遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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山﨑プロジェクト・関西イベントに参加して

2016-11-03 12:50:29 | エッセイ
 京都精華大学では、山﨑プロジェクトの関西イベント「ベトナム反戦闘争とその時代」展(山本義隆監修)が10月19日から24日まで一週間にわたって行われた。山﨑博昭君が亡くなった一九六七年十月八日の羽田弁天橋上の闘いの写真、十月九日の「京大新聞号外」の拡大コピーも展示された。佐世保闘争、三里塚闘争、王子野戦病院闘争の写真もあった。展示会場は一九六〇年代末にタイムスリップしたような空間であった。特筆すべきは、三里塚空港反対同盟委員長、故戸村一作氏の制作になる、オブジェ「真理と自由」、「闘う大木よね」が千葉から輸送され初めて展示されたことであろう。



 山﨑プロジェクト・関西イベントは発起人と、多くの賛同人、京都精華大学に手弁当で駆けつけて協力してくださった人たちによって成功裏に終った。今回、山﨑プロジェクトにスタッフとして参加して、このイベントが山崎博昭君の同級生や、同じ党派に属していた人たちだけでなく、多くの人々によって支えられていることを痛感した。山﨑プロジェクトは闘う組織ではない。一九六七年十月八日に羽田弁天橋で何が起こったのかを広く伝えると同時に、自分があれから五十年になろうという年月を如何にして生きてきたのかを問われるものでもあった。
来場者の中には、保存しておいた当時の新聞、雑誌を持ってきて頂いた方もあった。わずか五十年前の資料でも、放って置くと散逸してしまうであろう。また、東京、関西だけでなく、その他の地域や、韓国等においても展示会を開いてほしいという声もあった。来年の五十周年で終わるのでなく、それ以後も続けてほしいという要望もあった。「ベトナム反戦闘争とその時代」を広く伝えて行くことは重要だ。困難な条件もあるが、それを乗り越えて山﨑プロジェクトが進行していくことを望まずにはいられない。



 この山﨑プロジェクトのメインは、山本義隆氏による講演「科学と戦争をめぐって」であった。
 十月二十一日、京都精華大学で山本義隆氏の講演「科学と戦争をめぐって」が行われた。明治からの日本の歴史を科学という視点から見直したものだった。日本は一貫して科学に力を入れる政策をとっており、第二次大戦の敗戦後も、GHQによって内務省は解体されたものの戦争中、軍事研究に尽力した科学者はそのまま生き延びた。しかし、日本の大学における理工系学部の整備は遅れていた。大学での理工系学生の割合は一九六〇年代において、先進国では四十パーセントに達していたのに日本では二十パーセント程度でしかなかった。
 一九六六年頃から早稲田を始めとした学費値上げ反対闘争が各大学で起こった。私はこの学費闘争は貧しい人々から教育の機会を奪うものであるから反対したのだろうとしか考えていなかった。ところが山本氏によると、これは各私大と国が理工系学生を増やすための学費値上げであった。理工系学部は教育に金がかかる。そこで学費値上げをし、かつ文系学生を多く入学させる。文系学部は設備もいらず、大教室でマイクを使って講義をすればすむ。そのようにして学生から収奪したお金で科学教育を強化し、理工系学生を国策として増やすものであった。これが結局、原子力研究、軍事研究につながっていく。
 原子力発電所や自然と人間の関係についても言及された。原発の理論は科学で推し進めることができる。ところが科学と技術という問題がある。いくら科学が発展しても、それに伴う技術が同時に発展するわけではない。原発においては、もはや技術で制御不能ではないかという話であった。現実的に五年以上たっても、福島原発の汚染水は制御できていない。凍土壁は技術的に無理なようである。
私はこれを、山本氏の口からは出なかったが吉本隆明の科学論、自然論批判として受け取った。周知の通り吉本隆明は、原発は科学で制御出来ると考えていたし、自然が破壊されたら、人工的に自然を作れと『ハイ・イメージ論』に書いていた。
 吉本隆明の科学は発展するというのはその通りである。ところが科学が発展しても、それを実現する技術の発展は別問題である。原子核の理論が解明されても、それが原爆、原子力発電という形に技術を伴って実現されるのには十年以上の時間がかかっただろう。核分裂による原爆は核融合による水爆へと途方もない発展を遂げた。最盛期にはアメリカとソ連で七万発以上の核兵器を保有し、現在でも世界中で一万五千発以上の核兵器が存在している。世界の趨勢は核兵器の縮小へと動いているが、その処理に膨大な費用がかかっているとみられる。
 原子力発電は福島原発の事故に見られるように、そのシステムに技術が追いついていない。技術が追いつかないことを実証したのが高速増殖炉〈もんじゅ〉である。〈もんじゅ〉の炉心にはプルトニウムを十八パーセントも含んだMOX(ウラン・プルトニウム混合酸化物)燃料が使われている。〈もんじゅ〉は消費した以上の燃料を生み出す夢の原子炉とされている。ところがこの〈もんじゅ〉は、現在では技術的にほぼ不可能とされ、廃炉が検討されている。
 放射性廃棄物の処分も困難である。現在では再処理せず、そのままガラス固形体に封じ込めて地下に埋める方法が検討されているが、日本国内にはその候補地さえ見つかっていない。〈もんじゅ〉や六ケ所村の再処理工場は原子力技術を温存し、潜在的な核兵器製造能力を維持するためのものといえよう。
 科学と技術は相関関係にあり、技術に次いで当然、コストの問題が発生する。原子力発電はコストが低いことが利点とされていたが、放射性廃棄物や廃炉費用まで考えれば、将来的に途方もないコストが発生するであろう。確かに科学は吉本隆明の言うように後戻りはしないだろう。ただ吉本には科学と技術の関係、コストの意識はなかったのではないか。
自然についても、人類は自然から多くの恵みを受けてきた。科学の進歩を無際限に認めることは、自然を壊してまでも、自然を人類のために役立てようとするものとなろう。
 今年の夏、北海道の礼文島に行く機会があった。利尻、礼文は昆布の産地である。この昆布も自然が守られているからこそ生育するのだ。下北半島では、北側に原子力船〈むつ〉のための港が造られたため、昆布の生育環境が破壊された。沖縄で、辺野古に新しい米軍基地が造られたら自然環境は激しく破壊されるだろう。人間はそろそろ自然と調和しながら生きる道を模索すべき時期にきていると、山本義隆氏の講演を聞いて考えているところである。