遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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黒島伝治『渦巻ける烏の群れ』を読んで

2017-05-27 10:07:01 | 読んだ本
         黒島伝治『渦巻ける烏の群』          松山愼介
『二銭銅貨』は素朴な作品である。農村を舞台にし、生活の貧しさを強調しているが、それほどイデオロギーは感じられない。ところが『橇』、『渦巻ける烏の群』という「シベリアもの」となると、明らかに反軍隊、反戦というイデオロギーが表に出ている。この転換を示す過渡の作品が『豚群』である。『二銭銅貨』、『豚群』は「文芸戦線」に発表された。『豚群』は青野季吉の『自然生長と目的意識』という論文の強い影響を受けて書かれたという【『日本文学全集 44』(集英社)の小田切進の「作家と作品」】。
『自然生長と目的意識』は「文芸戦線」一九二六年九月号に発表された。プロレタリアートはそれ自身で階級意識を確立することができないので、前衛党による外部からイデオロギーを注入し指導しなければならないという、レーニンが『何をなすべきか』で定式化した「外部注入論」の文学への機械的適用であった。平野謙『昭和文学史』(筑摩書房)から引用すれば《プロレタリアートは自然に成長し、それとともに表現欲も自然に成長する。工場から農村から小説や戯曲が生れる。しかし、それはまだ運動ではない。プロレタリアートの表現欲は、それだけではまだ個人的な満足にすぎない。プロレタリア階級の闘争目的を自覚したとき、はじめてそれは階級のための芸術となる。つまり、社会主義思想に導かれて、階級のための芸術となったとき、はじめてプロレタリア文学運動は起こるのである》ということになる。
 この論文をきっかけとして、文学運動は一挙に流動化する。「種蒔く人」の流れをくむ「文芸戦線」はアナーキストもサンディカリストもニヒリストも反資本主義的な人々もが同居する共同戦線体であった。そこへ林房雄、中野重治、亀井勝一郎らの東大新人会系の社会文芸研究会が「文芸戦線」の母体であったプロレタリア文芸聯盟で主導権を握り、マルクス主義的なプロレタリア芸術聯盟に改組されることになった。このため中野重治らのプロレタリア芸術聯盟から、林房雄、黒島伝治、葉山嘉樹らが脱会し労働芸術家聯盟を結成することになる。これが一九二七年六月のことである。『豚群』はこの分裂の直前に発表され、『橇』、『渦巻ける烏の群』はこの分裂の最中に発表されている。ただし、黒島伝治は一九三〇年には、中野重治らの日本プロレタリア作家同盟に加わり、「戦旗」に作品を発表するようになる。
『橇』、『渦巻ける烏の群』は「シベリアもの」といわれ、日本のロシア革命干渉戦争、シベリア出兵の体験を基にしている。黒島伝治は一九二一年五月にシベリアに派遣され、一九二二年三月肺尖炎で入院し、五月に帰国、姫路衛戍病院に転送され、七月に兵役免除となっている。この肺尖炎になったきっかけは『橇』には、シベリアの夏、「道路にすてられた馬糞が乾燥してほこりになり、空中にとびまわる、それを呼吸しているうちに、いつのまにか、肉が落ち、咳が出るようになってしまった」と書かれている。事実はシベリアへ行く前から病気の徴候はあったらしい。ちなみに、私の学生時代、札幌でも馬糞は落ちていなかったが春先の強風を馬糞風と言われていた。
 前掲の小田切進の「作家と作品」によれば、黒島伝治のシベリアものは宮本顕治によって「戦争や軍隊の本質が階級的な観点から、さまざまな矛盾とのかかわりにおいてとらえられていない」と批判された。しかし、戦後、宮本顕治は「不備なところはいろいろあるが、当時のシベリア出兵の一局面を通して侵略的出兵を批判的に描いている」と評価し直しているということだ。確かに『橇』、『渦巻ける烏の群』は反戦、反軍的な作品だが、どこかユーモラスな描き方で、戦闘シーンに緊迫感、現実感がない。これは彼が病院の看護兵(衛生兵)であったからかも知れない。『橇』で兵士が戦争は「おれらがやめりゃ、やまるんだ」とか、兵士の銃剣が近松少佐の胸に集中していった、という描写は作者の願望のようで観念的でリアルな感じがしない。。
 先の大戦の発端は、一九三一年の満州事変だが、その元はロシア革命にある。満州、朝鮮の権益をめぐって日露戦争が起こったが、ロシア革命の結果、ロシアは満州から手を引かざるを得なかった。その空白と中国の混乱につけこんで日本が満州に進出することになる。日本は太平洋戦争でアメリカに完敗したために、その被害者的側面が記憶に残っているが、もとを正せば戦争の発端は日中戦争(支那事変)にあり、その元はロシア革命に対するシベリア出兵に求められるかも知れない。そうすれば、黒島伝治は単にプロレタリア作家としてだけでなく、先の大戦の大本、シベリア出兵を描いた作家として蘇るかも知れない。
                           2017年3月11日
 黒島伝治はあまり、馴染みのない作家だが、なかなか面白い。そんなにプロレタリア文学という感じもしない。この『渦巻ける烏の群れ』は日本のシベリア出兵をえがいていて、烏の群れの下には日本兵の死体があるのだが、読んでいて何かメルヘン調で、悲惨な感じがしない。悲惨な戦争をメルヘン調に書くことで、戦争をの実態を浮かびあがらせることができる。

野口冨士男『風の系譜』を読んで

2017-05-27 10:03:35 | 読んだ本
           野口冨士男『風の系譜』             松山愼介
 野口冨士男のモデルが左海松太郎で、この作品は松太郎の母・小室多代の生涯をえがいている。多代の母・小室トメは兵庫の生まれで、母親の意をたてて総領息子の弟・三之助を神戸に残して荒物屋を張らした。この荒物屋の元手の必要から、トメの妹・カツは岐阜の遊女に身を落とさねばならなかった。トメは三之助が身を立つようにはからうと東京に出てきて、牛鍋屋の友朝で女中奉公をして、神戸へ仕送りを続けた。多代が東京に出てきたのは、明治二十九年の初春で六歳の時である。トメが挽子上がりで車宿の持ち主にまでなった寅造と所帯を持ってからである。寅造は再婚で、トメは三婚であった。
 この作品では女性は働き者で、男性は病弱か放蕩者とされている。トメの最初に結婚した男は散髪屋であったが、賭博に手を出し入獄している。二番目の男は錺職人であったが、肺を患って亡くなり、この男が多代の父なのであった。
 寅造の生業の人力車は、日露戦争(明治三十七年)を境に衰退していった。電車の発達、自転車の利用のためであった。筑豊炭田で遠賀川で運ばれていた石炭が、鉄道に取って代わられたのと似ている。しかし、寅造夫婦が人力車から手を引いたのは偶然で、車宿の株を売り払い富久屋という待合をはじめた。これは近くに富士見町という三業地があって、花柳界の裏を知って、車宿という堅気の商売が馬鹿らしくなったからであった。
 私は学生時代、飯田橋の法政大学によく出入りしていたが、グーグルマップを見ると、靖國神社も富士見町も法政大学からすぐ近くにあったので驚いた。三島由紀夫が自決した市ヶ谷は飯田橋の隣の駅というのは知っていたが。東京には富士見町という地名が結構あるが、これはその地域から富士山が見えたからであろう。
 この作品は昭和十四年に発表されたもので、日中戦争たけなわのころであった。野口冨士男は昭和六年に徴兵検査を受けたが丙種で徴兵免除となっている。おそらく肺門淋巴腺腫脹のためだろと思われる。ところが、著者三十三歳の昭和十九年九月十四日、第二国民兵として海軍に召集される。第二国民兵というのは、徴兵検査のとき丙種になったもので、陸軍の管轄下にあり、彼らはいわば、陸軍で使いものにならないので海軍に払い下げられたのである(野口冨士男『海軍日記 最下級兵の記録』。内科診断にあたった軍医は、肺門淋巴腺腫脹、消化器疾患、脱肛という著者の訴えに耳をかさず「よしッ、軍隊で直してやる」と言ったのだった。レントゲン、結核の有無だけで判断されたのであるが、戦争末期であり、軍隊も召集兵のより好みをしていられなかったのである。ちなみに著者より二つ年上の私の父は海軍で鹿屋に、大岡昇平はフィリピンに送られている。野口冨士男より年上の者が召集されたのは、単に兵の人数が足りなくなっただけであろう。
 高橋英夫は『昭和文学全集 14』(小学館)の解説で、「当時花柳界を書くなどという行為は、大胆不敵な時局非協力の姿勢に他ならなかった」と書いている。野口冨士男も「当時、なかば意地になって花柳界ものばかり書きつづけていた私は、時節柄、執筆禁止にちかいところまで追い詰められていた」と書いている。昭和十八年の八百枚の書き下ろし長編小説『巷の空』は、「時勢に鑑み不急の作品とみなされ出版不許可」となっている。

 野口冨士男の『耳のなかの風の声』に『風の系譜』について書いているところがある。

 父は、母が私にそれを書かせたのだと考えたのである。が、私がその作品の執筆に当って、唯の一カ所でも母に問いただしたという事実は全くなかった。私は折にふれ見聞きしていたことを土台として、その知識を作品に再組成したまでのことなのである。したがって、あるいは事実そのままを書いたとは言い難いものが、その作品の中にも若干は含まれていたことだろう。しかし、私は故意に事実を枉げたつもりはなかった。父を必要以上にみじめな男として描き上げたつもりもなかった。

 母については次のように書いている。

 父はひょっとすると、母にとって初めての男ではなかったのか。――私はこのごろになっても、時折そんなふうに考えることがある。むろん、それは私の感傷にすぎまい。母はもっとよごれた女だったはずなのだ。事実はそうであっても、しかし、いっこうに私には差支えない。が、そんなふうにでも考えなければ、ちょっとほかに解釈の仕方がないほど、父に対する母の献身には異常なものがあった。

 父夫婦のあいだに三番目の子供が生まれたとき、母がその子供のためにオムツを心配してやったことをも私は忘れない。私が母に我慢のならぬものを感じるのは、そんなときのことであった。自分の力などではどうにも救い得ぬものもこの世はあるのだということに、母が全く気づいていないことに対するもどかしいさからであった。

 このように生きた母は、終戦の年の二月二十六日の空襲中に狭心症で急逝した。また父は、昭和二十八年二月二十六日、大島を出港した船が月島の岸壁に横づけになる時刻の一時間前に妻と末弟とともに海中に身を投げた。父の溺死体は三浦三崎近傍の海上で出漁中の漁師によって発見された。彼の妻の遺骸は五日遅れて発見されたが末弟の遺体はついに見つからなかった。父は会社に四千五百万円の負債ができ、経営がどうにもならなくなり責任を取ったのであった。六十六歳であった。
 時代は異なるが、織田作之助の『夫婦善哉』を思い出した。男はいろんな仕事に手を出し、必ず失敗する。妻はその穴埋めを仲居仕事でするという物語で、この作品では最後は夫婦関係ではなかったが、男女の生き方として似ているところがあった。男はいつまでも夢のような事を考えて仕事をみつけ、その後始末を女がするという時代の話であった。しかし、このような父と母がいたから野口冨士男という小説家が生まれたともいえるのである。
                       2017年2月11日