論語を現代語訳してみました。
八佾 第三
《原文》
季氏旅於泰山。子謂冉有曰、女弗能救與。對曰、不能。子曰、嗚呼曾謂泰山不如林放乎。
《翻訳》
季氏〔きし〕 泰山〔たいざん〕に旅〔やままつり〕す。子 冉有〔ぜんゆう〕に謂〔い〕いて曰〔のたま〕わく、女〔なんじ〕 救〔すく〕う能〔あた〕わざるか、と。対〔こた〕えて曰〔い〕わく、能わず、と。子 曰〔のたま〕わく、嗚呼〔ああ〕、曽〔すなわ〕ち泰山は林放〔りんぽう〕に如〔し〕かず、と謂わんや、と。
季氏〔きし〕 泰山〔たいざん〕に旅〔やままつり〕す。子 冉有〔ぜんゆう〕に謂〔い〕いて曰〔のたま〕わく、女〔なんじ〕 救〔すく〕う能〔あた〕わざるか、と。対〔こた〕えて曰〔い〕わく、能わず、と。子 曰〔のたま〕わく、嗚呼〔ああ〕、曽〔すなわ〕ち泰山は林放〔りんぽう〕に如〔し〕かず、と謂わんや、と。
《現代語訳》
〈孔先生は、林放さんとの会話のなかで〉季孫氏〔きそんし〕が霊峰〔れいほう〕・泰山へ儀礼の旅を挙行〔きょこう〕したことにふれ、次のように仰られました。

泰山
「冉有よ、お主は季孫氏の家老として、その非礼を諫〔いさ〕めることはできなかったのか」と尋ねると、「できませんでした」と答えよった。
私は、「ああ、泰山の神霊は、礼節を重んじられるというのに、季孫氏の非礼をお享〔う〕けにはなるまいに」といって憂〔うれ〕いた。
しかし、泰山の神霊がもし、〈季孫氏の〉非礼をお享けする、というのであれば、礼学の根本を問うてきたお主(=林放こと)のほうが、神霊よりも優っているという他あるまい、と。
〈おわり〉
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考にしているが、決して両先生を否定するものではない
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