遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

佐多稲子『夏の栞 ―中野重治をおくる―』を読んで

2018-09-10 12:03:41 | 読んだ本
     佐多稲子『夏の栞 ―中野重治をおくる―』       松山愼介
 中野重治の最後の病床で、佐多稲子は中野重治の妻・原泉に、中野の足が冷たいので、さすってやってくれと頼まれる。「稲子さんに、足を撫でてもらっては、罰が当たるね」と、眠っていたかのような中野が言うと、原泉は、「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」と驚く。
 中野重治は佐多稲子がカフェーに勤めていた頃から、好意を持っていたのだろうが、窪川鶴次郎の方が、女性関係については達者だったのであろう。そのため、佐多稲子は窪川鶴次郎と、早々に結婚することになる。中野重治には、友人たちの力添えで原泉が紹介される。窪川鶴次郎は佐多稲子と結婚してからも、再三再四、女性に手を出し、昭和二〇年五月に離婚することになる。これには、窪川鶴次郎も佐多稲子も文筆家だったので、部屋を別に借りたことが仇になったようである。佐多稲子は夫の女性関係を問い詰めるが、その話し合いの最中に、裏切った夫の愛撫に負けて情痴の夜を過ごしてしまったという。これほど、窪川鶴次郎は女性扱いがうまかったのだろう。このような関係のなかで、中野重治は佐多稲子に好意をいだきながらも、友情の線を越えることはなかったのだろう。
 中野重治を論じる時に問題になるのは〈転向〉ということである。窪川鶴次郎の場合は、〈偽装転向〉といわれているようであるが、中野重治はこのことを深刻に受けとめた。中野鈴子と佐多稲子の会話がある。「兄は、本当に、転向したのでしょうか」という鈴子の問いかけに、佐多稲子は「転向だなんて。私は、それはちがうとおもうんですけど」と答えると、なおも鈴子は「兄は、原さんと私の前に手を突いて、頭を下げたんですの」と続けた。
〈転向〉の問題は、『村の家』でも一番、分かりにくいところである。途中で、《「転向しようか? しよう……?」という考えが今消えたのだった》と書きながら、結局、〈転向〉して出獄するのである。《「転向しようか? しよう……?」という考えが今消えたのだった》というのは、合法的なプロリタ文学の団体に所属していたことを認めたものの、共産党員であることを否定することに成功した時の感情である。ところが、後半には、詳しい説明がないまま、共産党員であることを認め、出獄することになる。これは獄中で、共産党員であることを否定することが中野重治の闘いだったことをあらわしている。転向五部作といわれる、『第一章』、『鈴木 都山 八十島』、『村の家』、『ひとつの小さい記録』、『小説の書けぬ小説家』は、その獄中での闘いの成果である。『小説の書けぬ小説家』には《おれはあやまって出てきたよ。おまえも知ってて軽蔑してるかもしれない。しかし、おれは生きながら背骨を売り渡したんだが、からだは動くんだよ。動く中で背骨は向うのもの、しかし動くんだよ。仕方がないじゃないか》と書いている。結核の悪化と、体力の消耗があったとはいえ、中野重治はこの〈転向〉を深刻に受けとめた。出獄後、友人が訪ねて来ても《壁にへばりつくようにして寝ころんでいた》という。
 中野重治がこのように〈転向〉という事態を深刻に受けとめたため、獄中十二年〈非転向〉の宮本顕治には頭があがらなくなってしまった。その一例が、一九五四年の新日本文学会における花田清輝編集長更迭問題である。宮本顕治の大西巨人批判論文の掲載を拒否した花田清輝に代わって、中野重治が議長裁決で編集長に就任することになる。佐多稲子も『渓流』で、新日本文学会の会議に宮本顕治が乗り込んできて、セクト的な会員(大西巨人)批判を展開する事態に反対している。佐多稲子は中野重治が〈党的圧力〉に敗北したと考えた。
 中野重治がこのような〈転向〉という形をとったのに対して、佐多稲子は、何度も警察の取り調べを受けながらも、自身が共産党員であることを気づかれなかったようである。そして、戦時中は、徴用作家として南方に派遣される。《私が軍慰問に行く、ということはどういう意味になるかと、迷ったのは本当である。が、結局私は周囲の空気に溺れた。私の、長屋住まいに近い隣組の中で、兵隊にとられた隣家の主人はすぐ戦死し、妻と幼い二人の娘が残されている。老父と息子の家でも息子に赤紙がきて、私も高田馬場駅までそのおとなしそうな青年をみおくった。こういう情勢の中で、私の家は特高刑事の来る家である》(『佐多稲子全集 第四巻』「あとがき」)。こうして、佐多稲子も軍の意向に従わざるを得なかった。このような二人が、いろいろな経緯がありながらも、戦後も共産党に入党し、さまざまな場面で協力しあいながらも、一九六四年に、相前後して、共産党を除名されている。死んだ後も、女性である佐多稲子にこのような追悼の一冊を書かせた中野重治は幸せな男であった。           
2018年8月11日

 中野重治が取り調べで、共産党員であることを否定することにこだわったのは、もし、共産党員であることを認めれば、共産党を離脱しなければならないと考えたからであった。共産党離脱=〈転向〉ということになるのである。中野重治、転向五部作を読めば、権力との攻防が、共産党員であるか否かをめぐって争われていることがわかる。合法的なプロレタリア文学の団体に関わっているだけで、共産党員ではないという主張を守り通すことができれば、中野重治は〈転向〉を意識せずにすんだ。有名な《「転向しようか? しよう……?」という考えが今消えたのだった》というくだりは、共産党員であることを認めなかった時のことであった。中野重治は、獄中での病気の悪化による体力、気力の消耗もあって、共産党員であることを認め、左翼活動をしない、つまり権力に頭を下げて出獄したのであった。このことを、まじめな中野重治は、一生、心の傷として抱えて生きたのだった。そのため、宮本顕治の方針に異議があっても、〈非転向〉宮本顕治に頭があがらなかかったのである。中野重治がようやく、宮本顕治の呪縛から逃れるのは一九六〇年代半ばになってからである。
 一方、〈非転向〉の蔵原惟人は、共産党員であることを認めながらも、検閲があるので、自分の活動は合法的な範囲に収まると裁判で主張している。蔵原惟人の場合は、共産党員であることが明らかであったので、共産党員であることを認めながらも、〈転向〉せずに、戦争中に刑期を終え、満期出所している。但し体力の消耗は激しく、回復するのに一年以上かかっている。

 なお、より詳しくは「異土」4号『中野重治――「ねばならぬ」を生きた文学者――』、「異土」5号『吉本隆明「転向論」をめぐって』を参照して下さい。
(「異土」は「文学表現と思想の会」の有志による同人誌です。詳しくは「文学表現と思想の会」のホームページを御覧ください)


泉鏡花『歌行燈』を読んで

2018-09-10 11:25:21 | 読んだ本
    泉鏡花『歌行燈』              松山愼介
 この作品は明治四十三年に発表されているが、それ相応の知識がないと読めないと思われる。大衆向けの作品ではなく、玄人向け、あるいは、戯曲にされることを前提に書かれたのではないだろうか。
 最初に登場するのは、《年配六二三の、気ばかり若い弥次郎兵衛》、連れはやがて七十(ななそじ)になる老人(どうだ、喜多八)。この老人は捻平と呼ばれ、小父者(おじご)とも書かれている。この二人の本当の名前が判明するのは、二十節の終りで、年上は七十八歳の翁、辺見秀之進、《雪叟とて隠居した、小鼓取って、本朝無双の名人》で、《小父者は能役者、当流第一の老手、恩地源三郎》であり、《この二人は、公爵津の守が、参宮の、仮の館に催された、一調の番組を勤め済まして、あとを膝栗毛で帰る途中であった》と明かされる。読者はそれまでは、この弥次喜多道中に模された二人は何者かという疑問を持ちつつ読んでいくことになる。また、恩地源三郎の甥(養子)の名前が《喜多八》なので、一層、ややこしい。
 この二人が、途中で博多節の門附が熱い酒を一杯やっている饂飩屋の前を通り過ぎてゆく。この門附は、道を通る按摩を気にしている。その饂飩屋の前を芸妓が通る、彼女は《山田の新町から住替えた、こんの島屋の新妓》である。作品の半ばで、ようやく登場人物がでて、門附が、按摩に揉まれながら、身の上を話すという段取りとなる。この門附が、按摩の惣市、宗山を懲らしめるところが、物語の山場となる。
 この宗山、《江戸の宗家も、本山も、当国古市において、一人で兼ねたり、という勢いで、自から宗山を名告る天狗。高慢も高慢だが、また出来る事も出来る》という按摩である。門附は、維新の世変わりに能楽師たちが没落し、そこに小金を溜めた按摩が母親を追い廻していたので、按摩に恨みを持っている。道々で、この宗山が妾を三人も持っていると聞いて、怒りが爆発する。
 宗山が、謡始めると、喜多八は、《膝をちょうと叩いて、黙って二ツ、三ツ拍子を取る》、素人は《盲目聾》で気にしないが、謡の心得のある者だと、一気に調子を崩されてしまう。ついには《真俯向けに突伏》して、《長々と舌を吐いて、犬のように畳を嘗め》る仕儀となってしまった。その後、この宗山は《七代まで流儀に祟る》という遺書を残して鼓ケ獄の裾で憤死してしまった。この事件で喜多八は勘当され、諸国流浪の身となる。
 宗山の妾と思った、お袖は島屋の新妓、お三重になっている。このお三重が、門附をしている喜多八の博多節を聞いて、感動し頼み込んで、宗山が憤死した場所で、舞を教えることになる。偶然、恩地源三郎が宿に芸妓をよぼうとしたが、皆な出払っていてお三重が行くことになり、舞を見せることになる。その舞を、ひと目みて恩地源三郎は、喜多八が教えたのを感じ取る。喜多八もこの宿に吸い寄せられ、恩地源三郎と再会することになる。最後の場面が分かりにくいが、宗山の霊が、喜多八の足元に居るようにも読める。
 このように、読み解いてきたが、実は映画『歌行燈』(衣笠貞之助監督、市川雷蔵、山本富士子)を参考にしている。映画では、話の流れが、小説とは違って、いわば後ろから始まっている。つまり、喜多八が宗山を懲らしめるとところから始まり、鼓を打って宗山のリズムを崩している。実に物語を分かりやすくしている。泉鏡花は「東海道中膝栗毛」を愛読していたというが、あまりにも難しく書いているという印象を持ったが、これが当時の主流だったのだろうか。
 この二、三年、何度か歌舞伎を見る機会があり、能も一回だけ見たことがある。歌舞伎は劇と、謡に合わせる舞とがある。この謡が素人には、なかなか聞き取れない。能は事前にあらすじを調べ、能楽堂で配られるパンフで謡(セリフ)を確認しながら見るという努力を強いられ、楽しむまでには至らなかった。泉鏡花の時代には、このような謡を庶民が楽しんでいたのだろうか。最近、NHKで再放送されている『カーネーション』で、モデルになっているコシノジュンコの祖父(小林薫)は謡を教えていた。当然、娘の結婚式では「高砂」を謡っていた。
                           2018年7月14日

嘉村礒多『業苦・崖の下』を読んで

2018-09-10 11:18:46 | 読んだ本
      嘉村礒多『業苦・崖の下』            松山愼介
〈私小説の一極北〉という言葉が気になって、いろいろ調べると、平野謙の『昭和文学史』に、
《嘉村の作品系列はほとんど私小説的手法に終始していたが、それが私小説の極北と評価されるにいたったのも、そういう嘉村の狭くはあるが 人間性そのものに根ざした執拗な追及力によるものであった。晩年の作「途上」は、嘉村の自虐的な罪の意識が少年時代の回想という題材に緩和 されて、純粋な生命力の絶唱と紙一重の秀作となっている。最後の作品「神前結婚」は、従来の私小説家が誰もあばかなかった文士の出世意識を暴露した作である。実生活上の破綻を芸術的良心によって弥縫するのが私小説家の常道だったが、嘉村はその芸術的良心そのものにひそむ現世的な要素を抉りだしたのである》と、書かれている。
 平野謙の『昭和文学史』は、昭和初期の文学を、関東大震災以後、プロレタリア文学と新感覚派文学が現前したが、既成リアリズム文学と新旧交代することなく、《私小説によって代表される既成リアリズム文学と新感覚派から新心理主義にいたるいわゆるモダニズム文学とプロレタリアートの解放を念願するマルクス主義文学とが鼎立》したとしている。嘉村礒多が『業苦』、『崖の下』を発表した昭和三年は、初めて男子普通選挙が実施され、無産政党が進出し、それに驚いた警察が三月十五日に無産政党関係者に大弾圧をくわえた年であるが、嘉村礒多の作品にはそのような社会的事件は、ほとんど投影していない。わずかに『曇り日』の最後に摂政宮の車の通過に際して不審尋問を受ける場面だけである。
 この作品集を通読して、わからないのは主人公と母との関係である。『業苦』には《圭一郎はものごころついてこの方、母の愛らしい愛というものを感じたことがない。母子の間には不可思議な呪詛があった》と書かれており、母親は圭一郎を廃嫡して姉に相続させたいとも言っている。考えられるは主人公の色の黒いという容貌のことだろうが、普通の母親なら、むしろ息子の欠点を擁護するところである。母親は息子を呪詛しているのにもかかわらず、十九歳のときに二歳年上で、母親の遠縁の未知の女と結婚することになる。嘉村礒多が実際に結婚したのは二十二歳の時であるが。『途上』には、瓦斯会社の上役の娘と結婚したことになっている。それも中学の落第生の姉であって、子供が生まれて一年後に、彼女が再婚であったことを知り、嫁入り道具の鏡台を足蹴にして踏折ったりしている。《私は妻を愛してないわけでなく》、《彼女が出戻りだということで、どうしても尊敬することが出来ず生涯を共にすることに精神上の張り合いがなかった》ということになる。
 嘉村礒多を過大に(?)評価しているのは『現代日本文學全集』(筑摩書房 一九五五)の福田恆存である。《嘉村礒多は人間としての自己の愚劣と醜悪とを克明に描いたばかりでなく、ついに自我の尊厳を傷つけるようなことがらまで暴露し、しかもその背後に芸術家の吟侍すら残そうとしなかった》と書き、作家としての一線を越えてしまったかのように書いている。嘉村礒多が、このように自己を卑下し、露悪的に書いているのは、そもそも彼に不幸な感性を喜ぶ資質があったのではないだろうか。しかも、それが作家の資格だという勘違いがあったように思われる。
 だいぶ前に、聞いたことだが、大学で田山花袋の『蒲団』が取り上げ、教師が最後の《夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。/性慾と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷めたい汚れた天鵞絨の襟に顔を埋めて泣いた/薄暗い一室、戸外には風が吹暴れていた》という場面を、読み上げると、学生の間から笑いが起こるのだという。我々の世代は、ここは作者に従って泣くとこところなのだが。それでいくと、この嘉村礒多の妻の鏡台を足蹴にするところや、自作が一流雑誌に掲載が決まり、喜び倒れ、板の間に突っ伏してしまうような、一人空回りしているような場面も、当時の貧困や、家というもの、家族の状況に対する知識がなければ、現代の学生なら喜劇のように受け取るのかも知れない。
                          2018年6月9日
 平野謙の「私小説の一極北」については、「文学表現と思想の会」主宰、秋吉好氏から以下の指摘を受けた。

 平野謙が「私小説の一極北」と書いたのは、岩波文庫の宇野浩二解説からの引用だが、その元は、平野謙『文學の現代的性格とその典型(承前)—高見順論』(昭和12年10月「人民文庫」)のなかで、「私は嘉村礒多の文学をわ私 小説の極北と信じているが、云々」による。「いち極北」という表現は、嘉村の『神前結婚』について書いたもので、これは後に別のところで書いている。それゆえ、辻野久徳が「私小説なるものの極北」(「文学界」昭和9年2月号)と書いたのが嚆矢となる。