夢実現研究会2009

団塊世代の生き方を考えよう。

団塊世代のセカンド・ライフプラン:その15

2009-03-23 16:34:54 | 喜びの生活:生きがい
 私たちの欲望をさらけ出すことがスタートだ。
① 生き方をデザインする=私の欲望を知ることからスタート
② 生き方のデザイン=私の欲望のカタチを創ること。
③ 願望、希望では弱い、ゆえに欲望

 欲望を持つことは難しい?
① 本当は何がしたいか分かっていますか?
② どんな人生を生きたいのか分かっていますか?
③ でも、欲望なんて意外と自分でも分からない。
④ ゆえに、欲望について徹底的に考えてみる。
⑤ 考えるために、曼荼羅を使います。
⑥ 知っている欲望を曼荼羅のセルに埋めていく。
交流欲友人仲間が欲しい 食欲 顕示欲プライド、自己顕示、認められたい
性愛欲持てたい、モノにしたい 欲望快感を得たい機能快の発揮 物欲金が欲しいリッチな生活がしたい
知識欲もっと知りたい、頭をよくしたい 生命欲いつまでも若々しく健康でいたい 創造欲・達成欲・事業欲完成させる喜び、何かを創りたい

 人生のプランは欲望曼荼羅
① 今やるべきことは、自分の人生・生活の基本的なプラン創り。
② これがしっかりできていないと、他人の意見に振り回されてしまう。
③ 生き方のデザイン=自分が本当に納得できる生き方を見つけること。
④ だから、じっくりと時間をかけ、基本プランを創るべき。

 体や心は使われることを望んでいる。
① 曼荼羅の一つ一つのものは、私たちの心と体についてのこと。
② 欲望=私たちの心と体をより豊かにすること。
③ 機能快→機能は使われることを望んでいる。その機能が最大限に使われるとき、私たちは快感を感じる。
④ 例→私たちの体には、人を愛し、愛されるという機能がある。その機能が発揮されない状態が続くとき、私たちの心や体は病む。

 体や心が持っている機能を発見する。
① 欲望の発見の目的=隠れた機能に気付き、それらの機能を掘り出し、最大限に発揮させること。
② 欲望の発見=あなたの持っている潜在機能の発見。
③ 潜在機能を引き出し、発揮させること=人生の発見=生きることの発見
④ まずは、自分の五感をフルに活かしてみる事です。
⑤ 見る、聞く、臭覚を研ぎ澄ます、触覚を鋭くする、味覚を磨き上げる、そんな生活ができれば、この世は発見の山になる。生きていることが楽しくなる。。

 最大の歓びは体と心を育てること。
① 体にいいことは、体を育てます。
② 心にいいことは、心を育てます。
③ それは、私たちを育てます。
④ 成長する+成長させるというコンセプト=生き方のデザインを支える最大のコンセプト
⑤ もし、私たちの生活が、今のままで少しも成長しないとしたら、どうですか?何一つ変わることなく、一生を終えるとしたら、どうですか?
⑥ 成長とは変化です。
⑦ 成長=生きがい
⑧ 人生を充実させるためには、体と心にいいことを、どれくらい日々の生活に入れていくかです。
⑨ それが欲望の曼荼羅を創り、眺めることの意味です。
⑩ 心と体を健康に育てることから、健康な欲望が生まれてきます。その欲望を満たすために、創造的に生きようとする営みが、日々を充実させます。
⑪ 体にいいことしていますか?心にいいことしていますか?この問いが何より大事です。

 考え方とは、私たちが創ってきた習慣だ。
① 私たちの行動は、私たちの考え方によって決められます。
② この考え方というのは、生まれてから今日までの習慣付けられた一種の条件反射なのです。
③ だからこそ、行動のほとんどは無意識で行われます。
④ それゆえ、今の生き方では、どうもうまくいかない、もっといい方法があるのではないか、というところから出発します。
⑤ 何かを変えることが目的なのです。
⑥ 何を変えるか?→生き方のカタチを変える。→動作・行動のカタチを変える。
⑦ 行動は考え方によります、ゆえに、考え方を変えなければなりません。

 行動には必ず、5Wがある。
① 私たちは時間と空間の中で生き、その中で何かを行為する。当然、その行為をする理由があった。5W曼荼羅です。
② これまで考えた欲望曼荼羅を、現実に生活として実現するためには、この5Wのカタチにしていくことが必要です。
③ 5Wがカタチになるまでは、絵に描いた餅、単なる夢でしかありません。
④ この5Wのカタチを創っていくのは、私たちの考え方次第なのです。
⑤ カタチは、考え方によって、いくらでも姿を変えていきます。
⑥ つまり、5つのWを変えてみればいいのです。
⑦ 自分を変える+行動を変える(やり方を変える)+時間を変える+空間を変える+価値観を変える(考えを変える)
⑧ 周りの4つのWを変えれば、あなたが変わる。

What行動↓
Where空間→ Who人間 ←When時間
↑Why価値観

 まずは、空間から問い直してみよう。
① 空間=私たちが存在する場→その空間にはモノがある。
② 私たちを取り巻く人間関係も、空間です。
③ 人間が創る構造や仕組みも、空間です。
④ 私たちは、たくさんのモノや人間関係などに囲まれていますが、意識せずに成り行きで、現在の姿になったのではないでしょうか?
⑤ あなたが持っているモノや人間関係をみれば、あなたがわかります。
⑥ 空間を問う、とはこういう意味です。
⑦ また、私たちが活躍する場を問うということです。

 時間を、どう使うか、使ったか。
① 時間=私たちの経験した時間=経験
② 時間を問う、というのは、私たちは時間を何に使ってきたか?これから、どう使うつもりか?という問いです。
③ 時間をどう使うか、の問いは、そのままWhatにつながってきます。
④ 何をしたいですか?何をするのが好きですか?という問いです。
⑤ 私たちの行為・行動を問うているのです。
⑥ それは行動をとらせた理由、つまり私たちの願望も問うています。やり方も問うています。
⑦ そのやり方こそ、私たちのカタチです。
⑧ 同じことをやっても、美しいカタチもあれば、醜いカタチもある、みんなに好かれるカタチもあれば、嫌われるカタチもある。
⑨ そして、やり方、そのものが、うまくやれるか、失敗するかの分かれ目にもなります。

 善いサマリア人
the parable of the good samaritan

there was once a man who was going down from Jerusalem to Jericho when robbers attacked him, stripped him, and best him up, leaving him half dead.
It so happened that a priest was going down that road; but when he saw the man, he walked on by on the other side.
In the same way a Levite also came there, went over and looked at the man, and then walked on by on the other side.
But a Samaritan who was traveling that way came upon the man, and when he saw him, his heart was filled with pity.
He went over to him, poured oil and wine on his wounds and bandaged them; then he put the man on his own animal and took him to an inn, where he took care of him.
The next day he took out two silver coins and gave them to the innkeeper.
‘ Take care of him,’ he told the innkeeper, ‘ and when I come back this way, I will pay you whatever else you spent on him.’
And Jesus concluded, “ in your opinion, which one of these three acted like a neighbor toward the man attacked by the robbers ? “

「Jesus von Nazareth Joseph Ratzinger Benedikt ⅩⅥ より抜粋」

 善きサマリア人の譬えでは、人間の根本問題が扱われます。
 一人の律法学者が、イエスに質問します。「永遠の生命を得るのは、何をしなければなりませんか」
 律法学者は、この問いに対して聖書が出している答えを十分知っているが、聖書を勉強したこともないこの預言者風が何と答えるかを見たかったのです。
 主は、答えは聖書に書いてあることを指摘し、律法学者自身に答えさせます。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」

 問題は「隣人」とは誰かということです。
 聖書のテキストに従った一般的な答えは、「隣人」とは民族に属する者を意味します。
 民族は連帯意識によって結ばれた共同体で、そこでは皆が互いに責任を担い合い、それぞれが、自分に場所を与えてくれる全体によって担われており、それゆえそれぞれが、全体の一部としての他人を「自分自身のように」見なくてはならないのです。
 それでは、他の民族に属する者は「隣人」ではないのでしょうか?
 それは聖書の教えに反します。
 聖書は、イスラエルがエジプトでよそ者として生きたという理由で、他民族の者に対する愛を勧めています。
 それでも、境界線をどこに引くかという問題が残ります。
 一般には、民の間に共に生活している「寄留者」は「隣人」として認められています。
 しかし、異端者、密告者、背信者は「隣人」として認める必要はないとされています。
 そういうことから、サマリア人は隣人ではないということになります。
 その直前、紀元6年と9年に、過越しの祭りの最中に、サマリア人がエルサレムの神殿の広場に人骨を撒いて、神殿を汚した事件があったからです。

 これを踏まえて、譬え話に戻ります。
 祭司とレビ人は、いざというときどういう行動をとったか?
 一人の男がエルサレムからエリコに行く道中で強盗に襲われ、持ち物を奪われ、半殺しにされ道に捨て置かれました。
 そこに、祭司とレビ人(彼らは律法の専門家で、救いの問題についての知識を有しており、それを職業にしている者です。)がそこを通りかかります。
 しかし、通り過ぎます。
 彼らが特に冷たい心の持ち主だったと考える必要はないでしょう。
 恐らく不安で、あるいは不器用で、どのように助ければいいかわからなかったのかもしれません。

 善人とは思われていないサマリア人のとった行動とは?
 そこにサマリア人が現われます。
 彼は、自分の連帯責任の範囲がどこまで及ぶかなど問うことはしません。
神学者のように、永遠の命を得るために何をしなくてはならないかを問うことはしません。
そうではなく、彼の心は張り裂けんばかりに揺り動かされます。
聖書は「その人を見て憐れに思い」と訳しています。
そうではないのです。
衝撃的な憐れみの情に揺り動かされて、前後を忘れ、危険を考えることなく、彼自身が隣人になります。
その意味で、ここでは問いの状況が一変します。
もはや、誰が隣人で、誰が隣人でないか、ではないのです。

 何が問われているか?
私が問題なのです。
私が隣人にならなくてはならないのです。
そこでは、他者は「自分自身のように」なるのです。
イエスは、隣人であるとは何であるかを、事の本質から学ばなければならないこと、答えは自分自身のうちにあることを、示すのです。

 私は、どうあらねばならないか?
私は愛の人にならなければならない。
他者の困窮による衝撃に心を閉ざさない人にならなければならないのです。
そのようにして初めて、私は隣人を見出すのです。
そのようにして初めて、私は隣人によって見出されるのです。
アガペーは、ギブアンドテイクの原理の働いている市民的な秩序を超えて、自在に働き、そのことにより超自然的なものとして現われるのです。
その原理は単にこの秩序を超えたところにあるというだけでなく、それをひっくり返してしますのです。
後の者が先になり、柔和な人が地を受け継ぐのです。
私は私の内的な本質から私が出会い、私の助けを必要としているすべての人に対して、兄弟であるのです。

 この譬えは昔話か?
この譬えの今日的な意味は明らかです。
今日の国際社会の次元にこれを移すならば、搾取され略奪されて倒れているアフリカの人々に対して、私たちが何かをしなければならないかという問題が見えてきます。
彼らは私たちにとって「隣人」ではないでしょうか?
 私たちの生活のスタイル、私たちの歴史、そこに私たちは組み込まれてしまっているのですが、これらすべてのものが彼らに対する搾取、略奪の原因なのです。
 それに加えて、彼らに対する精神的な加害があります。
 彼らに神をもたらす代わりに、キリストにおける人間的な神を彼らにもたらし、彼らの文化の価値あるもの、偉大なものを完成に導く代わりに、私たちは権力と利益のみを追求するシニカルで無神論的な間主義を与え、彼らの伝統的な規範を破壊し、腐敗と権力欲を蔓延させたのです。
 それはアフリカだけではないのです。
 私たちは物質的な援助をしなければなりません。
 私たちは私たち自身の生活スタイルを再点検しなければなりません。
しかし、物質的援助だけでは少なすぎるのです。
そして、私たちの周りにも、略奪され打ち砕かれた人たちがいるのではないでしょうか。
 薬物の犠牲になった人、人身売買の犠牲者、セックスツーリスムの被害者、物質的な豊かさの中で内的に空虚になっている人々。
 これらすべての人々は、私たちが隣人の目と心を持ち、隣人愛の勇気を持つようにと呼びかけています。
 祭司とレビ人は、恐れから通り過ぎたのです。
 善い事をする勇気を、私たちは学ばなければならないのです。

 私が、どう、ならなけれなならないか?
 それは、どうしたら可能になるか?
 それができるようになるには、私たちが内的に「善く」ならなければなりません。
 そして、私の周囲で、どのような奉仕が要求されているか、可能であるか、私に課されているかに対して目を開いていなければなりません。

 すべて奪われ、半死半生で道端に横たわっている男は、アダムを、人類全体を象徴しているのではないでしょうか。
 まさに人類は「盗賊に襲われ」のです。
 人間というこの被造物は、その全歴史を通じて疎外され、打ち砕かれ、誤って利用されてきたのではないでしょうか。
 人類の大部分はほとんど常に圧政のもとに苦しんできたのではないでしょうか。
 
 エルサレムからエリコにいたる道は人類の歴史の象徴であり、道端で半死半生の状態で倒れている男は人類の象徴です。
 祭司とレビ人は通り過ぎます。
 歴史そのもの、その文化、その宗教だけからでは救いはやってきません。
 襲われた人が人類の象徴であるとすると、サマリア人はキリストの象徴でなくてはなりません。
 私たちにとって見知らぬ者、遠い者である神ご自身は、傷つき倒れている彼の被造物を受け入れるために出てきます。
 遠い者である神は、イエス・キリストにおいて自らを隣人となさいました。

 誰でも疎外されています。
 特に、愛において疎外されています。
 愛は超自然的な輝きの本質であり、私たちはそれを奪われているのです。
 誰もが、まず癒しを与えられなくてはなりません。
しかし、誰もがサマリア人とならなくてはならないのです。
 キリストに従うことにより、私たちは彼のようになるのです。
 その時、私たちは初めて正しく生きるようになるのです。
 すべての者を無償に愛してくださった方のように私たちがなるとき、私たちは初めて正しく生きることができるのです。


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