尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

家再興なった八右衛門一家の暮らし

2017-03-23 13:46:06 | 

 前回(3/16)は、天明三年(一七八三)に浅間山大噴火のあとで前橋領分に起きた打ちこわしの模様の続きを読みました。打ちこわしが収束を迎え捕縛された者の中に、番屋に騒ぎを鎮めてみせると請け合った龍門村の中村勇右衛門という人物の登場、打ちこわしには多様な職業の者が集まっていたこと、また所払いに処せられた村人が家を処分してのち相変らず東善養寺村に住み続けたことから、幕藩制の構造的動揺がもたらす「刑罰の不徹底」を知ったことなど、全体に一八世紀末頃からの時代の変化を想像してみました。今回は、天明四年(一七八四)に一八歳のときに嫁をもらった八右衛門が、その後二十五歳のとき伊勢参宮に出かけるまでのおよそ七年間の経験を読んでみます。

 

≪八右衛門が、寄食している本家の娘の菊と夫婦になったのは翌天明四年(一七八四)である。だが、八右衛門は本家の跡取りにはならなかった。菊は富田村の親戚から入籍した養女であったし、すでにその前の年に、伊勢崎に近い連取村から音八という者を名跡(みょうせき:跡目)として迎えいれていたからである。

 天明四年は前年の噴火や冷害の影響がいっそう深刻にあらわれた年で、一八歳の八右衛門は、夫婦暮しとともに未曾有の大飢饉と物価騰貴を経験することになった。飢饉は、その年だけでなく、種籾(タネモミ)欠乏のために翌年の暮しにいっそう強い影響をおよぼすのである。米は一両でようやく二斗六升、大麦さえ一両で三斗六升しか買えなくなった。麦花一升一一二文、煙草は一分で二五〇目掛(ガケ)四把(ワ)、すべてがこんなありさまで、逆に銭相場は一両に六貫六〇〇文の安値になった。物価が上がって銭価が下がれば難儀は倍加する。

 こんななかで、林家の名跡をついだ音八は、その前年から、所持する水車で村の郷蔵米(ごうぐらまい:凶年に備えるための穀物)を精白して連取村へおくり、そこで酒造をはじめていた。また、麦を前年には両に三石八斗という相場で桐生に近い大間々(おおまま)町に売り出していた。これは聟入りしたばかりの音八の才覚ではなく、林本家が、「質商売」を足場に「酒造」や麦売買を加えて経営を拡大しようとしたのであろう。ところが大飢饉で米相場が上がり、郷蔵米も村へ返済しなければならなくなった。そのうえ、火事があって出費がかさみ、おまけに飢饉のせいか盗みにねらわれて、ごく短期間のあいだに林家の「身上も没落に及ぶ」(巻之三)という事態になった。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二三頁)

  天明四年は前年の噴火や冷害の影響がいっそう深刻になった年だったと書いてあります。前年の打ちこわしから免れても、「質商売」から事業を拡大しようとした林本家にも身上「没落に及ぶ」事態が襲います。近世における民衆の貧窮への感じ方は、ひどい飢饉が何度もあって馴れていたこと、また同じ境遇の人間が多かったせいで、今日の感覚で我々が感じる苦しみとは異なり、何とか耐えたのかもしれないなどとも考えます。しかし「貧苦が本式に忍びがたくなったのは、零落ということから始まっている」と書いたのは柳田國男(『明治大正史世相篇』)でした。まわりがひどい貧苦をなんとも思わないような中では、自分の身上だけの没落は堪え難いことだったにちがいありません。そんな零落を敏感に予感したのか、そうなる前に林本家の叔父・七右衛門は八右衛門夫婦に家屋敷を与え、林分家を再興させます。この事実から、父が死に家が零落したために母と姉と引き離され、六歳のときに寺に預けられた八右衛門が、その後どのような気持ちで生きてきたのか、が伝わってくるエピソードです。おそらく家再興の願いを生きてきたはずです。

≪経営の失敗ということとなんらかの関係があるのか、あくる天明五年に、七右衛門は、二年まえの打ちこわしで所払い刑をうけた藤吉の親吉右衛門から買いとってあった家屋敷を、八右衛門夫婦に与えて分家させた。八右衛門は父庄七の位牌をひきとった。八右衛門の分家独立は明和九年(一七七二)に絶えた林分家を一五年目に復興させたことにもなる。

 妻の菊は八右衛門と同年であった。菊は、そのころ流行した眼病を煩ったが、それが意外な大病になり、片方の眼が見えなくなった。天明六年に長女順、その二年後に長男要蔵、寛政六年(一七九四)に次男徳二郎が生まれた。順も母と同じ眼病に苦しみ、この頃の八右衛門は家族の眼の治療費に大金を工面しなければならなかった。治療のためには力を尽くしており、妻と娘を、藤岡や居村から四里ほども隔たった多湖郡長岡村の目医師のところへ、百日ずつ滞在させたり、赤木山麓に住む法真流梅本玄寿という医師に治療をたのんだりしている。娘の眼はやがて平癒したが、妻の眼はついになおらなかった。八右衛門自身も、「十九歳より廿五歳迄甚だ病身」(巻之三)であり、このころの八右衛門家のもっとも大きな出費は治療費であった、のちに、長男の要蔵を病死させている。≫(前掲書 二四頁)

 

 八右衛門にとって分家は、家の再興であり主人となった自分が新しい家を豊かにしていくスタートラインであったはずです。ところが妻の菊と長女順の眼病の治療に八右衛門は奔走することになります。再興なったばかりの家に治療に要した大金の蓄えがあったとも思えません。どう工面したのでしょうか。林本家には頼れないはずです。しかし、私にはこう思えます。幼い頃から零落による貧苦を堪えてきた者にとって、他人の袖は頼りにしなかったのではないでしょうか。もともと家は一度失っています。しかし今回は家屋敷もあれば耕す田畑もあったはずで、ゼロからの出発とはいえません。若い力もあって眼病で苦しむ妻とともに必死で働いて治療費を得たのではないでしょうか。もう一つ考えられるのは、東善養寺村には、各自の貧窮が孤立におちいるのを防ぐ相互扶助の仕組みがあったのではないかということです。「所払い」刑を居村で生きた藤吉の一件がそう感じさせます。ここを調べることができれば面白いのですが。