尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

柳田國男「敬語と児童」(一九三八)

2017-03-01 13:36:32 | 

 前回は、「昔の国語教育」の最終章「後記」における敬語論を読みました。しかし紙幅の関係で省略された(と思われる)部分が多く、柳田が敬語教育をどう考えていたのか、十分に掴めませんでした。そこで今回は「昔の国語教育」の翌年に発表された「敬語と児童」(『国語・国文』昭和十八年10月 )を読んでみようと思います。

≪少年の頃に、播州 中部の生まれ在所から、突如として下総利根川ベリの農村へ連れて来られた自分は、今考えるとかなりかわった言語経験をしている。現在はすでに目立たなくなったであろうが、二地の物言いには誰でも驚くような相異が、幾つでもあの当時にはあったのである。その中で二つだけ、ここに関係のあることを挙げてみると、第一には子供の仲間に、サンとかチャンとかいう敬称が非常に少ない。他所(よそ)から新たに来て加入した者、または言葉に気をつける商家などの児だけは別になるが、村にともどもに育った者は、お互いが皆いわゆる呼び棄てで、最初は親類ででもあるのかと思うようであった。これに伴う名詞や動詞に、相手を見ての言いかえのないことはもちろんである。成年の男女が児童に対する場合も同様で、ことに奉公人などの、主人には言葉を改める者までが、主家の子たちへは皆「来い」「行け」で、「おいで」ともいわぬのが著しく奇怪に感じられた。

第二には間接敬語(比較敬語:引用者)、すなわちそこにおり合さぬ第三者の話をする時に、少しもその人の地位を考えて叙説法をかえないので、しばしば誰のことを言っているのかを知りがたく、まごつく場合があったことを覚えている。「これを先生にやりたい」「旦那が帰ったら見せて下さい」などと言われると、上方ではあああれだなと心づくがあったくらいであるが、少なくともこの時代の関東の田舎では、これが通例であって何人(なんぴと)も怪しまず、むしろ相手によって言い方を変えようとすれば、特別の努力と心構えを必要とし、従って空々しくもまた耳立って聞えるのであった。この心持は、しばらくその空気の中にいればすぐに馴れて来る。そうして自分もまた同じ言葉を使わずにはいられなかったとみえて、私たち兄弟の物言いにも、大分この下総かぶれが認められるようになっているのである。≫(ちくま文庫版『柳田國男全集22』 一二九〜三〇頁)

 

 やはり省略されていない文章は冒頭から違います。自らの少年時代の体験を記述することからです。それは故郷 の兵庫県辻川を離れ、異郷茨木県布川に移動した頃の、二つの土地の物言いの比較体験です。十三歳頃のことでみずみずしい印象が記されています。まず二つの体験を押さえておきましょう。一つは、関西にあった子供同士にもあった丁寧な物言いが、関東には無かったことです。
 二つは、いわゆる「比較敬語」が関西にはあったけれども関東には見られなかったことです。どうも敬語の発達に関しては、西高東低だったようです。これで、我が亭主を呼び棄てにするのが関東で、 関西ではそれが良い趣味だとは考えなくなっていたという前回(「昔の国語教育」後記の敬語論)の記述の意味がわかります。また、「」が話題になったとき、関西では口の聞き方に変化が見られることが述べられています。やはり彼らに対しては差別して敬語が使われることはなかったです。

 比較敬語では幼児を除いて身内に属する第三者には敬語を使わず、その他の第三者に対する敬語はケースバイケースで対処していかなくてはならないというのがこれまで学んだことでした。では、柳田は論文「敬語と児童」をどう展開していくつもりなのでしょうか。