私が野球の記事を書くことはまずない。
知らないのかというと全くそんなことはない。
厳密に言えば、昨今は知らない。
昔はというと、キチガイだった。野球キチガイ。
生まれる前などにあった、胡散臭い事件のことはよく知らない。
だが野球離れ・野球嫌いになる大きな1つ目の出来ごとが
あの江川事件だった。空白の1日。
思えばうちの親父がとにかく巨人ファンだった。
だから新聞も読売しか取らない。他所が来ると一蹴。
ついでに長嶋巨人V1のときの消化試合で1軍にあげてもらい、
数試合出場した背番号51の福島智春は友人の友人で、
後楽園球場で試合後に小学生の私は父と共に福島氏と会ってるし。
ちなみに当時は9吉田<12矢沢<31?杉山<22?笠間<51福島
こういう捕手のランク付けが暗黙であった。
福島はとにかく肩が強いが打撃が全然で日の目を見なかった。
でも長嶋茂雄の粋な計らいで1軍で使ってもらえたのだ。
そしてそのV1決定の時。
記憶だと先発は加藤初だったと思うが、クローザーには小林が出てきた。
130試合目の最終戦だから文字通りの全員野球。
もっとも後半の4イニング程度投げたんだけど。
長嶋の監督初年度は最悪の最下位で、この年加藤初と張本を獲得し、
それらの大活躍と共に、高田をレフトからサードにコンバートさせ、
それも大成功だったことが大きかった。
そして堀内は徐々に衰えていく感じで、新浦はノミの心臓だけに
小林の細身ながらのタフで頼もしい投球は、
あの独特なサイドスローも絡み合って大人気だった。
昭和51年 長嶋巨人初優勝の瞬間
最後の捕球は山本和生だったな。
高田の守備固めに居た選手の印象。
当時の子どもで小林を真似してない男子は居ないと思う。
正直明石家さんまが小林の真似で全国に進出して来たが、
俺の方が全然ウマいと思っていたし、同様に思った人も多いだろう。
3枚目からユニフォームが阪神になるのがこのトレードっぽくてよい。
でも左足を上げた直後の縮こまった格好が無いのが無念。
そこから足をスーっと下げると同時に両手も下げて行き、
この画像の最初に繋がる。
明石家さんまが物真似で最後にバンザイの格好になるのはこの最後の画像。
これのデフォルメだよな。私らもそんなの良くやってた。
そんな大好きだったプロ野球、大好きだった巨人が嫌いになる
一番最初の出来事。それが江川事件だった。
この事件は誰が悪いって、この当時のいい年した大人が悪い。
江川でも当然小林でもない。
江川はわがままなのは間違いなかった。
巨人以外は入る気が無いのだから。
言うなら、巨人大好きだった星野仙一がごねて中日に入団してないなんて
今更想像がつかない。泣く泣く中日に入り打倒巨人へと燃えたから
あの怖いキャラと背番号20が確立されたのだ。
でも江川の気持ちも解る。
当時の私も巨人しかない。他の球団はお飾りだ。
それは多くの人が思っていた証が「巨人・大鵬・卵焼き」
こういう世の中だった。関西では違うだろうけど。
そうなれば若さゆえに巨人だけに固執したい気持ちも解る。
だからそれを星野が中日に入団したように、
周りの関係者の大人が諭すべきだったのだと思う。
阪神江川でいけばいいのであって、後に巨人にトレードで来たかもしれない。
もっとも永遠のライバル球団だけにその間でのトレードは難しいが。
でもドラフト前には阪神行きは決まってないんだし。
これがあったがために、後の清原・桑田事件にもつながり、
元木事件にも繋がっていく。この辺でもう大嫌悪状態になった。
野球はドーデモいいと。だから93年にJリーグが始まって、
そっちの人気が一気に上がるのは当たり前なのだった。
そんな江川事件も若い江川は自分のわがままを通すことで、
どんなことが起きるのか若すぎて全く解ってない。
その浅はかさが物悲しいが、それを水先案内したのがあの空白の1日。
その交渉があったからそれが叶うと信じて疑わなかった。
だれも放出されるようなことが無いようにと自分は願ったし。
ところがトレードは非情。
他球団も自分のところの戦力補強は望んでも弱体は望まない。
だから巨人が張本を得たときも、高橋一三と冨田勝を出して、
2対1のそれが成立した。このケースは3人とも移籍先で結果を残したので
良かったものだといってもいいと思うが、江川はただのアマ。
確かに作新学院と法政大で素晴らしい活躍をしたが
プロとしてのキャリアはないわけで、小林はドラ6選手ながら、
独特のフォームとキレのあるシュートなどを武器に、
実質的には堀内を超えたエースだったのだから、
とりあえず阪神に入団としておいて、その阪神の江川と
巨人の小林でのトレードなんて、あまりにもありえなかった。
今だったら、菊池を一旦西武に入団としておいて、
直後にダルビッシュとトレードするようなもの。
これがコミッショナーが提案したものだって言うのも驚愕だし、
なんでもありじゃねぇかと嫌気が凄く差して、
国民の大半が小林に同情し、同時に江川に敵意を持った。
だから江川は可哀想なわけ。自業自得でも無いんだよな。
周りの大人がそう言うようにしてしまったんだ。
だから小林も黄桜のCMで「お互い辛かったよなぁ?」と言ったのだ。
江川は小林に謝りたいのは、自分の意思で放出したからではないのに
何でだというと、自分の先読みの浅はかさで、わがままを通したばかり
そのしわ寄せが予期せぬあなたに向いてしまい、
結果として迷惑をかけた原因になってしまったということをだ。
そんな小林は巨人で6年、阪神で5年やって引退。
やはりいつまでもその事件がセットでいろいろ見られているのが
辛すぎたのだろう。現役への執着はなかったように思う。
最後の年も13勝はしているし。15勝しなかったらやめるという公言を
しっかりと守る格好となった。江川も現役は長くなかったと思う。
でも阪神に行った小林は凄かった。
初年度22勝。確か巨人戦は8戦8勝。
言葉や表情のはしはしに不満的なものは見えなくも無いが、
実際一切不平も不満も言わずに、黙々と打倒巨人をやってのけた。
特に王には殆ど打たれたことがなく、ランナーが居ないときの
王対策のスローな投球フォームは驚いたし、王があの一本足を捨てて
小林を打ち込むために二本足で立って打ちに行ったのも印象深い。
顔も良くて女性にも人気があったが(水嶋ヒロと似ている)
その反骨精神というか、不屈の闘魂というか、
男たちはそれにしびれた。顔ではなくそこがカッコよかった。
そういえば小林は歌もウマかったな。
デビュー曲の「亜紀子」ばかり(長嶋茂雄夫人!?)が紹介されているが
3曲目の「昨日の女」が最大のヒット曲ではないのか!?
これのリリースは1980年。あの松田聖子のデビューの年だ!!
10代でカラオケスナックに出入りしていた私はこの曲は散々歌った。
昔のスポーツ選手の歌って、殆ど演歌。細かくはムード歌謡。
曲を探したけど見つからなかったので紹介できず。
せめて歌詞を覚えているので起こしてみる。
【昨日の女】 作詞:阿久悠
女房みたいに 濡れた手を拭いて
あなた迎えに ドアを開けるのも
今日が終りと 不意に思い出し
泣けてきたのよ 突然に
確かにハンコも 押さないで
世間の夫婦じゃ なかったが
だけど だけど それが何なの
せめて今夜は お酒飲ませてね
これで他人に なる二人
酒の肴は せめて手料理で
そんな気持ちで 立ったキッチンは
今の私に ひとつ残された
遠慮いらない 泣き場所ね
あなたはテレビに かじりつき
いつもの調子で 笑ってる
それが それが とても悲しい
せめて今夜は お酒飲ませてね
これで他人に なるふたり
今日まで私は 奥さんで
明日から名前で 呼ばれるの
バカね バカね それが未練ね
せめて今夜は お酒飲ませてね
これで他人に なるふたり
作詞の阿久悠さんも亡くなったんだもんなぁ…。
この曲の思い出は、最初は以前話した高校生のバイト先の
5個上ぐらいのペキマンが歌っていたこと。
当時はLDのカラオケもまだない時代で、J-POPなんて殆どなし。
なので歌う歌も限られていて、ペキマンには「お前も歌うんなら
星降る街角とかこういう曲を歌うんだよ。スナックでは」といわれた。
それでやつの歌うのを聞いて覚えたのだ。
もっともラジオでも、それ以上に有線でも掛かってたけど。
カラオケもいまや殆ど行かないけど、今度行ったら久々歌おうっと。
そして小林の貴重なバラエティ動画を見つけた。これも紹介しとく。
今夜は最高 小林繁 1984年
最後にあったサヨナラ暴投は記憶に薄いけど、
見れば開幕からこんなのがあったというのを薄っすら記憶していた気が…
小林は唇の色が昔から悪くて、40歳ぐらいまでしか生きないような
そんな内臓の病気か何かを抱えているような気もしていたんだが、
そんなのは個性だというだけのようで、50歳も突破したし、
いつ見てもその色は悪いけど、病気ではないことは確信していた。
またあの事件を苦にするならとっくに自殺していると思うし、
この期に及んでそんなことも無いと思った。
なので特に大病に病んでいる話も聞かないし、
速報も事故だとは書かれて居なかったので、
心筋梗塞のようだけど、未だに信じがたい。57歳だなんて若すぎ。
しかも普通に生活できていて。
その前兆は背中が痛いといったこと。
その後も治らないとして奥さんがマッサージを施しているうちに
苦しみ出して・・・という話を知ったときに、
私もここ1年強、接骨院通いを継続していて、
随分よくなっているなりに、背中や腰が痛いことはしばしばある。
それが慢性的だから、かみさんも痛いといってもすぐに踏んでくれない。
(揉むのを嫌がるので、だったらせめて踏めと腰の背骨脇を踏ませてるが、
それすらも嫌がりだした最悪のヤツ・・・)
こんな感じだけに、同じ症状が私に起きたら、確実に死だ。
揉むことも救急車も呼ばれず、「あれ?静かになったな?」と
かみさんが思って私を見ると、既に死んでると…。きっとこうなるぞよ。
おそらく唯一巨人と阪神でエースになった偉大な細身の投手に合掌。
小林繁・江川卓 黄桜CM long edit
知らないのかというと全くそんなことはない。
厳密に言えば、昨今は知らない。
昔はというと、キチガイだった。野球キチガイ。
生まれる前などにあった、胡散臭い事件のことはよく知らない。
だが野球離れ・野球嫌いになる大きな1つ目の出来ごとが
あの江川事件だった。空白の1日。
思えばうちの親父がとにかく巨人ファンだった。
だから新聞も読売しか取らない。他所が来ると一蹴。
ついでに長嶋巨人V1のときの消化試合で1軍にあげてもらい、
数試合出場した背番号51の福島智春は友人の友人で、
後楽園球場で試合後に小学生の私は父と共に福島氏と会ってるし。
ちなみに当時は9吉田<12矢沢<31?杉山<22?笠間<51福島
こういう捕手のランク付けが暗黙であった。
福島はとにかく肩が強いが打撃が全然で日の目を見なかった。
でも長嶋茂雄の粋な計らいで1軍で使ってもらえたのだ。
そしてそのV1決定の時。
記憶だと先発は加藤初だったと思うが、クローザーには小林が出てきた。
130試合目の最終戦だから文字通りの全員野球。
もっとも後半の4イニング程度投げたんだけど。
長嶋の監督初年度は最悪の最下位で、この年加藤初と張本を獲得し、
それらの大活躍と共に、高田をレフトからサードにコンバートさせ、
それも大成功だったことが大きかった。
そして堀内は徐々に衰えていく感じで、新浦はノミの心臓だけに
小林の細身ながらのタフで頼もしい投球は、
あの独特なサイドスローも絡み合って大人気だった。
昭和51年 長嶋巨人初優勝の瞬間
最後の捕球は山本和生だったな。
高田の守備固めに居た選手の印象。
当時の子どもで小林を真似してない男子は居ないと思う。
正直明石家さんまが小林の真似で全国に進出して来たが、
俺の方が全然ウマいと思っていたし、同様に思った人も多いだろう。
3枚目からユニフォームが阪神になるのがこのトレードっぽくてよい。
でも左足を上げた直後の縮こまった格好が無いのが無念。
そこから足をスーっと下げると同時に両手も下げて行き、
この画像の最初に繋がる。
明石家さんまが物真似で最後にバンザイの格好になるのはこの最後の画像。
これのデフォルメだよな。私らもそんなの良くやってた。
そんな大好きだったプロ野球、大好きだった巨人が嫌いになる
一番最初の出来事。それが江川事件だった。
この事件は誰が悪いって、この当時のいい年した大人が悪い。
江川でも当然小林でもない。
江川はわがままなのは間違いなかった。
巨人以外は入る気が無いのだから。
言うなら、巨人大好きだった星野仙一がごねて中日に入団してないなんて
今更想像がつかない。泣く泣く中日に入り打倒巨人へと燃えたから
あの怖いキャラと背番号20が確立されたのだ。
でも江川の気持ちも解る。
当時の私も巨人しかない。他の球団はお飾りだ。
それは多くの人が思っていた証が「巨人・大鵬・卵焼き」
こういう世の中だった。関西では違うだろうけど。
そうなれば若さゆえに巨人だけに固執したい気持ちも解る。
だからそれを星野が中日に入団したように、
周りの関係者の大人が諭すべきだったのだと思う。
阪神江川でいけばいいのであって、後に巨人にトレードで来たかもしれない。
もっとも永遠のライバル球団だけにその間でのトレードは難しいが。
でもドラフト前には阪神行きは決まってないんだし。
これがあったがために、後の清原・桑田事件にもつながり、
元木事件にも繋がっていく。この辺でもう大嫌悪状態になった。
野球はドーデモいいと。だから93年にJリーグが始まって、
そっちの人気が一気に上がるのは当たり前なのだった。
そんな江川事件も若い江川は自分のわがままを通すことで、
どんなことが起きるのか若すぎて全く解ってない。
その浅はかさが物悲しいが、それを水先案内したのがあの空白の1日。
その交渉があったからそれが叶うと信じて疑わなかった。
だれも放出されるようなことが無いようにと自分は願ったし。
ところがトレードは非情。
他球団も自分のところの戦力補強は望んでも弱体は望まない。
だから巨人が張本を得たときも、高橋一三と冨田勝を出して、
2対1のそれが成立した。このケースは3人とも移籍先で結果を残したので
良かったものだといってもいいと思うが、江川はただのアマ。
確かに作新学院と法政大で素晴らしい活躍をしたが
プロとしてのキャリアはないわけで、小林はドラ6選手ながら、
独特のフォームとキレのあるシュートなどを武器に、
実質的には堀内を超えたエースだったのだから、
とりあえず阪神に入団としておいて、その阪神の江川と
巨人の小林でのトレードなんて、あまりにもありえなかった。
今だったら、菊池を一旦西武に入団としておいて、
直後にダルビッシュとトレードするようなもの。
これがコミッショナーが提案したものだって言うのも驚愕だし、
なんでもありじゃねぇかと嫌気が凄く差して、
国民の大半が小林に同情し、同時に江川に敵意を持った。
だから江川は可哀想なわけ。自業自得でも無いんだよな。
周りの大人がそう言うようにしてしまったんだ。
だから小林も黄桜のCMで「お互い辛かったよなぁ?」と言ったのだ。
江川は小林に謝りたいのは、自分の意思で放出したからではないのに
何でだというと、自分の先読みの浅はかさで、わがままを通したばかり
そのしわ寄せが予期せぬあなたに向いてしまい、
結果として迷惑をかけた原因になってしまったということをだ。
そんな小林は巨人で6年、阪神で5年やって引退。
やはりいつまでもその事件がセットでいろいろ見られているのが
辛すぎたのだろう。現役への執着はなかったように思う。
最後の年も13勝はしているし。15勝しなかったらやめるという公言を
しっかりと守る格好となった。江川も現役は長くなかったと思う。
でも阪神に行った小林は凄かった。
初年度22勝。確か巨人戦は8戦8勝。
言葉や表情のはしはしに不満的なものは見えなくも無いが、
実際一切不平も不満も言わずに、黙々と打倒巨人をやってのけた。
特に王には殆ど打たれたことがなく、ランナーが居ないときの
王対策のスローな投球フォームは驚いたし、王があの一本足を捨てて
小林を打ち込むために二本足で立って打ちに行ったのも印象深い。
顔も良くて女性にも人気があったが(水嶋ヒロと似ている)
その反骨精神というか、不屈の闘魂というか、
男たちはそれにしびれた。顔ではなくそこがカッコよかった。
そういえば小林は歌もウマかったな。
デビュー曲の「亜紀子」ばかり(長嶋茂雄夫人!?)が紹介されているが
3曲目の「昨日の女」が最大のヒット曲ではないのか!?
これのリリースは1980年。あの松田聖子のデビューの年だ!!
10代でカラオケスナックに出入りしていた私はこの曲は散々歌った。
昔のスポーツ選手の歌って、殆ど演歌。細かくはムード歌謡。
曲を探したけど見つからなかったので紹介できず。
せめて歌詞を覚えているので起こしてみる。
【昨日の女】 作詞:阿久悠
女房みたいに 濡れた手を拭いて
あなた迎えに ドアを開けるのも
今日が終りと 不意に思い出し
泣けてきたのよ 突然に
確かにハンコも 押さないで
世間の夫婦じゃ なかったが
だけど だけど それが何なの
せめて今夜は お酒飲ませてね
これで他人に なる二人
酒の肴は せめて手料理で
そんな気持ちで 立ったキッチンは
今の私に ひとつ残された
遠慮いらない 泣き場所ね
あなたはテレビに かじりつき
いつもの調子で 笑ってる
それが それが とても悲しい
せめて今夜は お酒飲ませてね
これで他人に なるふたり
今日まで私は 奥さんで
明日から名前で 呼ばれるの
バカね バカね それが未練ね
せめて今夜は お酒飲ませてね
これで他人に なるふたり
作詞の阿久悠さんも亡くなったんだもんなぁ…。
この曲の思い出は、最初は以前話した高校生のバイト先の
5個上ぐらいのペキマンが歌っていたこと。
当時はLDのカラオケもまだない時代で、J-POPなんて殆どなし。
なので歌う歌も限られていて、ペキマンには「お前も歌うんなら
星降る街角とかこういう曲を歌うんだよ。スナックでは」といわれた。
それでやつの歌うのを聞いて覚えたのだ。
もっともラジオでも、それ以上に有線でも掛かってたけど。
カラオケもいまや殆ど行かないけど、今度行ったら久々歌おうっと。
そして小林の貴重なバラエティ動画を見つけた。これも紹介しとく。
今夜は最高 小林繁 1984年
最後にあったサヨナラ暴投は記憶に薄いけど、
見れば開幕からこんなのがあったというのを薄っすら記憶していた気が…
小林は唇の色が昔から悪くて、40歳ぐらいまでしか生きないような
そんな内臓の病気か何かを抱えているような気もしていたんだが、
そんなのは個性だというだけのようで、50歳も突破したし、
いつ見てもその色は悪いけど、病気ではないことは確信していた。
またあの事件を苦にするならとっくに自殺していると思うし、
この期に及んでそんなことも無いと思った。
なので特に大病に病んでいる話も聞かないし、
速報も事故だとは書かれて居なかったので、
心筋梗塞のようだけど、未だに信じがたい。57歳だなんて若すぎ。
しかも普通に生活できていて。
その前兆は背中が痛いといったこと。
その後も治らないとして奥さんがマッサージを施しているうちに
苦しみ出して・・・という話を知ったときに、
私もここ1年強、接骨院通いを継続していて、
随分よくなっているなりに、背中や腰が痛いことはしばしばある。
それが慢性的だから、かみさんも痛いといってもすぐに踏んでくれない。
(揉むのを嫌がるので、だったらせめて踏めと腰の背骨脇を踏ませてるが、
それすらも嫌がりだした最悪のヤツ・・・)
こんな感じだけに、同じ症状が私に起きたら、確実に死だ。
揉むことも救急車も呼ばれず、「あれ?静かになったな?」と
かみさんが思って私を見ると、既に死んでると…。きっとこうなるぞよ。
おそらく唯一巨人と阪神でエースになった偉大な細身の投手に合掌。
小林繁・江川卓 黄桜CM long edit
最後に貼ってあるようつべの動画は記憶に新しいのですがお互い辛かった
って、こういうことだったんですね。
辛かっただろうなぁ・・・・
だけど、偉い?人のたくらみの中でも、
くさらず、自分の人生をしっかり生きたという感じがしてかっこいいなと思いました。
ご冥福をお祈りします。
それでもイマイチ全て理解し切れていないので、
凄く複雑だったのだよ。
だから40歳でも解らないと思うので、
それ以下の人は、こういう事実を知っても真実を解らないと思う。
でもこれもその説明はざっくりとしているので解らないかと。
空白の1日ってのは、前振りにその前のドラフトがあって、
クラウン(現西武)が江川の交渉権を持ってたわけ。
ドラフトで当たりくじを引いた球団だから、
他の11球団にはその権利が無いの。
そしてその交渉権が切れるのが、
例えば5月3日だとして、次のドラフトが5月5日だとする。
5日以降は新たなドラフトでの交渉権を持ったところだけが
入団交渉を出来るので、5日以降は権利がなければ出来ない。
しかも3日まではクラウンしかそれは出来ない。
…というところの落とし穴で、4日はクラウンの権利も消滅し、
次のドラフト前だからどこも権利を持っていない唯一の日。
それがドラフトとドラフトの谷間になった「空白の1日」なんだよ。
巨人のフロントはここを突いて江川と入団交渉をして、
その公約を交わしたんだよ。巨人と江川で。
それを翌日のドラフト前に、こうなって入団が決まったと
プロ野球機構に申し出たわけだけど、
そんな抜け駆け行為は許せるはずが無いとして、
他の11球団もそうだが機構もその通達を跳ね除けた。
その際に巨人はルールは守って行ったことを
違法のように言われるのは侵害だとして、
その年のドラフトをボイコット。
(その他の巨人を夢見る選手たちにも大きな失望がここでも…)
そして当時のコミッショナーが、異例中の異例で、
妥協にも間違いだらけだとしか言えない、
阪神が江川の交渉権を持ったので、
阪神に獲得させた後に、トレードで得なさい。と、
これをどうしても受け入れてくれと強く巨人に願ったわけ。
それで江川は学生時代の活躍が凄かったので10年間の大活躍を見越して、
あと10年はなく、5年強までだろうと年齢から思える小林を
その天秤に乗せて交渉したんだよ。
阪神にはめっぽう強かった小林なので、
阪神はそれがこっちにきてくれることには大歓迎だし、
小林に負けていた分が巨人の負けになる。
小林が言ったのは、小林に負けた5~7敗が、
今度は阪神の勝利として巨人に付くと。
それも小林の自信だった。どこの球団に居ても自分の勝ち星は変わらないという。
実際その通りにしたのも凄すぎたよ。
投げるだけでなく、打つほうもあるわけだし。
いわゆる自分ひとりでどうこうなるものではないからね。
そして清原にドラフト1位指名しますという
宣言をしていた巨人が、清原を裏切って桑田を1位指名。
同じPLの同級生だけに、巨人は懲りずにまた似たようなことやったし、
これで完全に嫌いになって、元木のときも、
巨人入りだけを訴えていた本人がハワイに野球留学したりなど
いろいろやって数年を浪人生活したのちに巨人に入ったし、
巨人は虚人なんだと完璧に思って野球は腐ってると嫌いになった。
もっともサッカーなんかはイタリアのセリエAとかでも
八百長はかなり多くて、数年前もミランやユーベも含んで
大事件があったり、F1も政治色が濃くて胡散臭いんだけど、
元々そう言うものがパッケージされているものはそれでもいいの。
往年の全日本女子プロレスのレフリーに
ダンプなどとの悪役に加担する
アベシロウがいたことで成り立っていたように。
プロ野球はヒールは居ないんだよね。アンチは居ても。
だからそう言うのはありえないので。
毎月1回以上後楽園に見に行ってたのに、
以降全く行かず。
今回の前の巨人vs日ハムの日本シリーズ第6戦以降、
ただの一度も球場に見に行ったことはないよ。
たった一人の話だけど、そんな完全に野球離れした人を
私以外にも大勢作ったんではないかな?