遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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全共闘について

2014-07-31 11:40:42 | エッセイ
       全共闘について       松山 愼介
『叛乱者グラフィティ』(宮崎学)の中に著者の友人の語った言葉がある。「党はすべてを要求する」「会社は私の人生のすべてまでを要求しない。党は全人生まで求める。党はそれほど絶対なものなんだろうか。お前、どう思う」この場合の党は日本共産党である。宮崎学はグリコ・森永事件で「キツネ目の男」として疑われた人物である。私は宮崎学の著書は他に『突破者』しか読んでいないが、今度この本を読んで彼がいまだに連合赤軍事件について考え続けていることについては敬意を表するものである。反代々木系の党派からみれば緩やかな組織と思われる共産党員にして、こういう意識である。反代々木の党派では全人格的忠誠が求められた。この党に対する全人格的忠誠と、銃による武装闘争が結びついた時、連合赤軍の誤りは必然だったのではないだろうか。
私は一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけて学生時代を過ごした、いわゆる「全共闘」世代である。入学は一九六七年四月である。角材とヘルメットでの闘争は一九六七年十月八日の佐藤首相の南ヴェトナム訪問を阻止しようとした羽田闘争に始まる。この「武装」闘争に入ってからは党派への忠誠はもちろんであったが、個人の生活自体も物理的に、精神的に規制されていった。この規制は党からというより、個人の党への志向が、個人の内面を内から規制するものであった。私の場合パチンコをしながら、心の中で「俺は〇〇派だ。俺は〇〇派」とつぶやいていたことがある。私はこの年(一九六七年)の九月頃に〇〇派の学生組織に加盟した。それからの二年余りは向うから闘争の波がやってきた。私としては理論的な勉強をしつつじっくりと闘争に取り組むつもりであった。しかし、続いて佐藤首相の訪米、原子力空母エンタープライズの佐世保寄港、ヴェトナムの負傷兵を収容する王子野戦病院開設、成田三里塚に新空港建設決定と闘争課題には事欠かなかった。
ここで「全共闘」について考えてみたい。一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけての学生を中心とした社会叛乱闘争を「全共闘運動」と一括して呼んでいる。しかしこれは便宜的なもので正しい呼び方ではない。「全共闘運動」は三つの段階に分けることができる。第一期は一九六〇年代半ばの慶応、早稲田、明治等の各大学における学費値上げ阻止の闘いで組織された「全共闘」である。しかしこの段階ではまだ全員参加型の学生自治会を前提としていた。次が日大全共闘、東大全共闘の時期であり、第三期は一九六九年春から、秋にかけて全国に拡がった学園闘争における「全共闘」である。この各大学の闘いと別の流れが三派系全学連の闘いである。
六〇年安保全学連崩壊後、全学連執行部は社会主義学生同盟(社学同、通称ブント)から、マルクス主義学生同盟(マル学同)に移行し、その後マル学同のカクマル派と中核派の分裂の結果、カクマル系となった、カクマル系以外の反代々木系諸派は、日韓条約反対闘争、原子力潜水艦寄港阻止、国際反戦闘争を経過するなかで勢力を回復しつつあった。この中で、分裂していた社学同系は統一社学同を結成し、マル学同中核派と社会主義青年同盟(社青同)解放派と共に一九六六年十二月に三派系全学連を結成した。三派系全学連は安保全学連のような大衆的闘争機関を目指していたため、社学同ML派、社青同国際主義派(第四インター)やプロレタリア軍団のような党派も結集した。前述の一九六七年十月八日の佐藤首相の南ヴェトナム訪問を阻止しようとした羽田闘争に始まる激しい闘いは三派系全学連が主導したものである。これらの闘いと並行して、日大、東大において学園闘争が開始され、その闘いの組織として全学共闘会議(全共闘)が結成された。
日大全共闘は大学理事会による巨額の使途不明金を追求する運動として開始された。そもそも日大では左翼の学生運動は、大学当局、右翼体育会による弾圧のため成立していなかった。そのため巨額の使途不明金を追求する運動は一般学生による運動として開始されざるを得ず、全共闘という形式をとったのである。東大闘争は青年医師の待遇改善運動が大学の閉鎖性と衝突し全学的な運動となった。この運動を理論面でリードしたのは、山本義隆、最首悟といった、安保全学連の生き残りであった。東大では代々木系が多くの自治会で多数派を占めていたため、自治会は闘う組織とはなり得ず、闘う組織として全共闘が結成された。
このような流れで、三派系全学連の街頭闘争と、学園闘争が結合する。普通この間の学生運動を「全共闘運動」と呼んでいる。一九六九年一月の東大安田講堂を中心とした攻防戦で、学生運動は一つのピークをむかえる。実は各大学における全共闘運動は、東大落城の後、一九六九年四月から始まり、あだ花の如く、半年間程続き、大学立法の成立、警察機動隊の導入により終焉する。私はこの一九六九年春から、秋にかけて全国に拡がった学園闘争こそ、本来の全共闘運動と呼びたいのである。
三派系全学連は党派間のヘゲモニー争いの結果、闘いの行動と目標については一致しつつも、一九六七年十月八日の直前には中核派系と反帝系(社学同と社青同解放派)に分裂気味であった。このような中で東大闘争において「全共闘」は三派系全学連に代わって、カクマル系、フロント系をも包摂するところの、ノンセクト、各党派の統一協議機関の役割を果たした。このような事情もあって、「全共闘」という言葉は広い意味で使われた。
東大全共闘は、形式的には、いわばノンセクトと党派のせめぎ合いであった。最終的な警察権力との闘いでは、ノンセクトだけでは無力であり、各党派の組織力に頼らざるを得なかった。

  「よく言われることだが、六〇年安保の全学連運動、六六年以来の三派全学連の闘いがあったからこそ全共闘運動は学生運動史上空前の規模で爆発した。そのことは間違いない。だが全共闘運動が必然的に戦術をエスカレートしていく中で、三派全学連をはじめとする革命党派の指導力が追いつかなくなったのもまた、とくに日大闘争などでは冷厳たる事実だったと思う。とくにブントにとっては、全共闘の気分にのった大学自治会の自立化により、党派としての指導力がますます脆弱になることが深刻な問題になった。」
                                     (荒岱介『破天荒伝』)

これは当時社学同委員長だった、荒岱介の回想である。全共闘運動の高揚と党派の指導力の問題がすな
おに語られている。私の場合でいえば、ある地方大学にいたのであるが、一九六九年の四月には、理由もなくとにかく学園闘争を起こすということが自己目的化されていた。闘いは入学式から始まった。教養部を中心としたノンセクトの部隊がいきなり入学式の会場となった体育館を封鎖したのである。諸党派の方針は入学式において壇上を占拠して新入生に対して政治的なアピールをするというものであった。諸党派はこのノンセクトの行動を黙認するしかなかった。諸党派の部隊と、ノンセクトの部隊が実力で対決するというわけにはいかなかったからである。代々木系といわれていた学長はこの体育館封鎖に対して「ナチスのようなファショ的行為である」という声明を発表した。ところがこの声明が、学生大衆を憤激させ、一挙に大学全体に闘いがひろがったのである。私はこのような学園闘争をこそ、本来的な全共闘運動と呼びたいのである。日大や東大のように個別の課題に対して闘うのではなく、この私が本来的なという全共闘運動は大学の位置、学生という身分そのものが闘争課題となったのである。私はこの一九六九年春に〇〇派を離脱している。ノンセクトで過激な運動ができるのであれば、何もわざわざ党派に縛られることはないという気分であった。この年私は大学三年生であったが、新一年生の大半は、教養部闘争委員会というノンセクトの組織で活動するようになっていた。全共闘は、党派に縛られないという利点のゆえに、多くの学生の結集軸になった。例えば、それまでは反代々木系の運動をしようとすれば、まずどれか党派を選択しなければならなかった。その必要がなくなっただけでなく、いつでも活動をやめられる組織でもあった。全共闘運動は、党派からみれば、弱者の運動、無責任な運動、党派に入る覚悟のないものの運動、すぐ止めるかもしれない学生の運動であった。
 全共闘運動は、大学立法の成立にともない、相次いで各大学が警察力を導入し、校舎の封鎖を解除することにより終結した。一方党派のほうも、カクマル派と中核派、解放派の死者をだすまでの内ゲバ、社学同内の赤軍派の結成により、大衆的基盤を失い凋落した。このようにして一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけての学生を中心とした社会叛乱闘争は終った。一般的にいって党派の運動は悲壮感がただよっていて、全共闘運動は明るかった。党派の運動においては、組織に加盟した時から、頭の中に革命という文字がどっかと腰をすえてしまう。しかし全共闘運動は違った。全共闘運動はその闘い自体が楽しかったのである。闘いの方針はもちろんみんなで検討するのであるが、自分の考えと違う方針が決まれば、その個人は黙って、闘いの場面から退場すればよいのである。そしてまた自分の考えに合致する場面になれば参加すればよい。このようにして闘いに参加する個々人は入れ替わりつつも全体として運動が続けばよいのである。
 今、考えてみると、全共闘運動の退潮にともなって、党派の側からその否定面ばかり強調されてきた。しかし、全共闘運動の否定面の強調は、究極の組織、連合赤軍を生んだにすぎなかった。もし連合赤軍的な極端な軍事方針がだされたとしても、全共闘的な組織であれば、方針を実行する前に組織が解体したであろう。現在、一年前の同時多発テロ以来、平和運動やNGOの運動があるようである。私はその運動の現在における存立基盤に対しては、疑問であるが、運動の組織形態に関しては三十年以上前のことになってしまったが、全共闘運動が見直されるべきだと考えるものである。 
                          2002年9月16日

『永遠の0』

2014-07-20 20:51:30 | 映画を楽しむ
   『永遠の0』(小説、百田尚樹 映画、山崎貴監督)     
松山愼介

百田尚樹の『永遠の0』が良いという話を聞いて読んでみた。ゼロ戦を扱っているということは聞いていて、戦争賛美の本なのかと思ったが、全然違った。むしろ戦争批判の小説であった。宮部久藏という特攻で死んだ祖父の真実を、孫の姉弟が、生きている戦友に聞いてまわるというのがおおまかなストーリーである。最初に話を聞いた戦友は臆病者だといった。ここが小説なので、祖父の真実は臆病者という一番最低のラインから凄腕のゼロ戦乗りだったというように、右肩上がりに評判は上がっていく。
祖父久藏は出征する直前に結婚しており、女の赤ちゃんも生まれていた。彼は必ず帰ってくると妻に約束する。死んでも帰ってくる、と。この約束を守るために、彼は操縦の腕を磨き、戦場では何よりも自らの生還を優先した。そのため空中戦では敵機より上方にあって攻撃をする。無駄な空中戦はしない。その姿勢が他の操縦士からみれば臆病者に映ったのである。ゼロ戦のエンジンが不調の部下には、無駄に自爆させずに不時着を命じて、あくまで生きることを追及させた。大成功といわれた真珠湾攻撃でもアメリカ軍の対空砲火のため二十九機が未帰還機となり、また多くの航空機が被弾した。攻撃部隊の戦死者は五十五名であった。
ミッドウェー海戦では日本軍は大敗北を喫した。しかし空母三隻が撃沈、一隻が大破したが多くの搭乗員は救助され、次の決戦地、ラバウルに送られた。日本軍は戦線を拡大し、遠く南方のガダルカナル島に航空基地を建設しようとしていた。しかし滑走路ができるやいなや、アメリカ軍の攻撃を受け占領されてしまう。日本軍は慌てて、奪回を目指したが兵力の差は歴然だった。このガダルカナル島の戦いにラバウルからゼロ戦が出撃させられたのである。ゼロ戦は航続距離が長かったので、片道三時間という長距離を飛んでの航空戦であった。帰りの燃料を考えるとガダルカナル島上空で戦えるのは十分前後であったという。しかも搭乗員は目視で片道三時間を飛ぶのである。空の上で方向感覚を失ったら、基地にたどり着く前に燃料が切れてしまうのだ。
日本軍の優秀な搭乗員をミッドウェー海戦で失ったのかと思っていたら、失ったのはこのラバウル、ガダルカナルでの消耗戦であったらしい。それでもガダルカナル島を放棄してからも日本軍はラバウルで良く戦ったということだ。私の太平洋戦争の理解ではミッドウェー海戦の敗北で日米戦争の帰趨は決していたのかと思っていたら、この南方で陣地戦が続いていたのだ。しかしラバウルでの戦いで優秀な搭乗員を失い、ここで戦争の帰趨は決した感がある。しかも、アメリカはグラマン戦闘機F4Fの改良型F6Fを投入してきた。これはゼロ戦の1000馬力のエンジンに対して、2000馬力のエンジンを搭載しており、防御力も格段と向上していた。このためマリワナ沖海戦では七面鳥撃ちといわれたほど、日本の航空機は撃墜され、その性能、搭乗員の技量の両面において全く優位性を失ってしまった。一時は国内で教官として搭乗員の養成にあたった宮部久蔵であったが、生徒の技量が航空戦に耐えると思えなかったので、なかなか合格点を与えず、上部から疎まれ再び前線に送られることになった。そこで特攻部隊に組み入れられるのである。(ここからも、物語は続き、感動の結末へ至るのだが、それを書いてしまうとネタバレになってしまうので触れないでおく)。
百田尚樹は中国からは右翼作家といわれているそうだが、戦場において、自分の生命をいかに大事にするかをテーマにしつつ、一方で日本軍の司令官を批判している。南雲、栗田といった大艦隊を率いた司令官は最後まで戦うことなく、そこそこの戦果をあげれば逃げるように戦場を離脱したと。またアメリカの9・11の同時多発テロがカミカゼ攻撃と言われたことに対して、特攻は敵の戦闘部隊に対しての攻撃であり、民間人を巻き込んだ同時多発テロと全く異なると明確に主張している。
映画は自宅から車で二、三十分のところにある大日イオンモールでやっていて、駐車料金は無料であった。映画は主演岡田准一で、妻に井上真央、孫の姉弟に吹石一恵、三浦春馬という配役であった。岡田准一は現在、NHK大河ドラマで黒田官兵衛役を務めている。
以前、NHKの番組で岡田准一と五嶋龍の対談を見たことがある。五嶋龍はあの天才バイオリニスト五嶋みどりの弟で、その技量は姉に勝るとも劣らないといわれている。この番組で、岡田准一は、自分はスタントを使わないように身体を鍛えていると語っていた。なぜスタントを使わないかというと、スタントを使うとカメラアングルが限定されてしまうからということであった。スタントを使うと顔がわかってしまうので、正面から撮影することはできなくなる。つまり単なる俳優として、務めればいいという考えではなく、監督を始めとするスタッフ全体のことを考えて撮影に望んでいるのである。大河ドラマでも、大道具、小道具さんがいなければ時代劇はできないと語っていた。きちんとしたセットがあってこその俳優ということを、若いにしては良く自覚していて感心した。
今までの日本の戦争映画はハリウッドと比べるとチャチなものであった。しかしこの『永遠の0』はVFX(特撮視覚効果)の技術も向上し、ゼロ戦の実物大の模型も造られ、かなりの迫力のある戦闘シーンが実現されていた。
                       2014年3月31日

吾郎の道行き

2014-07-20 20:50:21 | 小説
        吾郎の道行き           
 松山愼介
 今日は秋晴れの日曜日である。森沢吾郎は、いつものように、自転車で近くのスーパーに昼ご飯の惣菜を買いに行く。丁度、一年前の今頃、妻が交通事故で亡くなったのである。青信号を自転車で交差点に進入した時に、左折してきた大型トラックの後輪に巻き込まれたのだ。年金も受給でき、悠々自適の生活を妻とすごそうと思っていた矢先の出来事であった。妻は普段は注意深いのだが、たまに何かに気を取られることがあった。この時も左折するトラックを注意せず、何か気にかかることがあったのだろう。ほぼ即死だったそうだが、警察から連絡があって、対面した妻は事故のわりにきれいな顔だった。
台所に立ったこともなかった吾郎は、炊飯器のスイッチを入れた後、昼前にその日の惣菜を買いに行くのが日課となっている。朝はパンで、昼食と夕食の二食分の惣菜を買う。同じスーパーの惣菜だと飽きがくるので、三、四カ所のスーパーを順繰りにまわる。彼はグルメではないので、栄養のバランスを考えて、魚、肉、野菜を求めるが、出来合いのものは味が濃いので、そろそろ自炊も考えているところである。
スーパーに行く途中、地元の高校の前を通ると、大きなスポーツバックを肩にかけた高校生が、三々五々学内に吸い込まれていっている。直感的にラグビー部員で、きっとこの高校のグランドで地区予選が始まっているのだと直感する。彼も自転車で高校の中に入って、駐輪場に自転車を置いてからグランドを見に行く。グランドに出て驚く。なんと試合をしているのは我が母校であった。ライトブルーの地に黄色の太い横線、彼が五十年前に着たジャージーそのものである。彼はそのジャージーを着ている一人一人と握手をしたくなった。同じカラーのジャージーが五十年間も受け継がれていることに感謝を込めて。そのうちに、彼は自分の高校時代を思いだす。

 森沢吾郎はなんとなく、地元の進学校に通いはじめた。中学校の成績はそれほど勉強しなくても上位だったので、普通に学区の上位の進学校を受験して合格した。同じ中学校からは三十人受験して二十人が合格した。吾郎は中学では何のクラブにも属さなかった。無意識のうちに高校受験を意識していたのだろう。そのため、中学卒業の頃は特に親しい友達もできず、中学生活にむなしさを感じていた。それで高校に入れば、大学受験まで、三年はあるのだから、思いきって何かクラブ活動をやってみようと考えていた。そんな時、同じクラスの藤木が声をかけてきた。
「森沢君、何かクラブ活動やるのかい?」
「まだ、特に考えていないけど、何かやってみたいとは思ってる」
「俺は、ラグビー部に入ったよ」
「えっ、君、身体小さいのに大丈夫かい」
「大丈夫! 大丈夫! これが結構面白いんだ」
 吾郎は藤木とは入学以来、なんとなく気が合い、クラスでは仲の良い方だった。その藤木が身体は小さくひ弱そうなのに、激しいラグビー部に入っているのに少し驚いた。しかし吾郎はクラブ活動をやるのなら、ちまちました文化部ではなく、運動部をやろうと考えていた。そしてまた、やるなら徹底的に激しいクラブに入ろうかなとも考えていた。吾郎の性格はやや極端なところがあり、何か機会があれば、その流れにのってしまうことがよくあった。例えば、悪いとわかっていても、授業中に先生をいじめたり、立ち入り禁止の場所を探検したりしたことがあった。ラグビーについても、あまり知識がなかったが、ただ過激なスポーツだという印象はもっていた。それでこの藤木がやっているなら、自分にもできると思って、ラグビー部に入ることにした。
 ラグビーは十五人でやるスポーツなのだが、この進学校では大学受験のために大半の部員は二年生の地区予選が終わった段階で退部する。野球部は地区予選が七月に終わるので、三年生がその時期までやっていても、ギリギリ大学受験に間に合う。ところが、ラグビーの全国大会は冬休みにあるので、地区予選は十月頃までかかるので、そこまでクラブ活動をやっていては、とうてい大学受験に間に合わないのだ。そのために残っている三年生の部員は、キャプテンやリーダー格の二、三人だけとなる。それでラグビー部は十五人集めるのに苦労しているのである。入部したとき、三年生はキャプテンとフォワードリーダーの二人で、二年生は七人だった。それで最低限新入生が六人以上必要とされていた。吾郎が入った時は、新入生は八人いて、全部で十七人となって、なんとかチームを構成できる人数を確保していた。
 練習は同じ高校に定時制があるので、五時までとなっていた。三時半ごろから始まるので一時間半くらいの練習だが、取りあえず走ることが主であった。約一時間の試合時間中、走れる体力をつけなければならなかった。準備体操をした後はランニングパスといって、グランドの短い方の端から端まで約五十メートルを三十分くらいかけて、ボールを繋ぎながら何度も往復して走るのだ。最初はゆっくり走り、続いてハーフといって、真ん中ごろからスピードをあげ、最後は最初から全力で走るのだ。吾郎は頭の方が先走っていたから、単純に走ることは好きだった。走っている間は、むかつく教師のことも忘れることができた。
 この約三十分のランニングパスが終わると、フォワードとバックスに分かれて練習することになる。新入生はまずフォワードの練習をして、走力が認められれば攻撃をするバックスに入ることになる。フォワードの練習はスクラムが中心となるが、新入生はまだ体力がないので、壁に向って手をついて、膝を九十度に曲げるスクラムの姿勢を保つ練習をする。キックされたボールを受ける練習もするが、後は主にタックルの練習で、身体を軽めにぶつけ合う。
 一週間ほど、この一時間半のメニューをこなすと、太腿が張って痛くなるが、それでも走り続けると不思議に痛まなくなってくる。ただ困ったのは、家に帰って夕食をすますと、疲れているのですぐ眠くなってしまうことだ。英語、数学の予習は最低三時間はやらねばならなかった。しかも、大学受験は三年後とゆっくり構えていたのに、数学は一年の一学期から大学入試問題をやらされた。他の新入部員もそんな状態だったのだろう、なんとか入部した新入生も一学期の終わる頃には三人が勉強を理由に退部していた。それでも吾郎は退部することなく頑張った。それには藤木の存在が大きかった。いつもひょうひょうとしている藤木は、勉強もクラブもこなしていた。
「おまえ、勉強は大丈夫か?」と吾郎が話しかけると、
「まあまあだな。高校生活をガリ勉でおくって、いい大学へ入ってもつまらんからな」と、いつものようにひょうひょうと答える。
「それもそうだな。何とかなるか。田沢のやつは、あれだけ体力があって、走るのも速いのにあっさりやめやがったな」
「親がうるさかったらしいよ」
 田沢は百八十センチ、七十五キロくらいで、運動神経もよく、走るのも速かった。二人ひと組で競争する時は、彼は吾郎を馬鹿にして「おまえとなら楽勝だな」と言って、余裕を持って走る。吾郎が全力で走っても、途中でついた二、三メートルの差はつまらなかった。ある日、気がついたら彼は練習に出てこなかった。田沢を含めて三人が退部したので、メンバーは十四人になってしまった。
 上級生は「クラスに走るのが好きなヤツがいるだろう。どんどん入部させろ」というけれど、吾郎はこの進学校にそんな単純なヤツがいるものかと思いながらも「ハイ!」と返事だけはした。運動部というのは、とにかく大きな声で返事をしておくのに限るのだ。
 気がついたら、成績はどんどん下がり、もう後がないくらいの順位になっていた。それでもクラブ全員で十四人なので、吾郎はもはや、やめるタイミングを逃していた。そういう意味では彼は要領が悪いのだ。夏休みになると、一週間の合宿がある。長野県の木崎湖というところで、練習づけになるのだ。夏休みは練習時間が二時間くらいに伸び、しかもカンカン照りの中での練習なのだが、上級生が「そんなチンタラ練習していたら、合宿でバテるぞ!」と一年生に気合を入れ続ける。その頃になると、一年生もいっぱしのラガーマン気取りで、体力もついてきたこともあって、上級生にはいい返事だけして、なんとか力を抜く機会をみつけようとする。そのせめぎ合いだ。最初は、夢中になって走っていた吾郎も雑念がわいてくる。「主将の馬鹿め!」とか、心の中で罵りながら走る。
 
 とうとう合宿が始まった。朝六時半に起きて、体操、そのままグランドへ行く。七時から一時間の練習、これはほとんど走るだけ。ボールを回しながら走るランニングパスが延々と続く。宿舎へ帰ってきて朝食を済ますと、しばらく休憩して十時から十二時まで練習。昼食を済まして、三時から六時まで練習。午後の練習は他の高校もたくさん来ているので合同練習となる。スクラムも普段は人数が少ないので、三人と三人の第一列だけの練習しかできないが、ここでは試合と同じ八人と八人で組むことができる。スクラムは第一列三人、次に四人、しんがりが一人である。吾郎はとりあえず、五番のロックというポジションで、二列目の右から二番目である。第一列の右側二人の腰の間に頭を突っ込んで、肩で第一列の尻を押すという役割である。両手でしっかりと、前二人の腰をサポートするのも大事な役目である。スクラムを組むときは、前列は二、三十センチの距離に近づいて、レフリーの掛け声で、一気にぶつかるようにして組み合う。この時に、如何に有利に組むかが問題で、その組み方で相手にプレッシャーをかけることができる。そのためには首を鍛えるのも重要になる。相手の首が強くてふところまで入られると押すどころではなくなってしまう。
 フォワードはボールを獲得して、バックスに回す、バックスはそれで攻撃ができる。もちろん敵ボールのときは、バックスもフォワードも防御になる。走っている敵をタックルで倒してボールの争奪戦になる。
 合宿の終わりごろになると、試合形式の練習となる。吾郎の高校は十四人だったので、相手の高校から一人借りての練習となる。始めての試合であった。最初のキックオフでいきなり吾郎のところへ、ボールが蹴り込まれた。がっちりキャッチしたが、タックルをまともにくらった。五メートルくらい吹っ飛ばされるが、練習通りきちんと半身の姿勢を取っていたので、痛みは感じない。味方のフォワードが集まって、バックスにボールを回す。相手チームはタックルがあまりにも見事に吾郎にヒットしたので、ボールを獲得できると思ったのか守備が手薄になっていた。ところが吾郎がタックルされながらも、ボールをきちんと確保して意外に早くバックスに回したので、こちらのバックスの展開力がまさり相手のスキをついたので、意外と簡単にトライが取れた。結果的に試合は総合力にまさる相手チームの勝ちになったが、吾郎は一応、試合というものを経験できたのだった。
 合宿の最終日は練習は午前だけで、昼から帰りの汽車までの一時間程の間、コーチの教師から、木崎湖で遊んでいいということになった。合宿が終わったという解放感で一年生はボートを借りて、一気に力まかせにこぎ出した。ところが、この木崎湖は意外に広く、気がつくと船着き場からあまりにも遠くまで行ってしまった。帰ろうと全力で船着き場に向かったが集合時間に三十分ほど遅れてしまった。予定していた汽車に間に合わなくなって、上級生とコーチの教師はおかんむりだったが、そんなエピソードもはさみながらも吾郎達、一年生も合宿を乗りきったことでラグビーをやっていく自信のようなものを持つことができた。

 ラグビーは激しいスポーツであって、それはそれでいいのだが困るのは怪我である。例えばスクラムが崩れることがよくある。ところが両手は、前列の腰をつかんでいるのだから、顔から地面に落ちることになる。そのために顔にすり傷がたえなかった。また吾郎は試合中に手をスパイクで踏まれたことがあった。ラグビーはスクラムで押し合うのだから、滑らないように靴にスパイクが打ってあるのだ。このスパイクシューズで、手の爪を踏まれ、爪が剥がれたこともあった。  
秋になって全国大会の地区予選が始まった。我が校の目標はまず一勝、できれば二つ勝つことであった。藤木はフォワードで第一列の真ん中だった。スクラムにはハーフがボールを入れるのだが、藤木はフッカーといって、ボールを右足でかいて、味方の後方へ送ってバックスへボールを回す起点となる役割であった。十四人で部員が一人足りなかったので、サッカー部に応援を頼んだ。足の速いサッカー部の一人がバックスに入ってくれた。この試合で藤木がトライを決めた。藤木は器用なところがあって、ポジショニングがよかった。偶然かも知れなかったが、こぼれたボールがスッポリ藤木の胸に入った。前に敵は誰もいなかった。藤木は三十メートルほど走りきって、新入生、初のトライを決めた。応援のサッカー部員も頑張ってくれて、予選第一試合は五点の差で勝つことができた。
 予選第二試合は翌週の日曜日で、同じサッカー部員に応援を頼んだ。確か前半の終わり頃だったと思う。スクラムになって、組み合ったときに、吾郎の前で、グキッという鈍い音が聞こえた。スクラムを解消してみると、藤木が泡をふいて倒れていた。スクラムの組み合うタイミンがずれて、首を痛めたようだった。早速、救急車が呼ばれ、藤木は運ばれていった。十四人で試合を続行することも可能だったが、部員の動揺が激しかったのでコーチの教師はその時点で、試合を放棄し敗北となった。
 藤木は頚椎を骨折しており、下半身不随となった。この地区予選の終了で吾郎は退部した。半年間のラグビー部生活だった。事故にあったのは藤木だったが、吾郎が第二列にはいったのも、藤木が第一列にはったのも偶然であった。吾郎が頚椎を骨折する可能性もあったのだし、ラグビー部に入ったのも藤木に誘われたからだった。藤木のこの事故は、新聞の地方版にものり親の知るところとなった。母親から「あんたも下半身不随になったり、頭を打って馬鹿になったりしたらどうするんだよ」と泣きつかれて、吾郎は退部せざるを得なかった。
高校生活の間、吾郎は何回も藤木の家へ行った。藤木は首を固定してベッドで本を読んでいることが多かった。藤木の家では、庭の真ん中にプレハブを建て藤木の部屋にしていた。藤木のひょうひょうとした語り口は相変わらずだった。
「なーに、ちょっとしたミスさ。スクラムを組むタイミングが一瞬遅れたんだ。まあやってしまったことは仕方ないさ。ただ、このベッドでの生活が一生続くとなると、嫌になるがな……」
 吾郎は、藤木の眼に一瞬涙が浮かんだのに気がついた。
「そうだな。まあベッドでも勉強はできるよ」と、慰めたが、慰めの言葉になったかどうかは、わからなかった。吾郎は卒業が近づくにつれ、受験勉強に追われて、自然と、藤木の家へ行く回数は減っていった。吾郎はラグビー部をやめてから、とりあえず受験勉強もしたので、下から数えた方が早かった成績も、真ん中くらいになった。その成績と、いちいち構ってくる母親がうっとうしくて地方国立大学をめざした。地方に行けば藤木と顔を合わす回数が少なくてもよくなるという考えもあったかも知れない。大学を四年で卒業し、就職して東京に住むようになると、それを機会に藤木の家を訪問することはやめた。相変わらず、ベッドでの生活になっている藤木を見るのがただつらくなってしまったのである。

 吾郎はラグビーの試合をしている若者たちをみて、自分の高校時代を思い出していた。しかしあのクラブ活動と受験勉強というのは何だったのだろう。藤木はラグビーで寝たきりになり、吾郎は会社員として普通に働いた。丁度、いわゆる経済の高度成長の時代と重なったため、残業はあったが、それほど頑張らなくても業績は右肩上がりだった。給料も毎年少しずつであったが上がっていった。家も買うことができたし、内心、馬鹿にしていた年金もきちんと払い続けたので、定年後は年金だけで生活ができるようだ。丈夫だった妻が自分より先に死んだという計算外の出来事はあったが、生活は安定していた。
 今、青春を謳歌している若者たち、一人一人に吾郎は声をかけたくなってくる。クラブ活動も、受験勉強もいいだろう。だがそれは人生の一部でしかない。それは経過するものであって、目的ではない。その時、我が校の対戦相手、優勝候補の一角のチームから声が聞こえてきた。
「試合を楽しもうぜ」
「俺らは花園へ行くんだ」(注 全国大会が開かれる花園ラグビー場のこと)
「そのために、練習してきたんだぞ」
キャプテンらしき人物が声をかけると、他のチームメイトが「オッー」と、一斉に声をあげた。
吾郎は少し驚いた。楽しむのか。試合は楽しむためのものだったのか。吾郎の時代は、何か一つの試合でも悲愴であった。禁欲的に、自己節制して、試合というものは、何か聖なるもののように捉えられていた。とても楽しむようなものでなかったし、その余裕もなかった。五十年を経て完全にラグビーをやる高校生の意識が変わっていると思った。そうか、それでいいのだ。試合を楽しむために、激しい練習をやるのか。吾郎の時代は正反対だった。激しい練習自体が自己目的になっていたような気がした。とくに吾郎のチームの主将は悲愴な決意で、チームの責任を自分一人で背負っていた感じがした。それで、他のチームメイトが少しでもダラけた様子に見えたら、容赦なく叱責した。練習も、試合のためでもなく、自己鍛錬のためでもなく、悲愴な修行のように考えていたように、今の吾郎には思えるのだった。
試合は、実力に勝る対戦相手が、我が校に圧勝した。しかし我が校のプレイヤーもはねかえされても、タックルにいき、攻撃を試みていた。吾郎はこれが本来のクラブ活動だと思った。何も悲愴な決意で試合にのぞむことはない。試合を楽しめばいいのだ。受験勉強も同じだ。勉強を楽しみ、自分の実力に合った大学に進学すればいいのだ。そう高校生に内心で吾郎は声をかけ、昼の惣菜を求めてスーパーに向かった。          2013年9月30日

川上弘美 『蛇を踏む』

2014-07-20 20:46:36 | 読んだ本
         川上弘美『蛇を踏む』           松山愼介
 サナダヒワ子は「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった」。この一行は「朝起きたら、虫になっていた」というカフカの「変身」を思い出させる。ミドリ公園のミドリもミドリ亀を思わせるし、ヒワも鳥の鶸を連想させる。さらに藪で蛇を踏むも「藪蛇」を意識していると思われる。全体としていえば「蛇変身譚」といえよう。
 ヒワ子が踏んだ蛇は、「踏まれたらおしまいですね」と言い、人間に変身し、ヒワ子の住む部屋の方へ行き、ヒワ子の「母」だといって、一緒に生活するようになるが、夜になると柱を登って天井に行き、蛇にもどる。一方、勤め先の「カナカナ堂」の数珠作りの奥さんニシ子さんにも蛇がついている。また数珠の納品先の願信寺の住職は自身を「蛇の女房をもらったもん」といっている。この寺の大黒はカナカナ堂の「コスガさんに巻きついてからコスガさんの額をひと舐めした」。ヒワ子にも同じようにしたあと、最後には蛇に変り、「住職の膝をのぼり、背中を這い、首を三重に巻いた」。
 ヒワ子の曾祖父は、曾祖母の話によると、突然出奔して、鳥と暮していたという。三回目の冬に曾祖父は鳥に疎んじられて、家に帰って来た。この話は曾祖父が単に女と出奔した寓話のようにもとれる。
 作者の川上弘美は大学で生物学を専攻し、数年間理科の教師をしていたという。糸井重里の「ほぼ日刊糸井新聞」によるとセミ、コウロギ、蛾やゴキブリもけっこう好きのようだ。
「昆虫って、みんなメスのほうが大きいですよね。クモは昆虫じゃないですけど、やっぱりメスのほうが大きい。あるクモなんか、メスがあまりに大きく、オスは暴れて踏み潰されたりするので、メスを糸で縛りつけて交尾するという話を聞いたことがあります。私、自分も体が大きいもので、なんだか身につまされちゃって……。(笑)」というような発言もある。
 蛇と人間の関係を書くというのは、「教師に対して生徒が何か求めてくることは少なかったが、求められているような気がしてきて、求められないことを与えてしまうことが多かった」というようなことから、人間と人間の関係の取りにくさを表現しているのだと思われる。文庫本四十四ページにはそこのところが詳しく書かれている。「人と肌を合わせるとき」のことが書かれている。「肌を合わせる」というのは人間と人間とが関係するときのことであろう。何回かしてようやく「肌を合わせる」ことができるようになったときには、相手の姿が蛇に変るのである。そうして、その蛇の姿となった相手は「蛇の世界へいらっしゃい」と「私」をさそうのである。そうして、蛇と私の間には、教師と生徒、同僚あるいは親、兄弟との間にある壁がなくなるのである。
 作者は文庫本におさめられた、三つの作品を「うそばなし」と書いている。作者の最初に出版された『物語が、始まる』におさめられた「物語が、始まる」は雛型という人間型ロボットのようなものを育てる物語である。星新一のSF作品を思い出させる。芥川賞候補作となった「婆」という作品は道を歩いている途中で、婆に手招きされて、婆の家へ入ってしまうものである。このあたりの作品になると、SF調から脱して、不思議物語になっていく。婆の家の冷蔵庫の横にある穴に入るという話だ。穴のなかには婆達が集まってくる。死者達のお弔いをしているのだ。
『はじめての文学』は作者自薦の短編集だが、「神様」という作品はくまと散歩するという物語だ。「北斎」は蛸、「鼹鼠(うごろもち)」はモグラが主人公だ。このような作品を読んでいると、作者は動物と対話ができるような人ではないかと思えてくる。とりあえずは作者には人と動物の垣根は感じられていない。寓話ではなく「うそばなし」「不思議物語」というほかはない。比べるものがあるとすれば、宮崎駿の動画だろうか。宮崎駿の映画のなかでは、豚(「紅いの豚」)も猫(「となりのトトロ」)も人間と差別はない。そして自然に、異界へ誘ってくれる。川上弘美の作品が宮崎駿と違っているのは、動物から始まって異界だけでなく、冥界へ眼を向けていることだろう。案外、作者はこの世界に対する断念をもっているような気がした。                   2011年4月8日

 静寂の季節(小説)

2014-07-19 09:28:01 | 小説
        静寂の季節          
 松山愼介

 松沢吾郎はこのところ、何もすることがなくぼんやりしていることが多くなった。週に二度、整形外科へ五十肩のリハビリに行き、月に一度、高血圧の薬を貰いに行くという日課があるくらいだ。後はテレビを見るか、本を読むくらいのことだ。定年退職して五年、妻を交通事故で亡くして三年になる。この頃は、人生は緩慢な死への道なのかと思うことがある。テレビドラマでALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかった青年の物語があった。ALSは身体の筋肉が徐々に麻痺していき、最終的には、呼吸筋が麻痺して死に至るか、人工呼吸器を付け、身体は半植物状態になり、脳の機能は維持されながら、死を待つという残酷な病気である。時間の長い短いの個人差はあれ、人は確実に生まれた時から死に向かって生きているのだ。ただ、それを意識して生きているかどうかという違いがあるだけだろう。
 二、三日前に山で滑落死した女性がいた。報道によると六十六歳と六十九歳の女性二人で登山し、その内一人が雪で足を滑らし転落したらしい。年齢からいっても、おそらく雪のない山ではもの足りなくなって、雪の残る春山に挑戦したのだろう。結果的に一人が亡くなったとはいえ、そのチャレンジ精神には感心した。三浦雄一郎という八十歳でエベレスト登頂に成功した冒険家もいるが、この人は例外だろう。六十五歳というのは微妙な年齢で、仕事を引退し、といってそれほど体力に衰えを感じるわけではない。しかし、確実に体力は低下している。その体力と精神のバランスをうまく取って生きていくということが、この年齢層の課題だろう。そんなことを考えている吾郎の脳裏に浮かぶのは若い学生時代の体験である。

 それは四十数年前のことである。彼の行っていた地方大学にも大学三年の春にはいわゆる全共闘運動というのが押し寄せてきた。その一、二年前から東京などでは学生と機動隊の派手な衝突が報道されていたが、彼には無縁のものだと思っていた。ところがこの年の一月には東大安田講堂の攻防戦というのがテレビを賑わし、東大の入試が中止になった。これで学園闘争も終わりかと思っていたら、春になって吾郎の大学にも突然のようにキャンパス内にいろんな色のヘルメット姿の学生が登場し、入学式も会場の体育館に学生達が立てこもって封鎖したため中止になった。
 この体育館封鎖、入学式中止という事態に対し、学長が「ナチスもやらなかったような暴挙」という声明を発表したことで、逆に一般学生の怒りを買い、彼らをも運動に巻き込むことになった。一般学生だった吾郎のところにもその波が押し寄せてきた。吾郎は経済学部に進学していた。ただ所定の単位を取って卒業しどこかの企業に就職すればいいと考えていた。入学当初は文学部のロシア文学科にいきたいと思っていた。しかしロシア語は難しかった。半年くらい挑戦してみたがすぐ挫折した。だいたい、ロシア語はアルファベット自体が英語と異なり、しかも三十三もあるのだ。それはそれで覚えればいいのだが、名詞が前置詞によって変化するのにはまいった。モスクワがモスクヴァとかモスクヴィエと語尾が変化するのである。男性名詞、女性名詞というものもあり、じっくり取り組む気力がなくなってしまった。
 一年のロシア語の単位はなんとか取ったが、二年になるともうお手上げで授業にもほとんど出なかった。試験も欠席しようと思っていたが、何か書けば最低の合格点はもらえると、風の噂で聞いたので試験を受け、単位だけはお情けで取ることができた。こんな風に成長していくということは、自分の可能性がどんどん狭められていくことだった。そして大学を卒業して、どこかの企業に入って結婚してというような、決められた人生のコースがもう見えるようだった。
 そんな風に人生を考えていたところに、降って湧いたような大学の騒ぎであった。クラスの中にはいち早く、この運動に参加している者がいた。それが山上だった。彼は東京出身で、東大入学者数で上位になっていた進学校からこの地方大学に来ていた。高校時代から学生運動にかかわっていたようだった。吾郎は高校ではラグビーをやっていたが、大学では運動部に入る気はなかった。ロシア文学科への進学はあきらめたものの、ドストエフスキーは好きでよく読んでいた。自分の内部にも一人のラスコーリニコフが存在していると考えていた。
 山上と話をすると、彼もロシア文学に興味を持っていたが、話はすぐロシア革命の方へいった。レーニンやトロツキーという名前が山上の口からポンポン出てきた。
「松沢は、今のソ連が正しい社会主義だと思っているかい?」
「自由や民主主義がない国はおかしいと思う。でも資本主義もいいとも思えないね」
「今のソ連はレーニンやトロツキーのプロレタリア革命をスターリンが歪曲して、スターリンが独裁体制を打ちたて、その後も党官僚の支配体制が続き、民衆を秘密警察が監視するというとんでもない国家なんだ」
「山上はトロツキストなのかい?」
「トロツキストという言葉は感心しないな。トロツキストは自治会執行部派の連中が俺たちを誹謗中傷するときの言い方だからな。まだトロツキー主義者という言葉の方がましだがね。俺達はトロツキー主義者でもないよ。ロシア革命におけるトロツキーの役割は再評価されなければならないが、レーニン亡き後、トロツキーがなぜスターリンに敗北したのかを考える必要があるんだ」
「じゃ~君らの目指しているのはどんな国なんだい?」
「現在の資本主義の貧富の差を解消して、かつソ連のような間違った社会主義国家でもない、新しい労働者国家をつくるんだ」
 吾郎は今まで、資本主義も悪いが、ソ連を中心とする社会主義も良いとは思えなかった。たとえば東西に分割されたドイツはベルリンも東西に分割されていた。その境界には壁があった。これまでにも、何人もの人が東から西へ壁を越えようとして殺されていた。死を覚悟してまで、自分の住んでいる国から脱出しようとするということは、その国が相当ひどい状態にあるということだろう。いつも資本主義もダメ、社会主義もダメというところで思考がストップしていた吾郎にとって、資本主義でもない現在の秘密警察国家になっている社会主義でもない新たな労働者国家という考え方は新鮮だった。

 学内では自治会執行部派と、入学式を中止させた反自治会派の小競り合いは続いていた。吾郎は経済学部に進学していたので、教養部のように活発なクラス討論はなかったが、ゼミの連中や、二年までのクラスの連中と進んで話し合った。結論は出なかったが現在の大学の大人数を相手にしてのマイクを使った授業がおかしいとか、なんの業績もあげていない教授が毎年、同じ授業をしながら、その地位が保障されているのはおかしいというような意見がだされた。
 そのうち入学式を中止させた教養部の二年生を中心としたグループが教養部闘争委員会(C闘委)を結成した。C闘委は早速、「ナチスもやらなかったような暴挙」という声明を発表した学長と大学当局に対して大衆団交を申し込んだ。当然ながら大学当局はこれを拒否した。つまり学長や大学当局は学生との話し合いに応じないという態度を示したのだった。ここでC闘委は大学当局を大衆団交に応じさせるためにストライキを追及するという戦術を提起した。吾郎は、教養部は過激だなという感想をもった。それにストライキという方針がこれまで平穏であったこの地方大学で通るわけはないと思った。ところが学生大会で、自治会執行部派の反対をよそに可決されてしまったのである。
 今から考えてみると、学生達は平穏な大学生活にあきあきしていたのだ。なんか刺激的な行動を求めていたのだ。それが大学内の若い世代ほど、その度合が強かったのだ。教養部の主導権を握ったC闘委は決議になかったのだが、当然のように出入口にバリケードを作った。しばらくして吾郎は教養部のバリケードをのぞいてみたのだが、人一人分が通れるスペースを作ってロッカーがきちんと並べてあった。それも直線ではなく、鈎型状の折れ曲がった通路になっていた。要所を針金で止めてあって、見事なものだった。誰に学んだわけでもなく、このようなバリケードを作った教養部の学生達に感心した。
あせったのはそれまで大学内で自治会執行部派と対抗関係にあった既成セクトであった。最大野党であったK派は突然、大学本部を封鎖した。二十数名で角材とヘルメットで武装して、大学本部内に入り、職員の退去を求めた。抵抗する職員はほとんどいなかった。ただこのK派は警察機動隊が導入されるかもしれないという噂で、一週間ほどでこの封鎖を解いた。みずからの党派の存在を示したことに満足したのであろう。
C闘委は教養部のバリケードストだけではなく、大学当局の反応がないので、街頭闘争にも打って出た。アメリカによるベトナム戦争が続いていたし、千葉県三里塚には農民の反対を押し切って新空港建設が強行されようとしていた。またこの地方都市の郊外に自衛隊のナイキミサイル基地建設が計画されようとしていた。沖縄返還も決まり、日本国内の米軍基地に核兵器が持ち込まれるという危機感もあった。大学内部の空洞化と、反戦闘争の激化はC闘委のまわりに多くの学生を結集させた。これらの学生達がベトナム反戦、成田三里塚空港建設反対、沖縄の米軍基地撤去を叫んで街頭へ繰り出していった。C闘委はこのような政治に対する抗議運動と、大学闘争を結びつけようとした。
大学内では全共闘が結成され、各学部闘争委員会は学生大会の決議なしに次々とバリケード封鎖していった。ただ自治会執行部派が圧倒的力を持っていた理学部だけは全共闘も手を出せなかった。工学部では工学部闘争委員会によって、スト権投票が行われた。このスト権投票は変わっていて、工学部ストライキは当然決行されるべきであるという考えのもとに、ストライキに反対する者だけが投票するべきだというものだった。その結果、ストライキ反対票少数ということで、ストライキが決行された。
吾郎はこのような成り行きを、山上の後ろに付いてまわりながら見守った。そのうちに、気がつくと山上から黒色のヘルメットを渡された。その黒ヘルメットには白色のポスターカラーで経闘委(経済学部闘争委員会の略)と書かれていた。
「今日は十月二十一日だ。なんの日かわかるな。国際反戦デーだ。三時からデモに出発するから、俺について来い」と山上は言った。吾郎は釈然としないものを感じていたが、黒ヘルメットを受け取りうなずいた。デモに出るのは始めてだったが、C闘委や全共闘に共感はしていたので抵抗はなかった。
 その日のデモは荒れた。大学正門から一キロほどのところに国鉄の陸橋があった。そのたもとで警察機動隊は阻止線を張っていた。市の中心部にデモ隊を近づけず、大学内に押し込める作戦だったようだ。デモ隊は道路一杯に隊列を組んで、ジュラルミンの大盾を持った機動隊と激突した。デモ隊は何度か突破を試みたが、機動隊から発射される催涙弾と放水のために押し返された。日が暮れるころになると、どこからか火炎ビンを持った学生の一団が現れ、機動隊に火炎ビンを投げ込み、他の学生達も歩道の敷石をはがし、割って投石した。その日は夜まで、散発的に投石は続いたものの、時間が立つにつれ学生達は散り散りになっていった。道路上は投石された石が転がっていた。また近くの交番に火炎ビンが投げ込まれ炎上した。
 吾郎は途中で、頃合いをみてヘルメットを脱ぎ捨て下宿に帰った。次の日、大学に行くと百数十人が検挙されたという話だった。先頭に立っていた山上も検挙されたということだった。
 大学内では自治会執行部派の拠点である理学部、そこへ突入して、全学バリケードストをはかるC闘委を中心とする全共闘派の間で攻防戦が連日のように繰り返された。理学部の建物は上からスッポリ網でおおわれ、異様な姿をしていた。その網で全共闘派の投石を防御していた。一週間ほど、この攻防戦は続いたが、結局理学部に突入はできなかった。この頃を境にして、自治会執行部派と全共闘派の力関係が逆転してきた。四月から夏休みを経て、ストライキが半年を越えてくると、全共闘派の動員力も落ちてきて、その一方で授業再開を求める一般学生も多くなってきた。大学や世間をおおっていた閉塞感から逃れようと全共闘の運動にのったものの、全共闘が先行きの展望を見いだせず、街頭闘争へ出たことが結局、学内での全共闘派の支持を失わせていった。その逆に自治会執行部派が支持を盛り返してきた。全共闘派が理学部への突入をあきらめると、自治会執行部派は教養部の封鎖解除の実力行使に出てきた。激しい攻防戦の末、教養部の封鎖は解除された。
 丁度、この頃「大学立法」といわれた法案が国会を通過した。大学を不法に占拠している学生を、警察が大学内に立ち入って排除するための法案であった。形骸化していた「大学の自治」は完全になくなり、大学内に自由に警察機動隊が入れるようになった。十一月の初め、吾郎の大学への機動隊導入が決定された。C闘委を中心に全共闘として五人が今なお堅固なバリケードに守られた大学本部に籠城することが決まった。
 その日、吾郎はただ機動隊に攻撃される大学本部の建物を百メートルほど離れた場所から見守っていた。大学の周りは機動隊に固められ、構内には入れなかった。機動隊は催涙弾と放水を徹底的に浴びせた後、ケージのようなものに機動隊員十人くらいを入れ、クレーンで屋上に降下させた。学生五人は、力を出し尽くしたのかもう抵抗しなかった。全員が逮捕された。

 学内のバリケードはすべて撤去され、一週間ほどして授業が再開された。吾郎はしばらく授業にでるのをためらっていたが、とりあえずゼミにだけは出ることにした。ゼミはマルクス『資本論』の購読だった。吾郎には『資本論』を読む力はなかったが、担当教授は丁寧に『資本論』の論理構造を教えてくれた。『資本論』の内容が一ページ、一ページ頭の中に入ってくる実感があった。大学闘争の中で、バカにした教授もあったけど、吾郎の前に新しい世界が開かれたようだった。
 そんな時、十月二十一日のデモで逮捕された山上がようやく出所してきた。彼は警察から目を付けられていたこともあって、公務執行妨害、凶器準備集合罪で起訴されていた。起訴されたということは裁判にかけられるということである。裁判の準備や、弁護士との打ち合わせ等、時間と費用がかさむことになる。山上にとっては保釈金も負担であった。とりあえず吾郎は一万円をカンパすることで、自己を免罪した。今頃になって自分ももっと闘わなければならなかったのではないかという、ある種、良心の呵責を感じていたからである。
 C闘委のよく闘ったメンバーは、自治会執行部派の連中から嫌がらせを受けていた。大学に出てくると「大学解体と言っていたのはどうしたんだ!」と罵声を浴びせられた。後になって聞いた話だが二年ほど休学して、顔見知りの自治会執行部派の連中が卒業してから、復学したメンバーも相当数いたらしい。またC闘委のメンバーは理学部にはいくことはできなかった。吾郎の経済学部は、対立はほとんどなかったし、吾郎は活動家というほどのこともなかったので、比較的平穏な大学生活を送ることができた。しかし、封鎖解除後の大学は、今までの大学となにか違っていた。吾郎はもう講義を受ける気をなくしていた。ただ週に一度のゼミには欠かさず出席した。
 吾郎は大学を中途退学することも考えたが、よくよく考えて卒業することにした。この時、大学の卒業証書をもらっておいた方が、後々有利になるのではないかという打算があったことは否定できなかった。ただ卒業までの一年余りは長かった。大学には平穏な秩序が戻り、大学闘争などなかったかのように、以前と変わりない授業が続けられた。
 吾郎はゼミには出席したが、後は図書館に行って、一日を過ごした。学問というものを教えてくれたゼミの教授は信頼していたので、卒業論文は提出したかった。論文の書き方もわからなかったが、とりあえず初期マルクスに関する文献を少しずつ読んでいった。また取り残した単位も取るべく努力した。特に教養部の時、体育の授業が月曜日の一講目だったので、朝に弱い吾郎はほとんど出席できなかった。大学はこのような連中を集めて体育の補講をしていた。ある日などは一日四時間くらい、この体育の補講に出たりした。ほとんどが卓球だった。気のいい体育の教授は吾郎の顔を覚えていて、授業の準備を手伝っただけで、一講分、出席したことにしてくれた。
 期限ぎりぎりで吾郎は卒業に必要な単位を取ることができた。大学の封鎖が解除されて一年半がたっていた。裁判闘争を続けている山上ともう会うこともなかった。卒業できることが確実になると、吾郎は同じゼミの東田に誘われてスナックに飲みにいったりもした。東田はひょうきんな男で、女の子を楽しませる会話が自然とできる性格だった。吾郎は東田の横に座って、スナックの女の子とのたわいない会話を楽しんだ。
 大学の卒業式が近づき、吾郎は荷物を故郷に送り出し、最後にいつものスナックに飲みにいった。そこで女の子に「靴を買ってくれない」と頼まれた。たわいない会話を店でするだけで、まだそんなに仲が良いというほどの関係でもなかった。彼女は少し親しくなると、誰彼なしにプレゼントをねだっていたようだった。吾郎は大学四年間で親しく付き合った女性もいなかった。それでその子のためでなく、自分の思い出のために靴をプレゼントすることにした。次の日、待ち合わせて彼女の気に入った靴を買って喫茶店で、たわいない話をして別れた。
大学闘争の終わってからの静寂の季節は長かった。吾郎は卒業式に出ることもなく、下宿の後輩に卒業証書を送ってくれるように頼んで、誰に見送られることもなく、一人この地方大学を去り故郷に帰って行った。
                       2014年3月31日