<過去記録(2007~2013年)>徳井由美子~ゆみりん・ブログ

ゆみりんこと、徳井由美子(ホーリー・ホーシー、他)の、これまでの過去ブログ記事を、ここに移設してきています。

<キリスト教>なぜ、他教派に通う人の事をわるく思ってはならないのか、についての考察。

2012-01-25 00:15:47 | 私の考え。
キリスト教、についての 今日におけるひとつの問題・・・ それは(私は神学者でも 神学生でもないので アカデミック&体系的に、話なんてできませんから(知ってますよね)・・あと、ものすごく眠たい(今日、自転車でちょっと走り回ったんです)ので、もうぼ~っとしがちなんですが、それでも さっき風呂に入ったときに、ひらめいたことを、どうしても一筆書いておきますね)

教派にすごくたくさん分かれているということ 要するに、大きく分かれているのは、カトリック(ルターなどによる16cの宗教改革以前)と、プロテスタント(新教、抗議するもの、の意味らしい)。 それから、思いっきり、今では 多くに枝分かれしている、プロテスタントの中の、種々の教派(何個あるんでしょね??)・・大きい教派は、教団という拠点を持って、世界に日本に、同系列の教会がたくさんありますね。また、単立教会、といって、その名前がついた教会が日本に、たった1個だけ、あったりして。

そんなんは、いいんです。・・・なにせ、その・・・私個人が思ったのは、それらの教派の間の、教理(おしえ)の差や違いにターゲットを絞って研究する、という行為は、なにを隠そう、イコール(=)、教会同士の ”違い”を探すことになる・・・ でもいいですか、では教会の共通点、教会が教会たるゆえんとなる根本、中心になるもの、って一体なんでしょう・・? それは、言うまでもない、イエス・キリストの十字架であり、救い、福音を世の人の隅々にまで伝える使命、ってことですね。・・

教会と教会の、どこがちがう、ってことばかりに着目していたら・・本来の、キリスト教、教会という存在の意義を失うか、使命感に対する意識を、弱くしてしまいかねないですね。

今日は、まだそのことよりも・・・

最近、ある友達に、その友達の友人のことについて、話をうかがう機会があったのですが、

その友人の友人(男性)とは、・・カトリックのクリスチャンなんですね。(ここ1年半くらい以前から知り合った程度ですが)
親や親戚の影響を受けて・・というよりは、むしろ自分の苦難の体験などから、それを経て、大阪を離れて1人のときに、カトリックのクリスチャンとなる信仰を得たみたい。
私も、顔を合わせて(信仰以外の、普通の話題を)話したことがあるけれど
なんでも、伝え聞いたことによると、信仰は信仰でも、ある部分では、”マリア様の奇跡”を信じる、というようなこともあるらしく、て プロテスタントの立場である、自分としては、そこはそれ、まあ、
「なんと!それも信仰というのだろうか・・つまり、迷信なんじゃ?・・(ほんとうに信仰なのか?)」と、ほんっとにそれを聞いたときには、ハナから(その方の信仰を)否定するような、感覚にさえ、なっていたのを覚えています。しかし・・・

いろいろあって、導かれたらしい。幼少の頃の、悲壮な出来事・・ とか、それは、私にもあった!どうやら、同じような目に。彼(友人の友人)も、私もあったことがあるらしい。
しかも、その方も、私も、元々の性格の基盤に、似たような要素を持っているんだなあ・・それに気がついた。(自我があまりに強いと・・・救いから遠いものとなり得ると思いませんか?経験のある方・・)

いや・・言いたいのは、救いを得て、結局身柄の入ったところが、地上において何処の教会・・・つまりたとえば、上の友達の子の場合は、カトリック教会に。また別の人は別の教会に。私も、プロテスタントのS教会に入った、ということだけれども、

その人において、その個人が、”救いに至る、信仰を与えられるために働いてくださった、真理の力” が働く過程(プロセス)において・・・つまり 神なる聖霊の力が働いて、その人を、救いの道に導いていった、ということが、必ずどの場合においても、言えると思うんです・・・  (その後、地上における(どの教会も、どこか不完全である)何処かの教会に、身柄としては属し、出入りする形をとることになるのですが。・・)

その神様からの力の働いた過程・真実を無視して、”△△さんはクリスチャンだということだが、あの方の通っている教会は、私達とは違って、○○の点で、教理が劣っている教会だから・・(だからその信仰が真実ではない、とか、自分達の信仰より劣っているとか)と考えることは

神の力を・・・はっきりこの言葉をあてはめますが、冒涜することに近いのでは、と思うようになりました(さっきひらめいたんですが)

おそろしいことですが。
神の力を間近に見ながら、知らずにしても、それを否定することは

キリストが地上にいた時代、悪霊を神の力によって追い出したのを見た者たちの一部は
神の力を、”悪霊のかしらによって、悪霊を追い出したのだ”と 言った

それに対してキリストの言葉
「聖霊を汚す言葉はゆるされることはない。
(人の子=キリスト、にたいしていいさからう者はゆるされるが)」

とにかく・・・やさしく言うと。その人に働いたのが、実際には”神の力”であるのに、それを軽ろんじたり・・疑ったり 蔑視したり、するようなことがあれば
それは、もちろんそれをした私の、だれかの ”罪”である、ということ・・それがはっきり私にはわかったような気がします。
だから
カトリック教会であれ、どのような評判の教会に属している方であれ・・・ その方の内側に働いた、聖なる力までをも見くびるような、軽はずみな”罪”は、おかしたくない、と思った次第でした!(終わり・・まとまりがないわ!眠い・・・)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。