道具の論理」と呼ばれるわけです。たとえば、やってもやっても効果の上がらない作業をしている者たちに、「ざるで水をくむ」というコトワザを使ったとすれば、これは「効果のないことをする」ことへの警告や批判を意味しますが、これは一方で経験則として高次の論理学的段階に繋がります。他方で「ざるで水をくむ」という感性的な側面は、そのような作業をしている経験の世界に繋がっていきます。すなわち、庄司は表象としてのコトワザを、論理への道と経験への道の両極との関連性において理解していることが分かります。最後です。

 ≪要するに、中間位にある表象、過渡的な段階の表象、そしてそれをこのようなかたちでとらえられている論理なのだ、という。実に示唆に富む、私の図式化への、逆転的で激烈な指針を導入してくれたというわけなのである。≫(以上、「認識理論の創造への出発」、本書七~八頁)

 

 上のひとつの結論は、庄司をしてコトワザとは、「中間位にある表象」だと書かせています。これはだれにでも気づかれることでしょう。もう一つが重要だと思われます。それは「過渡的な段階の表象」だという受けとめです。ここには「認識の発展」という問題意識の端緒が見えます。

 まとめますと、三浦のコトワザを「表象」だと指摘した助言は、コトワザの性格を、感性と論理の中間位にあることから、両者の関連性において研究すべきことを自覚させました。またコトワザが、感性と論理のあいだにあって「過渡的」だという受けとめは、コトワザを「認識の発展」という問題意識の中で研究すべきことを促しました。コトワザを「表象」と位置づける三浦の助言は、その庄司のコトワザ研究を、前後の「関連性」に配慮し、「認識発展」の芽を見ていく、二つの方向に決定づけたと考えられます。(つづく)


三浦つとむからの学び、その核心(中)

2017-08-27 17:27:17 | 

 前回のブログは不十分な記述が多く、先ほど改稿しておきました。さて、続きです。話題は、三浦つとむの助言からの庄司の学びについてでした。三浦からの助言はあと二つ残っています。(ウ)庄司に「ことわざ論をやってみたらどうか」と助言されたこと。(エ)庄司図式の「諺・金言」(「コトワザ」段階)は、表象」と位置づけられること、「表象」概念をハッキリ教えたこと、です。今回は(ウ)について考えてみることにします。

 

(ウ)「ことわざ論をやってみたらどうか」

  敬愛する人の著書をくりかえし読んできた者が、直接ご本人とあってこのような助言をいただく場面を想定してみれば、このような助言をもらうことが、研究を志す者にとってどれほどの励みになるかは、おおよそ察することができます。ちなみに、庄司は研究者としてこの種の励ましの、言って見れば達人でありました。・・・話を若い頃(一九六五年)に戻します。「ことわざ論をやってみたらどうか」という助言は、庄司の意欲と力量を見込んだ本音から発した一言だったようです。晩年の「私の研究歴・談話録」で、当時を回想して、

 

当時、三浦つとむさんの話を、あとで奥さんから聞いたのですが、こう言ってくれました。三浦さんは「コトワザはワ・タ・シがうやりたかった」と。そのくらいコトワザに惹かれたひとだったんです。≫(全面教育学研究会 編『庄司和晃先生 追悼 野のすみれさみしがらぬ学立てよ』二〇一六 一〇一~二頁)

 

 しかし、すぐにその助言に応ずることはありませんでした。「それに応ずるだけのかまえが熟していなかった」というのです。では、どうしたか。庄司は≪「柳田国男の児童観」をまとめあげ、関係著書や友人との討論などの中をうろつきまわり、よくよく拈提〔ネンテイ〕すること一週間にして次の結論に到達することができた≫と書いています。「拈提(ネンテイ)」とはどんな意味か調べてみても一般の国語辞典類には出ていないので、各種サイトをあたってみると、曹洞宗の関連用語であること、直訳すれば「つまんで示す」こと、たとえば古人が書いた著作などを主題にして、後に学ぶ者が自らの意見を示すことだ、とあります。ここでいえば、師の三浦つとむの助言を課題として自分はどう取り組めばいいのかを、一週間考え続けたことを指しています。とすると、答えは決まっていたわけですが、どう答えるかに庄司は意を尽していたことになります。どのような結論を出したのか。前にも引用しましたが、くり返しを厭わず引用します。

 

すなわち、“自分の認識理論を創造することなくしては、いつも亜流じみた言説しか弄することができないのがセキの山である。すべからく〔すべきこととして当然〕その道にむかうべし”という、まことにもって凡々たる地点へといきつくことができた。それには、今の境遇からして「コトワザ論」をやることが、もっとも近接しうる好題目である。しかも自分の認識理論を創造するための重要なる機縁となりうるであろう、という結論にいたりついた≫(本書 七頁)

 

 「拈提かァ、やはり庄司先生は禅宗のお坊さんだったんだなァ」などと、ひとり、心でつぶやきながら、このようなときの答えの出し方に感心すること、しばし。庄司のもとに集まった者たちがなにか良さそうなレポートをだすと、必ずひとこと付いた励まし。「○○さん、あなたの全面教育学もこれで前進ですな」という一言が思い出されます。・・・庄司は自分では「凡々たる地点」とはいうけれど、それが「自分の認識理論を創造する」ことであると聞いて、とても「凡々たる地点」とは言えないのが大部分であったのではありますまいか。かえって、「それが王道ですな」と聞かされているようなものです。「王道」と聞くと、わたしなどヒネクレ者はどうしても異なる道を探してみたくなるのですが。

 もう一つ、書いておきたいのは、この「拈提(ネンテイ)」の最中に、「柳田国男の児童観」と綴っていたという一事について、です。この論文は私も好きで、覚えているのは柳田国男が明らかにし庄司が浮き彫りにした二つの重要な児童観です。過去保存的児童観と子供の造語能力の存在です。一週間の拈提(ネンテイ)のあいだ、このような、自分が学んだ他の領域の研究成果も動員しようとしていたのではないか、と思われるのです。私はブログを通して庄司の研究歴のなかで以下のようなことを確かめてきました。まず「自分の認識理論の創造」のためには、コトワザ研究を機縁としたことはもちろん、これ以前にさかのぼると、柳田社会科つくりの経験、小学生のおしゃべりコトバの研究蓄積を見直し言語教育構想へ再編集しつつあること、一九六三年以来の仮説実験授業研究も継続しつつ、コトワザ研究の出発にはその大事な端緒に導入したばかりか、続く議論を深めるために重要な比較材料になった科学教育研究の存在などを不十分ながら調べてきました。さらにその後となると、一九六八年に本格的に始まる「柳田教育学」の研究などを斟酌すると、庄司は、異なる領域の研究と並行しながら、「自分の認識理論の創造」に向ったことに気づかされます。まさに「一人ワールドにおける研究の総動員体制」と呼びたくなります。

 しかし私は、ここに庄司からの大きなヒントと励ましをもらった気がします。だれもが多様な関心領域に携わっている、または関わらざるをえない状況に生きている。大事なことはそこで考えたり書いたりしたことを捨てたり忘れたりするのではなく、ある研究に総動員させることを可能にする、自分らしい題目を立てられるかどうかだ、ということです。もう一度、庄司の場合をふりかえってみますと、「自分の認識理論の創造」がそのような研究題目でした。そのために中心に設定したのがコトワザ研究とその教育実践(これを忘れてはいけない)でした。この核心となるべき研究に要求されるのは「自分の認識理論の創造」にまで飛ぶことのできるツバサです。コトワザ研究を飛翔させより高い位置に上昇させたツバサこそ、「コトワザは表象である」という助言ではなかったかと予想します。次回はここを確かめます。


三浦つとむからの学び、その核心(上) 改稿

2017-08-26 17:56:46 | 

昨日は所用があって休みましたが、前回(8/24)の続きを綴ってみます。話題は、庄司和晃が一九六五年の、おそらく九月二十二日に、四種類(①~④)の資料をもって三浦つとむを訪ねたおりに、どのような助言をもらい、それをどのように受けとめたのかでした。今回はその際の庄司の学びに迫ります。今回の資料は、これまでのブログで中心的に取り組んできた資料⑦「認識理論の創造への出発」(同年、十一・十七)を使います。この論文は三浦つとむからの学びをコトワザ教育の実践途上の十一月十七日に、自己の認識の深化を内省的に綴ったものです。庄司の本格的コトワザ研究書である『コトワザの論理と認識理論』(成城学園初等学校 一九七〇)の冒頭に収録されています。これまで通り「本書」と呼ぶのはこの一書を指しています。この学びの機会は、庄司のコトワザ研究の開始を告げるものである、と同時にその核心を衝くものだったと考えています。まずこれまでも引用を含めて紹介してきた三浦つとむの助言は以下の四項目に整理できます。三浦の助言は、

(ア) 庄司持参の資料①「科学の論理形成にさおさすもの(一九六五、八・十二)」で示された、図式≪「経験」―「諺・金言」―「普遍的法則性・弁証法」≫の中間に位置する「諺・金言」に関するものだったこと。

(イ) その「諺・金言」を、「前論理学的段階」と指摘したこと。

(ウ) この際に、庄司に「ことわざ論をやってみたらどうか」と助言したこと。

(エ) 庄司図式「諺・金言」(「コトワザ」段階)は、表象」と位置づけられること、「表象」概念をハッキリ教えたこと。

 では、以上の助言の意義を順に考えながら、庄司の学びの核心にせまってみたい。

 

(ア)「諺・金言」に限定した助言

 三浦の助言が、図式の中間に位置する「諺・金言」に限定されてなされたことは、庄司が構想してきた、言語教育構想を大いに揺さぶりました。「言語教育構想」「小学生のおしゃべりコトバ」研究の蓄積を踏まえた「私的言語教育試論」から「児童言語文化学」構想について、「これによって、わたしの言語教育のふらつき気味の腰がきまった、といってよいくらい」だと言わせています。もう少し引用すると「コトワザをどういう角度でとらえていかなる姿勢をもって子どもたちにのぞんでいくかということについては、確たるものがなく思いあぐんでいたところ」だったのです。つまり、三浦が助言を庄司の図式における「諺・金言」の限定したことは、一挙に庄司の言語教育構想に中心軸を与えたことになります。こうして、前回に読み始めた資料⑤「言語教育の体系化の歩み」では飛躍に見えたコトワザ教育を軸にする「体系化の歩み」の記述に方向性を与えたことになります。次に助言の内容です。

(イ)「前論理学的段階」という助言が与えた三つの示唆

 「諺・金言」は「前論理学的段階」に当たるという三浦の助言は、庄司に三つの示唆を与えたと考えます。「前~」、「論理学」、「段階」の三つです。

「前~」 庄司が「それ以前」を意識することは初めてではありません。三浦つとむの著作を読んで最初の図式をかいたときに、それまで十年以上に渡って蓄積してきた「小学生のおしゃべりコトバ」研究における「理科コトバ」群を、「科学以前」と見直したことは前に見た通りです。ですから、今回「諺・金言」は「前論理学的段階」に位置するという助言を聞いたときには、「前論理学的」という把握の仕方に抵抗感はなかったはずです。その仕方とは、ある高次元の認識がある場合、それ以前にも次元は異なるけれども同じものが共通して見られるという考え方です。「諺・金言」は、本格的とは言えないにせよ、同じく人間思考の法則性を掬い上げた「論理学」にちがいない、という確信です。ここに庄司のコトワザ「論理」説の発生があった、ということができます。

「論理学」 庄司は、この発見のあと、「コトワザの論理」という用語を多用していきますが、これを最初に適用していくのが、一度作成してすでに授業にかけつつあった言語教育構想で、これをコトワザを中心軸にして再構成するときだったと考えられます。このときに資料③「言語教育と科学教育のMemo」を改稿してできたのが、資料⑤の「言語教育の体系化の歩み」(九月二十九日)だったと考えます。その際に資料④「テキスト:試案」も再編集されていったと考えます。これが「言語教育→哲学教育」の姿勢が強化されたと、庄司が書いた事の意味です。ここに「哲学」とありますが、これは「コトワザの論理」と言い換えてもよく、これによって小学生なりに広く世の中の姿をとらえようとする意図が込められているはずです。

「段階」 庄司は、こう書いています。──「ことはそれ〔「言語教育→哲学教育」という強化〕にとどまってはいなかった。別様の展望が開けてきたのだ。それは、何によってであるか。取りもなおさず、前論理学的段階の中の「段階」という把握のしかたがピリピリときたわけなのだ。これではじめて、平面的分類的に発見したあの図式が、ダイナミックな立体的構造図式として、さらなる発見をなしえたしだいなのだ」と。「別様の展開」とはなんでしょう。それは、最初の図式が「ダイナミックな立体的構造図式」に見えてきたということです。また庄司はすこし後に「質的変化へと飛躍せしめた」とか、「発展的・段階的・立体的・動的」にとらえる地位にたかめてくれた、と補足しています。これはどのような質的変化なのでしょうか。「段階的」、「立体的」、「動的」、「発展的」の順に、これらの意味を考えていきます。

 質的変化は、もちろん三浦つとむが先の庄司の図式を指して、≪個別―特殊―普遍≫というふうにも展開できる、と助言したことにはじまっています。これによって、庄司は「諺・金言」(コトワザ)を、個別と普遍の中間の「段階」として見直したわけです。いったい「段階」として見直すとはどういう事態なのか。個別、特殊、普遍の三つを一連のものとしてとらえ直し、それぞれを段階と把握するというとき、その段階のちがいは何を意味するか。それは抽象の度合がちがうのです。すなわち抽象度を基準に三つの水準(地平)に分けたものなのです。敷衍しますと、個別的段階は個別的な事物の範囲での抽象です。例えば個人ごとの経験則あるいは問題解決法を指します。だから、個々にちがった問題解決法の集合を意味しています。この集合のうちからいくつかをならべて(つまり特殊な範囲で)見ると、そこに共通な問題解決法が発見できます。言い換えれば、代々の多数の人々が口伝えで残してきた諺・金言の類に代表させることができるでしょう。これをもっと広い範囲、言ってしまえばすべての人間にとっての問題解決法というふうに共通性を掬いとっていけば、そこに普遍的な問題解決法が発見できるはずだ、といえます。しかし個別―特殊―普遍という繋がりは、相対的です。つまり、普遍的な段階がいつも「すべての人間」に当てはまるものと考えているわけではありません。一民族内であったり、男女別だったりするわけです。

 以上のような個別的範囲、特殊的範囲、普遍的範囲を円の大きさに比例させて、同心円状に重ねると、平面を立体化する契機が生まれます。ここではいちばん下から上へ大小の丸い板が三重になった「普遍―特殊―個別」という立体を思い浮かべることができます。ですが、この一連の「個別―特殊―普遍」の各段階を、「ものの見え方」(認識)という基準でとらえ直すと、すべてのものを対象とする普遍的段階の方が眺望は遠く広く効くにちがいありません。そうすると、正三角形を仮想し水平に三等分する線を引けば、一番上から下ヘ「普遍―特殊―個別」の各段階で構成される立体をイメージできるはずです。後者の方が「立体化」のイメージを強く喚起できるのではないでしょうか。

 さらに、後者の正三角形のように考えると、一連の段階はその抽象度に応じて物事の「発展」を表すことが可能になります。「まだ赤ん坊の段階だからいまそんなこと教えても無駄よ」とか、「中学生の段階にならないと思春期の悩みは分からないよ」などと、「段階」は成長発展の「程度」を表すことができます。さらに、二字熟語「段階」からは階段をイメージできます。階段はのぼりおりするための道具です。もっと言えば、「のぼる(抽象化)」と「おりる(具体化)」という思考の「動的」イメージが喚起されます。これは認識を「発展的」に扱うことを可能にするわけです。仮説実験授業の基礎的研究で、抽象度の高い科学の基本的な法則をいかに身につけるかを研究していた庄司にとって、この程度の連想は容易だったと考えられます。(続く)


「児童言語文化学」構想と「コトワザ教育」のあいだ

2017-08-24 06:06:00 | 

 さっそく資料③の「言語教育と科学教育についてのMemo」(一九六五、九月二九日)を読んでみます。この資料③というのは、そのままの形では『コトワザの論理と認識露論』(一九七〇)には収録されておらず、庄司によれば、本書には「言語教育の体系化の歩み」(一九六五、九月二九日)という題名で、第三部「言語教育試論と小学生にコトワザ観」の第2章として位置づけられています。これを資料⑤と呼んでおきます。資料③と資料⑤の日付けが同じことから、資料⑤には資料③が掬いとられていると判断し、その内容を検討してみることにします。

 資料⑤「言語教育の体系化の歩み」は三つの節からなります。第Ⅰ節「コトワザの教育への展望をもつ」、第Ⅱ節「体系化への構想おぼえがき」、第Ⅲ節「世界観づくりにさおさす言語教育」です。先ず三つの見出しから分かるのは、未来形としての「コトワザ教育」への展望と具体化案、そしてその意義づけが語られているのだと予想できます。まず冒頭を読んでみましょう。

 

言語教育への接近ということでふりかえってみると、これまでに、コトワザの教育を意図的に試みてみたいとは、考えないでもなかった。子どもたちが遊びの中で、サルモ木カラオチルとか、二度アルコトハ三度アルとか自然裡につかっていたからである。それに柳田民俗学からも多くの知識を受けている。だが、その教育をおこなうための明確な視点が定まらなくて組みたてえなかったのである。それが、前章の「付記」〔資料①「科学の論理形成にさおさすもの」のこと〕でふれたように、三浦つとむ氏の著書にヒントをえ、現実のつきつけてくる問題を解決するための手引きとして、「経験」──「諺・金言」──「弁証法」というふうに、図式的にならべてみたときに、ソノ視点ココニアリ、とこちらにピピンとひびいてくるものがあったのである。そうだ。これなのだ!とがてんしうることができたのである。さすれば、子どもの口の端にのぼる数少ないコトワザをゆたかにしていこうと思っていたわたしの考えも、コレデヒキシマル、柳田民俗学の示す諸々の意見も、ハジメテ生キテクル、とまあ悟ったというしだいなのである。「未知の世界」への突進→そのときの「羅針盤」、たしかにコトワザの教育は、かれらの生き方に資するところがあるだろうという予想がフッと浮かび、そこから「言語教育」の中でこそと、一連のこれにさおさす自分のばくぜんとしていたものがひきしめられて、サササササッと過去のもやもやが統一されてしまったのだろう。つまり、その構想〔「小学生における私的言語教育試論」あるいは「児童言語文化学」と呼んできたもの〕の核心的な柱となしうる、ということが悟るがごとくに脳中にひびきわたったのである。≫(前掲『コトワザの論理と認識露論』七一頁)

 

 前回まで読んでいただいた方には、すぐ気づかれたと思いますが、上の引用でいう「コトワザ教育」の位置づけには、この時点で言えば飛躍があります。前回までは「小学生のおしゃべりコトバ」研究をもとに「私的言語教育試論」を書き、その趣意をテキストに具体化し、授業実践にかけつつあり、これによって、「小学生のおしゃべりコトバ」をもとにした児童文化をみきわめていく自身の角度が尖鋭的でないことや網羅的になってしまう弱点を克復する視点を得たい。庄司の言わんとすることを、おおよそこのように受けとってきたはずです。この時点ではコトワザの「コ」の字も登場していないことに気づかれたと思います。ここに飛躍があるのです。では「コトワザの教育」の出どこはどこにあるのでしょうか。庄司によれば、「三浦つとむ氏の著書にヒントをえ、現実のつきつけてくる問題を解決するための手引きとして、「経験」──「諺・金言」──「弁証法」というふうに、図式的にならべてみたときに、ソノ視点ココニアリ、とこちらにピピンとひびいてくるものがあった」と書いてあります。ですが、8/18 のブログ「コトワザに目覚める頃、科学が大好きだった」で、資料①「科学の論理形成にさおさすもの」を検討したように、ここでは「科学」のすばらしさを強調する文脈が大きく、科学以前の段階に気づいたにとどまり、問題解決法としての「諺・金言」は、科学や弁証法に比べれば、「それほどでもない」ということがこちらに伝わってしまうような書きぶりだったはずです。

 しかし、この飛躍あるいは断絶には理由があるのです。それは、資料①②③④を携えて三浦つとむを訪ね大きな示唆をもらったことが、資料③と資料⑤の間の出来事としてあったにも拘わらず、その出来事を書き入れたくても、そうできなかった事情です。ここからは私の想像にすぎませんが、問題は、携えていった資料③を、三浦の助言をもらい大いに示唆されたことを忘れないうちに改稿し、資料⑤を作ってしまったことにあったのでなないかと考えます。この三浦からの学びの出来事を資料⑤に明記しておけば、こちらの混乱もなかったはずです。では、なぜ明記しなかったか。思うに、この年の「私的言語教育試論」をもとに授業用「テキスト:試案」(資料④)をいまだ実践中の、十一月二日に「表象論としてのコトワザのもつ論理」(資料⑥と呼ぶ)を執筆し、同年同月の一七日に「認識理論の創造への出発」(資料⑦と呼ぶ)を執筆したことで、三浦つとむからの学びの過程を記述し終わっていたからだと考えます。そして、この二本の論文を執筆したことで、おそらく、資料③と資料⑤のことは忘れていた。しかし本書を編集する段階になって、この矛盾に気づいたが、資料⑥と⑦を序説がわりに第Ⅰ部「認識理論の創造とコトワザ論」に組み入れたことでよしと判断したのではないでしょうか。忘れたのは、この時期はおそらく授業実践で次々に発見が続きそれを記録し整理して真っ只中であったからでしょう。

 というわけで、はなはだ遠回りになりますが、次回は庄司が三浦つとむと会い、どのような示唆を受けることになったのか、再び見ていかなくてはなりません。庄司が「児童言語文化学」構想からいかに「コトワザ教育」へ進んでいったのか、その「核心的」部分が論じられているはずだからです。このときの学びについて記録的な論文が、資料⑥「表象論としてのコトワザのもつ論理」と資料⑦「認識理論の創造への出発」になります。せっかく読み始めた資料⑤「言語教育の体系化の歩み」は、しばし棚上げです。


見直しというモチーフが「科学以前」を喚ぶ

2017-08-23 06:53:43 | 

 今回は、資料②「言語教育と科学教育の周辺」(一九六五、九月二二日)の最後節(Ⅳ)「雑感的なひとつのしめくくり」を読みます。ここには、庄司がこの当時に置かれた研究上の位置からくる心境を綴った珍しい文章になっています。全面教育学研究会編『庄司和晃先生追悼 野のすみれさみしがらぬ学立てよ』(二〇一六)に収録されている、植垣一彦・小田富英 共編「年譜・書誌」(以降、「追悼集年譜・書誌」と呼ぶ)における一九六五年の記載を再録すると、以下のようになります。

年譜──

一九六五年(昭和四〇年)              三六歳

九月二五日、『仮説実験授業の論理構造』の原稿をまとめるにあたり、それまでの研究と仕事を、「第一期」から「第十一期」にまとめる。この時期を「第十二期 認識理論の創造時代」と位置づける。

この年、ソビエト連邦の婦人委員会に招かれて、芸術家、教育者ら一〇人とモスクワを訪問する。

 書誌──

「仮説実験授業はゼロから出発した」(『教材ニュース』第六七六号、日本写真新聞社)

「仮説実験授業の側面観」(『教育改造』第二〇号、成城初)

「科学よみものの教育ということ」(『科教教ニュース』第一二二号、科学教育研究協議会)

「大多数の子どもの予想がはずれたときの感想集」(『仮説実験授業研究』第三号、仮実研)

「柳田国男の児童観をめぐって」(『教育改造』第二一号)

「仮説実験授業のカリキュラム」(『現代教育科学』第八六号、明治図書)

『仮説実験授業』(国土社)

『理科の授業改造──小学生の自然観と予想授業』(明治図書)

『かっぱはほんとにいますか』(ポプラ社なぜなぜ絵文庫)

『ありはけんかをしますか』(ポプラ社同文庫)

『ふくろうのめはなぜよるみえる』(*ポプラ社同文庫)

『うみのみずはなぜうきやすい』(*ポプラ社同文庫)

 こうしてみると、一九六五年は多忙多産な年だったと位置づけることができます。留意したいのは、ここにコトワザ教育関係の書誌はひとつたりとも記載されていないことです。そのうえでの「多忙多産」だったことです。まず仮説実験授業研究の方面においてどのような状況にあったのでしょうか。さきの資料②の第Ⅳ節から引用しましょう。

 

 ≪板倉聖宣氏の発想にかかる「仮説実験授業」を樹立すべく、実践的にとりくみ、つづいて手がけた基礎研究を通して体験が更にさらに深まるにつれ、根本問題から細かな方法までいな、自分の生き方にまで気にかかるようになり、何ともはや、たいへんなことになってしまった。とくに、この頃というのは、以前の仕事の数々も気にかかってろくろく眠ることもできないほどだ。ここ数週間、床にはいったためしがない。机のそばでゴロネである。それもおしい。時間がほしい。つぎからつぎへと新しい考え・思いつき・発想がでてきて、書き留めざるをえないからだ。ここ数週間は、何かしら仮説実験授業のデモンにとりつかれてしまっているらしいのだ。≫(『コトワザの論理と認識理論』所収 六七頁)

 

 なんだか庄司の息づかいまでが聞こえてきそうな文体です。私も同じ歳くらいだったと思います。このくだりを読み、うまく言えませんが、ある種の感動を味わった憶えがあります。ここで留意しておきたいのは、「自分の生き方」や「以前の仕事の数々」も気にかかるようになってきた点です。もう少し、この時期、庄司の見方・考え方がどう変化しているか、をみていきます。

 

 ≪すべてのことが新しい分野にみえて仕方がないのだ。科学の何たるかがわかりかけてきたためかも知れぬ。実践の原理が身につきはじめてきたからかも知れぬ。逆転されたんだろう。考え方がかわってくると、こんなにもすべてが新鮮なものかとあらためて感じいってるしだいだ。それに、仮説実験授業の実践と研究の以前にやった仕事が、実に価値あるものに転化しうるものだ、という喜びがわきおこってしかたがないのだ。・・・オクラになっていた児童文化関係のものが、あらたにみえてきたのもそのひとつ。すなわち、言語教育論もデモンと化して、自分をつかまえてはなさないのだ。

 

  ひとつの普遍性を獲得すると、たしかにこれまでの風景が一変します。ここでは科学という見方・考え方だったようです。そのような見方が個別分野を超え、異なった分野を見る目をも変えるのだということが伝わります。これにとどまらず、普遍的な視線の獲得はそれ以前の仕事(「小学生のおしゃべりコトバ」の研究)をも見直し再構成への道を拓くことになります。これは前回ブログで触れた「庄司らしさ」の発現でもあります。さて、このあと庄司のペンは、吉本隆明の「書くという作業をつづけてきた私的な体験をさかのぼってみると、論理化の欲求、抽象化の欲求がはげしい時期と、具体的なものへの執着のさかんなときとは、自分のなかで波をなしているように思われる」(『模写と鏡』の「あとがき」)という一節から、現場の教師として実際主義にこだわっていた自分を析出していきます。そうしたうえで、抽象化か具体化か、つまり「あれかこれか」にこだわる発想を相対化し、「あれもこれも」と考える柔軟な思考に変化しようという意志を表明しています。この考え方が後に、認識の「のぼりおり(抽象化と具体化)」を思考運転の中軸とする「三段階連関理論」を先取りしているように見えるのはまず無理のないところです。

 さてこれで資料②「言語教育と科学教育の周辺」を読み終わりましたが、この一篇に底流していた見直しというモチーフが、最後にきて表面に露出してきたな、という感想をもちます。こう見てくると、資料①「科学の論理形成にさおさすもの」において、過剰とも思えた「科学」強調の意義が分ってきます。「科学以前」の「諺・金言」に光を当てる準備段階だったことに心づくのです。ここにも見直しというモチーフが底流していたことが読み取れます。資料①が資料②を喚び込んだのです。次回は資料③に入ります。


庄司による『児童言語文化学』構想

2017-08-22 18:33:59 | 

 前回(昨日)は、庄司和晃が三浦つとむに手渡し助言を求めた際の、四つの資料のうち資料②「言語教育と科学教育の周辺」の第Ⅰ、Ⅱ節を読み取ってみました(昨日のブログは補足してあります)。この二つの議論の底流には自分の研究を見直すというモチーフが流れていることを見ました。その研究とは「小学生のおしゃべりコトバ」の採集をもとにするもので、「遊びコトバ」と「理科コトバ」に注目して「子ども心の世界」にタッチしようとする研究でした。これは必然的に、「コトバ以前」を意識することになったというのが、私の考えでした。さて、今回は残りの第Ⅲ、Ⅳ節を読んでいきます。前者は「児童言語文化学への志向」と題されていて、庄司の「小学生のおしゃべりコトバ」の研究が、当時どこを目指していたかが窺われます。

 ピアジェ先生の児童心理学に対抗すべく、試みられた庄司の研究はどうなったのでしょうか。「もろ手をあげての降参」とまではいかないがそれに近いものでした。自己分析によるとその原因は「学」的な方法論をもたなかったことだと言います。だから、採集における「ハイマワリ的な経験主義」、資料処理では「精いっぱいに解釈主義・コンニャク問答式・手前勝手な心理的イジクリ主義」が主であったと書いています。「コンニャク問答」は落語にあり、相互の誤解にもとづく滑稽なやりとりのことです。やや自虐的ですがここにも自分の研究の「見直し」の契機が認められます。このような契機はどのような研究者にもやってくるとい思います。私は、庄司のコトワザ研究が三浦つとむの助言を示唆深く受けとめたことをもって彼のコトワザ研究のスタートと考えたいのですが、それまでの各種の「見直し」をコトワザ研究「前史」と呼ぶとすれば、以下の引用に見られる発想に、強く「庄司和晃らしさ」を感じるのです。彼は、「小学生のおしゃべりコトバ」研究から「身にしみてわかった」こととして、次のように書き出しています。

 

ただ、コトバというものが人間形成上、スゴイはたらきをしている、ということだけは身にしみてわかった。そういう点で、自身にとっては大きな収穫であった、と考えてはいる。自分なりの言語教育論をまとめあげたい、何とかそれを組みあげてみたい、というのも数多くのナマのコトバ群に接したところから、発想したものだといってもいい。/その採集したコトバとそれの分類・解釈・発見にもとづいて、自分の学校で、国語・文学とは別に「コトバ」の時間が特設されてもよいのではないかと、しばしばかんたんな形で提唱してもみたのだが、こちらの説明不足もあり、まだ筋だったところもないせいか、かくべつの反応もない。しかし、ここには新しい教育分野の何かがあるというばくぜんとした見通しみたいのがあるので、個人的につきあたってみようというわけである。だからこの論考に「私的言語教育試論」と銘打ってみたのもそういう意味においてである。/そして、デカイことをいうと、わたしは、この体系立てと実践を通して、いつかは、『児童言語文化学』というものへ到達してみたいのである。その足がかりは目前にせまっている。≫(本書『コトワザの論理と認識理論』 六六頁)

 

 目前にせまっているのは、もちろん厖大な理科コトバと遊びコトバの採集資料をさします。言ってみれば、自分の努力とそれなりの蓄積、努力の結晶です。それを否定しないこと、たとえ自分の研究に対して消極面があったとしても、自分のやったことの積極面はこれを捨てない、という発想です。ここからがすごい。この積極面においては単に「捨てない」でおくことにとどまらず、「努力の結晶」を新たな構想のもとに「組みあげ」たい、と考えたことです。そのような発想のキッカケは、「ここに新しい教育分野の何かがある」と思ったことにあります。ここでは、「私的言語教育試論」と呼ばれ、その「体系立てと実践」を通してより高次な『児童言語文化学』を構想していたことです。先にこのような考え方を「庄司和晃らしさ」と呼びましたが、これは「小学校教師らしさ」といってもよいものです。仕事相手の小学生に「消極面」があるからといって否定するのではなく、その「積極面」を捉え、ここに新しい成長の何かがあると感じその成長を図るのは、この仕事のもっとも良質な部分に属します。そしてこれを構想して終わるのではなく、具体化しようとしているところに、ヨリ強い「庄司和晃らしさ」があると思うのです。

 実際に、先の「努力の結晶」を整理・解釈し、さらに柳田国男の児童関係本に触発されつつ、直に柳田から指導を受けつつあった一九五七年頃には、『児童生活誌』をまとめる志をたてていたことが書かれています。この『児童生活誌』の大きなコンセプトは、なんと「児童文化の概念革命」にありました。庄司は、当時の「児童文化」と称されるものが、詰まるところ大人や教師が用意した「教育文化」にほかならず、「子どもが生み出したものこそ、児童文化であり、そこを意識して論立てと実証こそ必要だ」という、具体的な本づくりの戦略もできていたのです。その根拠は、自分が採集した「小学生のおしゃべりコトバ」が、どれも子供の間でだけ使われていたコトバにほかならなかったという特色に依拠していたと推察できます。この「子供の間でだけ使われ、児童のためにだけ使われる」コトバだけを「児童語彙」と呼び、それらをだいたいに子供がコトバを習得する順に分類・排列した柳田の『分類児童語彙』をほうふつさせます。しかしこの『児童生活誌』は、その下工事ともいうべき「小学生における遊びコトバの研究」もかなりはかどっていたにも拘わらず、出版されることはありませんでした。なぜか、それは庄司自身が感じていたひとつの弱点が克復されていなかったからでした。こう書いています。

 

だが、反省してみると、児童文化をみきわめていく自身の角度が尖鋭でなく、もうら〔網羅〕的であった。それを、自分なりの言語教育を通じて深めてみたいのである。この教育のためのテキストもできたし、授業にもかけつつあるしで、さしあたっての到達目標として『児童言語文化学』におきたいと考えている。≫(前掲書 六七頁)

 

 弱点とは「児童文化をみきわめていく自身の角度が尖鋭でなく、もうら〔網羅〕的であった」ことにありました。ところが上の記述には、今回はその実現のための授業用のテキストも作り、すでに授業にかけているということが判明します。ここで「今回」というのは、少し話がさかのぼります。くり返しを厭わず書いてみます。一九六五年八月に出版された『仮説実験授業』(国土社)における「予想・仮説着目史考」を「辿り終え」(つまり原稿を仕上げたことを指すと考える)、その延長線上に浮かび上がってきた「問題解決学習」への関心に端を発します。この本の「あとがき」の日付けが「一九六五年七月」であることを考慮すると、おそらく夏休みに、庄司はこの国の教育学者による「問題解決学習」論をいくつか読んだことになります。そして読後に失望を覚えた折りに、三浦つとむの『弁証法とはどういう科学か』(講談社)の一節が蘇ってきて、そこから一つの図式を描きます。

「経験」─「諺・金言」─「普遍的法則性・弁証法」

 この図式化によって、問題解決のたよりになるもの、手引きになる「コトバ」として「諺・金言」に気づくのです。そして庄司はこのとき、再三書いてきたように、まっすぐコトワザ研究に向うのではなく、どういうわけか、この「諺・金言」は「忘レテイタ、ヌケテイタ、気ヅカカナカッタ、これは放っておいていい問題ではない、ということを直観し、「言語教育というデーモン」に魅せられたように、集中的に資料①②③④を作成するのです。そして二学期に入ると、資料④の「テキスト:試案」を授業にかけていきます。ここからが重要ですが、授業実験をおこなっている期間のある日(九月二九日以降十月いっぱいだと想像する)、先の資料(①②③④)を携えて敬愛する三浦つとむを訪ねることになります。ここで「今回」というは、『児童言語文化学』構想の決意を記しとどめた資料②「言語教育と科学教育の周辺」(九月二十二日)と、資料③「言語教育と科学教育についてのMemo」(九月二九日)、資料④「テキスト:試案」(九月?日)を用意した頃ということになります。

 残るのは、第Ⅳ節「雑感的なひとつのしめくくり」ですが、長くなったので、次回にこれを読んだうえで、いよいよ資料③にとりかかることにします。


コトバとそれ以前の関係に心づく

2017-08-21 06:07:48 | 

 今回は昨日の続きです。庄司が一九五八年に綴った論文「一年生の自然交渉にみるコトバの示すもの」(成城学園初等学校研究集録『人間と教育』第11号 同年十二月)の一節を読んでみたい。この資料についての書誌情報が不足していたので、さきほど前回のブログに補足しておきました。実はこの論文の題名は、本書(『コトワザの論理と認識理論』一九七〇)に収録される際に改題されたものです。原題は「一年生の理科コトバをめぐって」です。この文章を一読したところ、一年生の理科コトバの分類整理から得られる印象がくっきりした、また論理的に明快な論文だと思いました。では、このなかの一節「言語教育と理科教育<低学年理科>」を読んでみます。前回紹介した庄司の引用では肝腎の説明が抜けていたからです。

 まず庄司は言語教育と理科教育との関係について自分の結論を先に提示していきます。それは、≪1年生の理科教育は言語教育の一環として位置せしめていった方が子どもの成長にとってプラスになるばかりではなく、教師側からいっても育てやすくなるであろうと考えたのである。≫と述べた上で、その理由を述べていく展開になっています。しかし長文なので、前段の話の筋を箇条書きにし、急所となる説明箇所だけを引用します。


 一年生の理科教育の目指すところは、自然との直接経験(交渉)を豊かにしてやることである。しかし直接経験だけではだめだと考える。

直接経験を主流にしつつも、間接経験も必要なのだ。

二つの経験には長所と短所があるが、両者の短所を考慮にいれて、それぞれの長所を尊重していくべきである。

このように考えるのはなぜか。それは一年生の自然経験を豊富にしていきたいからである。では「経験を豊富にする」ということはどういうことだろうか。

それを「語彙を豊富にすること」だと考えたい。なぜ、そういえるのか。

 1年生の子どもの豊富な経験がいくら積まれてもコトバによって定着されないと意味ある知識にはなるまいと思うのだ。意味のある知識というのは社会化された知識ということである、社会化された知識というのは客観化されて誰にでも通じうるということである。/コトバによって定着されない経験というのはばくぜんとしている。ばくぜんとしたものはほんとうの力となりにくい。自分一個のことなら困らないかも知れない、しかし、それさえもその個人にとっては不幸である、と私は考えたい。/なぜならモノを認識していく初歩の段階は他からモノを区別するといういとなみを通じてなされるものであり、それがコトバによって明らかになっていくすじあいのものだからである。/ススキのそばを幾度となく通り、ススキにふれ、ススキの葉をちぎり、指から血を流し、ロケット遊びをする。それをいくらやって楽しんでも、それが「ススキ」というコトバによって結び付けられないと「あれ、あれね、あのながいはっぱでやったでしょう、おもしろかったな、しゅーんととんでいくんだもんな、のぶちゃんなんかさ、ゆびをきってさ、ちがどんどんでてさ、ないてんの」「あああれか、あれなんだっけな・・・あれ、またやりたいな」といったぐあいの会話になってくる例もある。第三者からみると、何がおもしろかったのか、何がとんでいったのか、何をやりたいのか、さっぱりわからない、当人同志ははそれでも同一線上に立ってしゃべっていることだけは分る。それとて、実に不経済な対話である。(中略)それだからといっても何でもかでもコトバでおさえてしまう、子どもがそのモノについてさまざまな正体づかみの発言をしないうちにこちらが先にたっておしえてしまうのは避けなければならない。先に立ち過ぎると、子どもの問題になってくれないからである。ただし、そのあとに、若しくは子どもの問いに応じてコトバでもってしっかりと結びつける努力だけはしてあげなければならない。≫(本書 三四九頁)

 

 一年生の自然交渉にコトバを介在させていく意義を、コトバの基本的働きである「分節化」を主軸にした明快な回答だというべきです。すなわち一年生の自然交渉(経験)はコトバによって、それを増やしてゆくことによって豊かになる、これが庄司の言う理由です。ところで、ススキの事例はちょっと忘れがたい。これは高齢化しつつある我が家の会話によく似ています。物忘れとコトバを知らないことの間には共通性があるようです。・・・それから引用末の親や教師の対応は現在でも通じる普遍的な態度ということができましょう。一年生の理科教育を言語教育の一環としてやりたいという庄司の立場は、その是非はともかく、どのような前提に立っているか。すこし書いておきたい。それはコトバとそれ以前を区別すること、言い換えるとコトバにはいろいろあるが、人間が世界を認識するときのもっとも高次元の手段だとすれば、これを意識するとき、コトバ以前が無理なく視野に入ってきます。庄司は「言語教育と理科教育<低学年理科>」を取り上げることで、「コトバとそれ以前」という関係に心づいたのではないでしょうか。これが第Ⅰ節「言語教育を意識する」の通奏低音として流れ始めたと考えると、次節の「児童言語への着目」もそのように読み取ることができます。

ここでは自分の「小学生のおしゃべりコトバ」の採集方法が、研究初期においてはもっとも原始的な方法、つまりエピソード的な拾いあげから出発したことが記されています。しかし、J.ピアジェの児童心理学に対する対抗すべく、かの先生が「イキモノ」そのものにタッチした面が手弱いように思えたこと、さらに子供の生活主体ともいうべき「遊び」のなかで生産してゆく特有なコトバにも手をつけていないようにも思えたということ、これら二点から、庄司は自分のおしゃべりコトバの採集が、「理科コトバ」と「遊びコトバ」という二分野の特化した研究方向をとらせたことなどを綴っています。この間には職場の先輩から子供の世界そのものを知ることの大切さを助言され、二種類のコトバを握りとれば、「子ども心の世界」がハッキリ見えてくるだろうことを確信していったのでした。これも初期の我が採集法の見直しを試みたことを意味しており、「理科コトバとそれ以前」、「遊びコトバとそれ以前」という関係に心づいたのではないかと思えます。残りの二節にも、この通奏低音が流れているのかどうか、次回に確かめてみます。