父の死後処置が終わり、手配どおりの11時半、葬儀屋の迎えの車が来た。
その日は、早朝から雲ひとつない青空だった。
(私は朝の5時起きで畑の水遣りをするほど)
しかし、父を車の中に運び込むやいなや、突然大粒の雨が降ってきた。
(涙雨・・・か?)
雨の中、施設と病院の関係者に見送られながら、私たちは父と一緒に過ごす長い一日へと出発した。
父の体を一度家に返してやりたい気持ちもあった。
しかし、近隣には知らせない「家族葬」をする心積もりだったし、事前に見積を取ったときに、病院からの移動は会館へ直行と決めていた。
(葬儀屋の車だとか、父の体の運び入れだとか、人の出入りでバレちゃうからね~)
父を乗せた車は、私たちが乗る弟の車とは違って、ゆっくりとしたスピードで父を運んでくれた。
病院から会館へは、車で10分もかからない距離だったが、旅立ち前の父としては今生最後のドライブとなった。
父の車が会館へ到着した頃には、雨はますます激しくなっていた。
会館に入ると、すぐさま畳の部屋にふかふかの布団が敷かれ、手際よく永眠した父の体を寝かせてくれた。
(お父さん、ふかふかのお布団久しぶりだね・・・)
(畳の部屋で眠るのも、ほんと久しぶりだね・・・)
この畳の部屋も、見積を取った当日に見学させてもらい決めていた部屋だった。
だから、私たちが着いたときにはちゃんとその用意がなされていた。
(決めてて良かったぁ)
朝からバタバタと時が流れ、やや放心気味だった私たちは、安置される父の様子をただ呆然と眺めていた。
やがて、父の枕元に焼香台が置かれ全てが整った。
そして、これからの一切を担当してくれるお兄さんが、改めてご挨拶をして下さった。
このお兄さんも、とても感じの良い人だった。
あの時のお兄さん(この日はお休みだった)と同じように、柔らかい優しい口調で話をし誠実そうだった。
(いやいやホント、決して見せ掛けではなく、お芝居でももちろんなく!)
父の焼香を済ませ、私たちは葬儀の流れに沿って打ち合わせを始めた。
実際の葬儀を行うように、細かいところまでキッチリカッチリ事前見積をしていた私たち。
基本的にはその通りでお願いすることになった。
(いや~、事前に流れや内容を知ってると知らないとでは大違いだね)
(当日初めて・・・じゃ、きっと慌てる絶対ドタバタ!)
(決めるための揉め事発生で、余計な疲労困憊・・・なんてことになってたかも)
まず、葬儀の日程を決めた。
通夜が翌日の5月8日午後7時、告別式が翌々日の5月9日午前10時となった。
(いろんな思いから、早く済ませてしまいたい気持ちのあった私は、その日の夜に通夜をしてしまえばいいと思ってた)
(でも、そうすると告別式が8日になり「友引」に当たってしまうらしい)
(そんなの気にしない!私はね・・・でも、そこは母らの常識判断に従った)
結局、その日の夜は、父を囲んで家族水入らずの仮通夜となった。
続いて、全体の内容と必要なもの不要なものをチェックした。
不要としていた「粗供養(そくよう)」と「湯灌(ゆかん)」を追加した。
(※粗供養・・・通夜や告別式に参列して下さった方への心配りの品)
(※湯灌・・・遺体を棺に納める前に拭いたりして清めること、最後のお風呂みたいなもの)
ちなみに、父の葬儀では香典を誰からも受け取らないと決めていた。
(香典返しやら、その後のお付き合いやら・・・何かと大変だからね)
だから、そのお返しになるような「粗供養」も必要ないとしていた。
でも「せっかく来て下さって手ぶらで帰ってもらうのもなんだから・・・」と、思いなおした母と弟が言った。
(いいんじゃないっすか、別に異議な~し!)
「湯灌」に関しては、どちらかと言えば私はそれを望んではいなかった。
(他人に自分の体を見られることを父は嫌がるかも知れない・・・と思っていたし)
(ガリガリ男の体に床ずれがあった頃などは、特にそう思っていた)
でも、母は最後のお風呂に入れてあげたい!父の体をきれいにしてあげたい!と強く思っていたようだ。
(これまた、異議な~し!)
それから・・・坊さんの件だ。
うちは基本、何の信仰もない。
父の実家の宗派を確認し、葬儀屋にお任せで坊さんの紹介をお願いすることにした。
(お布施の金額はお兄さんに相場を聞いてのち、それ相当に母と弟が常識範囲で決定した)
(ここまできて、私は異議な~し!異議な~し!)
(ちなみに、坊さんが読経を揚げたのは通夜・告別式・火葬場・初七日での4回)
(ちなみに、20万、告別式前に母と弟で直渡しした)
気が付くと、ゴロゴロと激しく雷が鳴り、外では強い雨風が吹き荒れていた。
まるで・・・嵐のようだった。
(お父さん、嵐を呼ぶ男っすか?)
途中、仕事先で父の訃報を聞き、慌てて帰ってきた弟の嫁が打ち合わせに合流した。
キッチリカッチリの事前見積をしていたにもかかわらず、全体の内容確認だけでもかなりの時間がかかった。
(お腹もすいてキュルキュルと音を立て出すぐらい)
(前もっての準備なしで当日に事を決めていたら、もっともっと時間もかかるし非常に疲れるだろうな・・・)
親戚への連絡、参列者の人数割り出し、締切り時間のある供花(花の御供え)と篭盛(果物の御供え)や、各種料理や貸し布団の申込み手配・・・などなど。
葬式は実に忙しい。
時間は刻々と進み流れるのだ、故人を偲んで悲しみに浸っている場合じゃなかったりする。
(なので、父を囲んで私たちだけで過ごした仮通夜という一夜があって、本当に良かったと思う)
(即、その日に通夜をしてしまっていれば、父とゆっくり・・・なんてもう二度と出来なかったこと)
父を一人にしないよう、私たちは交代で昼の食事を摂った。
葬儀屋の会館近くには幹線道路が通っていて、マクドナルドや回転寿司や24時間のコンビニなどがある。
基本的には、持ち込み禁止となっているがそれはその・・・とお兄さん。
一応見えないよう隠しながら・・・みたいな暗黙の了解。
(アリガタヤ~!なんと便利な環境でしょう)
さっそく母と弟夫婦は食事をしに回転寿司へ行き、入れ替わり私とみみかは食べられるものを買いにコンビニへ行った。
私とみみかがコンビニへ往復する間だけ嵐は止み、会館へ戻ると同時にまた雨が降り出した。
(おお、超人の魔法か!?)
母と弟夫婦は、父のそばで食事をする私たちを残し、これから必要となるものを揃えに出かけて行った。
部屋の中にいるのは、私とみみかそして父の三人だけ。
(こんな風に一緒にいるの、ホント久しぶりだね、お父さん!)
布団に横たわり微動だにしない父。
でも・・・全然違和感なく、それを受け止められる私たちがいた。
父の寝たきり状態の期間があったおかげで、布団から動かない父を普通に思える私たちがいたのだ。
(コレ・・・さっきまで元気で、さっきまで動き回っていた人だったなら、かなりキツイ!)
(なんとも不思議な父の効能を感じた)
母と弟夫婦がいない間に、私は布団に横たわる父の写真を撮った。
病院で死後処置をするポッカリ口の父の死に顔も、こっそり撮っておいた。
冷たくなった父の肌に触れることも、父の死に顔を撮影することも、私には全く抵抗なかった。
むしろ、最期の父に触れておきたかったし、写真に撮って残しておきたかった!
(だってね、ポッカリ口は愉快な認知症の父らしく、ちょっと笑えた!)
(なんだかね、父の死に顔、穏やかないい顔なんですよ、とっても!)
(しかもね、時間の経過とともにキリリとした男前に変身してるんですよ!)
(そりゃあ、撮っておかなくっちゃねえ!!)
そのうちに、母たちが戻ってきた。
母は、親戚の連絡先一式、すでに用意していた喪服と父の遺影、そして棺に収めるものをまとめた風呂敷包みを持って。
弟夫婦は、スーパーで買い出してきたお菓子や飲み物などいろいろを持ち込んだ。
私たちも一旦自宅に帰り、荷物をまとめて来なければならない。
(一体何が必要なんだか・・・ちょっと混乱、ボーッとするなあ)
なんだか大きなまあるいものに包まれ、足が地に着いていないふんわり感の中、私は家路を急いだ。
しかし、それは不安や悲しみといったもので落ち着かないという意味ではなかった。
(じゃあ、どんな意味なのか・・・言葉には表現できないけれど、悪い意味では全然ない)
我が家に向かう電車の中で、とても不思議な色合いの夕陽を見た。
それは、赤やオレンジやピンクが混ざり合い、あまり見たことのない面白くてカワイイお日様だった。
まるで、おもちゃのような、まん丸い「スーパーボール」がぽっかりと空に浮かんでいる様だった。
なんだかちょっと・・・嬉しくなった。
私はきっと、その日の夕陽のこと忘れないだろう。
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虹色アーチ/
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