新八往来

季節が移ろい、日々に変わり行く様は、どの一瞬も美しいが、私は、風景の中に一際の力強さを湛えて見せる晩秋の紅葉が好きだ。

書きたいという気持ち、伝えたいという意志

2016-07-18 21:16:46 | 備え無き定年
私は、ある方のご好意に甘えて、彼のHPの一隅を汚す厚顔で拙い文を8編ほど載せて頂いておりますが、
この好機に恵まれたことを今更ながらに嬉しく思っています。
彼との出会いは、共に参加するメーリングリストにおいてですが、私がMLに参加したのは
どちらかといえば書き込みをしたいというのが先で、交信をしたいという欲求は薄いものでしたから、
返信を期待することなく、一方通行的な内容を発信しがちなメンバーであり、これからもそういう自称「片隅派」を
認じていくつもりです。

そんなMLで、一方的に書き込むことを許してくれたうえに、その場所を提供してくださった彼との出会いに
感謝したいと思うのです。

文章を書く意欲の裏付けは様々でしょうが、自分が読むためのものを書くというのは無いように思える。
例え、日記であっても読ませたい、読んでくれる人がいることを期待したいという思いがどこかにあるでしょう。
それは、私のような素人の作文であれば、自分の何かを伝えたいという意志に他ならないのである。

ここまでの8編を書き込みながら、しかし、自分が何を伝えようとしているのかは、ぼんやりとした輪郭として
意識下に措いていたのだが、その輪郭を少しく顕にしてみようと思うのである。

私の中にある基本的なスタンスは「反体制」という、どうにも理屈抜きの「感情」であり、それは死後化した
イデオロギー的対立意識ではなく、自分の血の中に根強く漂っている「疎外感」の裏返し的な意識なのである。

「北の零年」という映画がある。
明治維新政府によって、北海道への強制移住を命じられた四国淡路の稲田家主従五百数十名の
日高開拓にまつわる物語である。

北海道の先駆者は幕藩体制の崩壊後に移住を命じられた旧士族と、それに続く屯田兵、農・漁業の一般移民、
加えて多くの囚人達であった。

彼らは、明治初期から10年代にかけての移民である。
北海道は彼らの手によって、点在する主要地域の開発を行ってきたのである。
今から、ほぼ150年前からの短い歴史である。

しかし、彼らが三世代ほど経過して旧家として土着したころ、「北の零年」から数えて70年以上も経たころの
昭和20年代に敗戦による引揚げ者という名の「難民」の多くが彼らの「北の零年」を開始したのである。
彼らの歴史は、現在まで、わずか70年の歴史しか持たないのである。

私が旧本籍地の北海道江別市美原「無番地」という住所を、現在の住所に変更してから10年ほどしか経ていない。
昭和30年代の初めまで、そこは無電灯の地域であり、「無番地」であった。

一年に一、二度、母をともなって「無番地」を訪れるが、もちろん今や「有番地」になっており、
数年前にそこに記念碑が建てられた。
碑名は「開基50周」である。その地は「零年」からわずか五十数年の歴史しか持たないのである。
そして私は、戦後の北海道で「北の零年」を開始した「難民」の、最も若い一人なのである。

ここまで、書き込んだ8編の拙い文章の出発点つまり私の原点はそこにある、ということを
明確に意識し始めている。
私たち兄妹を含む従兄弟群は30人以上に上るが、北海道で育ったのは私たち3人兄妹だけである。
その多くが、淡路島とその周辺地域、つまり祖先の地の周辺にいて、ほとんど没交渉の存在である。

私の「反体制」という理屈抜きの感情と表裏一体の「疎外感」は、明治政府という体制によって
強制移住させられた先駆者が北海道の地に築き上げた新たな「体制」のもとへ
戦後の「難民」の末端に連なって移住した者の血の中に流れる意識である。
私にとっての「体制」は、幼年期から還暦を迎えようとする今日まで、時代とともに形を変えてきた。
それは、親類であり、地域であり、学校であり、教師であり、同級生であり、等々である。

この歪んだ自己意識から、自分がいったい何を伝えようとしていて、伝えることに何の意味があるのかと
問い質されると、返答に窮するというのが実態ではあるが、とにかく伝えたいのである。
決して自分史を書こうとしているのではなく、北海道へ渡った「難民」の血脈を伝えたいのである。

それを「北の風紋」のテーマとして抱いて行こうと思う。