まんだらけを書類送検 中野区の禁止区域でアダルトDVD販売容疑
10/22(金) 11:37配信
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警視庁=米田堅持撮影
禁止区域でアダルトDVDなどの販売店を営業したとして、警視庁保安課は22日、運営会社の古物商「まんだらけ」(東京都中野区、辻中雄二郎社長)と同社の法務担当役員で店舗責任者の男性(60)=千葉市=を風営法違反(禁止区域営業)容疑で書類送検した。 書類送検容疑は9月9~14日、中野区中野5のビル内で、200メートル以内に病院がある営業禁止区域であるにもかかわらず、アダルトDVDなどを販売する「まんだらけ禁書房」を営業したとしている。役員は「違法とは認識していたが、どうせ商品の入れ替えをするから大丈夫だろうと安易に考えてしまった」と容疑を認めているという。 保安課によると、同店は8月28日にオープンしたが「いかがわしい店だから何とかして」などと警視庁に苦情が寄せられていた。同庁が禁止区域と伝えて指導したが、営業を続けたため、9月14日に家宅捜索を実施。アダルトDVDなど約2500点を押収して捜査を進めていた。
城落としって知ってますか?どうやら静岡県浜松市の小学校の運動会でやるやつです。小さなお城みたいなものがあってそこに玉入れの玉を当てて先に煙を出して爆発させた方が勝ちというやつです。爆発音はかなりでかい です。そこでふと疑問に思ったことがあります。それは 爆発する原理ってなんだろう。 どーでもいいかもしれませんがすごく気になってます。先生が言うには薬品がこぼれて何かが起きて爆発すると言ってました。そんなのじゃ分かりません。詳しく教えてください。煙は発煙筒らしいです。あと、下から導火線に日がつくのが見えました。 悪用なんてしません。
《横浜高同期5人が証言》すべての松坂世代に捧ぐ“マツと俺たち”の物語「最後のマウンドを見て、ひと区切りつけられた」
10/22(金) 11:05配信
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1998年8月、甲子園の抽選会で談笑する松坂大輔と横浜高ナイン。当時の3年生31人は、41歳となった今も連絡を取り合い、繋がっている photograph by Sankei Shimbun
1998年。松坂大輔を擁して春夏甲子園連覇、公式戦44勝無敗で終わった横浜高校。当時の3年生31人は、41歳となった今も連絡を取り合い、繋がっている。10月19日の夜は、どんな気持ちでエース松坂の姿を見つめたのだろうか。プロ23年、高校時代を含めれば26年間。自らの人生を重ねて松坂を応援した同級生5人の姿を追った。(全2回の前編/後編へ) 【同級生5人写真】1998年の横浜高、背番号7・柴、PL戦の2ラン男・常盤、ブルペン捕手・浦田……松坂大輔の同級生たち
〈PL戦2ラン男・常盤〉「アイツも本心は投げたくなかったと思いますよ」
「俺、アイツの立ち振る舞いが、大好きだったんスよ!」 松坂引退試合の翌朝。現地観戦した元横浜高のチームメイト・常盤良太が興奮気味に言った。声には昨夜の余韻と熱さがこもっている。いつもクールで、あの夏の甲子園、延長17回に及ぶ横浜-PL戦の決勝2ランを打った時でさえ感情を抑えられていた常盤が、興奮気味に話す。 「あんなの普通イヤですよ。球は遅いし、見ていてボロボロ。アイツも本心は投げたくなかったと思いますよ。でもね、俺、見られて良かった。区切りがついたもの。球場にいるファンもそうだったんじゃないかな。松坂大輔の最後のマウンドを見て、ひと区切りつけられたと思います」 一気に言い終えると、ひと呼吸置いた。 「しばらくは野球を忘れて、ゆっくり休んでほしいですね」 心からの声でそう言った。「見ている人の気持ちを考えて、やり切ってくれた。最後まで周りの人のことを考えるヤツでしたね。良いヤツだったんですよ、マツは」と、本人には直接言えないストレートな言葉を繰り返した。
〈ブルペン捕手・浦田〉「パワプロで松坂大輔を選んで遊ぶくらいしか…」
「もったいないことしたなーって。自分、あの当時、子どものオムツを替えてて、マツの全盛期をほとんど見てないんですよ」 控え選手で元ブルペンキャッチャーの浦田松吉が言った。「松坂の球を誰よりも多く捕った捕手」を自称する横高のムードメーカーだ。現在は不動産会社の営業マンとして神奈川を拠点にマイホーム計画のサポートをしている。業界歴16年のベテラン係長として部下の育成にも力を注いでいる。 松坂が高卒ルーキーとして155キロの豪速球を投げていた頃、新人王をとった頃、3年連続最多勝を取った頃、いわゆる絶好調の頃――。 浦田は福井工大野球部を途中退部した。全国大会で神宮出場を目指していたが、いろいろあって22歳で結婚。同級生たちが松坂の招待券でナイター観戦を楽しむ中、我が子の入浴や寝かしつけに追われてナイターどころではない生活を送っていた。 「バツイチなんですが、20代で3児の父となり、共働きだったので育児がホント大変で。子育てが落ち着いた頃には、マツがとんでもなく手の届かない存在になっていて。『アイツも頑張っているんだから俺も頑張ろう』って思ったけど、シドニー五輪、WBC、メジャー挑戦……と、マツはどんどんスーパースターになってしまった。パワプロで松坂大輔を選んで遊ぶくらいしか、身近に感じる機会がなかったと思います」と笑った。 高校時代を思い出すと、松坂の球をいかに良い音を立てて捕球するかということだけを考えていた。正捕手・小山良男の陰で、1日100球、多い時で300球。時には左人指し指の骨折を隠しながら球を取ったこともあった。松坂はよく「(浦田)松吉のキャッチングはいちばん気持ちよくマウンドに行ける」と言ってくれた。そう言われると、メンバー外の自分でもチームの役に立てていると思えてやる気が漲った。 「マツが豹変したのは2年夏の群馬合宿でした。その夏の神奈川大会準決勝でY高(横浜商)に負けてから、人が変わったように練習した。投げ込みの気迫が変わった。140キロ後半のショートバウンドは顎に当たるので脅威でしたが、マツの本気に自分も付き合いました」 秋の関東大会優勝でセンバツ出場。松坂が指導者に「補助員としてセンバツに松吉を連れて行ってください」と直訴したときは、胸に熱いものがこみ上げた。メンバー外でも、松坂のブルペンキャッチャーをやり切った高校野球に悔いはない。
〈背番号7・柴〉松坂のサインを頼まれても「断わってました」
甲子園で活躍したレギュラー組は、レベルの上がる大学野球でもがき苦しむことが多かった。 98年夏、横浜高の背番号7をつけた柴武志を覚えている人は多いだろう。明徳義塾戦のサヨナラ打、PL戦でも延長11回に勝ち越し打を打った左の強打者だ。関東学院大で6度のリーグ優勝、日米大学野球の日本代表にも選ばれ順風満帆な大学野球を経験した。もともとドライな性格で、他人に流されない柴は「マツは凄いけど、俺は俺」という自尊心があった。知人から松坂のサインを頼まれても「断わってました」。 大学卒業後は一般企業に就職したが野球がやりたくて東京ガスのトライアウトを受けた。公園での自主練習が実ってなんとか合格。25歳まで社会人野球でプレーした。独身時代は趣味のゴルフを松坂とやることがオフの楽しみだったが、結婚してマイホームを購入してからは家庭中心の生活に。 「自分だけガラケーなので、みんなとのLINEのやり取りがないんです。みんなはマツに会っているんですか?」。口調は相変わらずドライだが、最近は仲間たちの健康や近況が気になっているようにも見えた。 20代の頃の松坂の活躍と栄光は仲間たちにとって大きな希望だった。しかし、恐れていた引退のニュースが流れてくる。5人は複雑な気持ちでこの事実を受け止めた。心に去来した思いとは? (続く)