こんばんわ。
今日は、夜の仕事の日です。
今は、雨が降っていますが、日付が変わる頃までにはやむ予報です。
今日は、4月8日。Mさんが亡くなった日です。あれから10年です。
続きを。
仕事場から居なくなったMさんを、お母様に迎えに来ていただき、お母様も連れて帰ると言って下さり、安心しました。
ただ、その頃から急速に仕事の状況は悪くなり、東京からの応援が来て、昼夜2交代になったため、私は、ほとんど家に帰れない状態になっていきました。
Mさんに実家に帰る様に言った日から1週間後の朝に、Mさんから電話がありました。
実家から福岡に戻っていると言う事で、いつから出勤していいか。と言う事でした。
私が『1週間くらい』と言った、その通りに福岡に戻ってきたのでした。
ただ、まだ声はか細く、更に、職場の状況は悪くなっていて、Mさんには、もうしばらく休むように伝えました。
正直、本当に1週間で福岡に戻るとは思っていませんでした。
それから、3月中に3、4回、彼女の自宅の固定電話に連絡をし、話をしました。
私からは、仕事の状況を説明して、休んでもらっている理由を説明しました。
彼女からは。
『年休などの休みが残っているか心配』
『残業がないと、ちょっと生活が心配』
『JAVA の勉強をしている』
など、徐々に前向きな話が出てくるようになり、声も明るくなってきました。
そして、事務的な連絡は、彼女の携帯にメールで送りました。
『制度改正』は、全体は4月1日に間に合わず、4月1日付けの5000人強の『基本給発令』と、その通知の帳票の出力だけは間に合わせる事になり、3月後半は、私はそれに掛かりきりになりました。
その発令の処理が終わり、4月には東京のメンバーも半数が戻り、福岡の体制は縮小する事になりました。
ただ、『会社として対応をしている』事を示す意味もあり、東京でも、一部の作業をする事になりました。
4月の頭に、本社から役員も来て、その後の対応の検討をする中で、東京に中身、仕様を知っている人を配置できないか。との話があり、私から、Mさんの事を話し、彼女に行ってもらう事にしました。
ただ、東京では、福岡にも支援で来て下さった部長の元で、直接、東京のメンバーと話すのではなく、負荷の掛からない形で、福岡との連絡、仕様についての確認などをしてもらう事としました。
部下から彼女に連絡をしてもらい、4月3日朝から仕事場に来てもらい、仕事の説明と、準備をしてもらいました。
久しぶりに会ったMさんは、明るく、いつも通りの様でした。ただ、私があまり席におらず、夕方には帰ったのかと思っていたのですが。
夜の11時過ぎから、東京での作業の打合せがあり、そこにMさんも居たのでした。打合せは2時過ぎまで続き、私は、方向が同じなので、タクシーでいっしょに帰りました。
そのタクシーの中での会話が、最後になるとは。
4月7日の夜、仕事が終わって、部長がMさんを、桜の綺麗な場所に連れていって下さったそうです。
翌日8日。Mさんは、連絡もなく出社せず、心配した部長が宿舎のホテルに行き、ホテルの方と部屋に行くと、ベッドで眠った状態で亡くなっていたそうです。
私達は、午後に、その知らせを受けました。
私は、何故か涙は出ませんでした。
何故、突然逝ってしまったのか。怒りのような複雑な気持ちで居ました。
それが、ちょうど、10年前の今日の事でした。
その後の事は、また。
では、また。
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今日は、夜の仕事の日です。
今は、雨が降っていますが、日付が変わる頃までにはやむ予報です。
今日は、4月8日。Mさんが亡くなった日です。あれから10年です。
続きを。
仕事場から居なくなったMさんを、お母様に迎えに来ていただき、お母様も連れて帰ると言って下さり、安心しました。
ただ、その頃から急速に仕事の状況は悪くなり、東京からの応援が来て、昼夜2交代になったため、私は、ほとんど家に帰れない状態になっていきました。
Mさんに実家に帰る様に言った日から1週間後の朝に、Mさんから電話がありました。
実家から福岡に戻っていると言う事で、いつから出勤していいか。と言う事でした。
私が『1週間くらい』と言った、その通りに福岡に戻ってきたのでした。
ただ、まだ声はか細く、更に、職場の状況は悪くなっていて、Mさんには、もうしばらく休むように伝えました。
正直、本当に1週間で福岡に戻るとは思っていませんでした。
それから、3月中に3、4回、彼女の自宅の固定電話に連絡をし、話をしました。
私からは、仕事の状況を説明して、休んでもらっている理由を説明しました。
彼女からは。
『年休などの休みが残っているか心配』
『残業がないと、ちょっと生活が心配』
『JAVA の勉強をしている』
など、徐々に前向きな話が出てくるようになり、声も明るくなってきました。
そして、事務的な連絡は、彼女の携帯にメールで送りました。
『制度改正』は、全体は4月1日に間に合わず、4月1日付けの5000人強の『基本給発令』と、その通知の帳票の出力だけは間に合わせる事になり、3月後半は、私はそれに掛かりきりになりました。
その発令の処理が終わり、4月には東京のメンバーも半数が戻り、福岡の体制は縮小する事になりました。
ただ、『会社として対応をしている』事を示す意味もあり、東京でも、一部の作業をする事になりました。
4月の頭に、本社から役員も来て、その後の対応の検討をする中で、東京に中身、仕様を知っている人を配置できないか。との話があり、私から、Mさんの事を話し、彼女に行ってもらう事にしました。
ただ、東京では、福岡にも支援で来て下さった部長の元で、直接、東京のメンバーと話すのではなく、負荷の掛からない形で、福岡との連絡、仕様についての確認などをしてもらう事としました。
部下から彼女に連絡をしてもらい、4月3日朝から仕事場に来てもらい、仕事の説明と、準備をしてもらいました。
久しぶりに会ったMさんは、明るく、いつも通りの様でした。ただ、私があまり席におらず、夕方には帰ったのかと思っていたのですが。
夜の11時過ぎから、東京での作業の打合せがあり、そこにMさんも居たのでした。打合せは2時過ぎまで続き、私は、方向が同じなので、タクシーでいっしょに帰りました。
そのタクシーの中での会話が、最後になるとは。
4月7日の夜、仕事が終わって、部長がMさんを、桜の綺麗な場所に連れていって下さったそうです。
翌日8日。Mさんは、連絡もなく出社せず、心配した部長が宿舎のホテルに行き、ホテルの方と部屋に行くと、ベッドで眠った状態で亡くなっていたそうです。
私達は、午後に、その知らせを受けました。
私は、何故か涙は出ませんでした。
何故、突然逝ってしまったのか。怒りのような複雑な気持ちで居ました。
それが、ちょうど、10年前の今日の事でした。
その後の事は、また。
では、また。
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