遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

宇野浩二『思い川・枯木のある風景・蔵の中』

2020-05-17 20:48:27 | 読んだ本
             宇野浩二『思い川・枯れ木のある風景・蔵の中』        
                                               松山愼介
 宇野浩二の作品を読むのは始めてである。子供の頃、『子を貸し家』という舞台中継をテレビで見た覚えがある。年譜を見たら芥川龍之介にも影響を与えているようだ。昭和十三年には芥川賞選考委員として火野葦平の『糞尿譚』を推している。昭和三十三年には若松に火野葦平を訪ねている。広津和郎の松川事件裁判の支援にも関わっている。
 この講談社文芸文庫の作品集の中では『蔵の中』が一番面白かった。近松秋江がモデルというが、質入れした着物の虫干しに、質屋の蔵に通うという発想が面白い。今は質屋という言葉も死語になっているのだろうか。
 NHKで再放送している『ゲゲゲの女房』では質屋がよく出てくる。税務署が来たときに質札を見せて追い払ったシーンは面白かった。幸い、私の家では質屋のお世話になったことはない。質屋が預かった着物が悪くならないように虫干しするとは知らなかった。虫干しできるということは、質屋は相当大きな蔵を持っているということだろう。水木しげるの奥さんも嫁入り道具の着物を質屋に入れている。
 宇野浩二の代表作といわれている『思い川』には、なかなか入り込めなかった。幸田文の『流れる』は芸者置屋が舞台だった。置屋と待合茶屋と料理屋がセットになっているのだが、三重次は芸鼓であり、茶屋も経営するし、旦那がいることもある。牧も結婚している。この二人のプラトニック的恋愛を書いているのだが、三重次には村上八重というモデルがあるという。
 
「思い川」はなんとも不思議な小説である、と私は感じる。宇野と村上八重の三十年にわたる恋、しかも多分にプラトニックな要素の強い恋自体も、なかなかに信じがたいようなものだが、例えば作中にしばしば挟まれる三重(八重のこと)からの甘い恋文を見て、異様に思うのは私だけだろうか。(中略)四十代の小説家と 三十歳近い芸者の行為として自然に受け入れられるものなのか。

と、講談社文芸文庫の作家案内で柳沢孝子が書いているが、同感である。
 三重次が何故、牧に惚れていくのかが、この作品だけではわからない。当然、肉体関係があったのだろうが、そこはほとんど書かれていない。逆に、このような世間的にはありえないような、作家と芸鼓の関係を書いたことが、この作品を評価する勘所になるのだろうか。そういう意味でこの作品は非常に危うい作品だと思う(他の作品を読んでいないのでなんとも言えないが)。読み方によっては、世間離れした駄作とも読めるし、作家と芸鼓の麗しい恋愛とも読める。
 昔の文士の世界は狭かったという。『蔵の中』を読めば、近松秋江だとわかるし、『思い川』を読めば三重次は村上八重とわかるのだろう。当然、創作の部分はあるのだろうが、この作品は文士の世界で現実の宇野浩二、モデルとなった八重も含めての評価だされたのではないだろうか。田山花袋の『蒲団』もそのような世界で書かれたものらしい。この作品を、昔の文士仲間でないものが読めば、つまり、現代的に読めば、この作品には三十年にも及ぶ歳月が流れている。関東大震災から昭和二十一年ごろまで。その間の風俗を細かく描写しているのは価値があるだろう。
 そういう意味で「私小説」は「風俗小説」ともいえるのではないだろうか。
 この作品で思ったことは人が家庭で死ぬということである。現在では、重い病気になればすぐ入院となり、死は病院で迎えることになる。ここでは、となりで寝ていた人間が気がつけば死んでいたという場面が何回かあった。ある程度の病気では病院にかからない、そのうちにゆっくりと死んでいくという人間本来の姿があったように思う。
                        2019年12月14日

藤沢周平

2020-05-17 20:43:15 | 読んだ本
          藤沢周平『雲奔る 小説・雲井龍雄』           松山愼介
 薩摩の西郷、大久保、長州の高杉晋作、桂小五郎、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬ら、倒幕派の面々については、多くの作品が書かれている。もっとも私の知識は、司馬遼太郎の小説によっている。一方で、新政府軍の敵となった徳川慶喜についても司馬遼太郎は『最後の将軍』を書き、戊辰戦争で新政府軍を苦しめた長岡藩の河井継之助についても『峠』という、いい作品を書いている。
 一方で、新政府軍の敵となった、奥羽越列藩同盟について書かれている作品は少ない。NHKの『八重の桜』という会津藩を舞台にした大河ドラマは面白かった。東北、越後にも、河井継之助やこの作品の雲井龍雄のような有為の人材が多くいただろうが、敗者の歴史は埋められている。
 西郷の目標は幕府の武力討伐であったろう。ところが、徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いの後、江戸に逃げ帰るなどして、臆病な将軍という印象を与える。しかし、徳川慶喜は幕末の客観的情勢をよく認識し、徳川家の存続を第一に考えたように思われる。「大東亜戦争」後の昭和天皇の如くに。大政奉還や、徳川のヘゲモニーのもとの諸侯会議というような手を尽くし、徳川幕府に利がないとわかるとひたすら恭順の意を示して、徳川家を存続させた。
最近、NHKで「西郷と最期まで闘った男」という、庄内藩の酒井玄蕃を扱った番組を見た。庄内藩は、京都の治安維持を幕府から命じられた会津藩のように、江戸の治安維持を命じられた。西郷は江戸を撹乱するために、百五十名の浪人に強盗、放火をおこなわせた。それが原因となって庄内藩が江戸薩摩藩邸に突入、焼き討ちすることになる。西郷はとにかく、幕府を武力で討伐しなければ新しい世の中がこないと考えていたようである。ところが、上野の山で彰義隊の抵抗があったものの、勝海舟らの動きもあって、江戸城は無血開城となった。
幕府は最新式の軍艦をもっていた。東海道で倒幕軍と幕府軍が戦い、その時に幕府の軍艦からの艦砲射撃があれば倒幕軍は壊滅的打撃を受けた可能性があるともいわれている。おそらく、ここでも徳川慶喜は局地的に勝利をしても幕府は続かないと考えていたのだろう。
 江戸城、無血開城の後、新政府軍の敵は会津藩となった。京都で新選組などを使って、倒幕の志士を弾圧した会津藩だけは許せなかったのだろう。この新政府軍対会津の戦いに、東北の諸藩はどちらにつくかの態度決定を迫られる。庄内藩のように譜代大名の場合、幕府存続に傾きがちであった。
 この頃、諸藩の情勢を探るのは、密偵の利用か、それができない場合には、雲井龍雄のように、江戸や京都での人間関係から探るしかない。会津や庄内藩は譜代なので、幕府に義理があるが米沢藩は、上杉で外様大名であるから幕府に義理を感じる必要はなかっただろう。だが、会津や、長岡、庄内藩との関係の中で奥羽越列藩同盟に加わることになる。この時点では、おそらく大勢は決していたに違いない。だが、西郷や、薩摩にたいする私怨は残る。
 同じように、NHKで初代警視総監になった、薩摩の川路利良を取り上げていた。出演していた警視庁関係者によると、現在でも警視総監室に川路利良の肖像が掲げられているということだ。川路には西郷の私学校、西南の役は、西郷の私憤と捉えられて、元薩摩藩士を抜刀隊に組織して西郷軍と対決することになる。後には、これに元会津藩士三百名が加わることになる。この元会津藩士は、新政府軍の監視下に置かれていたが、これを政府軍に抱え込む事により、会津藩士の窮乏を救うことにもなり一石二鳥であった。会津藩は戊辰戦争の敗北後、下北半島の斗南藩に位封され、餓死者も出るほどの扱いを受けていた。
 雲井龍雄も政府に反抗の志しありとされ、梟首になる。しかし、雲井ももし、薩摩、長州に生まれていれば、明治維新において大いに活躍したのではないだろうか。それほど、この時代は自分の生まれた土地や地位、環境が個人の生き方に大きな影響を与えたのではないだろうか。付け加えれば、志しあるものは新政府軍と徹底的に戦ったが、藩の上層部は日和見を決め込み、結果がでてから恭順の意を示し、自己の利益を守ろうとしたようである。
                            2019年11月9日

吉村昭『関東大震災』を読んで

2020-05-17 20:40:22 | 読んだ本
        吉村昭『関東大震災』              松山愼介
 関東大震災は東京直下型地震だと思っていた。吉村昭のこの本によると、震源地は相模湾となっている。現在でも震源地については諸説あり、理科年表では神奈川県西部の松田付近(地上)とされている。震源域は神奈川県中西部から相模湾、さらに房総半島南部に広がっているという。つまり、広範囲に地殻変動が起き、そのうちの一カ所を特定するのは難しそうだ。東京の地震だとばかり思っていたが死者も、東京で七万人、神奈川で三万三千人となっていて、神奈川県でも多くの被害が起きていることがわかる。
 火災の原因は、昼御飯のための各家庭の火と思っていたが、学校、病院、工場などに保管されていた、薬品類が落下して発火したという。圧縮酸素ボンベ、破裂したガス管も火勢を強めた。私は阪神大震災の火災は、関西電力が、揺れがおさまってから通電したのが原因ではないかと疑っているが立証されていない。
 驚いたのは、普通、このような大地震ならば身一つで逃げたのだろうと考えていたが、火災ということもあって多くの人々が、大八車に家財道具を積んで逃げ惑い、それに大きな火の粉が飛んで発火したという。隅田川にかかる言問橋では、橋の両側から避難民が押し寄せ、身動きできないところを、一瞬にして橋の上が火の海になったという。
 現在では各家庭に自動車があるが、東日本大震災では車の渋滞で逃げ遅れ、津波に巻き込まれている。また自動車のガソリン、工場の重油が大火災の原因となっている。関東大震災当時も、各家庭に大八車があったのだろう。ちなみに日本の「大東亜戦争」では、補給物資は、馬または人力による大八車であった。アメリカ軍はもちろん、ガソリンによるトラックであった。
 関東大震災で一番問題になるのは朝鮮人の虐殺であろう。もちろん、社会主義者、無政府主義者大杉栄の虐殺もあるが、こちらの方は、警察、憲兵が意識的に殺害したものとして、ほぼ原因は究明されているようだ。
朝鮮人の場合は複雑である。いわゆる流言蜚語が原因とされている。ラジオ放送もなく、新聞社も壊滅していたので、人々が受ける情報は口コミしかなかったのであろう。吉村昭もよく原因を調べているが、それほど掘り下げているとは思えない。流言を先導した者の例もあげているが、流言蜚語による、自警団の暴力、殺害を自然発生的なものと考えているようである。アフリカ・ルワンダでもフツ族による虐殺事件があったが、人間の根底にはこのような悪意が存在しているのであろうか。
 朝鮮は、一九一〇年に日本に併合された。一八九四年の日清戦争、一九〇四年の日露戦争の勝利が影響しているのだろう。最近、日韓関係が悪化しているが、残念ながら、日本と朝鮮の関係については、あまり勉強していない。この会で読んだ梶山季之の『族譜・李朝残影』は深く印象に残っている。一九一九年には三・一独立運動が起っている。日韓併合以後、朝鮮人が流入していたが、その数は関東大震災当時、東京、神奈川においては二万人弱と推定されている。
彼らは、労働条件は日本人に比べて良くなかったが、朝鮮におけるよりも高給だった。その反面、朝鮮人差別があった。普通に考えれば、その差別をする反面、日本人は朝鮮人労働者のことを理解しておらず、彼らが何をするかわからないという感情を抱いていたのだろうか。
歴史は不可解である。日本は辛うじて明治維新によって文明国の仲間入りをし、富国強兵政策で軍事力を強化し独立を守ったが、その反面、朝鮮を植民地化することによって西欧諸国に対抗しようとした。李氏朝鮮も清国の保護化にあったのだろうが、今少し早く近代化していたら、みすみす日本の植民地に甘んじることはなかったであろう。
 参考文献として、姜徳相(かんとくさん)『関東大震災』(中公新書)を読んだが、こちらは朝鮮人虐殺も自警団の組織も、日本の軍、警察の主導でなされたというもので、これはこれで説得力があった。九月二日午後に戒厳令が出されるが、戒厳令を出すためには内乱、暴動が起っていなければならない。戒厳令を出すために、軍関係者が朝鮮人の暴動という噂を流したのではないかという。そうして、上から自警団を組織して朝鮮人虐殺を煽った一面もあったというものである。
 なお、この関東大震災による火災の広がりの状況を分析して、アメリカ軍は三月十日未明のB29による焼夷弾攻撃を敢行したということである。
                       2019年9月14日

吉田満『戦艦大和ノ最期』を読んで

2020-05-17 20:33:04 | 読んだ本
          吉田満『戦艦大和ノ最期』          松山愼介
 この『戦艦大和ノ最期』は、何年か前に読んで、素直に感動した覚えがある。おそらく、ドキュメントとしての迫力にうたれたのだろう。三千三百三十二人が乗艦し、生存者は二百七十六人である。この大和の沖縄特攻作戦全体、十隻の艦船の死者の合計は三千七百二十一人と推定されている。おそらく大和の生存者でこのような記録を表したのは吉田満一人であろう。偶然かも知れないが艦橋にいて、大和全体の様子がわかる位置にいたためである。彼は本来副電探師であった。
『海軍めしたき物語』(高橋孟 新潮社 一九七九)というミッドウェー海戦をえがいた作品も面白かったが、彼は駆逐艦か何かの炊事兵で、甲板から日本の空母がアメリカ軍の航空機の猛攻にさらされているのを見て、それを記録したのである。このときは、攻撃が空母に集中されたので高野の乗っていた艦は無事であったが、吉田満のように重要な部署ではなかったので見聞記にとどまっている。
 このミッドウェー海戦でも大和は出撃したが、ミッドウェーのはるか後方五百キロの位置にいた。大和の建造費は、現在製造すれば四兆円くらいかかると推定されているが、結局、大和は戦う場所を与えれず昭和二十年の四月を迎えたのである。海軍上層部では、敗戦はすでに覚悟していたものの、海軍のシンボルともいえる大和を戦わずして敗北することはできず、沖縄特攻作戦となったのである。当時の軍上層部の貧困な発想である。そもそも、大和は昭和十六年に完成していたが、その時点ですでに時代遅れの戦艦だったのである。よくいわれるように、第一次世界大戦をほぼ経験しなかった日本は、第二次世界大戦を日露戦争の発想で戦っていたのである。大和は日本海海戦の再来を想定した巨艦だったのである。
 陸軍の主要兵器、三八式歩兵銃は明治三十八年制であるから、一九〇五年式ということになる。それでも、この銃は英語に訳すると「ライフル銃」となるらしい。重くて銃身が長いので日本兵はジャングルでは取り回しに苦労したらしい。
 それでも、私の少年時代は戦艦大和は憧れの的だった。昭和三十二、三年頃は月刊少年雑誌が全盛であって、巻頭グラビアを戦艦大和やゼロ戦がかざった。その後、週刊少年マガジンが発売されたが、ここでも戦記物『紫電改のタカ』が人気だった。これは性能的にはゼロ戦の上をいくとされていた。戦後も十年を過ぎると、第二次世界大戦における日本の大敗北はもう昔の記憶となり、大和やゼロ戦が復活していく。この先が松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』となる。
 この吉田満『戦艦大和ノ最期』だが、アメリカ占領軍の検閲のために八種類のバージョンがある。
A 文語 一九四五年九月 吉田の故郷に疎開していた吉川英治にすすめられて書いたもので、大学ノートに鉛筆で書かれた。「文字が迸るように流れ出た。第一行から、自然に文語調を形作って、すでに頭の中に組み立てられていたかのように滑らかに筆がすすんだ」ということで、ほとんど半日で書かれた。三十八枚。
B 文語 Aを肉付けしたものでペンで書かれた。これを複数の人がペンで筆写し、その内の一部が小林秀雄の手に渡った。八十五枚。
C 文語 機関誌「創元」創刊号に載せるために原稿用紙に書き写されたがアメリカ軍の検閲のために掲載されなかった。この没になった原稿用紙百三枚分のゲラ刷りを江藤淳がアメリカで発掘する。
D 口語『戦艦大和』 「新潮」昭和二十二年10月号の掲載(原稿用紙三十四枚分)。文語体が軍国主義の延長ということで口語体で、検閲を試した。「敵」という語はすべて「米軍」とされた。
E 口語『小説戦艦大和』 カストリ雑誌「サロン」昭和二十四年六月号に掲載。百枚。
F 口語 銀座出版社   Eに少し手を加えたもの。百三十九枚。
G 文語 『戦艦大和の最期』昭和二十七年八月 創元社 二百二十六枚。
H 文語 『戦艦大和ノ最期』昭和四十九年八月 北洋社 二百三十五枚。この版において、連合艦隊司令長官からの作戦中止命令、感状が加えられた。
『戦艦大和ノ最期』だが、後半で救命艇にすがった兵たちの手を切り落としたという描写について、事実に反するという抗議が寄せられ、吉田もそれを伝聞と認めたが訂正しないまま世を去った。この救助艇は初稿では「朝霧」になっているが決定稿では「初霜」となっている。全体としては初稿(江藤淳『落葉の掃き寄せ』掲載)の方が、大和の戦いが忠実にえがかれている。
決定稿の方は、臼淵大尉との論争や、後年の吉田の考え(日本軍に対する批判)や、のちに判明した事実(アメリカ軍の攻撃の詳細、八波による航空機攻撃、魚雷を左舷に集中したこと)が入っていて、それが迫力を薄めているのではないか。
                        2019年8月10日
 
 吉田満『戦艦大和ノ最期』については、「文学表現と思想の会」の同人誌「異土」18号で江藤淳にからめて詳しく論じました。
 『戦艦大和の神話ー吉田満『戦艦大和ノ最期』と江藤淳 「文学表現と思想の会」のホームページもご覧下さい。

瀬戸内晴美『余白の春』を読んで

2020-05-17 20:28:57 | 読んだ本
         瀬戸内晴美『余白の春』          松山愼介
 瀬戸内晴美が『遠い声』を書き始めたのは一九六八年の初めで、四十五歳だったという。そのきっかけは「丸の内にある中央公論の図書室で、青鞜を見せてもらうために本を捜していて、偶然、何かの拍子に、『死出の道艸』が出てきた」からだということだ。それまでに田村俊子などの自伝的小説を書いていたが、『遠い声』で「管野須賀子を書く時は、もっと小説的にしてしまおう。しかも史実にはあくまで忠実に、大逆事件の真相と、須賀子の人間像の真実を、余すところなく書ききってみたい。そんな思いで、私が考えあぐねていたとき、ふっと『死出の道艸』に書かれた一月二十四日、一日にしぼって、その日の須賀子の意識の流れをたどったら、書けるのではないかという考えがひらめいた」という。
 この須賀子について書いていることを総合雑誌、文芸誌の編集者に打診したが、「大逆事件はどうも……」ということで冷ややかな反応だった。天皇制を書くことに対するタブー、あるいは『風流夢譚』の余波が残っていたのか。そんな時に、「思想の科学」の編集者を通じて鶴見俊輔に話がいき、鶴見俊輔の決断で「思想の科学」に連載されることになった。
『余白の春』は、「婦人公論」一九七一年一月号から連載された。伊藤野枝、管野須賀子ときて、金子文子を書くようにすすめたのも鶴見俊輔であった。逡巡していた瀬戸内晴美に決断させたのは「婦人公論」の編集者・関陽子で、あっという間に彼女から文子に関する資料の山が持ち込まれたという。金子文子も『なにが私をかうさせたか』という自伝を残している。しかし、「文子の手記を読んでその烈しい短い生涯には圧倒されたが、なぜか文子を好きになれなかった。文子の文章の中から詩が感じられなかったせいもあった。野枝も須賀子も年齢の割に文書がしっかりしていて、内容も説得力を持っていた」。それを瀬戸内晴美は文子の二十歳という年齢のせいではないかという。三十歳まで生きていれば、どれほど成長しただろうと感じたという。
 裁判記録を読むうちに、若い文子の自尊心をくすぐり、煙のような天皇暗殺計画を、確固たる陰謀のように仕立て上げていく判事の誘導尋問に、肌に粟を生じたという。文子の辛い生いたちは、文子の若い筆では充分に書ききれていないことに気づいた。そんな時に、まだ生存していた韓国の同志たちに会い、韓国の文子の墓を訪れることになる。さらに、不逞社の栗原氏から、朴烈・文子の怪写真の真相を聞くことができ、『余白の春』は完成することになる。
 金子文子の思想は、無政府主義ではなく虚無主義である。虚無主義というのは少しわかりづらいがテロリズムのことであろう。文子は社会主義を批判している。社会主義者が民衆のためにといって動乱を起こし、革命がなったとしても革命の指導者は新しい社会で権力をにぎり、新しい秩序を立て民衆が再び権力者の支配下で奴隷になるだろう。文子は自らのテロリズムを「ニヒリズムに根を置いた運動である。そしていわゆるテロリズム運動は一つの政治運動である。ニヒリズム運動は哲学運動である……、と私は思う」と、公判準備手続に書いている。
 文子は朴烈より先に、爆弾使用の計画、皇太子を狙った事などを自供している。これは文子が朴烈の思想に全面的に共感し、朴烈を「ありあまる自分の生命の余剰を惜しみなくあふれさせ注ぎこめる対象」としたためであろう。このような文子の思想は自ら築いたのではなく朴烈から教えられたものと思われる。『余白の春』を読んでいると文子が生き急いでいることが感じられる。一方で、思想的変遷を重ね、一九七四年まで生き、北朝鮮でスパイとして処刑されたとされる朴烈のその後の生き方が気になった。
 このように瀬戸内晴美が、伊藤野枝、管野須賀子、金子文子を取り上げ、国家権力による大逆罪をでっち上げる過程を小説という形に作品化したことは評価できる。一時は「文学などやめて女革命家にでもなりたいような気持」と書いたこともあるという。ところが今年の五月九日の「朝日新聞」に「残された日々」、「御大典」を書いている。そこでは幼少の頃の代替わり(昭和天皇の即位)の日の浮き浮きする感じを回想し、「上皇、上皇后になられた両陛下に、しみじみ御苦労さまでしたと掌を合わせた」と書き、最後に「どうかあくまでもおだやかなお二方のお時間を末永くお楽しみ遊ばすようにと、お祈り申し上げます」と結んでいる。金子文子、朴烈に大逆罪で死刑判決を下した天皇制を糾弾しながら、平成を生きた天皇は平和愛好家という論理なのだろうか。
『余白の春』を書いたすぐ後の一九七三年に出家しているのは、この世の波風を避けるためだったのだろうか。この朝日新聞の記事を読んで、ある人が「愚かなり、瀬戸内寂聴さん!! 金子文子が泣いていますよ。瀬戸内さんに「原則」や「節操」を求めても意味はないでしょう。しかし、天皇制を真っ向から断罪して獄死した金子文子に感銘したあなたの感性をお忘れになるな、と申し上げます」と書いていた。
                              2019年7月13日