ゆみごんのだららん日記

だららん主婦ゆみごんの、今は里子ちゃんとのバタバタ生活。以前はワンコ、通院、仕事の事など。気ままに更新しています。

遺言書メモ発見

2018年11月19日 10時29分25秒 | 母の事
近々にある家庭訪問と、里子の受け入れのため、あと大掃除をかねて家中をひっくり返して、さらに不要品を捨てています。
先日は、車に不要品を乗せてクリーンセンターへ捨ててきました。
 ↓ こんな感じ。



60キロを2回。
120キロの不要品を処分しました。

でもまだ、家の中には不要品がいっぱい。
今日もこれから出掛けてきます。

そして、昨日は妹と一緒に母の洋服を整理。
いや、何回もやってるんですけどね。
あぁ、これ着てたなと思うとなかなか捨てられない。
何回か繰り返して心の整理もしながら捨てて行こうと思っています。

そして、母は癌で亡くなりましたが、特にこれと言って言葉を残して行きませんでした。
が、以前部屋の片付けをしていたとき、鉛筆で書いたメモを見つけました。
本当に短いメモで、お墓の事が書いてありました。
それはちょっとかなえるのが難しい事でして……。
金銭的な問題ではなく、親戚の事なのでちょっと……なのですが……。

とりあえず、ゴメン、無理。
ってことで、納得して頂くしかないのです。

で、他にも何か残ってないかな〜と探していたのですが何もなく。

ま、何も残して行かなかったんだろうと思っていました。

そして、昨日の片付け中。
何かの箱の中から見つけた朝日生命のメモ帳。
パラパラとめくると、相変わらずのテレビショッピングを見て書いたメモ。
ダイエット商品とかの名前と、電話番号が書いてある。
(このメモ、すごく多いんです
そして一言、『遺言書』と書いたメモがありました。

……続き。続きが読みたいのよ!

何を書こうと思っていたんでしょうね。
遺言書の『遺』の字がわからなかったらしく、書き直した跡がありました。
何を思ってこれを書いたのか。
今となっては確かめる術もありませんが。

とりあえず、母の使っていた部屋はキレイになりそうなので、他の部屋の掃除を頑張ります。
はぁ〜、一苦労だ〜。

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腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その5】

2018年07月25日 22時06分07秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その2】
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その3】
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その4】
の続きです。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

母が亡くなった朝。
6時前に、訪問看護の看護師さんがこの一週間お休みだった担当医の先生を連れて家に来てくれました。
いつもバッチリお化粧の先生がスッピンに近い顔で来てくれたので、急いで来てくれたんだと思います。
その後すぐに葬儀屋さんが来て、お葬式の話等、色々決める事がありました。
先生はすぐに帰り、看護師さんだけが残って母をキレイにしてくれました。
私は、看護師さんの相手をしている妹に呼ばれたり、お葬式の話をしている旦那様に呼ばれたりでてんやわんや……。
お葬式は、棺桶はまぁ、燃えるのでそんなに良い物じゃなくていい。
でも、骨壺はちょっとこの模様が入ったのがいいんじゃないかな、とか……。
(実際には白い布みたいな箱みたいなのに入ってるから外からはよく見えないんだけど……)
宗教は何ですか? と言われても、何もない……。
母の実家と父の実家は宗派が違うし。
来てくれるお坊さんは誰でも良いですと言って、おまかせしちゃいました。
(……適当……
お通夜はそんなに人が来る訳でもないので家でやる事にして、お葬式は葬儀場で。

私は何も見ていなかったんですけど、看護師さんはシャンプーをしたり、身体を拭いたりしてくれていたようです。
当時、中学生だった姪っ子も一緒に母のシャンプーをしていました。
これは、自宅じゃないと出来ない事だと思うし、姪っ子にはいい経験になったと思います。
おかげで、姪っ子は医療従事者になりたいという目的が出来たようでした。

このときだったか、母の歯が抜けていると言われました。
どうしてこんな事になったのか。
どのタイミングで抜けていたのか……。
痛かっただろうな。それも、わからなかったのかな……。

看護師さんが帰って、葬式の打ち合わせも終わって。
良い時間になったら親戚に連絡をして。

お通夜が25日。火葬と葬儀が26日に決まりました。
母と最後のお別れをして。

26日。
火葬と葬儀を終えて帰る途中。
車から虹が見えました。

ちなみにこの後、四十九日の法要の時、お盆の迎え火の時にも虹が出ていました。
偶然ってあるものですね。

葬儀が終わった後には病院でお世話になった人に挨拶に行き、レンタルしていたベッドや車椅子、スロープを返却して。
訪問看護の方にただで借りていたポータブルトイレを返却して。

仏壇を買ったり、どんどん落ち着いていきました。

母が亡くなる前に、「何かやりたい事ないの? 元気なうちに行っておきたい所とか、会っておきたい人とか」と聞きました。
母はほとんど希望を言いませんでした。
私たちに言い残す事もほとんどありませんでした。
ほとんどっていうか、全然?

母の癌がわかった時、母のためにも自分のためにも出来る限りの事をしようと思いました。
実際に後悔しないだけの事が出来たかといえば、それは出来ないですよね。
どれだけの事をしても、後悔は残ります。

それは最初の病院選びの所からです。
あの時地元の病院でなく、大学病院を選んでいたら違ったんじゃないかとか。
がんセンターにしておけば良かったんじゃないかとか……。
でも地元の病院にしたおかげで、腹水で苦しんでいる時に早く手術が出来ました。
仕事帰りに毎日病院へ見舞いに行く事も出来ました。
腹膜播種の状態では、どこの病院で手術をした所で、遅かれ早かれ同じ結果になっていたと思います。
癌に有効なのは、とにかく早期発見、早期治療なんでしょうね。

私は今年も乳がん、卵巣がんの検診を受ける予定です。
皆さんも、どうか検診を受けて下さい。

勢いのまま書いてしまったのでまとまりないし、誰かの参考になるかわかりませんが……。


お付き合いいただいてありがとうございました。

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腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その4】

2018年07月22日 23時35分18秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その2】
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その3】
の続きです。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

母が退院してきてから、家は普段よりバタバタしていました。
色んな人が来るし。
訪問看護の人が一日おきに来てくれて。
酸素ボンベを貸してくれた業者の方(どこだっけ、有名な外資の会社)も様子を見に来たり。

いつも静かな家が、バタバタしています。
でも、病院よりは遥かに静かで、日常です。

母を家に連れ帰ってすぐに、訪問看護の看護師さんも来てくれて、色々としてくれました。
母のいない所に連れて行かれて、
「お母さんの様子は良くないです。今夜何かあってもおかしくない。
何かあったらすぐに連絡を下さい。当番が携帯を持っているので、夜でも大丈夫です。
もし、お母さんが息を引き取ったと思っても、救急車は呼ばないで下さい。
自宅で亡くなった時には事故になってしまうので警察に連れて行かれてしまいます。
先生に来て頂く事になっているので、何があってもこちらに連絡をください」
との事でした。

母の入院している病院は、市内では一番大きな総合病院でした。
この辺ではあまりないNICU(新生児集中治療室)があって、県の「がん診療指定病院」になっている病院でもあります。
この規模の病院の先生が家に来てくれるのは珍しいことらしいのですが、病院の院長が往診を比較的してくれる先生らしいので、その関係で比較的往診もしてくれるらしいんですね。

母に、
「家に帰ってきたのわかる?」
と聞いても返事はありませんでしたが、わかっているっぽかったです。

母はこちらの問いかけに答えたり会話が出来る状態ではありませんでした。
目は開いています。
ぼーっとどこかを見ているのか、見ていないのか。
手をベッドの柵から出して、ボーっとしている感じ。

介護ベッドは比較的高性能の物を借りたので、エアーが入っていて、時間ごとに左右のバランスを変えて床ずれ防止になるものでした。
でも、数時間ごとに身体の下にタオルを入れて体位を変えました。
点滴が無くならないように交換したり、母に話しかけたり。
お風呂にもしばらく入ってなくて気持ち悪いと言っていたので、大きな桶にお湯を入れてきて、ベッドで足湯をしました。
そのときも、足をあげるときは自分で力を入れたり、少しは意識があるっぽい動きをしていました。

痛がっていたら与えるように、と言われた痛み止めの口に入れるお薬は使いませんでした。
この数日、痛がっている様子はありませんでした。

鼻に入っているチューブから出てくる物に血のようなものが混じっていて、一度だけ訪問看護の看護師さんを呼びました。
何て言ってたかな……特に問題もなく、様子を見て大丈夫という事だったと思います。

夜になって……。
妹と姪っ子が家に帰り、父が2階の寝室へ上がりました。

夜中になっても母が寝る様子がないので、「まだ起きてるの?」と聞いたら、
「何回も」と、母は言いました。
声が出るのは珍しいです。
「何回も聞くなって? はいはい」
確かに、まだ起きてるの? と言ったのは、数回目でした。
やっぱり、たまに正気になるんだな、と思いました。

夜中の2時くらいだったか。
何となく自室に上がる感じでもなく、母が寝ている和室のベッドのあたりで横になりました。
旦那様も一緒です。

気づいた時には旦那様が私を呼んでいました。
「バービー(←母の事)が……」
いわれて飛び起きて、母の所へ行くと……。
母は息を引き取っていました。
4時頃でした。

母の身体はまだ温かくて。
目を細く開いていて、まだ起きてくるように見えました。
どうして寝てる間に行ってしまったのか。
寝てしまったのか。
思ったけど、これはどうしようもなくて。
見送りなんていらないよ、っていう感じも、母らしくて。
「頑張ったね。もう痛くないね、苦しくないね。ありがとう」と言いました。

2階の父を呼び起こしました。
妹に電話して、母の事を伝えて。
訪問看護の方に電話をして母が息を引き取ったと伝えました。
先生を連れて行くとの事でした。
大きなお葬式にする予定はないけれど、お葬式はしてあげたいので、公共の所でお葬式ができる葬儀屋さんをネットで探して電話してもらうように旦那様に頼みました。
電話をすると、すぐに来てくれるとの事でした。

悲しむ間もないバタバタで、動きながら泣くという日でした。
4回で終わる予定だったのですが、その後の事もちょっと書こうと思うので、5回へ続きます。
お付き合いいただいてありがとうございます。

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腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その3】

2018年07月19日 00時52分05秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その2】
の続きです。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

退院の予定だった母ですが、その前に血液検査の結果が悪く、退院が取りやめになってしまいました。
「退院まであと◯日だからね、頑張ろうね」と気力をふるわせていた母には衝撃的だったらしく、かなり落ち込んでしまいました。

そうこうしているうちに、治医の先生が出張とかで、1週間ほどいないという事で、代わりの先生がつきました。
新しい先生とお話ししていて、主治医の先生とは違うお話をされました。
先生「何か食べていますか?」
私「主治医の先生には飴だけと言われていたので何も食べてません」
先生「食べたい物があったら、少しくらい食べても大丈夫ですよ」
私「この前、トロが食べたいとか言ってましたけど……笑」
先生「生ものは、感染症とかの心配もあるのでちょっと……」

……って、食べてもいいんかい。
食べた所で、鼻のチューブから出てきちゃうんですけどね。

先生「お母さんの状態は非常に悪いです。本人が帰る事を望んでいるので、家に帰ってみてはどうですか?」
私「帰っていいなら、帰らせたいです」
先生「今帰らないと、帰れなくなっちゃいますもんね」
主治医のいない間に退院しちゃうってどうなんだろうとは思いましたが、帰っていいというならつれて帰りたい。
ずっと帰りたいと言っていた母でした。

ということで、2日後か、3日後(忘れちゃいました)に退院する事になりました。

一度入れた介護ベッド等を回収する方向で(退院が中止になったから)手続きしていたのを、慌ててもう一度電話して使用しますと連絡。
バタバタと用意しました。

そんな状況の中。
翌日だったかな……、母が暴れて困るという電話が病院からありました。
点滴も抜いてしまうし、指につけているセンサーも取ってしまう。
鼻に通しているチューブも抜いてしまうというので、ただ事じゃない。

慌てて病院に行きました。

なんて言うんでしょうか……。
母であって、母でない感じ。
痛さとか、そういうのは感じていないようでした。
意識はあるけど、私たちの言う事を聞いてくれない。
どこかに行こうとする。
すごい力。

とりあえず、私が泊まって様子を見ることになりました。
鼻のチューブは何度入れても抜いてしまうので、なしで。
でも、鼻のチューブがないので、すぐに吐いてしまいます。
前触れもなく吐くので、キャッチするのも一苦労。
定額でおむつ使い放題の契約をしていたので、おむつとかパットを使ってキャッチします。

夜なのに、寝ません。
私のことは認識しているようです。
「さあ、いくよ、ほら」って言います。
「どこに行くのよ」
って言うと、睨んできます
何度も何度も、「行くよ」って言います。
「◯◯(仕事の道具。名前は忘れちゃいました)取って!」
と言って、体温計を取ると、テーブルを叩き始めます。
……母は仕事をしていました。
大工の父と一緒に仕事をしていた母は、こんな時にも、仕事をしているんです。

病気になる前までずっと、仕事をしていました。
癌がわかってからは、行っちゃダメ、と言われて行ってなかったんですが……。
どうしても手が足りないと言う父について、1回だけ仕事にも行ってました。
若い頃からずっと働き詰めだったので、意識がない今、無意識に働いてしまうんでしょうね。
本当に、あの時は泣けました。

その翌日も同じような状態が続いて、その次の日から、母の意識はなくなりました。

退院の日。

意識のない母を病院の方々の手を借りて車に乗せました。
ベッドから起き上がって車椅子に乗せる時。
意識はないけど、母は自分で立ち上がろうとしていました。

家では介護用品を貸してくれたAさんと、訪問看護の看護師さんが待っていてくれました。
みんなで母を運ぶのを手伝ってくれました。

今回、関わって下さった皆さんは本当に良くしてくれて、とても感謝しています。
こういう時の人の優しさは、本当に身にしみました。
自分の力なんて本当に小さいなと思います。


長くなりましたので、続きはまた後日。
おつきあいありがとうございます。

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腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その2】

2018年07月18日 00時12分56秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】』からの続きです。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

入院した母は、口から食べ物を食べられなくなりました。
点滴で栄養を入れていますが、点滴で入れる点滴は低カロリーで、最低限のものでした。
飴はなめてもいいって言われたかな。
担当の先生に、「あんなに低カロリーで、大丈夫なんですか?」と聞きました。
答えは、「人間、案外大丈夫なんですよ」でした。
いや、そういう事言ってるんじゃないんだけど……。
栄養を取ると、ガン細胞も成長してしまう。
母のお腹の中で、ガン細胞が驚くような早さで成長していて、腸を圧迫していました。
鼻からチューブを入れて胃の中の物を出して、排尿もチューブです。
母は歩きたいと言いました。
でも、歩いている時に倒れると困るから歩いたらダメだと言われました。
「これじゃ、家に帰った時に歩けなくなっちゃうよ」
母は、まだまだ家に帰るつもりだし、「早く帰りたい」と言っていました。

この入院の前、腰の骨が当たって、寝るのも痛い。
痛くて眠れないと言っていた母に、痛かったらガマンしないで先生に言うように言いました。
いつの間にか痛み止めがモルヒネになっていました。

入院して2週間くらいたつと、母の意識がおかしい感じになってきました。
時間がわからなくなっているようでした。
話しかけても返答に少し時間がかかります。
母のお兄さんが来てくれたんですが、「自宅の裏にある川に釣りに行くみたい」とメールをすると、「ああ、暑いから泳ぎたくなるよね」と返事がありました。
私は仕事帰りに必ず病院へ行っていたんですが、私が行くともう「そんな時間?」と言うし、犬の声がするとか、変なおじさんがいるとか……。
幻覚、幻聴かな……。
とにかく、積極的な治療をしないのであれば、本人も希望しているし、家に連れて帰りたい。
つれて帰る方向でお話を進めました。

鎖骨のあたりに、点滴用のポートを埋め込みました。

病院の『患者サポート相談窓口』という所に行って介護保険と在宅看護の相談をしました。
(相談している間にも遠方(他県)から相談の電話が入っていました)
この窓口の方は、病院との打ち合わせなどにもずっと同行してくれました。

点滴の針を変えるのはナースの人ですが、点滴の袋を変えるのは私たちなので、妹と一緒に病院に行って、点滴の代え方を習いました。
さすがに、もう忘れましたが……。

要介護認定が出て(要介護3だったかな、4だったかな……)、介護用品を借りる手続きをします。
介護ベッド、点滴を掛けるラックみたいなの、車椅子を借りました。
介護用品を持ってきてくれた方も以前はナースだった人で、色々と相談に乗ってもらいました。
今回は病気で使う介護保険だったので、あえてナースだった方を紹介してくれたようでした。

訪問介護は、いっぱいかもしれないとしれないと言われてたんですが、入院している病院の訪問介護を使える事になりました。
週3回だったかな、来てもらえることになりました。
家に帰ったら、少し体調も良くなるかもしれない。
歩けるようなら、少し歩かせてあげよう。
そんな事を考えていましたが、母の退院は具合が悪くなり、流れてしまいました……。

長くなったので、続きはまた後日。

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腸閉塞(イレウス)と最後の入院【その1】

2018年07月16日 23時15分48秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
今日は母が亡くなる1ヶ月前くらいのお話です。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

母が亡くなって、もう4年以上が過ぎました。
このブログも普段は日々のくだらない事を書いているだけですが、今も母の卵巣がんの事で検索して来て下さる方が多いです。
高齢化が進むにつれて癌になる方は多くなるでしょうし、若くても罹患する方がある病気ですから、少しでも情報提供になれば、と思っています。

正確な日付は忘れてしまったのですが、母は都内のセカンドオピニオンの予約をしていました。
その一週間前。
この頃には横になっていても体調の悪い状態だったのですが、その日も朝から調子が悪そうでした。
「朝から吐いちゃったんだけど、吐いたのが黒いんだよ」
って言うんですね。
吐瀉物を見ていると、吐いたのは少量だったんですが、確かに黒いというか黒に近い緑色っぽい感じです。
あぁ、腸閉塞だって思いました。
二日後あたりに病院の予約もいれてあったのですが、母を病院へ連れて行くように、父へ言いました。
会社に行く予定だったのですが、急遽休んで、すぐに母の病院へ。

具合悪いって言ってるのに、まあ、待たされますね。
妊婦さんの中に混じって待っていたのですが、間に一回激しく吐いてしまいました。
本当、あの病院の婦人科外来の人たちは気が利きません。
病棟の人はそうでもないんですけど……。

それからしばらくして診てもらい、検査に行ってる間に家族が呼ばれて、緊急入院になりました。
「かなり危ない状態です。数日もつかどうか」と言われました。
カリウム値が非常に高い状態だとも言われました。

母の前では泣かないようにしていたんですが……。
この時は検査から戻って来る母の所で大泣きしてしまいました。
多分、この時の具合の悪さと私の様子を見て、母は何かを感じ取ったんだと思います。
もう死んでしまうと察したのかな。何も言わなかったけど。

とりあえず、緊急入院になったので、一週間後の都内の病院のセカンドオピニオンをキャンセルしました。
会社は数日休むと連絡を入れて、入院道具を持って行ったり。
母は父の事をよろしくね、とよく言ってました。

2、3日して、先生からのお話がありました。
「カリウム値が基準以内になって安定しました。とりあえずの山は越えました」
という説明に、一安心。
でも、体力がないのでもう抗がん剤はしない。
積極的な延命治療はしないという事で最終確認をされました。

母に「明日から会社に行くね」と言うと、「あぁ、そう」と不思議そうに言われました。
入院した日から私が休んでいたので、このまま自分は死ぬのかと思っていたんだと、この時理解しました。
数値が良くなったと言っても、信じていなかったんだと思います。
私が会社に行くと言った事で、あれ、まだ自分は死なないのかなと思ったようです。

治療について、私の基本方針は母には本当の事を言うという事でした。
言わないということはちょっとはありましたけど、嘘は言わない。
私自身の事だったら、やっぱり自分の事は知りたい。
だから、母にも嘘はつかない方がいい。
選ぶ事があるなら、選択権をあげたい。
それは残酷な事になるかもしれないけど、それがいいんじゃないかと思っていました。

母は逃げずに、グチらずに、頑張っていました。
私だったら母のように治療するのは無理だったろうな……。

この入院は1ヶ月くらいになりました。
2週間を過ぎた頃から母の様子も変わってきます。

長くなったので、続きは次で。

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セカンドオピニオンのススメ

2016年04月03日 23時18分17秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
今日はセカンドオピニオンについて。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

人間というのはうまく出来ている物で、記憶というのは忘れていってしまうのですね。
はっきりいって、早く書かなかったので忘れている事がたくさんあります。
母との日常の記憶も、今では遠い事のように思います。
…私が忘れ過ぎなのか??

セカンドオピニオンについて。
セカンドオピニオンはやるべきだと思います。
信頼できるいいお医者様に会えたとしても、後から後悔しないように。

うちの母は、ガンに気づいた時は腹水でお腹がパンパンの時だったので、最初からセカンドオピニオンを考えたわけではありませんでした。
とにかく、この苦しい状態をどうにかするために手術をする。
卵巣と子宮を取れば、腹水もなくなって楽になる。
それが第一。

その後はお腹の中に広がっているガンをたたく為に、抗がん剤を使う。
抗がん剤を何度かやって、腫瘍マーカーの数値が上がってくる。
その時に、セカンドオピニオンを考えました。

主治医の先生だったか、婦人科の窓口だったか(私はいなかったのでちょっと不明)に、セカンドオピニオンの書類をお願いしました。

考えていたのは、ガン治療のスタンダードと、イレギュラーな治療をしてくれる所。
一つは、「国立がん研究センター東病院」。
もう一つは、都内の診療所で、抗がん剤を規定の量より少なく使って、完治させるというよりも生活することを重視して治療している先生の所です。
(名前を出すのはまずいかな? と思い、書きません。ブログを丁寧に書いてあり、本も執筆している先生です)

がん研究センターでのセカンドオピニオンは、今の治療が最善だとおもう。
例えば転院したとしても、同じ治療になると思う、という事でした。

まぁ、予想通り。

もう一方の診療所の方は、その当時認可されたばかりの「アバスチン」を使えば、結果は少なくとも結果は出ると思う。
今やっている治療で、もう打つ手はありませんというわけではない。
という答えでした。

今やっているTC療法で効果が出なかったら、もう一個、違う抗がん剤(名前忘れた)を使う。
それで効果が出なければ、もう手はありません。
と言われていた私たちには、一筋の光でした。
「アバスチン」は、当時、卵巣がんに保険適用されたばかりの分子標的薬でした。
すごく効くけれど、腸に穴があく致命的な副作用があるというイメージ。
母が通っていた病院では、今から、どう使うか話し合う所という事でした。

もう少し早く保険適用されていたら、母はもう少し長生きできたかもしれない…。
もう少し早くセカンドオピニオンしていたら、もう少し長く生きていられたかもしれない。
…結果論ですが。

ちなみに母は、セカンドオピニオンをしていただいた都内の病院に次の予約を入れたのですが、その日を待たずに腸閉塞になり、入院しました。
残念で仕方ありません。

私たちのような失敗をしない為にも、セカンドオピニオンは早めに。
納得できるまで。
やるべきだと思います。

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卵巣癌の手術。

2015年03月09日 17時22分55秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
今日は癌の手術が終わるまでです。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

癌かもしれないとわかってから、母がぽつりと言ったことがありました。

「死ぬのは怖くないんだ。でも、癌って痛いっていうでしょ? 痛いのは嫌だな」

と。

これは、治療の最後までの母の意思として方針になりました。
当然ですが、痛いよりも痛くない方がいいわけですね。
それでも、母には痛い思いをさせてしまいました。
昔の人なので、何でも我慢してしまうんですね。

少し調べればわかることですが、さらっとおさらいを。
卵巣は骨盤の中にある小さな臓器です。
なので、癌で多少大きくなったとしても自覚症状がなく、見つけにくいです。
さらに大きくなって、骨盤からぽこっと飛び出したとき、お腹が出っ張って太ったかな?
という自覚症状が出て、病院に行ったときには癌が進んでしまっているということが多いようです。

がん検診をしているから大丈夫、というのも誤解ですね。
普段婦人科のがん検診として行われているのは子宮頸癌の検診です。
子宮頸部を綿棒のようなものでこすって組織をとり、行う検査です。
卵巣の様子は、膣から超音波で見るとわかるらしいです。
ですが、卵巣癌を100パーセントみつけられるかといえばそうでもないらしく、一年に一度超音波で見ていたからといっても、いきなり癌として進んでいるということもあるようです。

ちなみに私の母は、卵巣癌が見つかった年の1月に、私と一緒に子宮頸癌と乳癌の検査はやりました。
当然、異常なしでした。

紹介された病院に行った母は、色々と検査しました。
左の卵巣がお腹いっぱいに腫れている。
CTでははみ出してしまい、正確な大きさはわからないということでした。
MRIがとれればよかったのですが、母のお腹に避妊リングが入っており、それが癒着してとれなくなっていました。
素材が金属という可能性もあるので、この時点でMRIはとれませんでした。

検査の結果、「卵巣が大きく腫れ上がり、何か良くない状態になっていると思われる」…だったかな?
そんな報告を受けた気がします。

癌だとは思われるという説明だった気がします。
でも、この時点では癌とは断定しません。
卵巣癌は、どんなに大きくなっても良性という可能性があるかららしいです。
小さな可能性でも、良性であってほしいというのが、もちろん私たちの願いでした。

結果が分かるのは、卵巣を手術でとり、とったものを顕微鏡で見てからだそうです。
お腹にある間に刺したりして検査はしません。
検査の過程で、腹腔内にガン細胞が散らばることになるからだと思います。

手術を12月の上旬の予定でとってもらい(この時点で一ヶ月後)、それまではなす術もなく。
どんどん大きくなり、苦しくて夜も眠れないという母を見るのがつらかったです。

病院で何度か腹水を抜いてもらいました。

2リットルだったかな。

その日は楽になりましたが、また数日後にはパンパンで、一週間なんてとてももちませんでした。

状態が悪いので、12月上旬の手術を11月下旬に移動してもらえました。

癌が大きいので開腹だけで終わるかもしれない。
全てとれるとも限らないと言われました。

手術は3時間ほどで終わり、両側の卵巣、卵管、子宮の全摘出。
大網の切除が行われました。
運良く、開腹のみだけではなく、摘出がされました。

摘出された卵巣を見ましたが、本当に両手でないと持てないくらいの大きさになっていました。
摘出するところは摘出したが、腹腔内がざらざらした感じになっている。
多分、お腹の中に癌細胞が広がっていると思う。
あと半年、で死んでしまうということも考えられると、手術直後に言われました。

とりあえず、大きくなった卵巣が取れたのだから、抗がん剤が効いていい結果になるかもしれない。
お腹に水がたまらなくなったら、少しは楽になる。
…私たち家族に、半年という言葉はとても重い言葉でしたが、この時点ではまず手術がうまくいってよかった。
そう考えていました。

2016.4.19誤字訂正


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母の癌が見つかるまで。

2015年03月08日 21時24分36秒 | 母の事
2014年6月23日月曜日。
私の母が、卵巣癌で息を引き取りました。
60歳と2ヶ月でした。
母の卵巣癌が見つかってから亡くなるまでのことを、私の記録として、そして今も癌と闘っている誰かのために書き残したいと思います。
今日は癌が判明する前から病院へ行くまでです。

------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------ ◇ ------

2014年夏。
関係あるのかわかりませんが、母から体臭のすることがありました。
私の感想では、「ホームレスのようなにおい」でした。
何度か母に指摘していましたが、母は「え~?」なんて言っていました。
汗をかく仕事なので、「じゃ、お風呂に入ってくるよ」なんていうときもあったのですが、「もうお風呂に入ったよ~』なんて時もありました。
不思議なことに、体をクンクン嗅いでみても臭う訳ではないんですね。
どこからにおいがしていたのか…。
この時に病院に行っていたら、少しは早く癌が見つかったのかもしれないと今は思います。

夏から秋にかけて、母はダイエットをしていました。
犬の散歩中にロングブレスダイエット。
「ふ~~ってやりながら歩くと、アレックスが振り返ってこっちの顔を見るんだよ」なんて笑っていました。
ちょっと痩せて、お腹に筋肉がついたと言っていました。
「ほらほら、触ってみなよ~」と言ってお腹を出すので、
ツンツン触りました。
確かに固かった。
あれが、本当は腫瘍だったのだと思います。
ここで病院に行っていれば…。
本当、何度でも後悔です。

11月上旬。
母と父の仕事が一段落して、病院に行くことになりました。
一度痩せた母でしたが、10月半ばから「食べ過ぎて太っちゃったよ」と言い始めました。
そのままお腹が出てきて、下っ腹がぽっこりと出てきました。
「お腹に水がたまってるんじゃないの?」
という私の言葉が届いたのかどうかわかりませんが、とりあえずやっぱりおかしいと思ったらしく、病因嫌いの母にしては珍しく自分から病院に行きました。

行きつけの個人内科に行くと、「お腹に水が溜まっているみたいだけど、婦人科に行ってください」と言われ、市内の総合病院を紹介してもらいました。
その日のうちに総合病院に行くと、「卵巣が腫れている、癌かもしれない」と言われました。
そして何個か病院をあげ、どれかを紹介すると言われ、母は市内の総合病院への紹介状をもらって帰ってきました。

癌の治療をするなら大きい病院がいいんじゃないかと思っていた私たちは、「どうして筑波大学付属病院とかに紹介してもらわなかったのか」とちょっと母を責めました。
でも母は、「だって、みんなが来てくれるなら、家から近い方がいいでしょ」と言います。
いつだって自分よりも家族を思う人でした。


母のお腹が出たときにどうして腹水だと思ったのか。
それより半年くらい前に、会社で仲良くしてもらっているお姉様の義理のお母さんが亡くなりました。
卵巣癌でした。
腫瘍がお腹の中で大きくなって、腸を圧迫し、ひどい便秘になりました。
手術をして摘出できたのですが、腹水の中にガン細胞もありました。
その後の抗がん剤の副作用がひどく、体力もなくなり、2014年に亡くなりました。
その話をずっと教えてくれていました。
癌は怖い。
本人も家族も大変になる。
治療の流れとか、どんな風に進行していくのか、どんな症状が出るのか。
人によって違うと思いますが、一年ほど前に聞いていた話と同じだと思いました。

この頃の母は取り乱すこともなかったです。
きっと、色々考えていたのでしょうが、まだ希望を持っていたのだと思います。
私たちに弱音を吐くこともありませんでした。
気丈な人だと今も思います。



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夢枕?

2014年11月29日 12時35分51秒 | 母の事
久しぶりのブログです。

時間はさかのぼります。

7月19日。
今日から3連休の1日目。
リビングでエアコンをつけて、夜中にうとうとしていたら、夢を見ました。

場所は高校2年生まで住んでいた、ボロ屋の賃貸。
木枠の窓を開けると一段高いところに和室があって、すぐ右に作り付けのタンスがありました。

私が家の中からその窓で外に出ると、「バービー、トイレに行く」と言いながら、タンスから母が出てきました。
(我が家では孫が生まれてから母のことをバービーと呼んでいました)

私はビックリして(そんなところから人が出て来ると思わないので…)、外に出て振り向くと、もう母はトイレから出て来たのか、ニコニコしながらこっちに向かって来ました。

「バービー、どうして死んじゃったの、バービーがいなきゃダメだよ!」
私が言ってそのまま泣くと、母は何も言わずにギュッとしてくれました。


…そこで目が覚めたのですが、しばらく呆然としました。

6月23日、朝の2~4時くらいに、母は息を引き取りました。
まだ49日前のこの日、泣いてばかりいる私のところに、母は来てくれたんだと思います。

夢枕に立つって、こういうことなのかな??

ちょっと落ち着いて来ました。
少しずつ、母がかかってしまった病気のこととか、書いて行こうと思います。
自分でも忘れないように。


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