ブッダの瞑想法
* 苦を感じなくなる
① カルマがなくなれば楽しい幸福な経験が増えてくるようになる。
② 現象世界の原因と結果の関係を正しく理解し、その法則性に即した行動原理で生きていけば、未来は望むように設計することができます。
③ 悪を避けて善をなす方向にエネルギーを放つことが、苦のない幸福な人生を開くキーポイントです。
④ 悪を避けて善をなす決意を貫いていく限り、必ず流れが変わっていきます。新しい善いカルマが実を結び始めるまで、不快なことが起きても平然と見送って、怒りや怨みなどの悪い反応を起こさないことです。
??どうしたら、不快な現象に反応しないで、心を静かに保つことができるでしょうか??
① 最も有効な方法が、ヴィパッサナー瞑想です。
② 眼に何かが触れた瞬間「見た」、耳に音が聞こえた瞬間「聞いた」、匂いが鼻をついた瞬間「匂った」、体に何かが触れた瞬間「触れた」、とサティを入れて、その後に続く思考の流れを止めてしまえば、心は反応を起こしません。
③ 現象を確認する意識だけで終わってしまうのです。
④ また、たとえ、怒りの反応が起きてしまっても、「怒り」とサティを入れて対象化すれば後続が断たれて怒りを立ち消えにすることができるのです。
⑤ 何事も所詮、この世のことであり、無常に変滅していくものである、と達観して、無執着を目指していくのが仏教です。
⑥ 欲望の原因も怒りの原因も、人が経験しなけらばならない苦ドゥッカの根本原因は、外部の現象に由来するのではなく、心に形成される概念の世界から発生するのです。
⑦ 具体的には、「渇愛」と呼ばれる執われの心です。
⑧ 心の状態が根本原因であるがゆえに、その渇愛を滅すれば、一切の苦を超克する悟りの境地も実現可能なのです。
⑨ 心次第、認識次第ですべてが一変してしまうのですから、ただあるがままの事実に気づいて思考を止め、妄想を離れてしまえば、幸福も不幸もともに超えられた無執着の境地があるのです。
* 怒らなくなる
① 人の心のシステムは、喜びよりも怒りのほうが素早く反応するように設計されています。
② 対象を嫌う心や恐怖心は、危険回避と生命維持に直結しているので起き上がりが速いのです。
③ 怒りなどは、美食やカラオケなどで一時的には忘れることができますが、心自体が変わらなければ、また蒸し返してくるでしょう。
* 怒りの反応を起こしてしまう心を構造改革するためには、ヴィパッサナー瞑想には3つのポイントがあります。
① 第一ポイント:サティを入れる。怒っている瞬間は「自分は今、激怒している」という自覚はありません。「その態度は何だ」「人の顔に泥を塗る気か」など、思考が駆け巡って怒りの炎が燃え盛るのです。したがって、その思考を停止させれば怒りは続けられないし、そもそも妄想しなければいきなり怒りだすこともないでしょう。サティが入れば、その瞬間に思考の流れが断ち切られ、劇的に怒りはストップします。
② 第二ポイント:ヴィパッサナー瞑想の土台である「戒」の受け入れが怒りを減少させるということです。仏教では不殺生戒からスタートして、怒りや暴力系の心で反応しないことを目標にしています。怒りを容認しないという決意は、怒りが発動しなくなる上で極めて重要な要因です。
③ 第三ポイント:ヴィパッサナー瞑想の一部門である「慈悲の瞑想」の訓練結果です。
* 不安がなくなる
① ネガティブな妄想が引き起こす心配や不安、劣等感、嫌悪、怯えなどが一掃された開放感、スッキリ感は素晴らしいものです。ストレスの多い現代人は、これだけでも瞑想を試みる価値があるでしょう。
② 理解は智慧の第一歩です。現状を正しく理解すれば、不安は一掃され、心に安らぎが訪れます。気づき→観察→洞察→理解→変容、と成長していくヴィパッサナー瞑想の流れは、仏教の解脱の智慧が発現していく過程です。
* 執着しなくなる
① こうでなければならない、かくあるべし、と目標やノルマを設定し、達成できたか否かで勝ち負けや優劣の評価をつけるのが世間です。
② しかし、いつまでも勝ち続けることなどありえないのです。
③ あらゆるものが無常の法則に貫かれているのですから、チャンピオンをどれほど長く維持していても、いつかは必ず敗退を余儀なくされる日がきます。
④ 最強のライオンが群れに君臨できるのはわずか3年。やがて若いライオンに敗れ、負傷して一人サバンナで生き残る見込みは皆無です。
⑤ 目標達成型や目的遂行型の人生観で優勝劣敗の世界を競い合って生きている限り、人生は苦しいものになっていくでしょう。
⑥ 物事に対して受容的になることが、苦のない人生を生きるための重要なポイントです。現象の世界を思い通りにコントロールしようとするのではなく、心を変えるのです。
⑦ 心を変えれば、現象の意味はどのようにも変化します。優劣や美醜を競い合う二元対立の価値観ではなく、あらゆる現象を等価に観る視座に立つことが、苦楽を同時に乗り越えるのです。
⑧ ヴィパッサナー瞑想にとっては、どんな出来事もただの認知対象にしかすぎません。
⑨ こういう訓練をしていくと、物事にこだわらなくなり、いかなるものに対しても受容的になれるのです。
⑩ あらゆる苦しみの元凶である渇愛を滅ぼしていくことが、ブッダの方法論です。
⑪ 一切の事象を見たままに止め、聞いたままに止め、思考されたままに止めていくことによって、心に無執着性を養い、すべての存在を静かに達観する境地が近づいていきます。
*ブッダの悟りとは
① ブッダの求めていた究極の悟りとは、すべての煩悩が根絶やしになった滅尽状態でした。
② その時、心は最清浄になり、あらゆる束縛と渇愛から完全に解脱するのです。
③ いついかなる時にも、心が貪・瞋(怒り)・痴(対象の本質が見えないこと)の煩悩から無条件に開放されていなければ、悟りとは言えないのです。
*サマーディの限界
① サマーディだけでは、煩悩を根絶やしにすることはできません。
② なぜ、ブッダは、厳密な倫理的規範・戒をことのほか重視したのか、なぜ事象の本質を洞察する仕事・四念住が、悟りへの唯一の道であると言明したのか?
③ それは、人の心というものは、煩悩を一つ一つつぶしながら、段階的に心の清浄道を完成していくべきものである、と見通していたからです。
④ 戒→定→慧、の流れに従って、煩悩を一つずつ削除しながら滅尽状態に達していく道筋こそ仏教。
⑤ 汚染された心の反応パターンを清らかなものに組み替える一切の仕事がヴィパッサナー瞑想であり、その最後の仕上げとして涅槃の体験があるのです。
⑥ いついかなる時にも絶対に煩悩反応を起こさない状態が、真に解脱した心です。
*原始仏教の瞑想システム
① 人は妄想から生まれる渇愛によって苦しんでいます。
② 妄想を止め、渇愛を止滅させれば、苦が超克されていく、と仏教は考えていく=四聖諦
*ヴィパッサナー瞑想の提示
① 生命原理に従い、貪・瞋・痴の煩悩路線を進む限り、必ず苦に陥る世界構造の中に私たちは生きている。
② 長年にわたって慈悲の心を修しながら、その苦を根本的に乗り越えるシステムを見出したブッダが、たとえ困難であっても、ダンマの実践の道を私たちに提示している。
* 苦を感じなくなる
① カルマがなくなれば楽しい幸福な経験が増えてくるようになる。
② 現象世界の原因と結果の関係を正しく理解し、その法則性に即した行動原理で生きていけば、未来は望むように設計することができます。
③ 悪を避けて善をなす方向にエネルギーを放つことが、苦のない幸福な人生を開くキーポイントです。
④ 悪を避けて善をなす決意を貫いていく限り、必ず流れが変わっていきます。新しい善いカルマが実を結び始めるまで、不快なことが起きても平然と見送って、怒りや怨みなどの悪い反応を起こさないことです。
??どうしたら、不快な現象に反応しないで、心を静かに保つことができるでしょうか??
① 最も有効な方法が、ヴィパッサナー瞑想です。
② 眼に何かが触れた瞬間「見た」、耳に音が聞こえた瞬間「聞いた」、匂いが鼻をついた瞬間「匂った」、体に何かが触れた瞬間「触れた」、とサティを入れて、その後に続く思考の流れを止めてしまえば、心は反応を起こしません。
③ 現象を確認する意識だけで終わってしまうのです。
④ また、たとえ、怒りの反応が起きてしまっても、「怒り」とサティを入れて対象化すれば後続が断たれて怒りを立ち消えにすることができるのです。
⑤ 何事も所詮、この世のことであり、無常に変滅していくものである、と達観して、無執着を目指していくのが仏教です。
⑥ 欲望の原因も怒りの原因も、人が経験しなけらばならない苦ドゥッカの根本原因は、外部の現象に由来するのではなく、心に形成される概念の世界から発生するのです。
⑦ 具体的には、「渇愛」と呼ばれる執われの心です。
⑧ 心の状態が根本原因であるがゆえに、その渇愛を滅すれば、一切の苦を超克する悟りの境地も実現可能なのです。
⑨ 心次第、認識次第ですべてが一変してしまうのですから、ただあるがままの事実に気づいて思考を止め、妄想を離れてしまえば、幸福も不幸もともに超えられた無執着の境地があるのです。
* 怒らなくなる
① 人の心のシステムは、喜びよりも怒りのほうが素早く反応するように設計されています。
② 対象を嫌う心や恐怖心は、危険回避と生命維持に直結しているので起き上がりが速いのです。
③ 怒りなどは、美食やカラオケなどで一時的には忘れることができますが、心自体が変わらなければ、また蒸し返してくるでしょう。
* 怒りの反応を起こしてしまう心を構造改革するためには、ヴィパッサナー瞑想には3つのポイントがあります。
① 第一ポイント:サティを入れる。怒っている瞬間は「自分は今、激怒している」という自覚はありません。「その態度は何だ」「人の顔に泥を塗る気か」など、思考が駆け巡って怒りの炎が燃え盛るのです。したがって、その思考を停止させれば怒りは続けられないし、そもそも妄想しなければいきなり怒りだすこともないでしょう。サティが入れば、その瞬間に思考の流れが断ち切られ、劇的に怒りはストップします。
② 第二ポイント:ヴィパッサナー瞑想の土台である「戒」の受け入れが怒りを減少させるということです。仏教では不殺生戒からスタートして、怒りや暴力系の心で反応しないことを目標にしています。怒りを容認しないという決意は、怒りが発動しなくなる上で極めて重要な要因です。
③ 第三ポイント:ヴィパッサナー瞑想の一部門である「慈悲の瞑想」の訓練結果です。
* 不安がなくなる
① ネガティブな妄想が引き起こす心配や不安、劣等感、嫌悪、怯えなどが一掃された開放感、スッキリ感は素晴らしいものです。ストレスの多い現代人は、これだけでも瞑想を試みる価値があるでしょう。
② 理解は智慧の第一歩です。現状を正しく理解すれば、不安は一掃され、心に安らぎが訪れます。気づき→観察→洞察→理解→変容、と成長していくヴィパッサナー瞑想の流れは、仏教の解脱の智慧が発現していく過程です。
* 執着しなくなる
① こうでなければならない、かくあるべし、と目標やノルマを設定し、達成できたか否かで勝ち負けや優劣の評価をつけるのが世間です。
② しかし、いつまでも勝ち続けることなどありえないのです。
③ あらゆるものが無常の法則に貫かれているのですから、チャンピオンをどれほど長く維持していても、いつかは必ず敗退を余儀なくされる日がきます。
④ 最強のライオンが群れに君臨できるのはわずか3年。やがて若いライオンに敗れ、負傷して一人サバンナで生き残る見込みは皆無です。
⑤ 目標達成型や目的遂行型の人生観で優勝劣敗の世界を競い合って生きている限り、人生は苦しいものになっていくでしょう。
⑥ 物事に対して受容的になることが、苦のない人生を生きるための重要なポイントです。現象の世界を思い通りにコントロールしようとするのではなく、心を変えるのです。
⑦ 心を変えれば、現象の意味はどのようにも変化します。優劣や美醜を競い合う二元対立の価値観ではなく、あらゆる現象を等価に観る視座に立つことが、苦楽を同時に乗り越えるのです。
⑧ ヴィパッサナー瞑想にとっては、どんな出来事もただの認知対象にしかすぎません。
⑨ こういう訓練をしていくと、物事にこだわらなくなり、いかなるものに対しても受容的になれるのです。
⑩ あらゆる苦しみの元凶である渇愛を滅ぼしていくことが、ブッダの方法論です。
⑪ 一切の事象を見たままに止め、聞いたままに止め、思考されたままに止めていくことによって、心に無執着性を養い、すべての存在を静かに達観する境地が近づいていきます。
*ブッダの悟りとは
① ブッダの求めていた究極の悟りとは、すべての煩悩が根絶やしになった滅尽状態でした。
② その時、心は最清浄になり、あらゆる束縛と渇愛から完全に解脱するのです。
③ いついかなる時にも、心が貪・瞋(怒り)・痴(対象の本質が見えないこと)の煩悩から無条件に開放されていなければ、悟りとは言えないのです。
*サマーディの限界
① サマーディだけでは、煩悩を根絶やしにすることはできません。
② なぜ、ブッダは、厳密な倫理的規範・戒をことのほか重視したのか、なぜ事象の本質を洞察する仕事・四念住が、悟りへの唯一の道であると言明したのか?
③ それは、人の心というものは、煩悩を一つ一つつぶしながら、段階的に心の清浄道を完成していくべきものである、と見通していたからです。
④ 戒→定→慧、の流れに従って、煩悩を一つずつ削除しながら滅尽状態に達していく道筋こそ仏教。
⑤ 汚染された心の反応パターンを清らかなものに組み替える一切の仕事がヴィパッサナー瞑想であり、その最後の仕上げとして涅槃の体験があるのです。
⑥ いついかなる時にも絶対に煩悩反応を起こさない状態が、真に解脱した心です。
*原始仏教の瞑想システム
① 人は妄想から生まれる渇愛によって苦しんでいます。
② 妄想を止め、渇愛を止滅させれば、苦が超克されていく、と仏教は考えていく=四聖諦
*ヴィパッサナー瞑想の提示
① 生命原理に従い、貪・瞋・痴の煩悩路線を進む限り、必ず苦に陥る世界構造の中に私たちは生きている。
② 長年にわたって慈悲の心を修しながら、その苦を根本的に乗り越えるシステムを見出したブッダが、たとえ困難であっても、ダンマの実践の道を私たちに提示している。