尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「目糞鼻糞を笑う」に心付かせる方法

2017-07-31 11:48:36 | 

 前回(/24)は、平賀源内の小説『風流志道軒伝』(一七六三)における彼の「知識人としての海外認識」を、日野龍夫「近世文学に現われた異国像」より紹介しました。それは、「新奇な文物の背後には日本と異なった文化が存在するということをおのずから源内に悟らせ、その地平から照射することによって、自分の住む近世中期の日本の文化を相対化することを可能にさせた」と説かれる認識のことです。具体的にこの小説では、主人公が遍歴する「海外の架空の国々は、そのお伽話の非現実性が日本の現実を相対化するという役割を、作者源内から与えられている」と日野論文では説かれています。

 しかし何故そういえるのか。まだその理由も根拠も示されてはいません。説明はこれからなのです。源内はこの小説で、『和漢三才図会』や『増補華夷通商考』でお馴染みの国々を登場させていますが、なぜその非現実性(新奇なもの)が現実の日本を相対化することができると言えるのか。日野論文ではどのように説明されているのか、今回はここを読み取っていきます。

 そこでまず民衆は新奇なもの・非現実性にどう対処すると考えられるか、この問題を考えます。おそらくそれらは自分たちの住む世界とは全く異なる世界のこと、お伽話のような世界の出来事と感じるのではないでしょうか。この想像は、当時の海外通である蘭学者が知り得た異国をどう語っているかを調べることである程度浮き彫りにできるはずです。日野氏は三つの事例を挙げ、彼らが異国をどう相対化しているかについてコメントを付していますが、ここでは自分で考えるために、省略し私のコメントに換えます。


①《華人(中国人)は和蘭国、また紅毛国という。日本にて阿蘭陀国という。‥‥此の国、唐土・日本のたてばと違い、商人を第一の位に置き、士をもっとも下とす。其の訳は、武士は殺伐を司るゆえとぞ。此の国の万民、殺生をはなはだ忌めり。これも天竺仏国に隣るゆえならんか。》(後藤梨春『紅毛談』明和二年一七六五刊)

 「たてば」とはどんな意味か不明ですが、「制度」と受け止めておきます。このオランダにおいては商人が一番偉いとされるという新奇な情報を聞いた日本人はびっくりすることでしょう。ここから即座に、日本の士農工商という身分制度は絶対的なものではないと受け止めることは、民衆には困難であったろうと思われます。商人は歓喜し、サムライならば刀ぐらいは抜くかも知れません。

②《紅毛人、万国の風土を記したる書に、支那の文字を笑て曰く、「唐山(中国)にては、物に附け事に依って字を製す。一字一義のものもあり、或は一字を十言二十言にも用ゆる物あり。その数、万を以て数うべし。故に国人、夜を以て日に継ぎ、寝食を忘れて勤学すれども、生涯己が国字を覚え尽くし、その義を通暁すること能わず。さるによりて、己が国にて記したる書籍を容易に読み得る者少なし。笑うべきの甚だしきなり。欧羅巴(ヨーロッパ)洲は二十五文字を以て少なからずとす」と記したりとなん(彼の邦の国字をアベセという。吾が邦のいろはの如し。父字二十字に母字五字綴りて、よろづの音を記す)。中良〔著者本人のこと〕按ずるに、皇朝の古(いにし)えは簡易にして文字さえ用いず。夫(それ)より世降りて、五十言の目標に唐土の字を仮り用ゆる事となり(漢字を略して仮名を作ったことをいう)、いよいよ末の世に至りては、唐土の字音字義を用ゆることとなりてより(日本語の表記に漢字を用いるのが普通になったことをいう)、事少なく安らけき我が国風を捨て、事多く煩わしき唐土風を用ゆるは何事ぞや。紅夷といやしむる蛮夷すら、心有る者はむべなわぬ(肯定しない)唐山の字学なれ。》(森島中良「唐土の文字」/『紅毛雑話』天明七年一七八七 所収)

 この蘭学者は、西洋の表音文字ならば、二十五文字で済む所を、表意文字の漢字では意味の多様性を一つひとつ文字化していくために、覚えていく困難さを抱えることになったという紅毛人の漢字・支那批判に同調したいようです。さらに仮名ならともかく、漢字混じりの文章を用いる日本語に対して皇朝の昔と比べても「事少なく安らけき国風」を失うものだという批判的なまなざしを見てとることができます。すなわち蘭学を媒介に漢字批判をしたい意図が見えます。このような相対化が民衆に通じるとは思えません。ただ、たった二十五文字で全て書けるような国があると知ったとしても、民衆は本気にはしなかったでしょう。バカにして笑ったかもしれません。

③《問うていわく、和蘭人は天質跟(かかと)なしといい、あるいは眼目も畜類のごとしといい、或は彼の人長大なりという。実に然るや。答えていはく、此の妄説何によりて起これるや。彼の人の眼中、此の方の人とは頗(すこぶ)る異なる故、畜類のごとしといやしめたるや。大洲を異にする故か、欧羅巴地方の人は、我が亜細亜(アジア)の人とは色様やや異なるところあり。しかれども具有するものに何の変わりもなく、用を成す所にもまた少しのたがう処なし。‥‥同じ造化の所為なれども、国土方域によりて少しのかわりはあるべき事にこそ。また跟(かかと)は一身の基立する所、跟(かかと)無うして何を以て起行すべきや。論にも及ばぬ事なり。》(大槻玄沢「跟(かかと)なし」/『蘭説弁惑』天明八年一七八八成立 所収)

紅毛人には跟(かかと)ないなどという妄説を信じてしまうのは何故か。相手を自分と同じ人間だと思うことができないからだ。こう言いたいにだと思われます。しかし、このような考え方は当時の民衆には難しかったのです。いや現代においてさえ自分の見方考え方を自覚するのは容易いことではありません。源内は『風流志道軒伝』を執筆する上で蘭学者のような語りかけは無理なことを十分に知っていたと思えます。どうすれば妄説に同調してしまうような見方に心付かせることができるか。日野氏は、「源内は民衆のそうした視点を揶揄するために、西洋の国々をわざと蒙昧な誤解に包まれた形で提出した」と書いています。なるほど。もう少し敷衍(ふえん)してみましょう。

 この問題は例えば「目糞(が)鼻糞を笑う」ということわざに通じるところがあります。目糞くんが鼻糞くんを「お前きたねーな」と笑うけれども、笑った目糞くんも実は「きたない」。しかし目糞くんはここに気づいていない。こういう人間らしい現象を揶揄する言い伝えです。このコトワザの揶揄に気づくのは、鼻糞くんを笑う目糞くんが、そういう自分の置かれた位置を観察的に眺めることができるかどうかに掛かっています。それを可能にするには、笑われる鼻糞くんから見える目糞くんのきたなさを指摘してもらうのが手取り早い。このコトワザが優れているのは聴く者にすぐに「お前もきたないよ」という見方を喚起する言葉(二つの糞)が使われている点です。要するに目糞と鼻糞のやり取りをぜーんぶ読者に追体験させることです。源内が、あえて蘭学者風の議論を採用せず、「西洋の国々をわざと蒙昧な誤解につつまれた形」で取り上げたのは、このようなモチーフがあったからだと考えます。


戦勝気分のなか英語は国策として論じられ否定する者はいなかった

2017-07-30 13:45:03 | 

 昨日の土曜ブログは時間が取れなかったので、本日書いてみます。前回(7/22)は、昭和十七年一月発行の雑誌『Current of World』の特集「大東亜戦争と英語の将来(1)」に寄せられた意見を見る中で、心付いた点を綴ってみました。寄せられた意見のすべてが、英語や英語教育の問題を世界の中の日本あるいは国家社会の問題として論じていました。雑誌の要求がそのようなものであったから、当たり前といえば当たり前です。しかしこの事実によって、英語や英語教育の問題を「わたし」のことばの問題として考える視点を得ることができました。ここで「わたし」というのは、英語であろうと日本語であろうと国や民族を前提にしたものではなく、それらを超えた「個人」のことばを意味しています。さて、今回は先の雑誌の特集に寄せられた意見の残りを見ていきます。


高柳賢三(たかやなぎ けんぞう、英米法学者、一八八七〜一九六七);ご質問の点については次のように考えます。
(一)東亜共栄圏の建設的発展と共に圏内の各地域において、英語に代って日本〔語〕が第一外国語となるでしょう。只しかし過渡期においては、我国とそれら各地域の有識者との政治的、経済的、文化的接触の面が拡大すると共に、従来それら各地における第一外国語であった英語の実用性が増大するでしょう。
(二)従来我国における英語教育の普及の最も重大な要因の一つが英米の世界政治的優位であったことは、これを率直に承認しなければならないと思います。そして英語教育の内容、方面なども、この事実と無関係ではなかったと思います。そこで大東亜戦争の結果として、(1)枢軸側の軍事的攻撃のため米英両国ともに政治的に崩壊する場合、(2)米英両国(又はその一つ)が政治的には存続し、只欧大陸における独伊の優位を承認し、東亜において東亜共栄圏を承認する場合、即ち世界がいくつかの政治的・経済的圏に分立する場合、(3)米英の現状維持政策ないし、その世界制覇の企図が成功する場合と三つが仮設せられうると思います。この三つの仮設中(1)と(3)の可能性よりも(2)の可能性が濃厚なように思われます。尤もそのいずれの場合たるとを問わず、英語を母国語としている相当多くの文化人との交渉がなくならぬかぎり、英語そのものの多大の有用性は失われないでしょう。また敵性的事物は全部これを排除するという素樸感情的な政策が支配的とならぬ限り、英語教育の必要性が否定されることはないでしょう。只世界政治的発展の推移と共に、例えば、高等英語教育において、従来の英文学重点主義から政治、法制、経済重点主義へ推移するような英語教育の内容的変化、又従来の読書重点主義の消極的受動的方面よりも英作文、会話等より積極的・能動的な方面の重要性がより多く高調されるといったような方法的変化を齎(もたら)されることはあるでしょう。それらは結局新世界政治情勢下における広くかつ深い意味での我国の需要━物心両面 ━によって決定されるものと思います。
》(川澄哲夫編『英語教育論争史』大修館書店 一九七八 五六九〜七〇頁)

 英法学者高柳健三の意見もまた、これまで同様英語を敵性語として排斥するような意見と比べますと、冷静な意見だと受けとめることができますが、上の戦局の三つの予想を読むと、やはりこの時期の世の中の「戦勝気分」とまさか「負ける」とは書けなかった世相の圧迫感の中で(2)の予想が支持されていることに心づきます。昭和十七年一月発行のこの雑誌にさえ、米国太平洋艦隊への真珠湾攻撃及び英国東洋艦隊へのマレー沖海戦での勝利が報ぜられていますので、国民の戦勝気分はこの時期隅々まで行き渡っていたと考えることができます。

美濃部達吉(みのべ たつきち、法学者 貴族院議員、一八七三〜一九四八);英語学研究の必要は我が邦人に取り将来益々増加することあるも減ずることなかるべきことは申すまでも無之と存じ候。これ以上申上ぐべき別段の意見も無之、折角の御来示ながら不悪〔あしからず〕御了承可下候。かしこ》(前掲書 五七〇頁)

 天皇機関説問題で軍部の糾弾を浴びた美濃部達吉の意見は高柳賢三の議論と比べると大変短い。時代の「戦勝気分」に背を向けていたのかもしれません。

亀井貫一郎(かめい かんいちろう、衆議院議員 社会大衆党、一八九二〜一九八七);一、英米と戦争するの故に英語は勉強に一層力を入れるべきものである。平和回復の暁も英語領域に於ての我民族の活動は彌々必要となる。
二、次に語学智識を従来の語学として考えることの外に、言語学と云うか人類の、否、各民族の、意思心理の表現方法としての、即ち民族学的心理学的歴史的な科学として迄深める必要は根本的にして且つ不可欠の要請である。この点は従来の傾向を反省せねばならない。最早通弁はいらないと仮定しても、英国人にも科学として英語を講義し得る日本人が多いことは絶対に必要である。
》(同上)

 引用の亀井貫一郎の意見には、時代の「戦勝気分」のようなものが見られるでしょうか。彼は
単なる語学としての英語研究以外に、「民族学的心理学的歴史的な科学」としての英語研究を考えていたことが注目されますが、「最早通弁はいらない」と仮定していますので、やはり当時の「戦勝気分」に乗っていたことは明らかです。

大島 豊(おおしま ゆたか、編集者、一八九一〜?);元来、他国の国語を日本国内で勉強するには、主として書物を通してのみ学ばなくてはならぬので、毎日コツコツ忠実に書物にカヂリ付くより方法はない。従って他の学問のように試験に際して、一夜づけで間に合わせの勉強をするということは全く不可能だ。そこで私はいつでも学生たちに向って、語学の勉強は意志力を強くするために、良いことだから、なんでも他国の国語をマスタアするよう努力せよ、と言っている。然るに英語は今日までのところ世界語であり、私は世界を三度に亙って一周旅行したが、英語だけでも知っていれば、旅行上の不便が何処の国でもまったくないことを経験した。
特に日本では、中等学校で英語の授業時間が今でもかなり多いのだから、切角教わった英語を何も棄てる必要はない。意志の鍛錬の意味から見ても、英語をマスタアすることは良いことだし、また英国がつぶれても、アメリカが敗戦しても、英語は地球上から暫くの間、なくなることは決してないことを知って、英語勉強をつづけてほしく思っている。
》(前掲書 五七〇、五七五頁)
 

英語の学習は「意志力を強くする」ために役に立つなど、大勢がデカイ話ばかりする中で「小さな」問題にこだわっていることに注目しておきたい。また編集者大島豊も当時の戦勝気分に浸っていることは明らかです。
これで、昭和十七年一月発行の雑誌『Current of World』の特集「大東亜戦争と英語の将来(1)」は全部紹介しましたが、まだ意見はあって次号に続きます。ここで抑えておきたいことを綴ると、以上の意見は、❶そのほとんどが時代の「戦勝気分」の中で書かれ、❷「わたし」のことばという観点はなく、英語は世界の中、国家社会にとって位置ばかりが論じられ、❸そのような英語や英語教育を否定する意見は一つもなかったことが分かります。


戦時は離村率が急激に上昇した

2017-07-28 11:13:40 | 

 前回(7/21)は、戦前の離村現象を経済発達という面から眺めるとどういうことが言えるか、という話題でした。そこでは、離村は前代における町の発生と共に始まったことだと位置づけ、中世近世においても活発であったこと、さらに近代に入ってからは都市の膨張につれて工業ばかりでなく商業などその他の産業面における労働力の需要が大きくなり、離村現象は著しいものとなったことが説かれていました。また、離村現象の考え方についても柳田国男の議論を下敷きに、離村を農村の衰微をもたらすものだとばかり考えるのではなく、農村の余剰労働力が都市の繁栄を支え、都市を育てていることに目を向けるべきこと、そして親兄弟を村にとどめおきたいのならば、もっと農村に働く機会を設けなければならないことを説いていました。いずれも、離村現象を感傷の問題ではなく、経済発達の問題として考えるべきだとしています。さて、今回は前回の引用の続きです。『農民児童の心理』の著者は、野尻重雄の名高い研究『農民離村への実証的研究』(一九四二)を引いて、昭和五年の経済恐慌期~昭和十二年十三年の戦時体制期における数字による移動状況を紹介しています。これをみていきます。

 

東京府下霞村では、戸数約九百、人口七千位の村であるが、昭和七年から十一年の間に毎年六四乃至一三二名合計四八二名の者が離村している。この中(ウチ)十五歳乃至二十歳の青少年について言うと、この年齢の十四%の者が一年に離村している事となる(大日本職業指導協会『農村職業指導の基本調査』一九三八)。勿論かかる数字は土地により、また年度によって著しく相違する。野尻重雄氏は昭和五年の経済恐慌期(第一期)と昭和七年乃至十一年頃の準戦時体制期(第二期)、昭和十二年十三年の戦時体制期(第三期)に三分して、移動状況をみている。それによると、東京近接の埼玉県の某村では、第一期一年平均一七名、第二期三六・四名、第三期七四・五名と急激に増加している。東京より少し離れるが移動の多い県である新潟県の某村では、第一期一〇・〇名、第二期二〇・四名、第三期三五・〇名と増している。東北の某村では第一期五・五名、第二期一二・四名、第三期四七・七名となっている。

 故に地方によっても、時期によっても著しく異なり、特に戦時は離村率が急激に上昇しつつあった時代である事を知る。戦時中の事は数字を詳らかにする事は出来ないが、既に農村は余剰の人口は完全になくなっており、昨日までは如何にして農業要員を確保するかが大きな問題となっていた。即ち農業議員同盟の報告によると昭和十二年から十七年までに農村から工場に転出した労働力は六一、九二〇三であったが、この中昭和十四年度がもっとも多く、その後は減少しているとのこと事である。また昭和十四年度労務動員計画では農業従事者は第三位の給源であったのが、昭和十五年に於ては第六位に下っており、昭和十八年度になると、反対に戦時食糧生産の重要性に鑑み、農業労務を確保す可(ベ)きことをうたっている。

 各或る時代は村民達が自ら進んで、他の時代には国家の要請に応じて、大量に村から都市へ移動して来た。この潮流に乗るのが寧(ムシ)ろ自然であって、これに逆らわんとする者が却って時代の反逆者かもしれない。≫(牛島義友『農村児童の心理』巖松堂書店 一九四七 四〇〇〜〇二頁)

 どうも把握しにくいので漢数字を算用数字に換えてみてゆくと、冒頭の東京府下霞村(戸数約900、人口7000)では、昭和7~11年の期間に、毎年64~132人が離村しており、この5年間に合計482名、村の人口比で約7%が離村しています。内訳を知る意味で出されているのでしょうが、第一期の経済恐慌期(昭5)、第二期の準戦時体制期(昭7~11)、第三期の戦時体制期(昭12~13)の順に離村人口をみてゆくと、埼玉県の某村では一年平均17人→36.4人→74.5。新潟県の某村では10.0人→20.4人→35.0。東北の某村では5.5人→12.4人→47.7と、たしかに急増しています。これは日中戦争の泥沼化にともなって召集される男性が急増するばかりでなく、昭和十三(一九三八)年の国家総動員法、翌年の国民徴用令による広汎な国民動員体制の潮流に位置づけることができそうです。このために農村の余剰人口はすっかりなくなり、工場に吸収される農業人口も昭和十四年をピークに、その後減少していきます。昭和十六年十二月の太平洋戦争突入以降、昭和十八年度の「労務動員計画」によれば、これまでとは反対に戦時食糧増産のための農村人口を確保する必要に追込まれていきました。もうすでに離村する者を「反逆者」と呼ぶような時代は終わり、国家的な動員体制つまり強制移動に従わない者を「非国民」と呼ぶような時代になっていったのです。


夜中に真黒な人だかりと鬨(トキ)の声が

2017-07-27 07:25:49 | 

 前回(7/20)までの事実経過を、八右衛門による二度目の「増米勘弁願い」以降に限定して整理してみると、以下のようになります。

・文政四年十月二十九日に、名主・八右衛門による二度目の「勘弁願書」が提出された。

・およそ十一月中旬頃、鎮守の森で善良寺領の村々から惣代として一、二名ずつが出て寄合を行なう。ここで後日、善養寺領七ヵ村の惣代たちによって勧農役所附属の羽鳥幸五郎に「増米御勘弁」を訴えにいくことを決める。

・十一月中旬を過ぎた頃、八右衛門の元へ村の長百姓の与市と伊助の二人がやって来て、「増米勘弁」の訴えと、鎮守の森で開かれた寄合で決まったことに自分たちの村も参加したい旨を訴える。

 そして、十一月二十三日がやってきます。この日から明くる日未明まで八右衛門にとっては長い一日になりました。

 

そうこうするうちに、善養寺領七ヵ村〔文政四年当時、善養寺領が何ヵ村で構成されていたかは不明〕の相談がまとまっていく。東善養寺村のほかに両家村・山王村・矢田村・中内村・西善養寺村・徳丸村の七ヵ村である。横堀村も同意したが、出遅れたので七ヵ村仲間から外れた。

 

七ヵ村から一両人ずつ選ばれた惣代たちの難渋勘弁願いに対する、勧農附属羽鳥幸五郎の返答は、八右衛門とはずいぶんちがっていた。「お前方の言うことはもっともだと思うから、明日御役所へ行って私が御勘弁を御願いしてみよう。しかし、お前がたがその村の極貧の者共には増米(マシマイ)御勘弁をというなら一理もあるが、村々百姓一同に、というのはどうか・・・。私が御役所へ申しでれば、かならず御役人がやってきて吟味が始まるだろう。村々で丈夫な経営に見える百姓は取り調べがあろう。そして御説諭のうえ、結局村々の極貧の者だけが勘弁になり、ほかの百姓は皆御上納のお請けをするというようなことになると、願いでた私が不調べだったということになってしまう。また年貢が上納できそうな百姓は弁明しにくいことになろう。臍(ホゾ:決心、本心)をかためて待たれよ」。取次いでもよいが覚悟はよいかと、ほとんどおどしに近い。この日が十一月二十三日である。

 幸五郎の指摘は一見、百姓たちの痛いところをついているようだが、仔細にみれば空疎な理屈でしかない。村請制度で上納される年貢は、村全体の問題であって一人一人の百姓の問題ではない。村高に対して課される年貢が引き下げられなければならないのである。「極貧の者共」だけで、願い出れば許されるのかといえば、そんなことはない。「極貧の者」も「相応の者」も、村中「一同」として「御勘弁願い」をするという臍を固めなければ、結局「極貧の者」の要求も「相応の者」の要求もとおらないであろう。村名主の訴願が効果ないのであれば、一同でやる以外にないではないか。

 この日のよる、八右衛門のところへ、自村の百姓と同じように、駒形新田から東善養寺村地内へ出作(デサク)している五三人の百姓たちが増米勘弁を訴えに来た。五三人いっしょにである。東善養寺村の百姓の話をきいて、駒形新田の百姓は、「私共も一同に羽鳥へ相歎き可申(モウスベク)」(巻之一)という。

 十一月下旬の上州の夜は寒さがきびしい。その夜、八右衛門は風邪気味であった。駒形新田の百姓が帰って、真夜中近くに寝こんだ八右衛門は、しばらくして来客のためにおこされた。〔力丸村の〕羽鳥幸五郎から来宅を求める使いである。使いの者は、「西善養寺村、矢田村のあたりで大勢の声が聞こえるので、その件についてではないか」と言う。八右衛門の頭には、羽鳥方への百姓惣代の愁訴から真の一揆へ発展することもありうるという懸念はないらしく、それはおかしい、と言いながら家を出た。西善養寺村の前田というところまでくると、道脇に真黒に大勢集まっている人影がみえる、あちらこちらから集まってきている様子である。八右衛門は背後のほうで大勢の鬨の声を聞いた。

 力丸村の幸五郎は八右衛門に、昼間、七ヵ村の惣代として十四、五人の百姓たちがやって来て年貢増米御勘弁を訴えたこと、明日自分が前橋御役所へ願いでてみようと思っていること、など話し、それなのに私の願い出の結果も聞かぬうちにこのような騒動の事態になるのは解せない。察するに私が御役所へ申しでると村々へ御役人がやってきて吟味がはじまる、そうなると、「相応の御百姓」は御勘弁願いの理由が弁明できなくなる、それを心配して急相談で騒ぎたてはじめたのだろう、と解釈する。

幸五郎が百姓の難儀ということを考えの起点においていないことはあきらかだが、極窮の者ではなく年貢負担能力のある「相応の御百姓」が先頭になって騒ぎたてた、という見方は一つの真実をついている。百姓一揆は破綻に直面した「相応の御百姓」がかえって運動のヘゲモニー〔主導権〕を握っておしすすめていくものだ、というように一般化すればである。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 五五~七頁)

 

 以上の事実経過を整理しておきます。

・十一月二十三日、善養寺領七ヵ村の百姓惣代たち十四、五名が、勧農役所附属の羽鳥幸五郎に「増米御勘弁」を訴える。幸五郎は明日前橋陣屋に行って訴えを取次ぐことを約束する。

・同日の夜、八右衛門のところへ、駒形新田から東善養寺村地内へ出作(デサク)している五三人の百姓たちが一緒になって増米勘弁を訴えに来た。

・同日の夜更け、カゼ気味で休んでいた八右衛門の元に力丸村の羽鳥幸五郎から来宅の使いが来る。使いに理由を聞くと、「西善養寺村、矢田村のあたりで大勢の声が聞こえる」一件についてではないかと答えた。八右衛門の頭には、羽鳥方への百姓惣代の愁訴から真の一揆へ発展することもありうるという懸念はないらしく、それはおかしい、と言いながら家を出た。

・同上、途中で、道脇に真黒に大勢集まっている人影が見え、あちこちから集まってきている様子に気づく。また八右衛門は背後のほうで大勢の鬨の声を聞いた。

・十一月二十四日未明まで、羽鳥幸五郎の自宅で八右衛門は幸五郎の話を聞く。──善養寺領七ヵ村の惣代たちが持ってきた「増米御勘弁」の訴えを明日(二十四日)には取次ぐつもりだったのに、この夜中に大勢が集まって気勢をあげているのはなぜか。御役所へ申しでる(取次ぐ)と村々へ御役人がやってきて吟味がはじまる、そうなると、「相応の御百姓」は御勘弁願いの理由が弁明できなくなる、それを心配して急相談で騒ぎたてはじめたのだろう、と解釈する。

 羽鳥幸五郎がどんな立場、どんな肚で語っているかは見えやすいですが、下線部の八右衛門の対応が不可解に思えます。「それは、おかしい」と言ったのは、そんな騒ぎが起きるはずはないという意味だとすれば、著者・深谷氏の書くようにほんとうに「八右衛門の頭には、羽鳥方への百姓惣代の愁訴から真の一揆へ発展することもありうるという懸念は」なかったのでしょうか。「名主」役割についての自覚があった人物にしてはおかしい。


「沈黙のことば」の分類によせて

2017-07-26 15:16:59 | 

 前回(7/19)は、栗原文夫著『文章表現の四つの構造』(右文書院 二〇一七)についての感想の三回目でまだ途中でした。話題は、文章(談話)表現上の「沈黙」ですが、私はこれをゼロ形式のことばと位置づけ、今後の「沈黙」研究の手がかりの一つ(出発点)としたい、と書きましたが、この書物の第十九章「沈黙」からはもう一つ学びたいことがあります。それは「沈黙のことば」の分類についてです。その前に少し前回の補足をしておくと、言語表現としての「沈黙」は、本書において何の脈絡もなく持ち出されたのではありません。ことばを紡ぎだしてゆくことを「顕在」と捉えれば、その背後にいくつかの語られなかった認識が「潜在」します。著者は、この顕在が潜在をともなってくるという対立関係を「言語活動における最も原初的で、最も究極的な対立である」と書いていました。私はここに言語思想の核心のようなものを看取しましたが、もう少し具体的に言ってみれば、ことばが生まれる瞬間をシルエット(表象)で見たような気がしたのです。大事なことを忘れていたようです。さて、沈黙のことばの分類についてです。沈黙はゼロ形式のことばですから、これといった形式は持ちません。つまり分類の手がかりが見当たらないわけです。分類自体は困難な作業だというしかありません。これを著者はどのように対処しているのでしょうか。

 

沈黙は、表現との対立関係のありかたに応じて、以下のように五種類程度に分類できる。/第一に、充足した沈黙。互いの気持や考えが十分に通じ合っているときには、ことばよりも沈黙がその関係を支える。「表現の必要のない」、自然に生まれる沈黙である。/第二に、配慮としての沈黙。相手のために、あるいは他の誰かのために「表現を停止する」とき、そこに沈黙が生まれる。これは他者に配慮した意識的な沈黙である。/第三は、秘密としての沈黙。人に知られたくない事柄があるとき、「隠して表現しない」という沈黙が発生する。これは、多くの場合、自分を守るための沈黙となる。/第四は、表現法としての沈黙。ある所まで表現したら、その先は「表現を抑制して」沈黙するというものである。抑制することで表現はかえって豊かなものになり得る。/第五は、「反表現」という沈黙。自分の思いや思索が深く内向していくとき、「表現を忌避する」という沈黙が生まれる。言語活動は他者からは見えない個人の内部の営みとなる。≫(前掲書 二六八~九頁)

 

 以上五つの分類は、この後それぞれが項目立てられ、印象深い文章例を配置して詳しく説明されています。これを読んだ上で、ここでは分類の基準を考えてみたいのです。引用では「表現との対立関係のありかたに応じて」分類すると書いてあります。私なりに受けとめると、著者の分類は、表現において「沈黙」がどのように活かされているか、その使われ方(機能)に着目しているという印象を持ちました。ひとまずこのように位置づけた上で、第一グループの「充足した沈黙」を見ていきましょう。

 第一グループの「充足した沈黙」には、窪田空穂の短歌(永田和宏『近代秀歌』岩波新書)と宮本常一の「子供をさがす」(『忘れられた日本人』岩波文庫)が取り上げられています。どちらも一読して心に残るものです。とくに後者は宮本の故郷周防大島での小さな迷子事件を話題にしたものですが、迷子の捜索にあたって、ムラ共同体におけるふだんの付き合いには顕れてはこない、もう一段と深い関係が描かれています。著者はこれをとらえて「充足した沈黙」として解説しているわけですが、ここで心づくのは、ふだんは口にしていなくても、互いに通じ合う「沈黙のことば」の存在です。

 たとえば、柳田国男の女性論においてたびたび言及されるのは、前代のムラの家刀自(いえとじ:主婦のこと)には、一生に一回も口にすることはないけれども、耳で聴いたたくさんの「ことば」が蓄積されその意味が深められていったという話です。また、ムラで代々行なわれた「昔の国語教育」では、子供が耳から何回も聴いて覚えた(さとること)ことばだけが、やがて習得されていくという話があります。柳田の二つの言及には、集団の場でくり返し聴くことによって、「沈黙のことば」が各々の内面で養われるということの重要性が語られています。ここに一つの示唆が得られるようです。内面のことばは、養われて初めて「沈黙」として使われるのではないかということです。言い換えると、「沈黙のことば」は、すでに存在し使われるものとして分類できるだけではなく、形成される存在として把握できる道筋があるのではないかと思ったのです。なぜ私はこんなふうに考えたのか。

 著者は「五種類程度」と記し、五分類には収まらない事例が存在するという含みを持たせていますが、私が加えたい「沈黙」があります。それは、語りたいが病気や怪我のせいで語れなくなってしまったときの「沈黙」です。たとえば、パーキンソン病で言語表現と沈黙の割合がやがて逆転し、ついにはほとんど話せなくなった人間にとっての「沈黙」をどう考えればいいのか、という問題が立ち上がって来たからです。果してここでも、沈黙は「ことば」でありえるのかと問われれば、もちろん介護経験を根拠に「ありえる」と答えますが、それを説得的に語るためには、「表現との対立関係のありかたに応じて」する分類だけで事足りるのだろうか。ことばを失った人間の「沈黙」も含めて考えられるような分類案も必要ではないか。こう考えたのです。


さまざまな「異虫」の登場

2017-07-25 12:58:47 | 

 前回(7/18)は、「虫証」とよばれた病症について学びました。そこには身体的病症に加えて精神的なそれもともなっていましたが、近世においては、両者を明確に区分するのではなく心身一元論的にとらえていたことが分りました。逆言するならば、このような医学思想だったからこそ「虫証」が成立しえたということです。ところが、近代になり、心身二元的な医学の普及によって、「虫証」も「異虫」も否定されることになったのです。それらは「寄生虫」症に取って代わることになりました。今回は、第二節「姿を現す「異虫」たち」に入ります。虫証の病因と考えられた虫それ自体について学びます。さて、どんな異虫たちが姿を現すか。

 

「虫証」について述べてきたが、次にその病因である「虫」それ自体に目を向けることにしよう。「虫証」が心身にまたがって複雑多様な症状を呈するものであるなら、それをもたらす「虫」自体の性格や特徴も、平凡なものではなかったことは想像できよう。体内から体外へと排出され、人前に姿を現した「虫」に対して、医師たちはどのようなまなざしを向け、それをどう理解したのだろうか。そのことを考えるのに、もっとも相応しい検討対象は、おそらく彼らが「観た」という「異虫」ないし「奇虫」であるに違いない。実際、近世の医書には、この世のものとは思えないほどの奇怪な姿をした「異虫」の記載が、少なからず見られるのである。「異虫」という不思議な「虫」像を、注意深く眺めることによって、あたかも「異世界」と繋がっているかのような、超自然性をそなえた「虫」像の一側面が浮かび上がってくるはずである。その「異虫」とはどのような「虫」だったのか、医書に描かれた具体例を見ておこう。

さまざまな「異虫」

「異虫」が体外へ出てきたという実例を、数多く挙げている医書は少なくない。次に取り上げる多紀元堅(もとかた)の『時環読我書(じかんどくがしょ)』(一八三九年成立、一八七三年刊)もその一つである。

・二、三の医者仲間と「虫証」について話をしていたとき、ある医師がこう言っていた。寸白(サナダムシ。条虫を言う)による病と判断して駆虫薬を用いたところ、予測通り寸白虫が数匹出てきた。が、さらに蝶のような「虫」も出てきて、四、五寸の高さを飛び舞ったという。

・同じ席で、別の医師は、ある患者の便秘を治療したとき、排便のなかに長さ六、七寸ほどの毛髪のような形をした「虫」が三条あった、という経験を語っていた。

・先年、越前のある僧が、長年腹痛に苦しんでいた。ことに臍の辺りが激しく痛み、柱に寄り掛かって仮眠をとるほどだった。その折、臍の中から何ものかが外に出ようとしているような感覚があった。しかし、わずかの水滴が漏れ出ているにすぎなかった。このようなことが二、三度続いた後、この僧は縄で輪をつくり、それを臍に当てておくようにした。例の感覚が起こってきた時、僧はすかさずその縄を絞めた。こうして臍のなかから出てきたものを捕らえることができた。それは「虫」だった。そしてその姿は、蛞蝓(ナメクジ)のような形をしていた。

・葱(ねぎ)をことのほか好む男がいた。仲間と会食した時、大酔したその男は、注文した蕎麦が運ばれてくる前に眠ってしまった。蕎麦がきたので、仲間が男を目覚めさせようとしたが、熟睡していて起きなかった。そこで好物の匂いを嗅いだら目を覚ますだろうと、男の傍らへ小皿に盛った葱を置いてみた。すると、男の鼻のなかから「奇虫」が走り出てきて、葱をかすめ取り、鼻のなかへと戻っていった。全員が驚いて、同じことをもう一度繰り返してみたところ、再び出てきたその「虫」は、「独脚仙」のような形をしていたという。(巻下)≫(『「腹の虫」の研究』(名古屋大学出版会 二〇一二)

 

 「独脚仙」とは何のことでしょうか。ネットで調べてみると、中国語で「独仙」とは昆虫のカブトムシのことだと出ていますが、「独脚仙」については見つかりません。さて、今では「虫下し」という言葉は死語かも知れませんが、昭和三十四、五年頃、農村の小学校では、先生から「虫下し」とよぶ駆虫剤を配られて飲んだことがありました。飲んでどうだったかの記憶はないのですが、その頃からお腹に虫がいるということは知っていました。また、亡くなった母から聞いた話には驚かされたことがあります。戦時中か戦後まもなくのことであったのか、はっきりしないのですが、「虫下し」を飲んだ後、口から二十センチほどもある細長い虫が出てきたことがあり、すっかり動揺してしまったという話です。回虫のことだと思われますが、母が駆除した「腹の虫」は、いわゆる寄生虫としての扱いだったのでしょうが、「腹の虫」は実際に見ることができたという実感は、それほど遠い時代のことではないようです。でも、引用にあるように世の医書に現れた「奇虫」「異虫」には驚かされました。(肛門からだと思われますが)駆虫薬を飲んだら、寸白(サナダムシ。条虫を言う)の他に「蝶のような「虫」も出てきて、四、五寸の高さを飛び舞った」とか、長年腹痛に悩むお坊さんの臍から蛞蝓(ナメクジ)のような形をした虫が出てきたとか、蕎麦の薬味ネギを酔っぱらい男のそばに置いたら、鼻の穴から奇虫がでてきてネギをかすめとってまた戻っていったとか、信じがたい話です。でも、現在の私たちの時点から批評しても意味がありません。当時は医者も患者もこのような「奇虫」や「異虫」をどう思っていたのか、そこに立って読んでいきたいと思います。


平賀源内の「知識人としての海外認識」

2017-07-24 14:01:02 | 

 前回は休みました。前々回(7/10)は、戯作者・平賀源内の作品『風流志道軒伝』(一七六三)の新しさについて、の話題でした。この作品は主人公深井浅之進(後の志道軒)の遍歴譚ですが、源内以前のそれといえば「地獄極楽を遍歴して因果の理を悟るとか、日本国内を色道修業に回る」とかの話に決まっていました。源内の新しさは、どこを遍歴させるか、それを外国に求めた着想にあったのです。ではそこでいう「外国」とはどこか、といえば当時知りえたオランダその他の西洋の国々ではなく、『和漢三才図会』は『増補華夷通商考』などに見えるお伽話のレベルの国々(大人国や小人国など)か、古来の民間伝承のなかの国々(女護が島など)、つまり架空の国々でありました。しかし、日野龍夫「近世文学に現われた異国像」で、著者は源内の描く深井浅之進の遍歴体験はお伽話に終わっていないこと、そこには平賀源内の「知識人としての海外認識」が反映されている、と指摘していました。その海外認識とはどのようなことを指しているのか、今回はこれを紹介してみます。

 

源内は、本草学の実用化の功をあせって、エレキテルの製作や鉱山の採掘に東奔西走、結局オランダ語の習得という地道な努力をしなかった人であるから、青年時から交際のあった杉田玄白のようなまともな蘭学者ではない。しかし、西洋の新奇な文物に接して、新奇であるがゆえにそれを警戒嫌悪するのではなく、新奇であるがゆえにそれに関心を寄せるという精神の柔軟さと、我流ではあっても、それをなんとか実用面に応用しようと努める旺盛な意欲と、封建制の枠内に安住して新しいことを何一つしようとしない世間に対する苛立ちとは、新奇な文物の背後には日本と異なった文化が存在するということをおのずから源内に悟らせ、その地平から照射することによって、自分の住む近世中期の日本の文化を相対化することを可能にさせた。/知識人の海外認識とは、このことをいう。『風流志道軒伝』における海外の架空の国々は、そのお伽話の非現実性が日本の現実を相対化するという役割を源内から与えられているのである。読物としての取っつきやすさ、ないし作者としての滑稽な誇張のしやすさという都合もあって、『和漢三才図会』や『増補華夷通商考』でお馴染みの国々が持ち出されてはいるが、それらはいわば西洋の国々を代行していると解される。≫(前掲論文)

 

 『風流志道軒伝』が、架空の外国の遍歴譚であるのにもかかわらず、その数々の「外国」体験が単なるお伽話に終わっていないのはなにゆえか。そこに源内の「知識人としての海外認識」がみてとれるからです。それは、「西洋の新奇な文物に接して、新奇であるがゆえにそれを警戒嫌悪するのではなく、新奇であるがゆえにそれに関心を寄せるという精神の柔軟さと、我流ではあっても、それをなんとか実用面に応用しようと努める旺盛な意欲と、封建制の枠内に安住して新しいことを何一つしようとしない世間に対する苛立ちとは、新奇な文物の背後には日本と異なった文化が存在するということをおのずから源内に悟らせ、その地平から照射することによって、自分の住む近世中期の日本の文化を相対化することを可能にさせた」認識のことです。長文なので、順に見ていきます。まず源内の三つの見方・考え方です。①と②は資質といっていいかもしれません。

①新奇であるがゆえにそれに関心を寄せるという精神の柔軟さ

②実用面に応用しようと努める旺盛な意欲

③封建制の枠内に安住して新しいことを何一つしようとしない世間に対する苛立ち

 簡単にいえば、以上の三つの見方・考え方は、以下の「知識人としての海外認識」を生みだす土台と捉えることができます。これを簡略して、①「新奇なものに対する精神の柔軟さ」、②「実用化への意欲」、③「世間への苛立ち」と言い直せます。では、以上の三つは源内の認識をどう変えたというのでしょう。

④新奇な文物の背後には日本と異なった文化が存在するということをおのずから源内に悟らせた。

⑤その地平から照射することによって、自分の住む近世中期の日本の文化を相対化することを可能にさせた。

ということになります。これを砕いて言えば、④新奇なものの背景には自文化とは異なる文化が存在すること、(このようにみれば)⑤自国の文化は絶対ではありえないし、他の多様な文化の一つであることに心づく、ということだと言えます。今風に一言にしてしまえば、「文化相対主義」あるいは「多文化主義」ということになります。一方、「知識人」としての認識を、ここでは民衆的想像力(認識)との対概念と捉えますと、源内の、時代に対する批評家としての特徴という面が問題になってくると思われます。それゆえ、続いて著者は他の蘭学者の海外認識と比較していく作業に入ります。ここは次回に。

 ところで先ほど私は、源内の三つの見方・考え方を「知識人としての海外認識」を生みだす土台としてを位置づけました。このうち①の「新奇なものに対する精神の柔軟さ」とは、紛れもなく子供の認識的な特徴、あるいは大人になっても失わない子供性と呼ぶことができます。ここに出てきた「新奇なもの」とは、単に見かけのうえでの新奇さばかりを意味しているわけではありません。そこには一寸した問いかけた実験によって、日常の見方をくつがえす小さな発見をもたらすような試みが当然含まれています。「精神の柔軟さ」とはそういうことです。従来の固定した・絶対的な見方を相対化するには、認識上の「子供性」が必要なことを示唆しているようです。


ことばは誰のものか

2017-07-22 06:00:00 | 

 土曜ブログは、川澄哲夫編『資料 日本英学史2 英語教育論争史』(大修館書店 一九七八)を読んでいます。千頁を超す大冊ですのでこれまで毎週一回、十一月で二年目を迎えますが、遅々とした歩みでどこまで進めるか考えたこともありません。それはともかく戦後編(第七、八章)から読み始めて現在は戦中編の第五章「太平洋戦争と英語(一)」の、第一節「敵性語から敵国語へ」、第二節「敵性風俗を排す」、第三節「大東亜戦争」と英語の将来」に取り掛かっているところです。これら三つの節の見出しからも気づかれるように、戦争体制下の英語および英語教育については、第一節第二節は「敵性語排斥」の意見が多く見られ、第三節では「国際語としての英語」という現実を踏まえた冷静な議論が多いことが分かってきました(もちろん編者の川澄哲夫氏の排列があってのことですが)。また、寄せられた意見内容についても、感情的と理性的、あるいは昂揚と冷静というような二つの層に大別できそうな印象を持ちます。
 一方で両者に共通しているのは、英語や英語教育を国際関係や国家社会の領域でしか見ていないことにも気付かされます。当たり前だと言われればそれまでですが、外国語の英語であろうが国語としての日本語であろうが、国際関係や国家社会の問題として考える前に、ことばは個人が口にし耳に聴く行為に違いなく、また相手との意思疎通のための行為に違いないはずです。それゆえに、前回の帆足理一郎の意見は貴重で、彼は「世界の平和に貢献せんとするには、心から心に通う共同理解が先ず必要だ」と書いていました。また、この個人のことばを抜いて国際関係も国家社会も成立しないことも自明です。ここに気づかせてくれたのは、安田敏朗『「国語」の近代史』(中公新書 二〇〇六)です。今回はここから引用したいと思います。

言葉は誰のものか
しかし、ことばとは一体誰のものだろうか。英語の脅威に対抗するために、そして疑いももたずに国を愛するために「国語」を重視せよなどと一方的に言われて、唯々諾々従うためにあるのだろうか?/ことばとは、そもそも「わたし」のものではないのか。/たとえば、「国語」を相対化していく諸研究をまとめた川口良・角田史幸『日本語はだれのものか』(二〇〇五)という書籍がある。そうしたものであっても「日本語は日本人だけのものではなく、そこを訪れるだれのものでもある」という結論を導いている。これでは「日本人のもの」を前提にした論である。つまり、誰のものでもあるが、結局は誰かのもの(ここでは「日本人」を中心としたもの)だ、というかつての「日本語」のあり方をいいかえたものに過ぎない。/こうした点に関して、透徹した批判がなされない限り、右でみた、「国語力」だの、」「声に出して読みたい日本語」だの、「文語」だのといった威勢のよいことばは消えることはない。/これまでは、ことばは「民族」なり、「国家」なりとの結合が当然のこととされすぎてはいなかっただろうか。そうであるからこそ、まずは「わたし」のものとして考える、という視点をもってみたいのである。/ともかく「日本人らしさ」に始まり、「民族」や「伝統」そして「国家」というようなものに回収されないものとして、みずからのことばを確立していくことが、とりあえずは必要だと思うのである。
》(安田前掲書 二六二〜三頁)


「離村」を経済発達の面で眺めると

2017-07-21 06:00:00 | 

前回(7/14)は、昭和史五十年において女のことばの何が変わったのか、を論じた寿岳章子「女性語にとっての昭和」(一九七八)の一部を紹介しました。そこでは、言葉が相手に与える感情的価値のようなものが変わったと結論づけていました。ありていにいうと、女性のことばは素っ気なくなったそうです。これを「村の変貌」から位置づけることができるかもしれませんが止めておきます。さて、村の変貌をうつした言葉の探索は収穫があったときに紹介するとして、今回は『農村児童の心理』に戻り、第十五章「村の変貌」の第二節「離村」を読んでみます。以下の文章は、離村の問題を感傷としてではなく、経済発達の問題として眺め、批判していかねばならないとしています。少し長いのですが、柳田國男の『都市と農村』(一九二九)を下敷きにしているらしいこと、わかりやすいことを理由にそのまま引用します。

村を離れて都会に向う人達に対して、村民達は村の反逆者として 白眼視し、向都離村の趨勢を見て、農村の荒廃を嘆く人々もある。如何にも彼は村落生活を見限って都会に向った者であり、この為に田園が荒廃する事もあるかもしれない。併しこの離村の現象をかかる消極面のみから眺めるのは正しくない。
歴史の必要性に従い乍ら、農村は都市を生み、育てておるし、都市の中に絶えず新鮮な血液を注ぎ込んでいるのである。都市は農村に対立するものではなく、農村が育成して行ったものである。都市生活が無ければ中央集権に基いた強力な国家体制も発達しないし、工業による躍進的生産も期待出来ない。国家、社会の発達は当然農村から都会への人口の大移動を将来する。このエキゾーダス〔exodus;出て行くこと、大移動〕は感傷の問題としてではなく、経済発達の問題として眺め批判して行かねばならない。
柳田國男氏も離村を村の衰微と解することは誤りであるとし、「昔は農だけしか仕事らしい仕事が無く、それを離れることは遊民〔職業もなく遊んで暮らしている人〕となることを意味したかも知れぬが、今日では寧ろ村の内に、余儀無い遊民を生ぜんとしているのである。人を親兄弟より別れしめまいとすれば、第一には村に今少しの働く機会を設けなければならぬ。それが出来ない以上は、寧ろ励ませても出すべきである」と述べている。之は現在と農村の状態の異なる時に言われたものであるが、尚離村問題一般に通じて言われることであろう。
農民離村の現象は近代に特に著しいものであるが、昨今に始まったものではない。町の成立と同時に行われていたものである。前述の如く、町の商人とても初めから町にいた人ではなく、その故郷は村にあったという事が出来よう。又都市の興隆に伴い、荘麗な建築物などが増すに従い、多くの職人達が町に集まったが、之も元は村の大工や鍛冶屋、屋根屋であった。又武士も以前は在郷の士であったのが、家人達を連れて城下町に移り住む様になった、ゆえに中世、近世時代に既に相当活発な離村現象があったと考えられる。
又一時的離村たる出稼は江戸時代も今日も行われている。特に冬の仕事に恵まれない北国の農民達は冬場奉公人として江戸などに出て来て、町の雑役から湯屋の三助、酒屋の杜氏と種々の労働に従った。この中にはそのまま都市に居ついてしまう者もあり、商人達の屋号は夫々出身国を示したものが多い。明治以後になるや離村が一層容易になり、大都市の急激な膨張により離村現象が余りに著しくなり、為に田園の荒廃を憂いしめる程となった。近代我邦の工業は繊維工場に始まるが、これにはおびただしい女子の労務を必要とした。これは専ら農村から供給された。例えば大正三年の工業労働者は男三八三、九五七名(四〇・五%)女五六四、三〇八名(五九・五%)と女子の方が多く。この女子の中紡績工業に従事していたものは四八六、四八一名、即ち八六・二%占めていた。その他の工業に於ても農村出身の男女が主要な給源となっていた。第一次世界大戦当時の調査(大正八年農商務省調査)によると、工場労働者の前職として農業なりしものが三九・〇九%と最高位を示していた。これ等の事からでも我邦の工業は農村人口に依存していたと言うことができよう。
離村者は併し、単に工業方面に向う訳ではない。商業方面大量に吸収していたし、また家事使用人として働いた者も多い。又少数ではあるが公務自由業に就く者も無視する事は出来ない。かくして近代都市は農村から大量の人口を吸収しつつある。
》(牛島義友『農村児童の心理』巖松堂書店 一九四七 四〇〇〜〇二頁)

「離村」を経済発達の問題として眺めるのは確かに現実的です。現実的な視点というならば、戦前戦中も敗戦を挟んだ戦後復興期も、増産や成長を欲して止まずという路線では変わりません。敗戦によって世の中の見かけは変わりましたが、実はホモ-エコノミクス(もっぱら経済的合理性に観点から行動する人間)としては変わっていないのです。もっと言えば、戦前戦中から敗戦にかけて儲けた人間が戦後の社会的地位を築いたという話は珍しいことではありません。しかし、経済的合理性を選択する人間にも、人に言いたくない動機や悩みがあったはずです。ここには戦時下での行き過ぎや戦後公害に対する無自覚なども含みますが、動機や悩みを生きることは人の一生の本体に他なりません。昭和一桁生まれ世代の気持ちを知るなら、このような経済的な条件を軽視してはいけないし、またこの段階にとどまってもいけないはずです。


鎮守の森で「禁制の百姓徒党」が行なわれた

2017-07-20 11:47:52 | 

 前回(7/13)は、文政四年の十月二十九日に名主・八右衛門による二度目の「勘弁願書」に対するなんの返答もないまま、十一月中旬も過ぎた頃に、東善養寺村の「長(オトナ)百姓」の二人(与市と伊助)が八右衛門の元にやってきます。やってきてこの度の年貢増米では「小前一統」の暮らしが成り立たないことを訴えたところまでを読みました。長百姓の二人は名主に対して小前百姓(中下層農民)の代表として訴えているわけです。今回はその続きです。

 

それ〔年貢増米の件〕ニつき、この間、隣村々一同難渋のよしニて鎮守へ寄合の儀申し来り候。これによって村々惣代として一両人ヅゝ出合いたし、相談致し候ところ、いずれも村方役元より申し聞けられ(言い聞かせられ)候儀〔年貢上納の準備をせよとの触れ〕ももつともの事なり。この上ハ、勧農附属力丸村羽鳥幸五郎殿方へ村々惣代として御役人を壱人差しそえられ罷り越し、御勘弁相願いくれ候様相頼みたき旨、一同申す事ニ候。当村方も、一同に罷り越し候ても宜しく有之べくや。この段お問い合わセ申候。

 鎮守の森の百姓寄合には、長百姓の与市と伊助は加わっていたのだろうか。この寄合は名主の八右衛門には知らせないというものなのだから、一両人ずつの「村々惣代」も、かならずしも村役人の序列にこだわらずに小前惣代が選ばれたのかもしれない。しかし、与市と伊助がその場に出むいていなくても、八右衛門の願書提出という情報は伝わったであろう。

だから、今度の計画は、小前百姓たちが、そのような名主一個の訴願では埒(ラチ)があかないと批判的な判断をしたうえで、直接に村々の百姓で訴願をおこなうことを申しあわせたものである。この訴願は「村々惣代として御役人壱人差しそえられ罷り越し」というのだから、惣百姓で押しかける強訴(ゴウソ)ではないが、惣百姓の申しあわせにもとづく代表越訴〔おっそ:正規の手続きを経ずに上級の役所に訴えること〕、とでも言えようか。東善養寺村もそれに加わることを認めてほしい、と八右衛門にせまったのである。

そのような百姓寄合が名主に知らされずに行なわれていたことを、八右衛門は憤っていない。しかし、この寄合はふつうの状態ではない。あきらかに禁制の百姓徒党の状況である。名主の責任が最初に問われるはずである。年貢増徴の苦境を打開したいという願望の強さが、徒党に対する警戒心を忘れさせたのであろうか。八右衛門は、羽鳥はその役目にあるのだからそうするのもしかるべきことだと思うが、名主の自分から差図すべきことではない。役人をつきそいにだすのは勿論だろう、と答えている。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 五四~五頁)

 

 まず事実経過をはっきりさせておきたい。この間(十一月の中旬以前)、鎮守の森で寄合があった。この寄合は村惣代(代表)として一、二名ずつが集まって相談したものだった。その決定事項は、「勧農附属力丸村羽鳥幸五郎殿方」に対して、村役人一人を付き添いにして村々惣代が寄り集まり今回の年貢増米の「勘弁願い」を訴えに行くというものです。そこで、東善養寺村でもこの(代表)訴願行動に参加するのを認めてほしい、と名主八右衛門に迫ってきたというわけです。深谷氏はこの「代表越訴」を決定するにいたる鎮守の森におけ村の代表による寄合は、あきらかに「禁制の百姓徒党の状況」になっており、「名主の責任が最初に問われるはず」の行動であると書いています。だとするならば、みずからの責任が問われる事態に陥るかもしれないのに、八右衛門はなぜ自分に内緒でこのような寄合が行なわれたことを憤らなかったのでしょうか。深谷氏はその理由を、「年貢増徴の苦境を打開したいという願望の強さが、徒党に対する警戒心を忘れさせたのであろうか」と述べていますが、どうでしょうか。みずからの責任を問われそうな事態を果して忘れ・見逃すでしょうか。八右衛門が二度目の「勘弁願書」を出した際の「名主」という役割期待にそった行動を斟酌すると、この場合の八右衛門の判断はよく分りません。もっと考えて見る必要がありそうです。ここでは事実関係だけはしっかり押さえておきたい。

 勧農役所(文政二年設置)については前に出てきましたが、これは前橋藩なりの「枯村」状況に対する抜本的な対策をおし進めるための機構でした。この役所は前橋陣屋(「前橋役所」とも呼ぶ)とは別立ての機構で、石川茂登造、小川銀蔵という二人の代官が任命されていた。二人の代官の下に、「附属」と呼ばれる役職を設け、五人の百姓・町人を選んで配置した。この五人の「勧農附属」の下に、前橋領分の八つの支配地から一人ずつ計八名の「野廻り役」が選ばれていたのです。その一人が東善養寺村の名主八右衛門でした。また五人の「勧農附属」のうちの一人、今回、村々の惣代が訴願に行く相手の「羽鳥幸五郎」ですが、かれは天明三年(一七八三)に、領民の打ちこわしにあった酒屋で質屋をいとなむ力丸村の「羽鳥定七」と縁続きかもしれません。