愉快な認知症🇯🇵

我が家流/父から学ぶ「これでいいのだ!」人間本来の姿

父、亡くなって八年

2020年05月08日 | 出来事日記
8年前の5月7日、お父さんが亡くなった日。


昨年は「平成」から「令和」に御代替わりし、今年は「コロナの光」で時代が変わろうとしています。


科学者が「UFO」の存在や「死後の世界」を認めるような時代にもなりました。



ねえ、お父さん。

「あの世」と「この世」の間の扉が開くのも、もうすぐかな?



いつも、私の質問に何でも答えてくれていたね・・。

有り難う。

お父さんの子供に生まれて良かったよ。

有り難う。



お父さん大好きだよ。



父、亡くなって七年

2019年05月11日 | 出来事日記
年に一度の更新が恒例になってるね。

5月7日、お父さんがあちらへ行って、七年が経った。


5月1日、時代は「平成」から「令和」へ御代替わりしました。

私は、「平成」最後の日4月30日、夢を見ました。

夢の中のお父さんは、クルクルのパーマをかけていた。
(パンチパーマじゃない、大きめの巻きのパーマ)

心の中で、お父さんクルクルパーマかけてる・・・って思った。


目覚めて、どういう意味か考えた。

父が認知症全盛期の頃、父に向かって母が「クルクルパー」って言ってたのを思い出した。

元々、愉快なことが好きな父。

それにかけて、「クルクルパーマ」をかけた姿で現われ、平成最後に笑いを取ろうとしたのか?

・・・と思った。


でも、何となく違うんだよね。

夢の中のお父さんは、「退院することになったんですけど・・」と言って、病院から出て行くことになってた。
(そう言いながら、まだ認知症だった)

「髪」=「神」/「パーマ」=「パーマネント」「permanent」=「永遠性」

『神の永遠性』

お父さんは認知症のまま「退院することになったんですけど・・」って言った。

認知症のお父さん、そのまま『神の永遠性』。


認知症であれ、病気であれ、何であれ、みんな『神の永遠性』を知っている。

だから退院することになったんだ。

「そのまま完璧」なんだ。


表面的にはどうであれ、みんな完璧に『神の永遠性』をすでに自覚している。

私たちの方が、それを自覚しないといけないのかもね。

実際、お父さんは「認知症を演じる役割」だと、私は思ってた。

そのお陰で、私も周囲もみんな、いろいろと導かれ学ぶことが出来た。


表面的には不完全に見えるどんな役割をしようとも、はじめから『神の永遠性』を全ての人が知っている。

そのまま、みんな『神の永遠性』=『完璧』なんだね。

きっと、それを夢の中で教えてくれたんだね。



お父さんが亡くなって七年目の夕日も、あの日のように綺麗でした。

でも、改めて読み返すと細かい所けっこう忘れてる。

だけど、当時の(鼻ツンになっちゃう)胸の痛みは、文章読んで思い出すとまだ消えないね・・。

愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!③「その日の夕陽」


お父さんの話しの続き、全部書いたら鼻ツンも収まるかもね。

そのうち、きっと、きっと、そのうちに、ね!(笑)


父、亡くなって六年

2018年05月07日 | 出来事日記

早いもので、またもや1年ぶりの記事掲載。

父が亡くなってから、もう六年。


この日になると、当時をいつも思い出す。

今は、少しの悲しみと少しの寂しさ、年々楽しい思い出に変わっている。

みみか曰く「楽しかったなあー!じいじのお葬式」。

・・・たしかに。(笑)

私もそう思う、楽しかった父の葬儀。


そうそう、愉快な認知症の父、一連の物語は途中で止まってる。

たぶん、忘れてしまってることも多々あると思うけど、いつか必ず再開するつもり。

父の認知症時代の武勇伝も含めて・・。

自家製本「愉快な認知症」も、きっといつかまた、一番いい形で動き出すだろう。


だけど、その前に、いろいろやるべきことがある。

あちらに行った父も同じく、同調し動いているに違いない。

若き頃、自衛隊に所属していた父だ、危機に瀕した日本のために、私達を導き動いていると思う。


日本人でありながら、日本人の自覚のなかった私・・今、ちゃんとした日本人になる!べく精進中。

「八百万の神」「終わりない生命(いのち)」の自覚を持ち合わせた日本人にとって、正念場の時。

私の死生観/終わりない生命(いのち)


そのうち必ず再開するね。

いつも見守ってくれて、導いてくれて、愛してくれて、ありがとう、お父さん。


追伸
去年の喪明けから、たまに化粧をしてるよ。
相変わらずの出不精なので、たまにだけどね。(へへへ)

みんなが一緒にいること

2017年02月03日 | 出来事日記
神子屋にあった昔の文章、少し修正してこちらに転載。
(ブログ【神子屋教育】 2007.05.23掲載文から)

ここ最近、みみかは「教室」へは行かずジジのそばにいます。
現在の我が家は、実家の母がこちらから仕事に出かけ、帰って来るという体制をとっています。
実家で母の帰りを一人待つよりも、みんなで一緒にいる方が父にとってもいいだろうし、みみかにとっても安心だろうという事になったのです。

しかし、以前も同じ試みをしたことがあり、父の予想の付かない行動や気持ちの変化に、振り回されてしまうことが多くありました。
今回も同じような展開になる可能性は大いにありますが、以前とは歴然とした違いがあります。
それは、父とみみかが導くように、『みんなが一緒にいる』状態を作り出そうと働いていること(無意識的でも)。
それに、子供にとって祖父母と一緒にいるという、大家族的な要素の大きな意義を、ママがとても感じていることです。

私たち人間の喜びや楽しみは、自分の持っているものを生かすこと、表現すること、個性を現しだすこと。
それは、子供も大人も老人も同じでしょう。
高齢化の進むこれから、老人たちの楽しみ生き甲斐は、孫やそれに当たる子供たちに、自らの人生経験から得た、貴重な知恵や豊富な体験や、深い愛を与えること・・そんな風にママは思うのです。

親のように責任がないから・・とか、ただただ可愛くて溺愛する・・と言うようなものではなく、孫(それに当たる子供たち)に対する祖父母の愛は、親の無償の愛に加えた更なる大きな深いものがあるように感じられるのです。
そんな深い大きな愛をいっぱいに受け、心豊かになる子供たちはどれだけ健やかに育つことでしょう。
また、孫(それに当たる子供たち)というかけがえのない存在に、老人たちはどれだけの喜びを見出し、自分自身を表現することが出来るでしょう。

これから向かおうとしている社会の成り立ちには、子供からすれば父母から与えられる影響だけではなく、祖父母やその他の存在からの影響、大家族的な要素が必ず必要になってくるのではないかと思うのです。
思えば、「天地一切の子・地球の子・全ての子」である子供たちの未来には、(閉鎖的な)核家族では、ある意味限界があるのかも知れないと感じる、今日この頃のママなのです。

我が家において言えば、『みんなが一緒にいる』ことで、母にとっても私にとっても自分以外の拠りどころがあり、些細な愚痴でも語り合えます。
相手が子供のみみかであったり、認知症の夫であったりするだけでは、なかなか対処し切れないものが出て来てしまいます。

みみかに関して言えば、『みんなが一緒にいる』ことで、たとえそれが認知症の祖父であっても何も問題はありません。
認知症のそんなジジと接することで、それに対する理解と認識が深まり、自分が彼に出来る役割を自然とやってくれています。
たとえば、庭いじりの後の、汚れた手を洗うための洗面所への誘導や、石鹸の使い方の指導。
たとえば、歯磨きの際の、歯ブラシに歯磨き粉を付けてから渡してあげる・・とか。

きっと、こんな経験を生かして、他の認知症の人たちへの対応の仕方も、みみかは自ずと分かるようになるのかも知れません。
何事も、無駄なものは何一つ無いのでしょう。

「教室」が嫌になったわけではないみみか。
「ジジのことは心配ないからね。」と言っても、今はどうしてもその気にはなれない様子。
今のみみか(及びママをはじめみんな)は、自分がジジのそばにいること、ジジババが自分のそばにいてくれることなど、『みんなが一緒にいる』ことの大切さを実感するという、尊い体験をしている貴重な瞬間なのかも知れません。


※今になって、この当時のことは、【『みんなが一緒にいる』ことの大切さを実感するという、尊い体験をしている貴重な瞬間だった】と、本当にそう思えている。
ずっとという長期的じゃなくとも、それが一時的なことであっても、『みんなが一緒にいる』という瞬間を体験すること、その体験自体にかけがえのない意味があるのだと、そうつくづく感じる現在である。

大家族的な要素の大きな意義、そんな認識を深めるに至ったあの瞬間、味わった貴重な体験。
〜体験はいつか生きてくる〜


父との楽しいおもひで③/【ごもっとも】な義しさとルールについて

2016年12月24日 | 出来事日記
ちょっと昔の文章を読み返してみた。
こっちに転載してなかったので、そのまま載せておこう。
在りし日の父との楽しいおもひで・・・③

(ブログ【神子屋教育】 2009.11.22掲載文から)
愉快な認知症の父を実家から連れ出し、みみかと3人で電車に乗って出かけた。
優先座席に父を座らせようと、みみかに父と手を繋いでもらい「優先座席が空いていたら二人しか座れなくても(ママはいいから)座ってよ」とお願い。

到着した電車の優先座席をすぐさま確保。
父とみみか座るとすぐに、父が腰を上げみみかから離れて座り直した。
『えっ!なんで!?』と思っていると、自分とみみかの間に私に座れということらしかった。
最初から座る気が無かった私だったが、幸い優先座席を利用しそうな方もいないようだったので、父の気持ちをありがたく汲み取り座らせてもらった。
マンガを読みながら座るみみかに私に父、3人横に並んで座っていた。

私たちが座ると同時に、向かいの優先座席にハイキング帰りのおば様たちが座っていた。
年齢的には父母ぐらいか・・。
父にはともかく、小学生のみみかと優先座席を利用するには若い私に、なんとなーく冷たい視線。

そのうち、「私らまだ若いし、普段は滅多に優先座席には座れへんねんけどなあ~」とか、「私、うちの子が小さいときは、子供は大人の半分の料金しか払ってないねんから座ったらアカン!って言い聞かせてたわぁ」とか、こちらに聞こえよがしに井戸端会議を始めた。

確かに、俗世間でいう義さやルールに照らすと、おば様たちの言うことは【ごもっとも】な事なのかも知れません。

見た目だけで判断すると、父は厄介な認知症には見えないし、私も妊婦には見えないし(もちろん妊婦じゃないけどね~)、みみかは楽しそうにマンガを読んでどっかり座っている(ように見える)。

でもね、ちゃんと理由があるんだよ、おば様たち。
父自体、こう見えても認知症なのですよ。
一般座席より優先座席に座らせてもらったほうが、諸事情いろいろあって座りよいのです。

それに、私が座らせてもらったのは、父がせっかく空けてくれた座席をむげに断ると、『何で座らんのやっ!』と逆切れされることもあるのです。
その逆切れの可能性がある限り、(他の方の利用に支障が無いのなら)座ったほうが後始末に困らないのです。

楽しそうにマンガを読みながらどかっと座ってる小学生みみかも、一緒に座らないと父が気にしていろいろちょっかい出すんです。
それに、きっとお分かりにはならないでしょうが、みみかはみみかなりに認知症の父のペースに付き合い、普通の子供たちには出来ないお世話をしてくれているのです。

お友だちと遊ぶ時間も父のために譲り、心と魂でしか会話できない父と付き合う中で、お気に入りのマンガでの息抜きの時間がみみかにとっては楽しく必要な時間なのですよ。
父をお世話しているとき、歩きながら散歩しながらは読めませんし、父の連れ出しに付き合うみみかもあっちにこっちにと疲れ、座りたいほどめっちゃ歩いているのです。

おば様たちの【ごもっとも】な井戸端会議を聞きながら、上記のような理由を心のうちに思いつつ、一体人間の義さやルールって何?
これから爆発的に増えるかも知れない認知症(やウツや自殺)に、【ごもっとも】な義さやルールなど通用しないし、反対に【常識外し(ごもっとも外し)】をしなくちゃ対応できないやっていけないのに!・・・そう思う私なのでした。

認知症のことはひとまず措くにしても、今回の出来事は、俗世間的な【ごもっとも】な義さやルールで他人を判断したり非難したりする空しさや無意味さ、そして馬鹿らしさを私に感じさせ教えてくれた一件だった。

普段から身内にさえ、私の生き方(不殺生菜食や生命に対する取り組み、そして父の認知症みみかの不登校に対しての考え方など)を、『変人』扱いされ理解されない私である。
そりゃまあ、実のところ、俗世間的な【ごもっとも】な義さやルールで私を眺めると、そう見えても仕方がない。(その事自体、私にも分かっているさぁ・・)

でもね、その人がその時に(表現)している事柄は、その奥にちゃんと理由や必要があってそうなっているわけで、他人がそれ(ちゃんとした理由や必要)を本当の意味で知る由も無いのです。

【ごもっとも】な義さやルールがあっても無くても、それが適用出来ても適用出来なくても、本当のところ、みんなそのままで完璧なんだよな~!!

父との楽しいおもひで②/拾い物は宝物

2016年12月24日 | 出来事日記
ちょっと昔の文章を読み返してみた。
こっちに転載してなかったので、そのまま載せておこう。
在りし日の父との楽しいおもひで・・・②

(ブログ【神子屋教育】 2007.06.23掲載文から)
父の突然のマジック「不思議なポケット」から出てくるものは、飴やチョコレートなどのお菓子のほか、道で拾った壊れたキーホルダーや鍵などの金属物や、家の庭で拾った小石や昔のタイルだったり、『え!?』と思うような見覚えの無い時計やどこかのお店の領収書だったりとさまざまです。
どういう基準で拾い物をしているのやら??と、首をかしげるものも多いのですが、どうやら父にとってはそれなりのこだわりがちゃんとあるようで、石などは確かにいい色や形をしているものが多くなかなかマニアックだったりします。

壊れかけの落ちている物や修繕すれば使えそうな物は、工夫上手(だった)な父にとってはきっと宝物に感じられるのでしょう。
今とは違い、物自体があまり無く貧しかった父の子供時代、物を大事に大事に使っていた時代、そんな時代を生きた父の目に映る拾い物はおそらく大事な宝物なのでしょう。
今までで、父が拾ってきた究極のお宝は、手彫りの飾りが施された立派な長方形のテーブルです。
買えば結構なお値段だと思われます。

仕事から帰宅したら、いきなり部屋の真ん中に見たことの無い大きなテーブルが現れ、さすがに母もビックリしたそうです。
とても一人では運べない大きさと重さの代物に、母が事情を聞いたところ、それはまだまだ使えそうな物たちが捨てられていた「粗大ゴミ」の山から、父に拾われて来たもののようでした。
しかも、どうもかなり遠くの集積場所から時間をかけ、休み休み運んで来たらしいのです。(父は言葉を覚え始めた子供ぐらいしか、ちゃんとした言語が出てこないので本当のところはよく分かりません。)
しかし、一人で運んで来たのは間違いなく確かです。

母からそのことを聞き話を分析するにつけ、かなりの時間と労力をかけ一所懸命運んで来たことが推測されました。
ヨロヨロになりながら自宅まで運び切った父の姿を思うと、私は何とも言えない切ない気持ちになりましたが、しかし片方では父の「勿体無い精神」とその根性には大いに感心もしました。
父は部屋の真ん中に自分のその戦利品をドーン!と置いて、誇らしげに母に見せ褒めてもらいたかったのでしょうが、当の母は拾ってこられたその迷惑なお宝には内心喜べずにいました。
子供のように自慢する父に対しそんな思いを露骨に出せず、いつしか父の知らぬまに再び「粗大ゴミ」へと目論んでいました。

実際のところ、そのテーブルは捨てるには「非常に勿体無い!」と思える立派なお宝であり、まだ十分使えて捨てるには忍びない宝物でした。
そんなテーブルの命を父は救い出し生かそうとしたのだと、私は勝手に解釈していました。
なので母の目論みを聞き、父の関心が冷めたころ我が家に引き取ることを私は申し出ました。
現在、そのテーブルは我が家にあり父の拾い物の命はちゃんと生かされて大いに活躍しています。
でも当の本人は、テーブルが自分の家から移動したことなど全く気が付いていない様子ですが・・・クスクス!(笑)

思えば、きらきら光るガラスの破片やきれいな色をした石、壊れていて明らかに捨てられたようなものでさえ、宝物に映ったそれらを発見し拾うときの私の子供心も、とてもウキウキ!ワクワク!したのを覚えています。
父もそんなウキウキ!ワクワク!な気持ちで、宝物を拾っているのかも知れません。
今もって子供心を感覚的に維持している方の私なので、子供心を持った父の取る行動の源を実はかなり理解できたりするのです。
でもこの感覚は、父のような子供心を持つ認知症の人に対するポイントかも知れません。

自分が子供のときに感じたこと思ったこと。
こういうとき幼い自分ならどんな気持ちになりどのような行動を取るのか。
そんな風に父を眺めた時、父の奥底にある父をそうさせる源たちが見えてくるような気がします。

父との楽しいおもひで①/突然のマジック

2016年12月24日 | 出来事日記
ちょっと昔の文章を読み返してみた。
こっちに転載してなかったので、そのまま載せておこう。
在りし日の父との楽しいおもひで。

(ブログ【神子屋教育】 2007.06.21掲載文から)
地域にあるスポーツサークルをみみかが見学したいと言うので、父と3人で行った時の出来事。
体育館の片隅で、子供たちのスポーツする姿を3人座って見学していました。
ほんの短時間でも興味がないとソワソワする父でしたが、子供たちのサークルだということもあり(父は子供が好き・仲間だと思っているようなところがあるので)、球技スポーツのやり取りにしばし大人しく見入っていました。
どれだけの時間が経ったのか、想像以上に父は大人しく静かに見学していました。
しかし、さすがにそろそろ飽き始めたのか、自分のショルダーバックのジッパーを開けたり閉めたりゴソゴソし始めました。(何もすることがなくなると、家の中でもかばんを開けたり閉じたり繰り返します)

そのうちに、突然『ボリッボリッ!』と何かこもったような音が、父の方向から響いてきました。
『ヘッ?』と思っていると、横にいたみみかが「ジジ、何か食べてる!」と私に言います。
慌てて父を見ると、確かにもぐもぐと口元が動いています。
基本的に父に食べ物は持たせていませんので、何を食べているのはさっぱり見当がつきません。
どうやら、音の正体はショルダーバックのポケットの中から取り出され、口の中に運ばれているようでした。

「ちょっと見せてえ」と上手にお願いして調べてみると、それは『うすピー』という豆菓子でした。
そう言えば、母が前日の夜に父と一緒に食べていて、そのまま父の目に付くところに置きっ放しにされていました。
誰も気付かぬうちに、それらの粒たちは父の手によって裸のまま、バックの中に放り込まれていたのでした。
今までも、父の持っていたかばんや着ていた服のポケットから、飴やらチョコレートやらが突如として出てくることがあり、父が見せる突然のマジックに私たちは驚かされていました。

そんなこんなで最近は、父の目に付くところに食べ物を置かないようにはしていたのですが・・・ひやぁ~!びっくりしました!!
しかも、休憩時間以外は水分も取れない子供たちを尻目に、堂々と『ボリッボリッ!』と音を立てもぐもぐと食べている父。
私もみみかも慌てて口の中のものを飲み込ませようとしますが、ここで父の反感を買って怒らせてはもっと大変です。
私もみみかも優しくなだめるようになるべく急いで飲み込ませたのですが、その努力も空しく父のマジックは続けられ、次から次に『うすピー』たちがバッグのポケットから現れては父の口に運ばれて行きました。

真剣なサークル活動を前にあまりに大袈裟な動きも出来ず、至って冷静を装って私とみみかは父のマジックをなんとか阻止しました。(・・というより、全て食べ尽くしたので終わったのですが。)
その上、お腹が満たされてご機嫌な父は、球技で失敗する子供たちを見て「ワッハッハ!」と楽しそうに大笑いする始末。
そんな父の態度に私とみみかは更にひやぁ~!となり、内心穏やかではいられませんでした。
子供たちの失敗を決してバカにして笑っているのではないと、私たち家族には理解できますが、一所懸命ボールを追って頑張る子供たちにそれが通用するはずも無く、本当に非常にハラハラものでした。
しかし幸いなことに、広い体育館の片隅での『ボリッボリッ!』音や大笑いの声は、当の子供たちには届いていなかったようで、ホッ!と安心胸を撫で下ろしました。

「父の目に付くようなところに食べ物は置かないよう注意!」そう思った一件でした。
おやつの時間なども一緒に食べ始め食べ終わることをしないと、出しっ放しの『かりんと』や『うすピー』やらを知らぬまに、そのままダイレクトに胸ポケットやズボンのポケットなどにしまい込んで、父の突然のマジックで私たちを驚かせるのです。
ワッ!ビックリ!!の素晴らしいマジックなのですが、ポケットの底などはしっかり染みだらけでお洗濯が大変だったりもするのです。


愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!⑥「本通夜」-3

2012年10月23日 | 出来事日記
それはそれは、目を見張る早さだった。
会場スタッフがテキパキと祭壇周りの椅子や机を片付ける中、『待ってました!』と言わんばかりに、親戚たちの服装が見る見るうちに変わって行った。
さっきまで、静粛な雰囲気の喪服コントをしていたのに、人間も舞台ごと回って、全く違った次のコントに突入!・・・みたいな。

~次、行ってみよう!~
チャ・チャ・チャ♪
チャン・チャカ・チャンチャン、チャン・チャカ・チャンチャン♪
チャン・チャカ・チャーン♪
(私の年代以前の人しか分かんないだろうな・・・)
まるで、「8時だヨ!全員集合」の廻り舞台を見ているようだった。

ポロシャツにパンツ、ロゴ入りTシャツに短パン、部活を思わせるような軽快な服装に早変わり!
なんと用意周到な族(やから)たちなんだ!
しかも、その一部には「ハワイからお越しですか?」と聞きたくなるような、こんがり日焼けの金髪外人!
・・・のような、不良オヤジもいたりして。

お世話になった若干名の方々や、母のスポーツチームの方々のお見送りを終え、親戚たちの集う部屋に戻るとすでに始まっていた。
「通夜振る舞い」という名の、『大宴会』が!
(ちょっと長男の弟君、アンタちゃんと仕切ったん?)
(なんやもう、勝手に盛り上がってるやん!)

そうなんだよねえ・・・。
九州人の親戚たち、実は物凄い“のん兵衛集団”。
♪♪「葬式は~通夜振る舞いで~酒が飲めるぞ!酒が飲める飲めるぞ~酒が飲めるぞ!」♪♪
『日本全国酒飲み音頭』じゃないけれど、1月は正月で始まり12月はドサクサで酒が飲めるそうで、事ある毎にとにかく酒を飲みまくっている。
(毎晩の晩酌なんて、至極当然!)

長机が設置された畳部分の部屋の中は、想像していた人数を超え熱気で暑くなるほど目一杯。
用意していた通夜振る舞いの食べ物に飲み物は、ぜんっぜん足りそうにない。
さっそく、すぐ近くにある持ち帰りok!の回転寿司へと、買い足しに行かねばならなかった。
(ホント、便利で助かるぅ~!)

しかも、「ビールは○○のメーカーがいい!」だの「オーイ、焼酎はないのか!」だの、「氷は?氷はなかとかいっ!」と大声張り上げる“のん兵衛集団”。
(って言うか、耳が遠いんだよね・・・、だから声も大きいんだよ)
“のん兵衛集団”の飲みっぷりは凄まじく、部屋の中にあった冷蔵庫はすぐに空っぽになった。
とりあえず、ビールは会館のものを追加してもらい、焼酎や氷などはこれまた近くのコンビニへと買いに走った。
(酒類販売のコンビニも、ホント便利で助かった~!)
(しかも、暗黙の了解で出たゴミも、何でもいいから集めてくれる親切な対応の会館側、ほんと良心的!)

そんな中、父の棺を見に行くと、誰が置いたかビールの入ったグラスが手向けてあった。
慌てて叔父の一人がやって来て、「みーこ、いいよな、お父さんに飲ませたっても、なっ!」と私に言った。
こんな風に叔父が言うのには、実はちょっとした訳があった。

かれこれ数年前の話しだが、以前「父にお酒を見せないでくれ」「父の目の前でお酒を飲まないでくれ」と、この叔父にお願いしたことがあった。
かつての父も毎晩晩酌をする人だった。
でも、その頃の父は、ハードなものから軽めのものへ、だんだんとアルコールを減らしていった時期でもあった。
それに、「晩酌」という認識自体も無くなってきていた。
お酒を出さなくても気が付かなくなったし、お酒を飲まなくても頓着ない日々が続いた。
それでも、たまに気が付いた時だけは無下にするのも可愛そうなので、飲ませてあげる日もあるにはあった・・・。

父の目の前にお酒があれば、自分も飲むものだと当然思う。
目の前の叔父が飲めば、もちろん自分も・・・となる。
(ほんの少しならいいよ、少しならね)
(でも、それは有り得ない!よね?のん兵衛叔父ちゃん!!)

その時の叔父は、「アカンのか?」「ほんまにアカンのか?」と嘆ずるように何度も言った。
見た目には、認知症があまり分からない時期の父だった。
叔父は今まで通り、父と一緒に酒を酌み交わせるものだと思っていたようだ。
残念ながら、その頃の叔父には「認知症」というものに対する理解があまりなかったのだと思う。
それに、「酒が飲めないなら死んだほうがマシ!」というほどの酒好きのん兵衛にとって、酒を飲まない父、酒を飲めなくなった父というのは、ちょっとショックだったように思う。

結局、そのときは私の強い願いを聞き入れてくれて、父に隠れてこっそりと一人手酌で飲んでくれた。
(狭い部屋で一人、申し訳なかったけどね・・・)

そんなこんながあったから、父に手向けてあるビールのグラスを見つけた私に、叔父は慌てたのだろう。
気を遣ってくれる叔父に、私は「ええよ、ええよ!」「もう、どんどん飲ませたって!」と答えた。
(私は別に、お酒を飲むこと自体が悪いと思っているわけじゃないからさ)

それにしてもこの“のん兵衛集団”、飲むは騒ぐ(声がデカイ)は賑やか!
でも、酒を飲んで管を巻いたりは決してしない、陽気に酒を飲み交わす楽しく愉快な酒盛り集団なのだ。
(父は・・・この雰囲気が大好きだったんだと思う)
(父自身、お酒好きだったし強かったしね・・・)
(何より、集団の一人だった頃の父は楽しそうだったし)

それに、父もお茶目で楽しい人だったが、おじ達もなかなかのユーモアを持ち合わせている。
外食時、食べ終わったお膳を下げようと、店員さんが「お下げしてもよろしいですか?」とおじに尋ねた。
すると、おじは「いいよ、いいよ!」「あ、ついでにコレも持ってって!」とおじがある物を指差した。
それを見た店員さんは「それは、ちょっと・・・」と戸惑いながら苦笑した。
おじが指差した物は「お勘定」の伝票用紙だったのだ。

“のん兵衛集団”の宴ではそういったユーモアが飛び交う。
みんな楽しい気分で飲みたいがために、決して酒の嫌な面が出ることはない。
(私も昔は好きだったな・・・この雰囲気)
(今はいろいろ思うところあって、敬遠してるけどね)

私とみみかの、静かに本を読みながら過ごすはずだったお通夜の目論見は見事に破れ、結局のところ、父のお通夜は楽しいドンチャン騒ぎになったのだった。
しかも夜通し・・・。

さらに、その後はというと、雑魚寝のおじ達による大いびきの大合奏!
おじ達の豪快ないびきは果てしなく続き、残ったメンバーは寝られなかったそうだ。
(私とみみかは実家に避難して難を逃れた!)
しかも、寝ぼけまなこの酔っ払いは、パンツイッチョで部屋の外にあるトイレに行こうとしたり・・・。
会館では父の葬儀しか入っていなかったので、ほんと良かった~!と心底思った。
(うるさくて迷惑かけることになっただろうな、きっと)
(って言うか、一体何事かと思うよね・・・ある意味神聖な場所でさっ)

でもね、思い返すと、ビールを手向けられた父の遺影はとても嬉しそうに笑ってた。
自分の通夜で楽しく過ごすみんなを見て、父が喜んでいるように私には思えた。
楽しいことが大好きだった父、人が喜ぶことが大好きだった父。
呼んだんだね、みんなを。
(ねっ、お父さん!)

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◎当ブログで掲載した文章を、挿絵漫画入りで本にしました。
詳しくはこちら!
虹色アーチ/ウェブサイト版「愉快な認知症」


愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!⑥「本通夜」-2

2012年09月17日 | 出来事日記
私と(ある意味、事なかれ主義の)母とは、ぜんぜん性格が違う。
(常識社会人になった)弟とも違う。
かつて、私も常識社会人をなんの疑いもなく当り前に目指していた。
でも、私の場合、常識社会人を目指せば目指すほど、本当の自分が苦しくて鬱になったりパニックになったりした。
そして、常識社会人と自負する人たちと、仲良くしようとすればするほど、私は本当の自分でいられなくなった。

(私にとって)今の常識社会人は「偽善者」の塊だ。
でも、かつては私も、その一員としてこの社会を生きようとしていたのだ。
しかし、私は「偽善者」でいるのはもうやめた。
常識社会人が生きる社会からも、イチヌーケタ!

香典事件のドタバタの中、なんだか会場の外側がやかましい。
な、なんだこの人たちは・・・!?
知らない人たちがいっぱいいるぞ!

たしかに、父と母の親兄弟姉妹以外にも、母が「もう最期なので・・・」と、お世話になった若干名の人たちにお知らせをしたにはしたのだが。
(ちなみに、父の両親(私の祖父母)と母の父(私の祖父)はすでに他界)
(九州にいる母の母(私の祖母)はショックと高齢のため来なかった)
だけど、それにしては多すぎる・・・、私シラナイワ・ダレ・コノヒトタチ?

そう思っている間に、なんだか会場の椅子が足りない・・・。
分かりきったメンバーしか来ないはずだったので、記帳台なんて用意してない・・・。
刻々と時間が近づく中、大慌ての私たち家族と会場スタッフ。
出入り口を通るたびに、シラナイ顔が増えて行った。

結局、大幅に増えたメンバーは、母の所属するスポーツチームの人たちだった。
母自身「えー、なんでー?」「家族葬やのに~」と思ったらしいが。
実は数日前、チームのメンバーに不幸があり同じように「家族葬」をしたのだそう。
亡くなった方は、スポーツ好きで幾つものチームに参加していて、そういったフレンドリーなメンバーに重きを置いていたらしい。
なので、その家の「家族葬」はスポーツチームのメンバーok!の「家族葬」だったらしい。

母は、自分が描く「家族葬」との違いに戸惑いながらも、みんなと一緒に参列したそうな。
そんなこんなの数日後、メンバーである母のご不幸「家族葬」!
すでに「家族葬」というものを体験したメンバーの方々、今回も「家族葬」らしいよとの情報に、『コリャ、みんなで行かねば!!』と、なったらしい。
(情報は、お世話になった若干名の中にいたチームメンバーの一人から漏えい)
(ほらね、「家族葬」の定義ってまだまだ曖昧)
(取り仕切る家族がちゃんと決めて、ちゃんと伝えなきゃ・・・ね)

ただでさえ、何がなんだか初めて尽くしの主催者(?)側。
(どう対応していいやらあたふた)
それに加えて、事件後の余韻がまだ残ったまま、足が宙に浮き頭がボーッとしたような感じ。

そんな中、慌ただしく「本通夜」が始まろうとしていた。
私たち家族は、とにかく段取りどおりセッティングされたそれぞれの席に座った。
会場スタッフが親戚たちを誘導し、続いて一般の人たちを席に誘導した。
(何とかぎちぎちパンパンに収まった!)
一同が席に着くと、担当のお兄さんがこれからの流れを説明した。

「本通夜」開始である。
まずは、僧侶の入場、お坊さんをお迎えするそうな。
(へんっ!なんだか偉そうな!)
(一番偉いのは、死人とちゃうん?お父さんちゃうん?)
(だってこの人、棺の中の人、神さんやで、仏さんになってんでえ~!)

そこへ、全体に様々な刺繍が施された四角い布のような物を羽織り、仰々しい服装で現れたお坊さん。
その服装とは相反して、着ているものがとっても重そうで「馬子にも衣装?」って感じに見える、小柄なお坊さん。
それに、坊さんと言えばツルツル頭を想像していたが、そのお坊さんは短髪だった。
(なんとなく、ちょっともしかして研修生?てな雰囲気)

お坊さんは、祭壇前に設置されたテーブル席に、うやうやしく頭を下げ着席した。
これから、お坊さまの有り難~いお経である。
手狭になった会場の関係で、私の席はお坊さんのすぐ左側、お坊さんの左横顔を真正面から見る形に配置されていた。
鐘が鳴らされ読経が始まる。
そして、お坊さんの合図と共に、順番に焼香していく。

まずは、喪主である母、次からは二人ずつで、私と弟、弟の嫁とみみか・・・といった具合に続く。
私が焼香を済ませ席に戻ると、隣の席に座る弟の嫁が入れ替わり焼香台に向かった。
横に並ぶはずのみみか・・・アレレ?誰この人?みみか、オッサンやん!
どういうわけか、私のシラナイ顔が弟の嫁と並んで焼香していた。

みみかに目をやると、当然次は自分だと立ち上がったところ、おじ様(オッサン)に先を越され、お尻を半分浮かせた状態で周りをキョロキョロ。
実は、焼香の仕方が分からないみみか、始まる前に弟の嫁を真似するようにと指示を受けていた。
なので、動揺隠し切れず!
でも、まあ、オロオロしながらも、(誰かは忘れたが)親戚と一緒に無事焼香。
(それにしても、あのおじ様(オッサン)、親戚よりも先に焼香しちゃうハプニング!)
(でもいいさ、そんなの全く気にしない!)
(楽しいこと好きの我々!愉快なハプニング、ウエルカム!)

久しぶりだが見慣れた顔の親戚たちの焼香が終わり、続いて一般の方々の焼香が始まった。
お世話になった若干名の方々のあと、私のシラナイ顔がずっと続いた。
焼香が終わるたび、一般の方々がこちらに向かって会釈される。
私たち遺族は『ありがとうございました』と頭を下げる。
(代わる代わるのシラナイ顔に、私は「一体誰やねん!?」と内心突っ込んだ)

でも、焼香して下さる予定外だったシラナイ顔の方々を見つめていて、私はふと思った。
『お父さんは幸せ者だね~』と。
『お父さんのために、いろんな所からみんなわざわざ集まってくれたんだよね』
『こんなにたくさんの人たちが、お父さんの死を悼んでくれているんだね』・・・と。
そして、こんなにたくさんの方々を(結果的に)呼び込んでくれたのは、『ひとえにお母さんの人徳なんだなあ~』と。
私は、父といい母といいその人柄について、あらためて感心したのだった。

やがて、会場の全ての人の焼香が終わった。
静まり返る中、お坊さんの読経が響き渡る。
私は、おのずと目の前にいるお坊さんの姿に見入ることになった。

最初は良かった。
お坊さんの静かなお経が流れるように唱えられていた。
しかし、しばらくして私は感極まり、目にハンカチを当て肩を振るわせた。
父の死が悲しくて・・・ではなく、私は笑っていたのだ。
お坊さんの読経が面白すぎて、クスクスと肩を震わせ笑ってしまった。

気合を入れて「ナンマン、ダァ~、ブゥ~ッ!」と唱える、その「ブゥ~ッ!」の口が、横から見るとドラえもんのスネ夫のとんがり口にすごく似ていた。
唾を飛ばし飛ばし『一生懸命ッス!』てな感じで肩肘を張って、首を上下にカクカク動かしながら、唄でも歌うようなお経が永遠と続いた。
(今まで聞いたことがないお経だった)
(他の親戚たちも変わってたね~と言っていた)
唄を歌うそのお坊さんの姿を見ていると、私はなんだか笑えてしまった。

あとで従姉妹に言われた。
「みーこちゃん、肩震えてるから泣いてるのかと思ったら、笑ってるんだもん!」
「私も笑ってしまったわ~」と。
葬儀中、ご陽気な気分になってしまった私。
でも、なんだか、楽しいこと面白いことが大好きだったお茶目な父が、このお坊さんを選んだような気がした。
(そっかあ!お父さんが、楽しく愉快なお坊さんを呼んだんだあ!)

お坊さんが退場し、「本通夜」の儀式が終わった。
終わると同時に、会場スタッフが手早く椅子を片付け、通夜振る舞いの準備にかかった。
そして、我が親戚たちも本始動!
いつの間にか喪服を脱ぎ捨て、Tシャツに短パンなどラフな服装に早代わりしていた。
なんだか、ヤル気満々のご様子・・・。
えーっと、一体何が始まるんでしょう!?

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愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!⑥「本通夜」-1

2012年09月01日 | 出来事日記
「湯灌(ゆかん)の儀」を無事に終え、午後7時からの「本通夜」に備えるため、祭壇の準備が着々と進められた。
祭壇の花が綺麗に整えられ、供花や篭盛も依頼していた通りに運び込まれた。

祭壇に収められた棺の中の父は、相変わらず血色のいい顔色で、片ちんばだった目の形も出っ歯だった口元も、ぜーんぜん分からない!
随分と痩せたので、すーっと鼻筋が通り、眉毛がくっきり凛々しくなって、まるで歌舞伎の色男のよう!
しかも、その口元・・・ちょっと微笑んでるように見える!
(みーんな言うんだよね。「お父さん、笑ってるように見える」って)

さあ、いよいよこれから「家族葬」の始まりか?
「家族葬」といえば、ほとんど私たちしかいないひっそりと静かな状態を想像していた。
それに、ある意味「家族葬」っていうのは、親戚でも遠慮してもらうものかと私は思っていた。
(だから、そんなに来ないかも・・・なんて私は思っていた)
なので、私とみみかは家から持ってきたキャリーバックの一つに、本を満載にしてきていた。
父の棺の横で、漫画や好きな本を夜通し読んで過ごそうと、二人で目論んでいたのだ。

父の認知症の症状が顕著になってからは、近くにいる親戚ともなかなか会う機会もなかった。
(ある意味、毎日が戦争のようだったもんね・・・)
(ゆっくり話も出来やしないし・・・)
(私自身は別の理由から、親戚付き合いというものに距離を置くようになっていたし)
父が亡くなったからとて、私自身は親戚が来ることをそれほど望んではいなかった。
(正直、どっちでもいいや!って感じだった)

だけど、蓋を開けてみればとんでもないことになった。
「家族葬」用にと使用を決めたこじんまりした会場からは、溢れんばかりの人の数が集まった。
(「家族葬」の定義は、取り仕切るそれぞれの家族が決めればいいこと)
(結局は、どこどこまでもいろんなパターンがある)
(私たちの場合は、自分たちが想像しなかった状態に陥ったが・・・)

午後3時過ぎ、親戚たちが賑やかに到着し始めた。
九州出身の父と母、親戚たちもそちら方面が多い。
それでも、みんなはるばる遠方からやって来てくれたのだ。

父は、ゴールデンウィークがあけた途端に亡くなった。
亡くなる日が少しでも早ければ、誰も動けなかったに違いない。
ゴールデンウィーク中は、新幹線も飛行機も間違いなく混んでいる。
九州ー大阪間の切符を手にするのは決して容易くないだろう。
まるで、父はゴールデンウィークを避け、その期間が終わるのを待っていたように思える。
(ちょっと不思議!)

結局、親戚関係は連絡した人数以上に集まった。
驚いたことに、私の従姉妹たち(父の姪たち)も、忙しい中を近隣からも遠方からもやって来てくれた。
みんな、眠る父の顔を見て泣いてくれた。
そして、口を揃えてみんなが言った、「おじさんにはお世話になったから」と。
(どんなお世話をしたのか私には分からない・・・が、あちこちからこの言葉を聞いた)
(そう、元々、人情に厚く面倒見のいい父だった)

わざわざ九州から来てくれた従姉妹が私に話す。
「それが不思議なんよ~」
「いつもはすぐに銀行に預けるお金を、何でか預けずにこのゴールデンウィーク中ずっと持ってたんよ」
「そんなこと今まで無いんだよ~」
「そしたら、おじさんのこと連絡あって・・・」
「え、ウソ、交通費どうしようと思ってたら・・・行けるやん・・・」
「手元にあるじゃん、交通費!」
「今すぐ行けるやん!」
ってなことになって、不思議だったんよ~と。

しかも、もう一人の従姉妹の話。
彼女も何故だか交通費になるようなお金がちゃんと手元にあったらしく。
さらには、彼女の仕事は今をときめく忙しい介護職!
「休み取れないよね~なんて思いながら切り出したら」
「ああ、いいよいいよ、行ってあげなよ!」
と、快く送り出してくれたのだそう。
(この従姉妹たちは通夜と告別式の2日間出てくれたのだ)

しかもっ!
告別式から参列してくれたもう一人の従姉妹の話。
彼女は夜勤もある医療現場の仕事。
通夜の時刻には間に合わないが、九州からその日に移動して、せめて翌日の告別式には出たい。
恐る恐る休みの希望を切り出すと、「いいよ~」とあっさり承諾された。
三人ともそれぞれに不思議がっていた。
(うーん、たしかに不思議!)
(ここでも超人技で魔法を使ったか?)

ほとんどの親戚が集まったころ、事件が起きた。
一人の親戚が私に香典を渡そうとした。
今回、うちは香典を誰からも受け取らないと決めていた。
なので、私はその旨を話してお断りした。

すると、「別の親戚は(母に)渡したって言ってたぞ!」と、その親戚は言う。
そんなはずは無いと、仕方なく別の親戚に確認しに行くと、「うん、(母に)渡した」と言う。
どうなってるんだと母に確認し行くと、「ううん、受け取ってない」と母は言う。

一体どうなってんの?
誰が嘘ついてんの??
それとも、何、みんな認知症???

そんなこんなのやり取りを見ていたその親戚が、「別の親戚からは受け取ってワシからは受け取らんっていうのはどういうことか!」と怒り出す。
(そりゃそうだよね、ごめんねオジちゃん!)

それで・・・結局のところ、犯人は"母"だった。
強い押しに負けてしまい、香典をこっそり受け取っていたのだ!
(本人は、落ち着いたらあとから返すつもりだったと言うが)
「ううん、受け取ってない」・・・そう言ったのは、私に対するとっさの嘘。

従姉妹曰く「みーこちゃん(私)のことが怖かったんじゃない、おばさん?」
(多分、そうかもね)
(「受け取ってない」って返事したとき、目がオヨオヨ泳いでた気がするし・・・)

その後、私は優柔不断な母の態度を親戚中の前で叱責。
「みんなで決めたでしょっ!」
「お香典は受け取らないってっ!」
「お父さん怒るでっ!」

さらには、私の態度を批判した弟も叱責。
「あんた長男やろっ!」
「長男としてあんたが決めやっ!」
「どうすんねんっ!」

仁王立ちで怒り吠える私。
(ふん、いつものことさ)
(真っ直ぐな感情を誤魔化せないし抑えられない)
叱責する私の声に、周りは一瞬しーんとなった。

その場を取り繕うと、弟が営業マン口調でその親戚をなだめていた。
母は・・・たぶん別の親戚に対応していた。(と思う)

『もうっ!』
『こんな事なかれ主義は大ッキライ!!』
怒り冷めやらずの私は、葬儀なんてやめにしてその場を去りたくなった。
それでも、会場の雰囲気を悪くしてしまったのは私だ。
何とかせねばなるまい・・・だって、もうすぐ「本通夜」開始の時刻なのだ。

私は一直線に、担当のお兄さんのところへ向かった。
「すみません、やっちゃいました」
「とにかく、司会進行する第三者が入って空気を変えて下さい」
「お願いします!」
と、私はお兄さんに哀願した。

お兄さんは、まもなく始まる事を告げに会場に入ってくれた。
私はちょっとした孤独感を覚え、ふてくされながら通路にいた従姉妹たちの隣に立った。

横にいた従姉妹が私に言う。
「みーこちゃんの気持ち分かるわ~!」
「私も抑えられないもん!」
「同じように私も吠えたんよ~、バアちゃんのとき」
(え!?マジっすか!?)

性格的に似た者同士の私と彼女だった。
孤独を感じていた私だったが、彼女の同情に救われる思いがした。
でも、性格的に全く違う大人しい(というか、大人な)別の従姉妹は、私の吠える姿を見てシクシク泣いていた。
何やら居たたまれなくなったのだろう・・・。
(たしかにね、みんな仲良く出来るのが一番だけどさっ!)
(そうはならないこともあるさっ!)
(私は事なかれ主義の偽善者にはなれないからねーっ!!)

さてさて、どうなる?
まもなく「本通夜」の開始時刻です。

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愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!⑤「湯灌(ゆかん)の儀」

2012年07月28日 | 出来事日記
5月8日の朝、父が逝ってから丸一日が経とうとしていた。
部屋の出入りのたび、または顔を見たくなったら、私は父の顔にかぶせてある白い布をめくっては、父の顔をべちゃべちゃ触ったりじっくり眺めたりしていた。
ドライアイスの効き目で、父の顔は人体とは思えないほどの冷たさになっていた。
(当り前か、温かかったらビックリするぞ!)
でも、父の穏やかな死に顔はいつ見ても変わらなかった。

間際に苦しんで死んだ場合は、その死に顔の表情も苦しそうな顔つきなのだとか。
徐々に息が出来なくなって死が近づくと、『フワ~』と気持ち良くなって最期を迎えるのだとか。
・・・そんな風に聞いたことがある。
やっぱり、父は苦しまなかったんだ。
顔色もだんだんと白くなっていきますよ、と死後処理の看護師さんが仰っていた。
でも、父の顔色は不思議と普通の肌色で悪くない。

朝一番のご挨拶、「お父さん、おはよう!」「ばあ~!」と白い布をめくり、現れた父の顔に私は驚いた。
なんと、父のポッカリ口が閉じているではないかっ!!
そう言えば、昨日病院から会館に運ばれ布団に安置されてから、時間が経つにつれ父のポッカリ口の幅が狭くなってる気はしていた。
でも、私の角度の見えかたか何かで、気のせいかも?と思っていた(思うようにしていた)。
しかし、今は上下の唇に隙間はなく、父の口はしっかり閉じている。
奇跡か?ミラクルか?何故なんだー!?

と、担当のお兄さんが「おはようございます~」「眠れましたか~」と部屋の中に入ってこられた。
「お、お父さんの口が閉じてるんですけど・・・」
「こ、こんなことってあるんですか・・・?」
と、恐る恐る聞いてみた。
すると、お兄さんは「あ、実は、そうなるようにちょっと工夫させてもらってたんです」と、のたもうた。
(な、なんですと?!)
「そんなこと出来るんですか?」

お兄さんによると、口がポッカリ開いてる遺体の場合には、首の付け根に高めの枕を当てて寝かせるのだそう。
そうすると、筋だか筋肉だかの関係で、自然に口が閉じていくのだそうな。
遺族の中にはポッカリ口を嫌がる場合があるらしく、背中の曲がったご老人などは難しいが、まだシャキッとしていた父のような場合には、そうやって工夫し安置しているのだそう。
(いや~、驚いた!勝手に口が閉じるんなんて、ミラクルもいいとこだね~)
(でも、良かったねお父さん!閉じた口元は凛々しくて、めっちゃ男前ですぜ!)

ところで、慌てて作った父の遺影。
結局、9ヵ月半後に使えることになった。
遺影の写真は、私がデジカメで撮っていた画像で、笑顔でいい顔してる父の顔を選んだ。
家のパソコンで部分的に切り取り、背景や禿げ頭のチョビ毛などの画像処理を施した。
それを写真屋さんで引き伸ばしてもらい、葬儀に使えそうな適当な額縁を見繕って、中に写真を入れいつでもスタンバイok!・・・だった。
(コレもさあ~、写真なんて当日にいざ探したり選んだりってキツイよね)
(動揺したドタバタの中、どんなもの選ぶか分かんないよね・・・)

ちなみに、遺影の作製も葬儀のセット内容の中に組み込まれていて、画像処理して引き伸ばしてなども無料だった。
しかし、すでに遺影は早々と用意していたし、無料とは言えもうこれでいいとは思ってた。
担当のお兄さんに遺影を確認してもらうと、黒のリボンを付ければ十分いけますよ!とのこと。
それに、セットのものはそれらし~き黒額縁で、私たちが用意したものは木目調で落ち着いた色合いの物だったので、今後も普通な感じで飾れるし断然良かった。
(作っておいて良かったよ、ね、お父さん!)
(お父さんの遺影、めっちゃ好評だもんね!)

午後7時からの通夜に先駆け、お昼12時からは「湯灌(ゆかん)の儀」がある。
それが済めば、父の体は棺の中に収められ祭壇に安置される。

あらかじめ預けておいた、棺の中に納める父縁の物を持ち、お兄さんが中身の確認をしにやってきた。
風呂敷包の中から「これと、これと・・・」と、お兄さんが一つ一つ私たちの目の前に出し確認していった。
私とみみかが用意した、手紙などが入った父へのプレゼント箱。
父が手にしてくれていたボロボロになった「愉快な認知症」の本。
父が着ていた上下の服に帽子。
そして、父が履いていた靴。

底の磨り減った父の靴を見た瞬間、私は湧き上がる感情を抑えられなくなった。
・・・そうだった!9ヵ月半前までの父は、この靴を履き「歩いて」いたんだ!
ベッドに寝たきりだった父ではなく、歩き回っていた頃この靴を履いた元気だった父がいたんだ!
目の前の靴を通して、私はすっかり忘れてしまっていた父の懐かしい姿を思い出しポロポロ泣いた。
「歩いていた父」が実在していたことを、この靴は思い出させてくれた。
(ああ、そうだったねお父さん!)
(歩いていたね、歩き回っていたね・・・)

しみじみと思った。
その直前までこの靴を履き元気に歩き回っていた父が、もしも9ヵ月半前のあの日、突然逝ってしまっていたら・・・。
私たちは、父の葬儀の日を、とてつもない大きなショックを受け迎えていたのかも知れない。
救急搬送されたあの日から、9ヵ月半という期間を過ごし、寝たきり姿の父が当り前になってしまっていた私たち。
でも、そのおかげで、死人となり安置された父が微動だにしないことに、平然といられる私たちがいたのだから・・・。

早めに昼食を済ませ、私たちは「湯灌(ゆかん)」に備えた。
時間になると、男女一人ずつのスタッフが来られた。
宗派によっての服装や持ち物の違い、三途の川を渡るのに必要なお金(昔の貨幣の文様が印刷されたもの)など、いろいろ説明をして下さった。
(三途の川を渡るにも、「金」なんすね!)

元々「湯灌(ゆかん)の儀」は、故人の生前のけがれや苦しみを洗い清め、生に対する煩悩を断ち、故人の安らかな来世への旅立ちの願いを込めて、身近な親族が行う儀式。
生まれた時に産湯に浸かり体をキレイにするように、死んだ時も湯に浸かって体をキレイにして旅立つとの意味もあるようだ。

本来、お風呂は大好きだった父。
寝たきりになってしまい、満足なお風呂には入れなかった父。
そんな父を、ちゃんと最後のお風呂に入れてあげたい!体をきれいにしてあげたい!と願っていた母。
一時は床ずれのせいで、体を動かすたび痛そうに顔を歪める父を、なんとも可愛そうだと思っていた母だった。
病院で死後処理をして下さった看護師さんが、気になっていた床ずれは無いですよと教えてくれていた。
母はとても安堵して喜んでいた。
私も、それならば父も体を触られても嫌な気持ちにはならないだろうと思えた。
(良かったねお父さん、心置きなく湯灌してもらおう!)
(すっきりしてアッチへ行けるね!)

説明も終わり準備が整った。
部屋の中には、折りたたみ式の簡易の浴槽プールのようなものが設置された。
窓の外からホースを引き入れ、水とお湯が使えるようにしてある。
浴槽プールの上部には網目の床のようなものがあり、その上に父は浴衣のまま寝かされた。
目の前で行われる初めて見る儀式に、私たちは固唾を飲んで見入っていた。

スタッフの方が「失礼致します」と静かに挨拶され、父の胸の上の合掌をほどき『ポキポキッ』と音を鳴らして、父の関節を伸ばし硬直を解いた。
思わず私は「イタッ!」と小声をあげたが、当の本人痛いはずはない。
次に、桜吹雪の舞う大きな布で父の全身は覆れた。
私はハッとした。
(そうそう、今年の春は桜を見に行けなかったね・・・)
(毎年、お花見に出かけるのね・・・)
(なんだか良かったね、最後に満開の桜を体中に纏えて)

父の体が外に見えないよう、スタッフの方が手馴れた様子で浴衣を脱がせていった。
そして、裸になったであろう父の体に、家族が順に柄杓で逆さ水を足元から胸元に向かって少しずつ掛けていった。
(※逆さ水:通常とは逆に水の中に湯を入れてぬるま湯を作ること。遺体に湯をかける時も左手で汲んで行い、掛けかたも足元から胸元に向かい通常と逆の動作をする)

この儀式が済むと、スタッフの方の手によって父の体は爪先から頭のてっぺんまで清められた。
(本当に最後のお風呂のようだね、お父さん!)
(気持ち良かったね~!)
丁寧に体の水気を拭き取られ、父は真新しい旅装束に着替えた。
そして、棺の中に父の体は安置された。

綿詰めも最小限にとどめてもらい、そのままの父らしい父の顔で収まった。
父の死に顔には、耳にも鼻にも綿の詰め物は見えなかった。
昔のように「死んでます」という感じではなく、本当に自然体だった。
そう、まるで生きてるような顔色で、生きているような表情だった。
(ただ、とっても冷たいだけで・・・)

棺の蓋がされ、父は祭壇へ運ばれ安置された。
いよいよ、今夜は本ちゃんのお通夜だ「本通夜」だ。
親戚と言えども、付き合い方は様々である・・・。
一応、家族葬なんだけどねえ、どんな風になるのかな~?

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お花見の父とみみか


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愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!④「仮通夜」

2012年06月10日 | 出来事日記
我が家に着いた私は、朝に洗いかけだった食器を片付けた。
戸締りもしなきゃ・・・、どのくらい家を空けるのか・・・など、忙しく頭はあれこれ考えた。
でも、考えるわりにはどうもうまく回らず(というか、初めての経験で)、何を持って行けばいいのかピンとこなかった。
とにかく、すでに用意していた喪服や制服に数珠や黒靴、その他身の回りの必需品を集めた。
なんとか荷物をまとめた私とみみかは、それぞれのキャリーバックを持って家を出た。
(いざ!という時のために、持ち物を箇条書きしておくと便利だ!)

弟の迎えの車で、暗くなっていた夜道を父のいる葬儀屋の会館へと向かった。
いつの間にか昼の嵐は止み、夕方には嘘のようなカワイイ夕陽が見られ、そして夜空にはほんの少し欠けた月が浮かんでいた。

部屋に入ると、実家の隣町に住む叔父夫婦がいた。
父の訃報を聞いて、さっそく会いに来てくれたのだ。
(父と会うのはどれほどぶりだったのだろう?)
(賑やかなことが大好きだった父、昔はみんなが集まる家だったね)
(私なんて、かなりのお久しぶり~デス)

でも、あら不思議!
ご縁あってのご縁だねえ、何年も久しぶりなのに普通に違和感なく話が出来る。
(そうそう、久しぶりに会う友人のような・・・)
(一瞬にして親しみを感じる、アノ感覚!)
(私自身が)疎遠気味の親戚関係だったが、懐かしい顔になんだかホッとした。

会館近くの回転寿司は、夜11時まで開いていて持ち帰りも可能、マクドナルドにコンビニは24時間オープン。
叔母とみみかと私の3人でいろいろと買出しへ。
夜間に外出なんてめったにない我が家なので、みみかはワクワクモードで楽しげな様子。
(そうだね、確かにテンション揚がるよね、こういう夜間の外出って!)
叔父夫婦は夜半まで一緒にいてくれて、また明日ねと帰って行った。
(母は嬉しかっただろう・・・きっと父も)

しばらくして、処理しておかなければならない仕事を終えた弟と、自宅に戻っていた弟の嫁がやってきた。
その夜、雑魚寝でいいやんということになっていたので、それぞれが思い思いに座布団を敷いて、父のそばに横たわり眠った。
6畳ほどの和室に、父と一緒に5人が雑魚寝状態の「仮通夜」となった。

夜が更けると、部屋はけっこう寒くなっていった。
エアコン設備も整っているが、ドライアイスをあてがっている父のことを考えると、暖房を付けてはいけない気がした。
なので、部屋に備え付けの薄いひざ掛けと、弟夫婦が自宅から持ってきてくれた毛布とで、それぞれ寒さをしのぎ眠りについた。
でも、初めてで慣れない場所であり、着替えることなくそのままの服で寝にくいこともあり、なかなかすんなり眠れない。

疲れているので、うつらうつらとはするが、やっぱりなかなか眠れない。
しかも、そのうち『バチッ!』やら『ゴボゴボ~』やら、あちらこちらで何やら音がやかましい。
(たしか、会館には我ら家族と当直の方だけのはず・・・)
(うーん、俗に言う「ラップ現象」だと思われる)
(それにしても、一晩中かなり頻繁にうるさかったな)
みんな(ちょっと怖くて)朝まで口にしなかったが、この音が気になり眠れなかったよう。(大いびきの弟以外は・・・)

それはさておき、これほど長い間、父と一緒にいる時間を過ごしたのは本当に久しぶりだった。
救急搬送されてからの290日間、父は病院もしくは施設のベッドの上で生活していたのだ。
なかなかどうして頑張る父に、(きっとそうだろうけど)家に帰りたいのかな?家に帰れるまで頑張る気かな?と、そんな風に思うこともあった。
なんとか自宅介護が出来ないものか・・・そんな風に真剣に考えもした。
自宅介護なら、父と共有の時空間で生活することが出来る。

でも、結果的に父はそれを選ばなかった。
家に帰してあげたい気持ちが私たちの中にあっても・・・、家に帰りたい気持ちが父の中にあっても・・・。
結果的にそうならなかった現実があるということは、父がそれを選ばなかったし望まなかったということだと、私は思ってる。

~ 基本的に、【自分に起きる全ては、自分自身が選択しその環境(道具)を整え体験している】と、私はそう思っている。
【誰のせいでもなく、環境(道具)のせいでもなく、自分自身においてそれを選んで体験している】のだ、と。 ~
(参照: 愉快な認知症の父、死す!?33日目「選択の自由」

それに、父が病院や施設にいる間の母の声掛けには、父にとって自分の家にいるのと同じ雰囲気と効果があったように思う。
だから、大好きな母の声を聞き、大好きな母から精一杯の食事をさせてもらい、母と共に過ごした父の時間は、場所がどこであれ幸福だったのだと今は思える。
父は幸せだったのだ!

やがて、窓の外が白々として夜が明け始めた。
父と共に過ごすたっぷりで長い一日が終わろうとしていた。
物言わぬ父だったが、みんなで過ごした「仮通夜」という時間のおかげか、私の心は不思議な充実感で満たされていた。
「仮通夜」という父との時間があって、本当に良かったと感謝している。

早起きしたみみかが、明るくなった外の景色を見たいと言う。
(あの音で、みみかもやはり眠れなかったようだ・・・)
私も今さら眠る気もないし、かと言って他にすることもないので、面倒くさがりながらも渋々付き合った。
朝の5時過ぎ、外はいいお天気そうだった。

夜間は施錠してあった正面玄関の自動ドアが、すでに動くようになっていた。
みみかは喜んで、会館の外に飛び出して行った。
すると、慌てた様子のみみかが、玄関口から顔を出して私を呼んだ。
「スッゴイもんがあるで!」
「早く、早く!」
そう言ってブンブンと手招きをした。

何事かと行ってみると、竜巻型の雲が空に浮かんでいると言う。
会館の建物から出て、みみかの指差すほうを見ると、ホントだ!スゴイ!竜巻だ~!
竜巻の内側には、スーッと上に吸い上がるような黒い筋があった。
それを見ていると、なんだか父の魂が天高く上昇していくかのように思えた。
私たちとの「仮通夜」を済ませ、父の魂は満足して昇っていったんだ・・・そんな風に思った。

そして、それが少しずつ移動しいつの間にか消えると、燃えるような美しい朝陽が現れた。

さ~て、今日は湯灌(ゆかん)に祭壇準備に本ちゃんのお通夜だ。
初めて体験するイベントが目白押し、忙しいぞ~!

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愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!③「その日の夕陽」

2012年06月01日 | 出来事日記
父の死後処置が終わり、手配どおりの11時半、葬儀屋の迎えの車が来た。
その日は、早朝から雲ひとつない青空だった。
(私は朝の5時起きで畑の水遣りをするほど)
しかし、父を車の中に運び込むやいなや、突然大粒の雨が降ってきた。
(涙雨・・・か?)
雨の中、施設と病院の関係者に見送られながら、私たちは父と一緒に過ごす長い一日へと出発した。

父の体を一度家に返してやりたい気持ちもあった。
しかし、近隣には知らせない「家族葬」をする心積もりだったし、事前に見積を取ったときに、病院からの移動は会館へ直行と決めていた。
(葬儀屋の車だとか、父の体の運び入れだとか、人の出入りでバレちゃうからね~)

父を乗せた車は、私たちが乗る弟の車とは違って、ゆっくりとしたスピードで父を運んでくれた。
病院から会館へは、車で10分もかからない距離だったが、旅立ち前の父としては今生最後のドライブとなった。
父の車が会館へ到着した頃には、雨はますます激しくなっていた。

会館に入ると、すぐさま畳の部屋にふかふかの布団が敷かれ、手際よく永眠した父の体を寝かせてくれた。
(お父さん、ふかふかのお布団久しぶりだね・・・)
(畳の部屋で眠るのも、ほんと久しぶりだね・・・)
この畳の部屋も、見積を取った当日に見学させてもらい決めていた部屋だった。
だから、私たちが着いたときにはちゃんとその用意がなされていた。
(決めてて良かったぁ)

朝からバタバタと時が流れ、やや放心気味だった私たちは、安置される父の様子をただ呆然と眺めていた。
やがて、父の枕元に焼香台が置かれ全てが整った。
そして、これからの一切を担当してくれるお兄さんが、改めてご挨拶をして下さった。
このお兄さんも、とても感じの良い人だった。
あの時のお兄さん(この日はお休みだった)と同じように、柔らかい優しい口調で話をし誠実そうだった。
(いやいやホント、決して見せ掛けではなく、お芝居でももちろんなく!)

父の焼香を済ませ、私たちは葬儀の流れに沿って打ち合わせを始めた。
実際の葬儀を行うように、細かいところまでキッチリカッチリ事前見積をしていた私たち。
基本的にはその通りでお願いすることになった。
(いや~、事前に流れや内容を知ってると知らないとでは大違いだね)
(当日初めて・・・じゃ、きっと慌てる絶対ドタバタ!)
(決めるための揉め事発生で、余計な疲労困憊・・・なんてことになってたかも)

まず、葬儀の日程を決めた。
通夜が翌日の5月8日午後7時、告別式が翌々日の5月9日午前10時となった。
(いろんな思いから、早く済ませてしまいたい気持ちのあった私は、その日の夜に通夜をしてしまえばいいと思ってた)
(でも、そうすると告別式が8日になり「友引」に当たってしまうらしい)
(そんなの気にしない!私はね・・・でも、そこは母らの常識判断に従った)

結局、その日の夜は、父を囲んで家族水入らずの仮通夜となった。

続いて、全体の内容と必要なもの不要なものをチェックした。
不要としていた「粗供養(そくよう)」と「湯灌(ゆかん)」を追加した。
(※粗供養・・・通夜や告別式に参列して下さった方への心配りの品)
(※湯灌・・・遺体を棺に納める前に拭いたりして清めること、最後のお風呂みたいなもの)

ちなみに、父の葬儀では香典を誰からも受け取らないと決めていた。
(香典返しやら、その後のお付き合いやら・・・何かと大変だからね)
だから、そのお返しになるような「粗供養」も必要ないとしていた。
でも「せっかく来て下さって手ぶらで帰ってもらうのもなんだから・・・」と、思いなおした母と弟が言った。
(いいんじゃないっすか、別に異議な~し!)

「湯灌」に関しては、どちらかと言えば私はそれを望んではいなかった。
(他人に自分の体を見られることを父は嫌がるかも知れない・・・と思っていたし)
(ガリガリ男の体に床ずれがあった頃などは、特にそう思っていた)
でも、母は最後のお風呂に入れてあげたい!父の体をきれいにしてあげたい!と強く思っていたようだ。
(これまた、異議な~し!)

それから・・・坊さんの件だ。
うちは基本、何の信仰もない。
父の実家の宗派を確認し、葬儀屋にお任せで坊さんの紹介をお願いすることにした。
(お布施の金額はお兄さんに相場を聞いてのち、それ相当に母と弟が常識範囲で決定した)
(ここまできて、私は異議な~し!異議な~し!)
(ちなみに、坊さんが読経を揚げたのは通夜・告別式・火葬場・初七日での4回)
(ちなみに、20万、告別式前に母と弟で直渡しした)

気が付くと、ゴロゴロと激しく雷が鳴り、外では強い雨風が吹き荒れていた。
まるで・・・嵐のようだった。
(お父さん、嵐を呼ぶ男っすか?)
途中、仕事先で父の訃報を聞き、慌てて帰ってきた弟の嫁が打ち合わせに合流した。

キッチリカッチリの事前見積をしていたにもかかわらず、全体の内容確認だけでもかなりの時間がかかった。
(お腹もすいてキュルキュルと音を立て出すぐらい)
(前もっての準備なしで当日に事を決めていたら、もっともっと時間もかかるし非常に疲れるだろうな・・・)

親戚への連絡、参列者の人数割り出し、締切り時間のある供花(花の御供え)と篭盛(果物の御供え)や、各種料理や貸し布団の申込み手配・・・などなど。
葬式は実に忙しい。
時間は刻々と進み流れるのだ、故人を偲んで悲しみに浸っている場合じゃなかったりする。
(なので、父を囲んで私たちだけで過ごした仮通夜という一夜があって、本当に良かったと思う)
(即、その日に通夜をしてしまっていれば、父とゆっくり・・・なんてもう二度と出来なかったこと)

父を一人にしないよう、私たちは交代で昼の食事を摂った。
葬儀屋の会館近くには幹線道路が通っていて、マクドナルドや回転寿司や24時間のコンビニなどがある。
基本的には、持ち込み禁止となっているがそれはその・・・とお兄さん。
一応見えないよう隠しながら・・・みたいな暗黙の了解。
(アリガタヤ~!なんと便利な環境でしょう)

さっそく母と弟夫婦は食事をしに回転寿司へ行き、入れ替わり私とみみかは食べられるものを買いにコンビニへ行った。
私とみみかがコンビニへ往復する間だけ嵐は止み、会館へ戻ると同時にまた雨が降り出した。
(おお、超人の魔法か!?)
母と弟夫婦は、父のそばで食事をする私たちを残し、これから必要となるものを揃えに出かけて行った。
部屋の中にいるのは、私とみみかそして父の三人だけ。
(こんな風に一緒にいるの、ホント久しぶりだね、お父さん!)

布団に横たわり微動だにしない父。
でも・・・全然違和感なく、それを受け止められる私たちがいた。
父の寝たきり状態の期間があったおかげで、布団から動かない父を普通に思える私たちがいたのだ。
(コレ・・・さっきまで元気で、さっきまで動き回っていた人だったなら、かなりキツイ!)
(なんとも不思議な父の効能を感じた)

母と弟夫婦がいない間に、私は布団に横たわる父の写真を撮った。
病院で死後処置をするポッカリ口の父の死に顔も、こっそり撮っておいた。
冷たくなった父の肌に触れることも、父の死に顔を撮影することも、私には全く抵抗なかった。
むしろ、最期の父に触れておきたかったし、写真に撮って残しておきたかった!
(だってね、ポッカリ口は愉快な認知症の父らしく、ちょっと笑えた!)
(なんだかね、父の死に顔、穏やかないい顔なんですよ、とっても!)
(しかもね、時間の経過とともにキリリとした男前に変身してるんですよ!)
(そりゃあ、撮っておかなくっちゃねえ!!)

そのうちに、母たちが戻ってきた。
母は、親戚の連絡先一式、すでに用意していた喪服と父の遺影、そして棺に収めるものをまとめた風呂敷包みを持って。
弟夫婦は、スーパーで買い出してきたお菓子や飲み物などいろいろを持ち込んだ。
私たちも一旦自宅に帰り、荷物をまとめて来なければならない。
(一体何が必要なんだか・・・ちょっと混乱、ボーッとするなあ)

なんだか大きなまあるいものに包まれ、足が地に着いていないふんわり感の中、私は家路を急いだ。
しかし、それは不安や悲しみといったもので落ち着かないという意味ではなかった。
(じゃあ、どんな意味なのか・・・言葉には表現できないけれど、悪い意味では全然ない)

我が家に向かう電車の中で、とても不思議な色合いの夕陽を見た。
それは、赤やオレンジやピンクが混ざり合い、あまり見たことのない面白くてカワイイお日様だった。
まるで、おもちゃのような、まん丸い「スーパーボール」がぽっかりと空に浮かんでいる様だった。
なんだかちょっと・・・嬉しくなった。
私はきっと、その日の夕陽のこと忘れないだろう。

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虹色アーチ/ウェブサイト版「愉快な認知症」

愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!②「父の最期の日を迎える、それぞれ」

2012年05月25日 | 出来事日記
<父の最期の日を迎える、母>

2月の再入院以来、嚥下機能が低下した父の食事介護。
(この再入院時の「肺炎」は、結局のところ「誤嚥性肺炎」だったのだろう)
噎せやすくなった父に対して、コツの掴めない素人の食事介護はちょっと難しくなっていた。
なので、母は施設の方にお願いすることが多くなった。
それでも、毎日昼夜どちらかの食事時間に合わせ、早めに行っては父とのコミュニケーションを取るようにしていた。
(朝食は面会時間外のため施設にお任せ)

ゴールデンウィーク前、母はスプーンでの食事方法以外に、注射器型の道具を使って口の中に流し込む方法を教えてもらった。
すると、父は思いのほかすんなりとたくさん食べてくれた。
しかも、「奥さんやったらすごい食べはりますね~!」「私らやったらこんなに食べはりませんよ~!」と、介護士さんに感心されたらしい。

確かに、他人と大好きな母に食べさせてもらうのとでは、食欲だって違ってくるだろう。
それに、母はあれやこれやと父に向かって『会話(声掛け)』をする。
食事の飲み込みだって、父一人だけを看ているのだから、父のペースを確認しながら時間をかけ、ゆっくりと次を口に運ぶことが出来る。

そんなこともあって、4月末からのゴールデンウィーク中、母はほとんど毎日昼と夜の2回、父の食事介護をしに施設へ通っていた。
それに、土日や休日は施設の人の数も手薄になることが多く、父に対して家族が思うほどには行き届かないこともあったりする。
(それが現状・・・仕方のない部分・・・なのだ)
そのことを承知している母、その分自分が出来る父のお世話をやれるだけやってあげたい、そういう思いに駆られたのだそう。
食べることが大好きだった食いしん坊の父。
大好きな母から、毎日食べられるだけ精一杯食べさせてもらった。

・・・それに、5月5日は父と母の結婚記念日だった。
父に何度もそのことについて『会話(声掛け)』をしたという。
何となく「何か」を感じ取っていた母は、自分が思うまま、やれることをやれるだけやった。
父と結婚してから、47年という年月を添い遂げ、母は父の最期の日を迎えた。


<父の最期の日を迎える、弟夫婦>

父が亡くなる前日の夜、弟夫婦は施設の父に会いに行った。
仕事が忙しく、弟は2週間ほど父に会いにこれなかったのだとか。
父は目を開けることはなかったが起きていたようで、弟夫婦が来たのも分かっていたようだったと。
(この数日間、父は目を開けることがなかった)
(母が無理やり「お父さーん!」と開けていたらしいが・・・)

帰宅後、その日の夜遅く、弟夫婦が飼っている犬が突然「クンクン」と鼻を鳴らし、「ワンワンワン!」と天井に向かって激しく吠えた。
(普段こんな行動は無いらしい)
上の部屋で煙でも上がっているのかと慌てて見に行くが、何も変わったことはなかったという。
弟夫婦の犬は、母と一緒に父もよく散歩に連れて行き可愛がっていた犬だ。
翌日の父の訃報に、あの時父が会いに来ていたのかも知れない・・・と、弟夫婦は思ったんだとか。
(ホント、そうかも知れない)
(なんたって超人ですから)

父が寝たきりになるまで、自分たちの赤い車に父母を乗せ、あちこちにドライブへ連れて行ってくれた弟夫婦。
ドライブが大好きだった父のため、仕事が休みで時間があれば、遠出して父を喜ばせてくれた。
病院や施設では、夫婦で父のマッサージを一生懸命施してくれていた。

弟夫婦も自分たちに出来る限りを父に尽くしたのだと思う。
「昨日、会いに行ってて本当に良かった」
父の最期の日を迎えた弟夫婦は、ポツリとそう言った。


<父の最期の日を迎える、私とみみか>

私とみみかが最後に父に会ったのは、先月の4月22日。
母から毎日父の様子を電話で聞かせてもらってはいたが、私は約1ヶ月間父に会いに行かなかった。
(みみかは何度か母と一緒に行っている)

『父に会わなければ!』と、何度となく衝動的な思いに駆られることがあった。
でもそれは、このまま父が死んでしまったら・・・という、惰性的な「恐怖心」からの思い。
父が死ぬ前に、一目会っておかなければ「後悔」するのではないかという「恐怖心」。
それと、「死は悲しいもの」「死は悪いもの」という、遠い過去から植え付けられた根強い「恐怖心」。

衝動に駆られ、その「恐怖心」を払拭するため、父に会いに行くのは簡単だ。
でも、それでは同じ連鎖行動を繰り返すだけで、「恐怖心」というそのものを乗り越えることは出来ない。

私はすでに、「後悔」というものは引きずるものではないことを知ったのだ!
~ 『後悔したくない!』という思いに報うのは、その気持ちを引きずることではなく、
味わったその体験を生かし“今の父”に対して“今の自分”が出来ることを精一杯するということ。 ~
(参照:1年ぶりの我が家②

それに私は、「終わりない生命(いのち)」を思い出し、「死」を祝福すると宣言したんだ!
昨年9月6日の父の誕生日に綴った、「最後の刈り取り(根っこの引き抜き)」にあるように。
~ お父さんが死んでも、ちゃんとその死を祝福するよ!
「お父さんの生」を祝福するように、私は「お父さんの死」をちゃんと祝福するよ! ~
・・・と。

だから、惰性的な「恐怖心」から来る行動を取るよりも、私には他にするべきことがあるはずなのだ!
どこかでそう感じていた私は、襲ってくる焦燥感と戦いながら、『会いに行かない練習』をするべく敢えて父のところには行かなかった。
実際その間、私の中では究極とも言える内容をこのブログに掲載出来た。
そう、「葬儀屋めぐり①~④(特に、葬儀屋めぐり④)」と「夢・・(葬儀屋めぐり追記)」だ。

父がなぜ認知症という姿を選んだのか。
このブログの副題でもある<父から学ぶ「これでいいのだ!」人間本来の姿>の意味。
(自費出版本の副題にもなっている)

ブログ開設の当初から、漠然とあったこの副題。
実は、私もはっきりと何が人間本来の姿で、何が「これでいいのだ!」なのか言葉に表せずにいた。
ただ、胸の奥で確かに感じるものを副題に書いておいたのだ。

でも、今は分かった。
すべてが「これでいいのだ!」ということ。
人間の本来の姿は「愛」なのだということ。
そして、父は愉快な認知症の姿をして、そうして私を導いてくれたのだということを。

一連の文章を書き終えた私は、やっと何の違和感もなく父のところへ行く気持ちになった。
翌日、軽やかな心持ちで父のいる施設に向い、かなり痩せたガリガリ男の父と対面した。
父の顔は、骸骨ラインがくっきりと浮かび上がり凸凹としていた。
私はそのラインに沿って、べちゃべちゃと触っては父の頭や顔を撫ぜた。
その時の父は怒る様子もなく、なんだか気持ち良さそうな表情をした。

しかも、私たちがやかしましく「ハルちゃ~ん!」「ハルちゃ~ん!」と何度も父の名をふざけて呼ぶと、父の口元が緩んで笑みを浮かべた。
「あっ!笑ってる!」みみかも私も叫んだ。
なかなか目は開かなかったが、それでもうっすらと目を開けみみかを見ようとしていた父。
これが、生きていた父と会った最後の日となった。

気が付けば、父が長期戦で頑張ってくれたおかげで、私は変わり行く父の姿と時間の経過と共に、「父の死」を受け入れることが出来るようになっていた。

父を通して施設や病院やらの内情を見せてもらい、社会の仕組みとシステムと「金が土台」となっているこの世界を実感した。
「生命(いのち)」を金蔓として扱ってしまうことになる、この世界の「土台」となすものの姿。
自然な「死」という機会を、不自然な形の「延命」で逸してしまう現状。
(正直、変な言い方だが、「なかなか死ねない」医療や福祉や介護があるように思った)
そういった側面から、むやみやたらと薬漬けで延命され金蔓としての存在でいるよりも、さっさと肉体脱いで自由になった方が幸せだと、私には思えた。

それに、父自身が『頑張る』習慣で生きてきた時代の人・・・、頑張れば何とかなって渡り歩いてきた時代の人だ。
「急性硬膜下血腫」を乗り越え、「胃瘻」をスルーして、「肺炎」からも復活した。
それでも、日に日に痩せて口をポッカリ開け、「ムンクの叫び」そっくりにベッドの上でまだ頑張って眠る父。
(思わず父の両手を耳に当ててみようかと思った)

そんな父を見て、その頑張りになんだか私は悲しくなった・・・。
「お父さん、もうええやん」
「もう、頑張らんでいいよ」
「いっぱい頑張ったやん」
心の中でそう思った。

・・・いつの間にか、「父の死」を待ち望んでいる私がいた。
「(肉体)人間は死ななアカン!」
強くそう思った。

父が亡くなる2日前、施設に行く合間に母が我が家に立ち寄った。
その時の女三人(母・私・みみか)の会話。
「最近目が開けへんみたい」
「そうなんや~」
「でも、じいじ頑張るからなあ」
「みんな(父の死を)待ちに待ってるのになあ~!」
(母、飲み物をブーッと吹き出す)
全員で「ハッハッハッハー!」

みみかに至っては、めったに着られない学校の制服を、父の葬式に着るのだと再入院の時からスタンバイ。
(・・・着られないんじゃなく、着ないんでしょうが!この不登校児!)
季節が進めば、夏服になってしまう~!などとほざいていた。
(ちゃんとみみかの希望通りにしてくれたやん!じいじ)

そんなこんなで、父の最期の日を迎えた私とみみかだった。

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愉快な認知症の父、死す。/父は死んじまっただあ~!①「逝ってしまった」

2012年05月22日 | 出来事日記
この日が来た。

「父の死」
2012年5月7日 午前9時32分
愉快な認知症の父、73歳(享年74歳)で昇天。


ゴールデンウィーク開け月曜日の朝、午前9時に我が家の電話が鳴る。
「お父さんが施設から救急車で運ばれてる」
「心臓マッサージをしてる」と、母からの電話。
(心臓マッサージ・・・ホンマかいな?)
(母の言うことは当てにならないこともありちょっと疑う)
でも、本当に心臓マッサージを施されているならば、もうまさに危ないということか!?

「みみか、じいじ心臓マッサージしてるねんて!」
「すぐ病院へ行くで!」と、戸締りをしてすぐさま移動する。
(頑張って走ったけど・・・重力に負けて1本前の電車に乗れず)

びんぼ~!な我が家、普段なら徒歩で向かう病院にタクシーで10時過ぎ到着。
病院の玄関先で母が待っていた。
(ああ、アカンかったんや・・・そう思った)

「今さっきまで待ってもらっててん」と母。
どうやら、父が死後の処置に入る前に、私が間に合えば会わせてやりたいと思ってくれたよう。
仕事先の弟は無理でも、私とみみかならギリギリ間に合うかも・・・そう思った母は、看護師さんに頼んで処置を待ってもらっていたらしい。

ダメもとで処置室に行くが、鍵がかけられやっぱりもう入れなかった。
1本前の電車に乗れていれば間に合ったかも・・・。
(でも、もういいんだ・・・何故だかその時の私はそう思えたし、変な悔いもなかった)

父が亡くなった時間を母に聞くと、「9時15分」だと言った。
9時の電話で、9時15分じゃ生前の父に会うのは全然無理。
母も無理だったんだ・・・。
(結局、心臓マッサージや挿管措置を施しながら救急車で搬送されたが、父蘇生せず)
(母の承諾を得て、蘇生措置を停止したのが9時32分)
(母の言う9時15分は、察するところ救急車内での心肺停止時間だと思う)

なんてこった。
父、死んじまっただあ~!

父の死後処置を待つ間、私は葬儀屋に連絡。
そう、「愛」を感じたお兄さんのいる葬儀屋だ。(参照:葬儀屋めぐり②
あの時のお兄さんではなったが、3ヶ月前に見積を取ってもらったことを伝えると、すぐに対応してくれた。

(携帯を持たない原始人の私)母の携帯を使い、死後処置を終えた父を迎えに来てもらう手配をしている最中、弟の到着が見えた。
弟に向かって手を振りながら、「(お父さん)アカンかった」と伝える。
「・・・アカンかったんや」そう言って、弟は病院の中へ入っていった。

電話を切って病院内へ戻ると、施設の責任者が母と弟に経緯と状況を説明していた。
説明はほとんど終わっていたが、私が質問すると再度同じことを話してくれた。

それによると、父は7時半ごろ朝食を全部ではないが食べたらしい。
9時前のバイタルチェック時、父の顔色が悪く看護師が異変に気付き、常勤の医師が駆けつける。
医師の指示で、すぐに救急車で病院へ搬送するが、搬送中に心肺停止。
心臓マッサージと挿菅措置を施し病院に到着。
父蘇生せず、母の承諾を得て蘇生措置停止。

苦しむことはなかったようだ。
父が処置に入るまで、母はまだ温かい父の頭と顔をずっと摩ってあげていたとのこと。
母によると、最期を迎えた父の顔はとても穏やかだったと言う。
あの「再入院」の日、父の顔色は非常に悪く、可愛そうなぐらい辛そうな様子だったとか。
その時の父に比べたら、今回の父の表情は本当に穏やかで、なんだかスッキリした顔つきだったそう。
だから、母の胸もあの時ほど痛むことはなかったようだ。

父の死後処置の間に、母と弟がこれからの備えのためそれぞれの家に一旦戻った。
しばらくすると、処置室の看護師さんが私とみみかのところにやって来て、お髭を一緒に剃ったりしませんか?と、声をかけて下さった。
(最近は、家族も一緒に処置をさせてくれるんだとか)

処置室に入った私たちは、最期を迎え終えた父との対面を果たした。
ストレッチャーの上で口をポッカリ開けている父。
ベッドの上に横たわるいつもと変わらない父がいた。

でも、もう動かない、いびきもしないし息もない。
でも、なんだか眠っているよう、死んでなんかないみたい・・・。
でも、やっぱり目は開かないし、瞼の下も動かなかった。
「おとうーさーん!!!」
「お疲れ様でした!!!」
泣きながら思わず叫んだ。

「いろんな経験させてくれて、本当にありがとうね~」
そう言って父の頭や顔を撫ぜた。
父はまだ、温かだったし柔らかだった。

その後、あとから来た母と弟と一緒に、父の顔を剃ったり、残っていた歯をキレイにしたり、口の中を拭き取ったり。
爪を切ったり、保湿のクリームを塗ったりして、処置を終えた。
看護師さんが、父のポッカリ口を閉じるように工夫をしてくれたが、少し閉じただけで上手く全部は閉じなかった。
開き気味のポッカリ口、父らしくていいかも・・・と、そのままの移動となった。

母が言うには、処置に入る前の父とほとんど変わらないと言った。
(それは良かった・・・電車1本前でなくても)

正直なところ、私的には、父の「死に目(移行時)」を見たくなかった。
きっと、耐えられなかったと思う。
「親の死に目にあえない」などとよくあるが、私は父の死に目にあえなくて本当に良かったと思ってる。
もし、その瞬間を体験し乗り越えようとすれば、その場の私は錯乱状態になっていたかも知れない。
そうした状態に陥ることでしか、私にはやり過ごせなかったように思う。
だから、父はそれを知っていて、私にとっても一番いいように逝ってくれたのだと思う。

父の死因の直接原因は、「誤嚥性肺炎」。
そして、その原因となったのは、「急性硬膜下血腫」である。

昨年7月22日、ショートステイ先から救急搬送された父。
あれから291日目、父は逝ってしまった。

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