愉快な認知症🇯🇵

我が家流/父から学ぶ「これでいいのだ!」人間本来の姿

始まりの種②

2009年02月21日 | 基本姿勢

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病院に着いた父は、すぐさまMRIに載せられていた。
その横の部屋からは、医師たちが交わす会話の声が漏れ聞こえてきた。
「出血・・」とか「脳内・・」とか、そんな言葉が私の耳に入ってきた。
『これはヤバイ!?』そう直感的に感じて、私は一瞬にして頭の中がパニックになり不安でいっぱいになった。
そして、脳裏に浮かんだのは父の元気な姿だった。

走馬灯のように・・とよく言うが、まさに本当にそんな風にクルクルと、私の頭の中を様々な場面での父の表情と姿が廻り過ぎた。
走馬灯の中には、私に小言を言うために大きな声で私を呼ぶ父の表情と姿もあった。
しかし、そんな鬱陶しいと思える父の姿も、この時の私には父の大切な愛しい一部分に思えた。

医師たちの会話を聞いた私は、『もしかしたら、もう父の元気な姿を見ることが出来ないのかも知れない』そう思った。
そう思うと、その父の大切な愛しい一部分と思えた表情と姿が、やたらと私の頭に浮かんでは消えた。
≪どんな父でもいい!生きていて欲しい!!≫
そんな痛切な思いと悲しみが私の心をいっぱいにした。

溢れてくる涙を抑えられない私と家族のもとに、医師がやって来てこう言った。
「ご親戚など呼んでおかれた方がいいかも知れません・・」
「・・今夜一晩が大事です」
「覚悟はしておいて下さい」

初めての体験に医師の言うまま、真夜中にもかかわらず父の兄弟姉妹に電話をかけた。
懇意にしている母方の親戚にも連絡を取り足を運んでもらった。
(今思えば・・、はるばる遠方から親戚を呼ぶほどではなかったようだ。もっと冷静に考えて行動を取るべきだったと・・・体験した後には思えるんだなあ)

説明では、左脳脳内での出血のため右半身に麻痺が残るかも知れないし、言語の分野にもかかっているので、その辺りの障害があるかも知れないとのことだった。
確かに、当初は右手を動かして食事を取ることが上手く出来なかったし、みかんを豆腐と言ったり私を自分の妹の名で呼んだり、今自分がいる場所を故郷の住所で答えたりしていた。

実際、意識無いままICUにしばらく入り、医師が「親戚を・・」と思うほど、父の脳内出血はひどかったのかも知れない。
でも、結局のところ父は一命を取り留め、病院の人たちでさえも驚くようなスピードで回復し、身体の麻痺も言語機能の低下も目立っては残らなかった。
この時、父は一度死んだのだと思う。
今後の自分(父)を通して私たちを導くように・・・と、そんな使命を生きるため、父は神様に導かれ『超人』として生まれ変わったのだと、私には思える。

≪どんな父でもいい!生きていて欲しい!!≫
あの時に沸き起こったこの感情は、私の中の「鬱陶しいと思える父の姿」をも「大切な愛しい父の一部分」だという認識に変化させた。
そして、私の悲しみいっぱいの心の中をさらに満杯にしたものは、『もっと優しくしておけばよかった!!』という身を切られるような後悔だった。

それから10年ほど、父は目立って特に障害もなく元気に過ごしていてくれた。
それに、私もまだ若く自分のことで精一杯で、刻み込んだはずの思いや気持ちを父に実践するほどの心の余裕も無かった・・。

それでも、確かに、深く刻み込まれていたあの時の後悔は、父に対する私の基本姿勢の始まりの種となっていた。
認知症の症状が出始めた頃、『後悔したくない!』という強い思いが私の中で芽吹いた。
そして、父に対してのあらゆることに『愛』を『感謝』を持って接しよう!そう思わせてくれた。

『もっと優しくしておけばよかった!!』・・・それは、自分の内にある『愛』と『感謝』を相手に表現できていなかった後悔だから・・。


始まりの種①

2009年02月20日 | 基本姿勢
20数年前、寒い冬の日が続いていたその夜、私はなかなか寝付けずにいた。
隙間から入ってくる冷たい空気に冷える肩を、温めようと私は毛布と布団を引っ張り上げ、首の周りにピッタリ包んで眠気が来るのを待っていた。

いつもなら、温まった体は遮断された冷たい空気を感じることもなく、そのうち知らぬ間に眠りに就いている。
しかし、その夜は何故だか目が冴え眠れなかった。
『なんでかな?おかしいなあ・・明日も早いのに』そんな風に思いながら、私は何度も寝返りを打っては睡魔の到来を待っていた。

すると、下から階段を上って来る足音がして、母が慌てて私の部屋に入ってきた。
驚いて「どうしたん?」と聞くと、「お父さんの様子がちょっと変やねん・・・」と母は不安げに答えた。
「何が変なん?・・」と聞き返す私に、「横で寝ているお父さんの体が、ピクッピクッって鈴が鳴るように何度も突っ張るねん」と、母。
なんのこっちゃ?よく分からないまま、私は階段を下りて父と母が寝ている部屋へ向かった。

部屋を覗くと、父は布団の上に座った状態でこちらを見た。
私には、その顔の半分が強張って歪んでいるように見えた。
父の話す言葉も、どうやらろれつが回っていない様子。

母が言うには、最近飲んでいなかったお酒を、今夜は久しぶりに飲んで眠りに就いたらしい。
しかも、頂きもののお酒で普段は飲まない種類のものだったらしい。
確かに、父の飲み残したお酒の臭いが、台所の流しからプンプンと漂っていた。
母が言う、「急性アルコール中毒?」。

いくら久しぶりとは言え、それまで毎晩晩酌をしていた父だ、そんなことで中毒になるほど柔ではない気がした。
ろれつが回っていないのも、お酒の酔いのせいではない気がした。
何よりも・・歪んだ顔つきが不自然だった。

なんだかんだと思案中の母と私の横を、ゆっくりとした足取りで通り過ぎ、トイレに向かい用を足す父。
トイレから出てきた後も、自分の布団に自力で戻り何事も無かったように座った。

しかし、やはり顔がオカシイ・・。
どちらかと言うと、普段からイケテナイ顔面(かおづら)の父ではあるが、顔が歪んで更にイケテナイ不細工なお顔に見える。
それに・・、喋り方もやっぱりオカシイ。
これもどちらかと言うと、普段から言葉巧みに流暢な喋り方をするわけではない父だが、明らかにろれつの回らない異様な喋り方になっている。

『このまま様子を見る・・じゃダメだ!』そう直感的に私は思った。
母に「このままじゃ埒が明かんから、救急車呼ぶわ!」と言って、すぐさま119番で救急車を呼んだ。
父の様子と家の住所を知らせて電話を切り、救急車の到着を待った。

その間も、ろれつの回らない口調で父は何かを喋っていた。(おそらく救急車を呼んだことへの小言らしきもの・・)
しかし、救急車が到着した時には、父は誘導されるまま大人しく車に乗った。
そして、中のベッドに横たわり、いつしか静かに父は眠りに入っていった。
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愉快な認知症のネーミング

2009年02月06日 | 基本姿勢
【愉快な認知症】という、このネーミングのきっかけ。

(ブログ【神子屋教育】 2007.05.19掲載文から)
~ 現在、認知症の父はお金の価値もよく分からなくなり計算も出来なくなって、一人で電車に乗ることが出来ません。
だから、みみかのいるこちら(我が家)に来たいと思っても、一人ではままならない状態なのです。

一人で電車に乗ることがかろうじて出来ていた頃も、違う路線の電車に乗ってしまい引き返したり、切符をどこへやったのか分からなくなったり。
家を出発して、かなりの時間が経ってからようやくこちらに到着したり、私たちが以前住んでいた駅に降りてしまい、そこから歩いて来たために全く違う方向から辿り着いたり。
最寄の駅員さんには連日ご心配をいろいろとお掛けしたりで、父にとって一人で電車に乗るという行動自体が、かなりプレッシャーとなり不安やストレスを感じることになっていたようでした。

今は、母や私たちが一緒に動けるときにしか、父は買物するためのお店に行ったり遠出したりすることが出来ません。
そんな父にとってのお出かけは、何よりの喜びのようで、外出すると父はニコニコ笑顔になります。
それに、大好きな母と一緒だということが、父には一番ご機嫌なことなのです。

実家から持ち帰る荷物がたくさんあったので、キャスタ-付きのかばんに荷物をパンパンに詰め込み、それ以外のものもリュックや手提げかばんに分けて、さあみんなで我が家へと出発です。

父にとって荷物運びなどの力仕事は、唯一自分に出来る自慢の仕事なので、こういった場面では必ず張り切る父の姿があります。
スーパーからの買物の帰りなども、全部自分が持とうとします。

その日は、背中にはリュックを背負い、キャスター付きのかばんの上にかばんを更にもう一つ載せ、ゴロゴロ音を立てながら地面を突き進む父がおりました。
傘を背中に背負えば『裸の大将』のようです。(父の体型はとってもスリムですが・・)

途中で母が「一足先にパン屋さんに寄って買物を済ませてくる」と言い、早足でお店に向かって行きました。
すると、【ガーッ!ゴロゴロゴロゴロゴロゴロッ!】と、けたたましく地面を鳴らす音が辺りに響きます。
父が慌てて母の歩調に合わせ、キャスター付きのかばんを引きずって行くのが見えます。
そのわずか前に、けたたましいその音を背中に聞きながら、『プーっ!』と笑いをこらえる母の姿も見えました。

振り返った母は、父に一言二言語りかけ、また先を急ぎ始めました。
すると、また、【ガーッ!ゴロゴロゴロゴロゴロゴロッ!】と、父はキャスター付きかばんを音を立てながら引きずり、必死に母の後を付いて行こうとします。
その様子を後方で見ていた私とみみかは、『プーっ!』と吹き出してしまいました。

父のところへ追いつき、私とみみかが説明して、父を母とは違う方向へと促しました。
すると、キャスター付きのかばんの音は、さっきとは打って変わり【ゴロ・・ゴロ・・ゴロ・・】とおとなしい響きになり、まるで父の『ショボン心』を表現しているかのようでした。
これにも私とみみかは顔を見合わせ、再度『プーっ!』と大笑いしたのでした。

とぼとぼ歩きながら立ち止まっては振り返り、父は何度も母の姿を探します。
やがて、私たちの方へやって来る母の姿が見えた父は、嬉しそうに「来た来た!」と言って足を止め母を待ちます。
その顔は本当に嬉しそうで、母を待つ純粋無垢な子供のようでした。 ~

この時の父の行動と表情が、何とも愛らしく微笑ましく『愉快なやっちゃのぉ~!』そう私に思わせたのでした。
この辺りから私は、この『愉快さ』を今そのままの父の個性として受け止め、今までよりも更に光明思考・光明姿勢で接していこうと心がけるようになっていったのです。


関係性を超えて②

2009年02月05日 | 基本姿勢
ある時、テレビで痴呆症(当時の呼び方)・アルツハイマーの症状のある外人女性の番組を見た。
その女性はまだ若かったが、日に日にいろんなことを『忘れて』いった。
最初は些細なことだったが、それは段々とひどくなり、料理の手順、野菜の切り方、今日は何曜日なのか、昨日は何をしたのか、さっき何をしたのか、次は何をしなければいけないのか・・・、ついに彼女は一人では何も生活出来なくなってしまった。

幸いなことに、彼女のそばには温かく彼女を見守る夫がおり、そして自分の気持ちを人に伝えるという彼女の機能だけは、他の機能に比べて低下していかなかった。
だから、彼女は痴呆症・アルツハイマーの症状を持つ立場から、周りの人たちにどのように接してもらいたいのか、どのように考えてもらいたいかを知ってもらいたいと、自分自身の言葉を通して語っていた。

● 症状を問題行動と捉えず、それに見合った適応行動に変えていってあげること。
● 【生活】することを重視し、病気という観念に焦点を合わさない。
● 本人の負担(不安)を軽減してあげることを心がける。
こんな感じだったと思うが、私には大いに役に立った。

普通からすればおかしいと見える父の行動を見ても、「それはおかしい」と言わないよう心がけられたし、父が取った行動をそのまま生かすことを試みようと思えた。
要は、彼のその時の個性として、そのままを否定しない・拒否しないことが大事だと思った。
こちらが「おかしい」と言えば本人は不安になる、自分はおかしいのか・・・と。
それに、注意して咎めて責め立てて治るものでは決してないし、本人は良かれと思ってやっていることが多く、それ以外の意図的意志はないのだから・・。

番組を見終わると、私を変える大きな気付きが浮かんできた。
【死を迎えるその時に、自分を思いやり愛してくれている温かい存在が、自分のそばに自分の目の前にいてくれる。そう感じることが出来たなら、彼は/彼女は救われ旅立てる。
妻である、夫である、娘である、息子であるという関係性を超え、一人の人間として私は彼に対して存在すればいい】

やっと分かったことがあった。
私が父を受け入れられなかった恐れの正体、私が父に優しく接することの出来なかった不安の正体。
それは、【父がいつか私のことを『自分の娘』だと分からなくなってしまうのではないだろうか】、そんな心の奥底にある恐れと不安の思いだったのだ。

父の症状を目にするたび、この先いつか私のことが分からなくなってしまうのではないか・・、そんな父を私はちゃんと受け入れることが出来るだろうか・・。
あんなにシャキシャキしていたあの父が私のことさえ分からなくなってしまう、そんな父を前に、私は娘としてどうやって接すればいいのだろう・・・と。

有り難いことにこの気付きのお陰で、私はそんな恐れや不安からすっかり解放されていた。
たとえ、父が私を『自分の娘』だと認識出来なくなっていたとしても、(死を迎えるその時だけでなく)いつでも、私は娘としてではなく一人の人間として、父を愛せばいいのだと分かったから。
父、娘という関係性を超えて、彼という『存在』に対して私という『存在』が、ただただ『愛しています』『ありがとう』、そう心から伝えればいいのだと思えたから。

結局の問題は、私がどんな態度でいられるのか、どんな姿勢で臨めるのか、ただそれだけのことだった。 ~


関係性を超えて①

2009年02月04日 | 基本姿勢
父の認知症に対する、私の原点の文章。

(ブログ【神子屋教育】 2007.05.20掲載文から)
~ 父の症状がポツリポツリと出だしたのが、かれこれ10年ほど前・・。
思い返すと、あの頃の私には変わっていく父を受け入れることが難しかった。
昔の父じゃない・・!
昔の父はあんなでこんなで・・と、頭の中で昔の父と比較しては悲しくて切なくて辛かった。

昔の父ではない、今ある現実の父の症状が出るたび、悲しくなって一人泣いていることが多かった。
この先父はどうなってしまうのだろう?と、不安にかられることがよくあった。
心動揺するあの頃の私は、変わっていく父に対して優しく接するということが出来ずにいた。
自分の意志でそうなってしまうことを選んでいるわけではない父の行動を、咎めたり責めたりする自分自身を最後にはいつも責めていた・・。

何故もっと優しく出来ないのだろう?
何故もっと愛を持って接してあげられないのだろう?
どうして、私は父の表面的な部分しか見ることが出来ないのだろう?

私には本質的なものを見る力がない・・・。
誰に対しても、どこにいても、何があっても、奥底の本物を見ていたい!
だって、それしかないのだから!!
『私が変わらなきゃ!』
そう、自問自答する毎日だった。  

その頃、私は夢をみた。
同じ年代の男性たちからいろんなことを言われいじめられて、上手く言葉が出なくて言い返せず、泣きながら母に助けを求めていく父の姿の夢だった。
夢の中の父は子供のように無防備で、でも入れ歯をガクガクさせたすごく年寄りで、とても弱々しく泣きじゃくっているだけだった。
本当に本当に悲しかった・・夢を見ながら私は泣いていた。

でも、この夢をみた日から、私は変わっていく父を必死に受け入れようとしてきた気がする。
夢の中のような父が、いつか本当に私の目の前に現れたとしても、夢の中のような悲しい気持ちには絶対なりたくなかった。
【生きているだけで価値がある!】そのままありのままの父を愛したかった、受け入れたかった。