尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

細見部隊長の全国ラジオ放送原稿(下)

2017-03-24 07:04:33 | 

 今回は、旧部隊長・細見惟雄大佐による、一九三八年十二月二十六日に全国ラジオ放送された原稿「軍神西住大尉」の後半(引用のみ)です。

 

自若従容(じじゃくしょうよう)たる最期

 次に大尉戦死の情況に就いて申述べます。

 本年五月十七日、大尉の属する高橋隊は徐州戦宿縣付近に於て敵を攻撃しましたが、敵前突然クリークにぶつかりました。大尉は勇敢にも単身戦車から飛び出して偵察し、通過地点を発見しましたので、戦闘中の隊長戦車に向って走って行きました。この時です、敵の狙撃を受け、敵弾は右内股に命中し、衣嚢(イノウ:ポケット)に入れてありました時計(今私がここに、このマイクの前に持って着て居ります時計、西住の血が尚残っています)を裏から表に貫いて、動脈を破りました。大尉は遂に畑中にどっと倒れました。しかし気丈な大尉は、近付く隊長に「負傷は軟部のようですから大丈夫です。部隊は左の方から敵を攻撃して下さい」と意見を述べ、戦車の中に搬(はこ)び込まれましたが、出血甚だしく乗務員必死の手当も及ばずだんだん力が抜けて、再び立つ能わざるを自覚したのでありましょう、自分を介抱中の高松上等兵に(これは西住の教育した初年兵です)「御前達と僅か一年で別れるとは思わなかった。自分が居なくなっても、平素自分が言うていた軍人の魂、軍人精神を基として中隊長殿初め各幹部方の教えに従い立派な軍人にならなくてはならん」と諭して居ります。愈々(イヨイヨ)命の目睫(モクショウ)の間(カン)に逼(セマ)りまするや、自若として少しも取り乱すことなく、次の最後の言葉を遺(のこ)しました。当時戦車は轟々と真っ暗な畑中を一意本部の位置に走って居ります。其の中で「部隊長殿、隊長殿、西住は御先に満足して往きます、しっかりやってください。御母様、小次郎は御先に往きます。自分は満足して居りますが、御母様は御一人で淋しい事と思います。可愛がって頂きました姉さん、色々お世話になりました。弟──立派に・・・」尚言葉が若干ありますが既に力なく、また戦車の音で聞き取ることが出来ません。

 天皇陛下万歳を三唱し奉り、後は一語なく、遂に常に生死を共にしたる其の戦車の中で、真に従容(しょうよう)として名誉の終焉(しゅうえん)を遂げたのであります。

 こうして部隊の至宝西住は壮烈なる戦死を遂げたのであります。年僅かに二十有五。噫!

 こで一寸申します。これより先私は主力の戦闘を終えて夜九時頃帰って来ました。その時朝から高橋隊に連絡に出して居りました品川大尉が大急ぎで帰って来ました。人を払って特に小さい声で、西住重傷、ここに来るまで危いらしいと云うことを告げます。部隊としては重大な事であります。

 戦車は尚も大尉の遺骸を乗せたまま真っ暗な畑中を驀進に驀進(ばくしん)を続け、落命後三四十分にして本部位置に到着致しました。然しすでに親愛敬慕する吾が西住中尉は去って呼べど答えずでありました。戦車から静かに外に出されて眠る西住の遺骸の周囲には、忽ち隊の将兵が集まりましたが、あらゆる感情を押えて、唯々(タダタダ)黙して見守る許りでありました。敵襲、敵襲の報告を受けつつ敵弾の下に他の戦死者と共に西住の遺骸を守ったあの周大庄の一夜は、終世忘れることの出来ない思い出であります。

軍人精神の華

 大尉は士官学校入校の時すでに今日あるを覚悟しておりました。ここに昭和八年一月父から小次郎宛の手紙があります。大尉が特に赤線を附しておる所を朗読致します。「進級などを目当にしてはなりません。唯々一途に己れが本文を尽すと云う考えで学究奮励すればいいのです。若し将来戦死でもすれば猶結構です、私は御前さんが閣下になった時以上の満足を得る理(わけ)です。私(ワタクシ)を忘れて奉公の覚悟で奮励されるよう希望します。父より、小次郎」とあります。出征前母堂に今度は生還を期せざるを誓い、陣中左の二首を壁書して愛唱して居ました。

武夫(もののふ)の誉なりけり大君の御盾となりて朽ち果つるとも

親思う心に優る親心今日の音づれ何んと聞くらん

 また平素何時戦死しても差支えないように、身の回りを整頓してありましたことは大尉の近くに起居した兵が感心して居りました。戦死後行李(こうり)を見まするに三十回に余る小隊の部下の功績は詳細に整理してありました。実に立派な覚悟で、従容死に就きたる戦死の情況と思い合せて感誠に深きものがあります。

 大尉は熊本県甲佐の人、故歩兵大尉西住三作氏の二男でありまして、陸軍士官学校第四十六期生であります。人となり温厚真面目、しかも気宇大にして無邪気でよく兵隊と冗談など言うていましたが、軍隊の規律のことや戦闘のことに及べば厳極(ママ)でありましたことは、部下の兵隊が皆申して居りました。また極めて親切で、余後備(ママ)の老兵まではこの若き将校を限りなく敬慕して居りました。責任観念、犠牲的精神の旺盛なることは、すでに申上げました如く、特に謙譲の美徳を有して、大功あって其の功を誇ったことを聞いたものがありません。誠心誠意中隊長を補佐し、常に軍隊は隊長核心主義に徹底せねばならぬと言い、全く言行一致していました。

 然し一度戦に臨むや沈着剛胆、常に必勝を信じて疑わず、勇猛果敢身を殺して喜んで死に就く軍人精神を極度に発揮しました。戦闘回数実に三十四回、負傷すること五度、しかも一回も戦闘を休むことなく、繃帯(ほうたい)のまま又は下駄を穿いて戦闘に従事しました。

 大尉の戦車に残る弾痕は、数え得るもの千余個、正に満身創痍(まんしんそうい)とでも申しましょうか、本年二月南京に於て畏れ多くも、朝香宮殿下当隊を御巡視遊ばされましたる際、この戦車を御覧遊ばされまして、「この戦車は尚使えるか」との御言葉を賜りました。大尉は当時兵と同様戦車乗務員の位置に直立して御言葉を拝し感激したのであります。

大尉母堂の手紙

 実に西住大尉の如きは忠孝両全の道を踏み、智にして仁、而して勇、啻(タダ)に皇軍将兵の亀鑑(きかん)たるのみならず、昭和聖代に生を享(ウ)くる吾々国民の誇として、此の人ありしことを後世永く伝えたく思うのであります。ここに親愛景仰(しんあいけいぎょう)する西住大尉の英霊に対し対し謹みて誠を捧げて終りまするが、最後に大尉戦死後母堂から私宛に参りました手紙を申し添えて置きます。

天皇陛下のため皇国日本のため死んでくれた小次郎よ、よく死んでくれた。これが老いし母の心から小次郎の霊に対する慈愛の最後の言葉で御座います。

然し小次郎は何(ド)んな死に方をしたであろうか、最後まで潔(いさぎ)よく働いて死んでくれたであろうか、詳報のくるまでは心配でたまりません。母は決して泣きはしません、泣けば名誉な貴君(あなた)の魂に対してつまらぬ母であります。

小次郎の霊よ、貴君(あなた)の戦車隊を護りつつ、あくまで戦って下さい。これが七世までの御奉公です。

と、此の母にして此の子あり、此の子にして此の母を持つを深く感ずる次第であります。

 天地正大の気溢れて、神州に鐘(あつま)る。秀ては富士の峰となり、流れては大海の水となる。銃前に西住大尉の忠烈に輝き、銃後に其の母の赤誠(せきせい)に之れを見るのであります。

 御稜威(みいつ)八紘を被い下忠誠を致す、悠々三千年、国史の精華今復(いままた)光を発したのであります。≫(『戦ふ戦車』朝日新聞社 一九三九 八六~九二頁)