遠くまで・・・    松山愼介のブログ   

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読書会に参加しているので、読んだ本の事を書いていきたいと思います。

田中小実昌『ポロポロ』を読んで

2022-02-22 23:32:56 | 読んだ本
              田中小実昌『ポロポロ』           松山愼介
 テレビに出ていた頃の田中小実昌には覚えがある。お笑い系のタレントだと思っていたが、趣味は哲学書を読むことで、確かカントを好んで読んでいたと話していた記憶がある。ただ、動作は緩慢でとても軍人としての職務が務まったようには見えなかった。父のキリスト教の独立教会のことを書いた『ポロポロ』以外は、戦争体験記である。といっても、彼はほとんど戦争を体験していない。召集から五日間で中国大陸へ送られ転々と行軍する苦難の様がえがかれている。『岩塩の袋』では銃の弾丸を捨て、食糧の米までも捨てて行軍に耐えている。彼は昭和十九年十二月二十五日に山口の聯隊に入営し、五日目には博多から釜山に向かっている。釜山からは、朝鮮半島を縦断し、山海関から天津、済南、徐州を経て、揚子江の南京の対岸、浦口に着いている。この間、十日以上も狭い客車に詰め込まれて運ばれたため、足がパンパンに膨れ上がったという。
 牛蒡剣は各自にあったものの、銃は分隊に二梃だけ、背嚢も革製ではなくズック製、最初は飯盒もなく竹製の弁当箱であった。靴は地下足袋で、それで湖南省まで行軍したのだろうか。大岡昇平(明治四十二年生まれ)は、田中小実昌(大正十四年生まれ)より九カ月早く入隊している。三カ月の教育召集の後、フィリピンへ送られている。大岡の靴は鮫革だったという。田中小実昌は東大の文化系であったため、召集猶予が取り消されたのだが、一歳年上の吉本隆明は東京工業大学の理科系だったため、召集猶予は続いていた。
 田中小実昌の召集時には、国内で食糧不足が深刻化しており、国民のほとんどが栄養失調気味だったらしい。それでも、田中は甲種合格だというから驚く。基準を随分と下げなければならないほど兵士が不足していたのであろう。そんな状態だったので、二十キロの背嚢を背負っての行軍で倒れて死者が出るほどであった。田中は「ぼくたちの仲間の初年兵で、敵のタマにあたって死んだ者などきいたことはない」と自伝に書いている。それでも、南京脳炎、アメーバ赤痢、マラリア、コレラなどの病死者(名誉の戦死として扱われる)が多かったので、兵士の数が足りなかったのだろう。だから田中らは員数合わせのために召集されたとも考えられる。そうなら、内地で訓練もせず、分隊に銃が二梃でもかまわなかったわけだ。
 日本の戦争指導者が、的確な判断ができたなら、兵士に十分な訓練や装備が与えることができないと判った時点で戦争を終結させるべきであった。火野葦平がインパール作戦に従軍し、軍中央に実態を報告しても、戦争指導者は「肉を切らせて、骨を断つ」という観念論を述べたという。
 私は、何が何でも戦争に反対という立場をとらない。歴史的には、やむを得ず戦争に巻き込まれることもあるだろう。その時は、できるだけ被害を少なく、勝つ方法を考えなければならない。日本の戦争は朝鮮併合を別にすれば、満洲への侵略が最初で、仮想敵国はソ連であった。それが、フランスがドイツに敗北したため、空白状態になった北部仏印から、南部仏印へ進駐し米英と全面的に対立することになってしまう。その結果、はるかインドネシアから、南洋諸島、インパールを含めるなら、ビルマ、インドまで戦線を拡大した。これでは補給もできず自滅するしかない。
 恒例になった夏のNHKの戦争特集では、山本五十六、真珠湾攻撃を取り上げていた。それによれば、南雲中将を指揮官とする連合艦隊は、真珠湾攻撃で、戦艦四、五隻を撃沈しただけで、日本軍の被害が少ないうちに大勝利として撤退した。NHKの番組では、真珠湾に第二次攻撃をかけ、燃料基地を完全に破壊しておけば、アメリカ軍は一年から二年、太平洋で活動できなかったという。
 大岡昇平がフィリピンへ送られ、田中小実昌が中国へ送られたのは、すでに南方へ兵士を輸送することが困難になっていたからであろう。それにしても、二年間続いた下痢、天然痘、マラリアに罹患しながらも生き抜いた田中小実昌の生命力には感心する。これは物事を深刻に考えない、彼の性格からきているのかも知れない。
 私達が戦争の実態を知るためには戦争を体験した者から、その経験を聞き、読むことしかできない。そのためには、火野葦平、大岡昇平、古山高麗雄、田村泰次郎そして田中小実昌らの戦争小説の果たす役割は大きい。そして、戦争を一面的に捉えてはいけない。戦争の時期、場所、階級によって、それぞれの体験がある。それらを複眼的に見ることによって戦争の実態がつかめるだろう。
                            2021年8月14日

深沢七郎『みちのくの人形たち』を読んで

2022-02-22 23:29:37 | 読んだ本
      深沢七郎『みちのくの人形たち』      松山愼介
 深沢七郎は『楢山節考』『東北の神武たち』や今回のテキスト『みちのくの人形たち』という、タイトルから東北出身のイメージがあったが、山梨県出身である。考えてみれば『笛吹川』という作品もある。
『みちのくの人形たち』というタイトルから、十年くらい前に宮沢賢治の故郷、花巻へ行ったときに遠野へ行ったことを思い出した。遠野には伝承園のなかにオシラサマ千体を祀った「御蚕神(おしら)堂」がある。昔、遠野の農家では曲がり屋といって、人と馬とが同じ屋根の下に住んでいた。その昔、農家の娘が飼馬に恋をした。怒った娘の父親が馬を殺したところが、馬を追って娘も命を断ち、天に昇りオシラサマになったという。
オシラサマは三十センチほどの桑の木の棒の先に人の顔や馬の顔を彫り、布片の着物を幾重にも着せたもので、蚕の神、農業の神、家の守り神として各家々で祀られているという。伝承園の奥のやや暗い部屋に入ると、壁中にオシラサマが飾られてあり壮観であるが、すこし気味が悪くもあった。
『みちのくの人形たち』も怖い話である。ある日、「そのヒト」が「私」の家へやってきて「もじずり(文字摺草)」という花の話をして、よかったら訪ねてきてくれという。この花はネジバナ(捩花)ともいい、茎がねじれたようになって花が咲いていく。花言葉は「思慕」だそうだ。
 東北の山奥に、「そのヒト」を訪ねていくと、その村では「ダンナさま」と呼ばれている。その家に泊まることにすると、夜、半道も上にあるところから青年が、横二尺、縦三尺くらいの屏風を借りにくる。出産があるのだという。また、遅くなって別の家からも屏風を借りにくる。青年の家は初産で、あとの家は何回もお産をしているので、こちらの方が早く生まれそうなので、屏風を青年の家から取り戻して先に使うことになる。出産が続くことを、この家の奥さんは「口がアいた」と言っている。
「私」は先に出産がある家に、旦那さまの後について入ってしまう。そこでは、線香の匂いがし、屏風が逆さまに立ててあった。「お産は、すみましたか?」と聞くと、「へー、母子とも変りありませんでした」ということだった。
 旦那さまに詳しい話を聞くと、逆さ屏風の意味は、生まれたばかりの嬰児を産湯のタライ中で、呼吸を止めてしまうという。産声をあげないうちに処置するので、殺人にもならず、闇から闇へ葬るのである。この村では、人工流産(中絶)という処置をしないで、生まれるまで何もしないという昔からの風習を守っているらしい。時代は東北自動車道が仙台まで開通してから十年ということであるから、一九八三年頃のこととなる。
 より怖いのは、旦那さまが床の間の部屋に「私」を連れて行き、横にある仏壇の奥にある、小さい女性の仏像を見せる。旦那さまの先祖で産婆だった人の仏像である。両手がない。この先祖は多くの嬰児の処置(間引き)をしたので、罪を重ねた両腕を肩の付け根から切り落としたという。この人は傷口に松ヤニをぬって、その後、三年、生きたそうだ。
 駅通りの土産物売場に人形がおいてあり、それは「あのヒト」の家のふたりの子供が並んでいるようだった。霊的な表情であり、旦那さまの仏壇のご先祖様と、形も顔も同じだった。
 この山奥の人形(仏像)の話は深沢七郎の面目を躍如とさせるものである。ただ、疑問点も残る。
 江戸時代は人口三千万人で、安定していたといわれている。農業をはじめとして、循環型社会で、再生エネルギーどうのこうのという現代からみれば、ある種、理想的な社会だと思っていたが、このような形で人口調節をしていたに違いない。
 ただ、土産物店の人形がこけしだとすれば、腕がないのは、当然だし、中絶で胎児の頭を鑿で割るというようなことは無いだろう。話は「あのヒト」のもじずりから始まるのだが、このもじずりにはどういう意味があるのだろう。
『kawade道の手帖 深沢七郎』の中にあるインタビューを読んでいると、深沢七郎と一般の人の生に対する方向性は逆転している。伝染病や戦争で人が死ぬのは人工調節でいいことだと考えている。産児制限運動を提唱し、訪日したこともあるサンガー夫人を称賛している。
『楢山節考』で、息子が年取った母親を姥捨山に連れて行くのだが、これも一般の人の考えでは哀れな話になるが、深沢七郎は、母親は山へ連れて行かれて幸せになると考えているのだろう。

                        2021年7月10日

辻邦生『西行花伝』を読んで

2022-02-22 23:24:40 | 読んだ本
        辻邦生『西行花伝』             松山愼介
 歴史上の一番興味ある天皇は後白河帝と崇徳帝である。後白河院は、義経に頼朝追討の院宣を出しながら、裏で頼朝に対して、あの院宣は義経に迫られて仕方なく出したものであると弁明するなどして、この時代を生き抜いている。西行(1118~1190),清盛(1118~1181)、崇徳帝(1119~1164)は、ほぼ同じ時代、後白河帝(1127~1192)、法然(1133~1212)は少し後の生まれである。
『西行花伝』では、保元の乱における崇徳院の苦悩について、詳しく歴史的記述があり面白く読んだ。我が子の重仁親王を帝にする一念で、左大臣頼長につき、甲冑まで用意するが、頼長が夜討ちは卑怯ということで、その作戦を拒否したところ、関白忠通、後白河帝側の平清盛の夜討ちの奇襲のまえに敗れ去ってしまう。この辺は、NHKの大河ドラマ『平清盛』での知識である。これに付け加えて、福原遷都が平家側に混乱をもたらしたという点は、始めて知った。在地の小領主は、自分の土地を守るのに全力を尽くす。しかし、自分の領地を守るために、領主は自分の土地を、有力貴族に寄進し、その保護を求める。その保護にあずかれない小領主は、自力で武力を集め、土地を守るしかない。しかも、その土地をめぐる抗争は中央で決着をつけるしかない。ところが、それは民部省に集積された書き付けで裁かれるのだが、福原遷都による混乱で、この土地をめぐる書き付けが、どこにいったかわからず裁決がくだされない。このような、各国の混乱を、西行は陸奥への旅の途中でつぶさに見ることになる。
 陸奥への旅は人々の生活が疲弊していることを、西行に実感させる。これが、後の鎌倉仏教の無常観につながり、西行の出家の動機ともなるのでああろう。以前、田山花袋が一日、10里を歩くと読んで驚いたことがあるが、この時代の旅は徒歩なので西行もその程度、歩いたものと思われる。ただ、まだ歌人として名をなしていなかった時代の西行が路銀をどのように工面したのかは書かれていない。おそらく、土地土地の有力者の庇護を受けたのであろう。
『西行花伝』は優れているが、何か違和感がある。架空の人物と思われる藤原秋実を語り手にしていること、漢字にルビをふっていることである。たとえば、森羅万象は「いきとしいけるもの」となる。極端なのは「現実を超えた現実」を「うつせみを超えたまこと」と読ませている。藤原秋実には辻邦生自身を投影しているのであろう。
 もう一点は、作者が全く西行に対する批判的視点を持っていないことである。いわば、西行のいい所ばかり集めている。有名な出家する時に、「四歳になる娘が縁に出むかえて袖にすがりついてきた。煩悩のきずなを断たなければと、娘を縁の下に蹴落とすと、娘は泣き悲しんだ」という挿話については一言も触れられていない。
 崇徳院の讃岐配流は、ただ流刑になっただけだと思っていたが、運ばれる船での居場所も狭く、閉じ込められているような感じである。讃岐に行ってからも、罪人としての監視と待遇を受け、かなり苦しんだようである。それが、後に怨霊となって都に現れると噂されることになる。
この作品によれば、西行は歌の道による政治を重要視している。武力と権能(ちから)である。崇徳帝にもそれを求めたがかなえられなかった。

 私は新院の歌会の折や、寂念、寂然、藤原俊成、徳大寺実能などと内輪に月見の宴や菊花の宴に招かれるとき、その雅一すじに打ち込まれた気魄の中に、歌による政治(まつりごと)の復活としか言えないような高揚(たかまり)をはっきり感じることができたのであった。
 新院が錯乱されたのは、大いなる歌の道を見失われ、ご自分を宮廷から追放された罪人としか見られなかったからである。宮廷から追放されたと見られたのは、結局は、宮廷から御心を離すことができなかったためであった。宮廷への執着が新院から大いなる歌の道を奪ったとも言える。

 ただ、これは辻邦生の政治にたいする理想論でしかないと思った。
                                         2021年3月13日

佐伯一麦『山海記』を読んで

2022-02-22 23:12:09 | 読んだ本
     佐伯一麦『山海記』              松山愼介
 佐伯一麦の履歴をみていると、佐藤泰志のことを思い出してしまう。佐伯一麦は二十代半ばで海燕新人文学賞、その後も野間文芸新人賞、三島由紀夫賞を順調に受賞している。佐藤泰志はいずれも候補になりながら受賞できなかった。芥川賞にいたっては五回候補になり、そのうち三回の芥川賞は該当作なしだった。その作品の内容や発表の時期、競争となった作品とか要因はいろいろあるだろうが、佐藤泰志にとっては酷い話だった。佐伯一麦も電気工をしていた時に、アスベストを吸い込み、肺に異常があり喘息もあるという。だが、数々の賞を受賞したことは執筆の励みになったに違いない。現在では大佛次郎賞、野間文芸賞の選考委員という選ぶ側にもなっているという。
 東日本大震災についていえば、半年くらい経った頃、東北へバスツアーに行った。仙台から十和田湖、角館あたりを廻った。バスガイドさんは仕事が永遠になくなるかと思いながら、実家の農業を手伝っていたらしい。仙台は佐伯一麦の家の中はグチャグチャになったようだが、街自体には壊れた家もあまり見当たらなかった。ただ、道路から少し離れたところに壊れた自動車が積まれていた。
 三年ほど前に、東京に用事があったので、ついでに足をのばして仙台に泊まり、レンタカーを借りて、南三陸町のあの防災庁舎を訪れた。防災庁舎の周りは土を二、三メートルほど積み上げるかさ上げ工事をしていたので、直ぐ側には近づけなかった。
 阪神大震災のときも、一、二カ月後に見に行った。高速道路が倒れたり、ビルの一階部分がひしゃげたりの惨状だった。尼崎のJR事故の現場も見に行った。ただの好奇心だが。
 以前、佐伯一麦の『ア・ルース・ボーイ』を分析したことがある。彼の作品は一見すると私小説的に見えるが、複雑な伏線と構成がある。この『山海記』も、大和八木から新宮までの日本一長い奈良交通のバス路線(所要時間六時間半、運賃五千三百五十円)に乗って、十津川の水害、山崩れの現場を観るのがメインの話になっているだが、実はこの路線を二回に分けて乗っている。その中で、天誅組の史実や、北海道への移民、新十津川村の建設など、話を縦横無尽に展開する。
 エピソードとして吊り橋の話がはさまれる。高さ五十四メートルの吊り橋である。西川美和監督の映画『ゆれる』を見ていたので、そこで出てくる吊り橋かと思ったが、こちらは新潟県津南町の見倉橋だった。交野市に星のブランコという吊り橋(長さ二四〇メートル、高さ五〇メートル)があるが、こちらがこの作品の吊り橋のイメージに近いかも知れない。その頃、結構、高所恐怖症だったので、結局、十メートルほど行ったところで引き返した。今はツアーでヘリコプターにも乗ったし、上海で百階建てのビルにもヤケクソで行ったので、今なら渡れるかも知れない。
 地球温暖化で台風の勢力が大きくなったり、洪水が頻繁に起こったりするといわれているが、この本を読んでいると、遠い昔から洪水や山崩れは度々起きていたことがわかる。時代は遡るが杉本苑子『孤愁の岸』では木曽川、長良川の洪水がテーマになっている。確かに東日本大震災は大変な地震、津波でしばらくは何もできないほどの衝撃を受けた。今では、ある程度、土地の嵩上げもでき家も建っているという。海岸には海も見えないほどの防潮堤が建設されているらしいが。
 二年前の台風では、知人の家の瓦が少し飛んだり、隣の家の屋根にかけてあったブルーシートが飛びオモリの土嚢で車のリアガラスが割れたという被害も聞いている。大阪でも海に近い方では車が飛び、関西空港への連絡橋が流されたタンカーの衝突でしばらく渡れなかった。
 栃餅といえば、京都、綾部で食べたことがある。宮澤賢治の『鹿踊りのはじまり』を読んで気になっていた。大学の友人が綾部の小学校の廃校を利用して、古本村を創る計画をたてたので。しかし、その秋に大雨があって、この廃校にも被害がでて、安全性からこの計画はボツになった。
 天災や事故による被害は、結局はその当事者にしかわからない痛みがあるのだろう。私は大きな被害を受けたことがないので、佐伯一麦ほど、被害者、その土地にはよりそえないが、彼は自分の病気、体験から十分に被害者に寄り添う眼を持っている。大和八木から新宮への路線バスの旅を、これだけ豊かにえがけるのは作者の力量だろう。この路線をだいぶ昔に知って興味があったが、今では体力的に少し無理なように感じている。
『山海記(せんがいき)』という題名だが、つい最近、石牟礼道子の『苦海浄土』が「くがい」と読むことを知った。「海」を「がい」と読ませるのは『苦海浄土』を意識しているのかも知れない。
 
                               2020年11月14日
 あとから知ったのだが、『山海記(せんがいき)』という題名は『山海経』(せんがいきょう)という中国の地理書からきているとのことである。