(写真は、ケン・プレスナー氏が少年時代に分解したのと同型のラジオです)
究極ザッパー発明物語 ハルダ・クラーク博士に触発されて
「発見に至る道において知性はほとんど関係がない。意識の中に飛躍が起こる。それを直感と呼んでも何と呼んでもかまわないが、解決のほうがあなたにやって来て、あなたにはそれがどのようにしてなのか、なぜなのかはわからないのである」
「真に価値あるものは直観である」 アルバート・アインシュタイン
1995年にわたしは自然療法家に寄生虫がいると診断されました。当時わたしはバンクーバーのセントポール病院でケネス・アトキン博士の手術のおかげで命を取りとめた1年後で、まだクローン病の症状に苦しんでいました。1993年にハルダ・クラーク博士の「すべての病気を治す」の初版が出ていましたが、バンクーバーの書店では1995年でもまだ手に入りませんでした。当時かかりつけだった自然療法家がハルダ・クラークの本を訪問販売してくれる人の電話番号を教えてくれました。電話をすると、女性がやってきて「すべての病気を治す」を1冊売ってくれました。わたしはその女性に、歯の銀合金の詰め物を除去してくれる歯科医がバンクーバーにいたら教えて欲しいと言うと、彼女は彼女自身がかかっている歯科医を紹介してくれました。その歯科医はわたしの歯から合計14個の水銀合金(銀合金の正しい呼称)を除去してくれました。そしてかわりにプラスチックの詰め物に替えてくれました。それから9カ月間わたしは水銀キレート療法を受けました。これによって、わたしの身体の臓器や組織に残存している水銀を除去しました。わたしのエネルギーの水準が劇的に向上し、1989年に多発性硬化症で身体が麻痺してずっと苛まれていた他の症状も改善しました。しかし、クローン病の症状は消えませんでした。
クラーク博士の本に書かれている手順に従って、わたしはハーブによる寄生虫駆除プログラムをやってみました。1994年のわたしのクローン病の手術以前から明らかにわたしの小腸に巣食っていて深刻な問題を引き起こしていた寄生虫を殺すためでした。クラーク博士の寄生虫駆除プログラムでいい結果を得て、次はもっと重大なことに取りかかることにしました。しかし、またすぐに寄生虫が復活してきました。クラーク女史はその著書の中で、ザッパーという新しい電子機器を説明していました。本には“タッパーザッパー”という原始的なザッパーの写真がありました。わたしは自分で1台作り始めましたが、そんなに難しいことではありませんでした。というのは、それは9ボルト電池のプラスとマイナスの電極に銅製のハンドグリップをつなげて7分間ハンドグリップを持って通電してザッピングするというものでした。さて、7分間通電したら、20分間休憩する必要がありました。手がくたびれました。今から思えば当然のことですが、クラーク博士の“タッパーザッパー”からはなんの効果も得られませんでした。
しかし、当時のわたしには知る由もありませんでした。1996年の1月上旬にわたしはワシントンのベリンガムで開催された「健康フェア」に行きました。入場口を入ると、ラッフルチケットを売っている女性がいました。賞品はハルダ・クラーク博士のザッパーで、入場者の眼にいやでも入るようにテーブルの上に展示してありました。そのザッパーを見た瞬間、ある感情がわたしのうちに湧き起こりました。自分がクジを当てると思いました。わたしの心には何の疑いもありませんでした。そこでわたしはラッフルチケットを1枚買いました。当選番号が読み上げられたとき、それは案の定、このわたしの番号でした。わたしは自分が当てた賞品を手に、実験するのを楽しみに家に持ち帰りました。結果に満足しました。自分が期待したほど効き目は長続きしませんでしたが、少なくともわたしの興味は刺激されました。効き目があったのでわたしの気持は高ぶっていました。クラーク博士の3週間の寄生虫駆除プログラムを切り上げることができると思いました。1994年にクローン病はわたしを死の瀬戸際まで追いつめました。ですので、わたしにとってこれは単に知的な探求ではありませんでした。世界一のザッパーをつくってやろうと、わたしはかなり本気になっていました。わたしが最終的にそれを実現したのは単なる偶然ではなかったのです。
当時すでにザッパーはバンクーバーの代替医療の市場でも人気が出ていました。友人のネルの助けを得て、わたし達はわたしの賞品のザッパーを分解し、もっと性能のいいものを作る仕事に着手しました。ネルが、電子基板に組み込んである抵抗器やコンデンサーを見た時の表情で、彼が電気関係にまったく経験がないことがその時わかりました。彼はどこから手をつけたらいいのかわからず、「あとはがんばってくれ」と言って退散しました。しかし、わたしにはどこから始めるべきか、イメージがしっかりありました。さまざまな可能性を考えてみるだけでもうわたしの想像力は息づいてきました。電子工学の学位こそ取得していませんが、わたしはさかのぼること1950年代の少年時代から電気的なことすべてにずっと興味を持ち続けていました。わたしの血と遺伝子には電子工学が流れていると言ったほうが正確かもしれません。
わたしの電気への想像力はわたしの親戚の一人の人物によって掻き立てられました。その人物は父の叔父、つまり、わたしの大叔父であるジャック・C・プレスナー博士です。彼はニューヨーク科学アカデミーの会員であり、1940年から1950年にニューヨークのドーセット・ホテルの専属医師を務めていました。彼は、電子医療に深く傾倒していて、当時にあっては時代をはるかに超えた人物でした。彼は実は、電子医療の偉大な先駆者の一人であるジョージ・ラコウスキーの親しい友人でした。ジョージ・ラコウスキーはニコラ・テスラと並び称せられる電気系発明家で、主に治療機器を開発していました。彼は「放射能と波長:人間生命の源泉」という本を1941年に出版し、その長文の序文はわたしの大叔父であるジャック・C・プレスナー博士が書いています。毎年ドーセット・ホテルに家族で泊まるたびに大叔父のドクター・ジャックおじさんに会うと、彼と父との間でジョージ・ラコウスキーと彼の発見について延々と話が続くのでした。ずっと後になって、わたしはこの大叔父がわたしの人生にいかに大きな影響を及ぼしたかを思い知りました。
わたしの母方の祖父は、1920年頃にモントリオールで最初の鉱石ラジオを作りました。彼はラジオ店を開業し、カナダで最初のラジオ製造とその修理を始めました。彼は、ひ孫の究極ザッパーの製造者であるこのわたしと同様、独学でした。わたしの母は、ガラスの中の結晶でラジオの誕生期のピッツバーグでKDKA放送を聴いたことを懐かしそうに話したものです。母は1920年代にモントリオールでラジオの部品を購入するために母の父(わたしの祖父)といっしょに自動車で出かけたことを思い出しては語ったものです。そのわたしの母は2009年に98歳の誕生日の目前に他界しました。わたしは祖父が自作のラジオをいじっているのを見ているのが好きでした。彼のラジオはとてつもなく大きくて、美しい木製のキャビネットに収まったもので、それが居間に鎮座していました。その真空管ラジオは当時わたしが眼にしたもののうちでもっとも美しいものでした。それは当時のわたしには魔法のようでした。
わたしは幼い少年の頃からすでにラジオや電子的なものすべてに魅せられていました。1957年にロシアが世界で初めて打ち上げた人工衛星スプートニクにちなんだミニチュア・スプートニクという、わたしにとって初めての鉱石ロケットラジオを買ったことを覚えています。毎晩、自分の部屋のラジエターに鉱石ロケットラジオをくくりつけたものです。小さなイヤホンを通して音楽を聴きながら寝るためにダイヤルを回して放送局をさがしたものです。また、わたしは仕組みを見るためにロケットラジオを分解しました。キッチンには、GEのベークライトがあり、二階には巨大な電池を搭載した昔のモトローラの“携帯式”真空管ラジオがありました。わたしはそのどちらも仕組みを見るために分解しました。1957年にわたしの最初の小さなトランジスターラジオを買ってもらい、1950年代後半はモトローラに代わってわたしのよき友となりました。これは、本当にポケットサイズのラジオの最初のものでした。もちろんこれも分解しました。そして、夜のアメリカからの遠距離の電波を引きこむためにいろいろなアンテナを付けては実験をし、成功しました。
次にわたしがしたことは、新聞配達のアルバイトで貯めたお金でノルマンド真空管ラジオを買うことでした。なんと美しい木製のキャビネットだったことか。これで兄と私は“ハイファイ”で当時流行の最新のヒット曲を聴くことができ、ホッケーの試合、そしてカシアス・クレイ(モハメッド・アリ)のボクシングの試合のパンチ一つひとつの実況放送を聴くことができました。今でもよく覚えているのは、わたしがノルマンドラジオを買ってきたときの父の顔です。父は眼を丸くして訊きました。「なんだ、それは、ケニー?」わたしは答えて言いました。「これは僕の新しいラジオだよ、パパ」わたしは自分のこの新しい買い物に有頂天でした。もちろん、このノルマンドラジオも分解しました。わたしは電気的なものはなんでもすべて分解して仕組みを確かめました。今振り返れば、胸躍らせる時代で、電気の魔術の時代でした。わたしは人生を通じて電子工学の強い影響下にありました。思い出せるかぎり、箱を開けて仕組みを確かめるということはずっとわたしの情熱です。
わたしは職業的な電気技師ではありません。すべて独学です。電子工学の歴史に名を残すような偉大な発明家に入らないことははっきりしていると自分でも思います。しかし、電子工学の歴史における偉大な人々はみな独学だったというのは興味深いことです。こうした偉大な発明家には、ニコラ・テスラ、エジソン、グラハム・ベルがいます。
そうした独学の発明家は他にもいます。1953年にマランツ・カンパニーを創設したサウル・マランツがそうですが、同社は当時、世界でもっとも有名な2社のオーディオ機器会社のうち1社でした。彼自身は、フリーランスのグラフィックアーティスト兼アマチュア音楽家であって、電子技師ではありませんでした。エミール・ベアリーナはレコード盤の発明者ですが、電子技師ではありませんでした。彼は独学でした。たまたまですが、わたしの母は1929年に高校を卒業してから、このエミール・ベアリーナの息子であったエドガー・ベアリーナの秘書をしていました。このベアリーナ父子は、1920年代にモントリオールでベアリーナ・グラモフォン・カナダ社にいました。同社はのちにビクター音声機器・カナダとなり、さらにRCAビクターコーポレーションの傘下にはいりました。わたしの母は2009年に他界する前に、究極ザッパーとわたしの人を助ける仕事を祖父が知ったら大いに喜び、誇りに思ったことでしょうと言っていました。このように電子工学はそもそもの初めからわたしの血の中にずっと流れており、それはわたしの祖父、母、そして大叔父のジャック・C・プレスナー博士といった人たちの影響によるところが大でした。
ザッパーの技術の分野において興味深いのは、ラジオもザッパーも同じ単純な原理、つまり、共鳴の原理で機能するという点です。ラジオは受信機です。共鳴の原理に基づいて、音を再生する信号を受信します。ザッパーは送信機です。同じ共鳴の原理に基づいて病原体を殺す信号を発生させます。わたしは根っからの“アイデアマン”です。コンセプトと自分の目的を理解したなら、どうやって具体的に電子的に組み立てるかは次になります。この後者は楽な部分です。もっとも重要なところは最初のコンセプトです。
究極ザッパーの開発における貢献者の一人は、わたしの旧友のクランシーでした。1996年の夏にわたしはよくワシントンのベリンガムに行きました。わたしはベリンガムにあったクランシー・ビタミン・ショップを経営していたクランシーと親しくなりました。そしてクランシーの店に行くのが楽しみになっていました。元祖ハルダ・クラーク式ザッパーにACアダプターを付けて性能を向上させる可能性について何時間も話したものです。当時ザッピングをしていたバンクーバーの友人達にも話をしました。わたしと同様、彼らも電池作動の50%のデューティー比のハルダ・クラーク式ザッパーでザッピングをして不安定な効果を経験していました。そこで、わたしはハルダ式ザッパーにACアダプターと、ほぼ100%のデューティー比を付け加えました。9カ月間、朝から晩まで作業をして完成したのが、究極ザッパーでした。最新モデルSEは世界で最も強力で、その11の特徴によって、最も治療効果があります。これは世界で最も売れているザッパーです。
わたしの究極ザッパーの発明に影響を与えた、あと2つの要素がありました。1970年代の初頭にはホメオパシー、そして1980年代には代替医療、特に波長医学に対する深い関心がありましたが、これらはわたしの健康食品とビタミンのビジネスにおける経営と経歴によって育まれたものです。ダウジング、ライフ博士の技術、初期のザッパーモデル、その他多くの新しい考え方や療法に対してわたしの心を開いてくれた代替医療の他のさまざまな側面がありました。
しかし、最終的には、わたしは自分の7年に及ぶ多発性硬化症とクローン病との闘病生活を通じて、究極ザッパーを作り出すひらめきを得ました。生死を賭けた闘いほど集中力を高め、想像力を刺激するものはないでしょう。わたしが世界一のザッパーを作り出すほどに強い動機をもっていたのはそれなりの理由がありました。7年近くもわたしを苦しめていたクローン病と多発性硬化症に関わる深刻な健康問題を解決するのに役立つより良いザッパーを、わたしは当時必要としていたのです。もし成功すれば、そのわたしのザッパーは同じ病気に苦しむ多くの人たちだけでなく、他のさまざまな病気に苦しむ人々も助けることができるだろうと、わたしは感じていました。そして、実際その通りになりました。
究極ザッパーの発明は、歴史を通じて人類にもたらされてきた驚嘆すべき発明の数々に比べれば取るに足らないものです。しかし、わたしの境遇・知識・直感が、このわたしを導いて数千もの人々を助けるようなユニークな電子機器を作らせたのです。わたしは、1996年以来、自分の究極ザッパーがこれほどまでに多くの人々のこれほどまでに多くの病気を克服するのに貢献できたことを心から喜んでいます。生還するまでの7年間、死ぬほど苦しい闘病生活を体験しましたが、その結果として今や多くの人々を助けることができ、わたしは大いに報われたと感じています。
究極ザッパーは1996年にたちまち成功をおさめ、2010年にリリースされた新モデルSEもまた大成功をおさめました。この新モデルは、今日最も強力で最も効果のあるザッパーを求める人々に高く評価されています。
訳者追記 2015.2.24: プレスナー氏は2013年にモデルSEの完成版として “モデルXE” をリリースし、2015年にはザッパーの革命とも呼ばれる “モデルQE" をリリースしました。ニコラ・テスラ、ジョージ・ラコウスキーの系譜を現代に継ぐプレスナー氏は、究極ザッパー以外にもさまざまな研究をしており、常に何らかの実験をしています。最近はオーディオの分野での研究に没頭しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2c/3a83bc3e8b56a973fe7af978c7f6b7e2.jpg)
● 究極ザッパー 及び スーパーシューマン 7.83 は周波数発生装置です。
● 周波数発生装置の使用は、自己責任のうえでお願いします。
● “周波数生活” お問い合わせ先: katomagazine@gmail.com