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ハリー・ハリスアメリカ太平洋軍司令官に深謝す

2017年05月19日 | 日本・国士
平成29年5月19日(金)

先月、アメリカ太平洋軍司令官に就任したハリー・ハリス海軍大将が
我が国を訪問し、五月十七日に都内で講演した。
同司令官が、その講演を締めくくるに当たって述べた言葉に感銘を受けるとともに、
あらためて、昨年末の我が国の対応を振り返り、恥じた。

ハリス司令官は、
五月十五日午前11時23分に、緊急搬送が必要な患者を救うために
陸上自衛隊北部方面航空隊のLR連絡偵察機に搭乗して札幌を飛び立ち
函館に向かう途中で山に激突して墜落し、殉職した
機長の高宮城効大尉(一等陸尉、53歳)、
副操縦士の柳田智徳少佐(三等陸佐、41歳)、
整備士の岡谷隆正二等陸曹(42歳)
整備士の玉木宏伸三等陸曹(28歳)ら四名のことに触れ、
講演の最後に、次のように言ったのだ(産経新聞五月十八日朝刊)。

15日に陸上自衛隊の航空機が墜落し隊員が犠牲になった。
この事故で思い起こさなければならないのは、
若い隊員がわれわれのために日々命をかけてくれていることだ。
日本を守るために落とした命であったことを、
みなさん、覚えておいてほしい。

昨年十二月十三日、
沖縄の洋上で空中給油の訓練をしていた
アメリカ海兵隊のオスプレイの回転翼が給油パイプに接触した。
この事故に遭遇したオスプレイの五人の搭乗員達は
普天間基地に向かえば市街地上空を飛ぶことになるので機体の状況から危険と判断し、
洋上を飛んでキャンプシュワブのある名護市を目指した。
しかし、名護市の東一キロの海上にオスプレイは着水墜落した。
幸い、五人の搭乗員は全員救助された。

このオスプレイの事故に関し、
我が国のマスコミは、オスプレイの危険性を煽り、
沖縄の知事は、用事もないのに上京してオスプレイの危険性を訴え、
副知事は、沖縄のアメリカ軍の司令官であるニコルソン中将に面会を求め抗議した。
そして司令官からは一言の謝罪もない、とマスコミに吹聴した。
我が国政府も、
市街地を避けて洋上を飛行した搭乗員の行動には何の関心も示さず、
防衛大臣がアメリカ軍に
「原因究明と情報提供、そして安全が確認されるまでのオスプレイの飛行停止」
を要請した。
 つまり、我が国は官も民も、そしてマスコミ挙げて、
オスプレイを市街地に近づけずに、人のいない海上にもっていった、
アメリカ海兵隊員らの配慮に対しては、
これっぽっちも評価せず、ねぎらいの言葉もかけなかったのだ。
 しかし、彼ら五人の海兵隊員は、
平成十一年十一月、入間基地からT33ジェット練習機に搭乗して飛び立ち、
エンジン不調で墜落する同練習機から脱出せず、
民家のない入間川河川敷までもっていって墜死した
航空自衛隊の中川尋史中佐と門屋義廣少佐と同じ、
賞賛に値する勇気ある行動をしたのだった。
 それ故、ニコルソン中将は、次のように語っていたのだが、
マスコミは、抗議に行った副知事の、「謝罪がない」という発言だけを報道した。

よく訓練されたパイロット達の素晴らしい判断で、
最悪の事態を避けることができた。
若いパイロット達は入院中です。
私は、彼らを誇りに思います。
航空自衛隊、海上保安庁をはじめ
日本や沖縄の関係各所の迅速な対応に感謝します。

私は、
ハリス司令官の、
十五日に殉職した我が国の四人の自衛官に対する言葉に、
深い感銘を受け、
同時に、我が国の、
昨年十二月の、身に危険が及ぶ緊急事態のなかで、
沖縄の市街地を避けて洋上を飛行して帰投しようとした
アメリカ軍の五人のオスプレイ搭乗員に対する対応を思い起こし、
恥ずかしく思った。

なお、この度のLR2連絡偵察機の墜落も濃霧のなかの飛行だった。
平成十九年三月に、今回と同じく急患を搬送するために、
CH47を操縦して沖縄から徳之島に飛んで徳之島の山に激突して殉職した
建村善知少佐の場合も濃霧のなかの飛行だった。
LR2連絡偵察機の高宮城効大尉も
CH47の建村善知少佐も、ベテランパイロットだった。
高宮城さんはあと二年で定年を迎え、
建村さんはあと二回の飛行で定年を迎えることになっていた。
二人は、ベテランパイロットだったが故に、
「患者の命を助けるためだ、この濃霧でもいける」
と判断して飛び立ったのだろうと思う。

昭和十二年、イギリスのジョージ六世の戴冠式を記念して
陸軍の遠距離偵察機「神風号」に乗って東京からロンドンまで一挙に飛行して
長距離飛行の国際記録を打ち立てたのが飯沼飛行士と塚越機関士だ。
その名コンビの操縦する飛行機に乗って、
上海から羽田に帰った作家の石川達三が、
その時の飛行に関して次のように書いている(人物点描「空に消えた面影」)。

 東シナ海から東方、羽田に至るまで、梅雨期の雲が満々と地上を掩うていて、
ずっと低空で飛んで来たが、沼津から箱根にさしかかって、
どうしても箱根が越えられない。
雲一杯で山の姿が見えないのだ。
深い谷の上で三度も旋回してやり直したが、
杉の梢が翼に触れそうに見えて、
なるほど飛行機とはこのようにして遭難するものかと思った。
 あの時の飯沼飛行士はプノンペンで戦死。塚越機関士は十八年ごろ、
日本独特の長距離機で、シンガポールから戦乱のアジアとヨーロッパとをひとっ飛びに、
ナチス・ドイツとの連絡の使命をおびて飛び立ったまま、消息を絶った・・・
船乗りは海で死ぬ。飛行機乗りは空で死ぬ。宿命であるかも知れない。

その後、石川達三さんは、
私の叔父で飯沼飛行士の後輩であった
東儀正博の操縦する双発の飛行機に度々搭乗し、
後に、東儀正博墜落の報に接し、次のように書いてくれた。

 飯沼はプノンペンで戦死し、塚越も空の何処かに消えていった。
そして、彼らの後輩の東儀君も、彼らの後を追うた。
男の職場は、すなわち男の死に場所でもある。
男が生涯を賭けた仕事はまた、男の命を奪う仕事でもある。
船乗りは海で死ぬ。飛行士は空で死ぬ。
東儀君にとっては本望であったかも知れない。

嗚呼、またこの度、五月十五日、
空を職場にした男たちが、北海道北斗市の空で死んだ。
故 高宮城効大尉
故 柳田智徳少佐
故 岡谷隆正二等陸曹
故 玉木宏伸三等陸曹
そして、
彼らの職責に敬意を表し、
若い隊員がわれわれのために日々命をかけていることを、
思い起こし、
彼らが何のために命を落としたのか、
それは、
日本を守るために落とした命であったことを、覚えておいてほしい、
と呼びかけたのは、
我が国の大臣や司令官ではなく、
異国の誇りある軍司令官だった。

アメリカ太平洋軍司令官ハリー・ハリス海軍大将に、
敬意を表して、
心より、お礼を申し上げ、
謹んで、
亡くなった四人のご冥福を祈り申し上げ、
残されたご家族に心からお見舞い申し上げます。



西村眞悟の時事通信より。


















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