尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

いたってシンプルな古い敬語の使いよう

2017-03-15 10:21:17 | 

 前回(3/8)は、論文「敬語と児童」が書かれた昭和十三年をふり返り、柳田の論文執筆意図を考えました。それは日中戦争が勃発して戦争継続のための国家総動員体制が敷かれてゆく時代でした。人と人との関係は広がりかつ複雑になることで、様々な人々との出会いや対話の場面が増えてきます。そうなると相手や話題になる第三者の地位を考えた物言いが必要になってきます。使うべきだとされる場面で、子供が敬語を使えないというのでは先生たちも困るはずです。敬語の使い方をどう教えればいいか、が現場の緊急課題になっていったものと考えられます。

 そのためにはまず過去を知らなければなりません。ここに柳田の民俗学的方法が適用されていきます。まず土地ごとの敬語の使われ方を一瞥するだけで、全国は決して一様ではないことを大づかみでも確認にしておかなければなりません。全国一律の使われ方だったら、そこから敬語の歴史をひもとくことはできません。次の段階では、土地ごとに異なる敬語の使い方を比較します。ここで日本列島の東北部と南西部、言い換えれば列島の両端をとりあげるのです。この両端の使われ方は似ていることが多く、ともに伝搬によって古い形が残存していることを意味しています。だから、古い形を探すなら列島の南北を比較してみればいいのです。(読みやすさを考慮して段落をこちらで切ってあります)

 

≪敬語が煩瑣(ハンサ)になって行くことを、発達と名づけてよいかどうかにはまだ疑問があるが、ここではその点に触れることを見合せる。とにかくその意味における敬語の発達は、土地によって著しい遅速があった。全国は決して一様ではなかったことは、大づかみにもこれを認めている人が多いであろう。事実をもって証明することもさまでの難事ではない。今までの方言調査はいっこうに無目的であったが、たとえば敬語量の多少、単語ないしは句法の種類の数と使用度、またはこれに携わる人の数などが、甲乙二地の間にどれだけの差等を示すかということは、かなり精密に調べ得るのみでなく、著しい例だけならば今でも判っている。私が知っている範囲でも、「ます」「ござります」以前と名づくべき土地が飛び飛びに多い。沖縄の群島は明らかにその一つだが、(中略)個々の島々においてはもう一つ古い形が、現実にまだ行なわれているのである。

たとえば奄美大島では「ある」「あらぬ」が対等の言葉または仲間の言葉で、目上に向ってはアリオウル・アリオウラヌが敬語になる。「オウル」は多分「居(オ)る」を強めた音であろうが、これがいっさいをまかなっているのである。八重山の諸島などは今一段と簡単である。ここには若干の敬用名詞・代名詞はあるが、敬意を表すべき動詞とてはなく、あるをアルユウ、ないをアラヌユウといえば、もうそれで十分に相手を尊み視る感情は伝わるので、今日我々がぜひとも面倒に言わなければ、敬ったことにならぬと思うのは習慣である。八重山の句尾(クビ)のユウは、我々の「よ」と同系の語と思うが確かではない。とにかく発音の形をきめ用途を制限すれば、これだけでも立派に一役を勤めてくれるのである。

東北六県の広い区域にわたって、一句の終りに附けるスまたはネスという語が、これと同じ役目を持って、現在もかなりよく活躍している。あるいは土地によってはシまたはネシとも聴えるが、いずれにしても起りは「申す」であったらしいことは、時あってムシともンスともいい、また時としてマスとさえいう者があるのからも推測せられる。このマスは標準語のありますなどのマスと、形は似ているがまったく別のもので、たとえば、

おれ行くとこァどこだべマス=私の行く所はどこでしょうか(岩手県中部)

のように、普通対等の文句にそれだけを添加することはネス・スと同じく、また八重山のアラヌユウなどのユウもよく似ている。ンスを添加する例は『秋田方言』の中に多く見られる。

      えッたんす=行きました(平鹿)

やめてもえやんす=やめてもようございます(鹿角)

 この後の例では、旧江戸語の「行きやんす」などが連想せられるが、東北の方のはまったくンスと繋(つな)ぐための音便であって、ヤンスという助動詞はないのである。≫(ちくま文庫版『柳田國男全集22』 一三一~三頁)

 

 たしかに敬語とは面倒なものだという意識がどこかにありました。しかし敬語の古いかたちは以外にシンプルなものであることが分かりました。日本列島の東北と南西を比べてみますと、句尾につける短い言葉はそれぞれ異なっていますが、普段の物言いに付け加えるだけで敬意を表すことができるという点では共通しています。このようなシンプルな敬語の作り方が、まず古い形だったといってよいのでしょう。では、なぜ敬語は複雑化するのでしょうか。次回は柳田の研究の展開に密着したい。