胃瘻(いろう)も回避し、口から食事が採れるようになって元気になった父。
医療行為が必要なくなったとき、父は今の病院を退院せねばならなくなる。
普通の状態であれば(と言っても、認知症だけどねえ~)、もちろん父が帰る場所は長年住み慣れた「父の家」である。
しかし、寝たきりの四肢不自由で、オムツ替えやお風呂の介護がそれまで以上に必要になった父が帰る場所・・・。
この時点で、母の表面的な意識は「どこかの施設に入れるしかない」だった。
(内面ではもちろんいろいろあるわけで・・・)
自宅介護にこだわる私とて、寝たきり状態にある父を、(仮に母が看る気持ちがあっても)母が一人で看ることは非常に難しいと思えた。
私とみみかが手伝うには距離的にも時間的にも限界があり、満足のいく納得できる介護は到底無理だろう。
それは頭で分かっていても、どうしても『施設』はイヤだ!
父を『施設』に寝たきりにするなんて、絶対にイヤだ~!
そう、叫ぶ私がいる。
どうにかならないものか!?
訪問介護を利用して、父を自宅で看ることは出来ないのだろうか・・・?
退院しての「生活」をただ寝たきり状態で過ごすのではなく、「家」という空間と時間の中で、家族と一緒に過ごすことは出来ないのだろか?
たとえ寝たきりでも、「家」で家族と共に過ごす共通の時間は、本当の意味での「生活」の一部として厚みのある生きた時間のような気がする・・・。
きっと、それこそが「暮らし」なのだろう。
ふっと、思った。
父の認識が低下した今だから、母じゃなくともよくなったのだ。
「家」に対する執着も認識も、今はもう父には無いかもしれない。
それなら、実家である必要も無いかもしれない!
私とみみかのいる「我が家」でも構わないのかも知れない!?
元々「我が家」は父のための「家」でもあったのだ。
(神子屋教育の場/我が家①②③参照)
そうだ!そうしよう!
「我が家」で父を看よう!
母でなくとも実家でなくともいいのなら、私とみみかが父と一緒に暮らせばいい!
そう思うやいなや、私の口元は緩んでなんだかちょっと嬉しくなった。
浮かんできた自分の考えに、心の中が踊っているように私は感じた。
父がいる生活を思い浮かべると、とても楽しい気分になった。
私の中の「ドヨヨ~ン曇り空」がすっかり晴れて光が差したわけでは無かったが、雲の厚みがほんの少しでも薄くなったように感じた。
みみかに話すと、みみかも「じいじおったら楽しそう!」と乗り気だった。
母にとってもいいかも知れない。
実は、祖母(母の母)が90歳を超え、田舎で一人暮らしをしている。
その祖母が認知症らしき症状が出てきていて、心細くなっては一人娘の母に「来て欲しい」と寂しがるのだ。
以前、母は認知症の父を引き連れ、田舎で父と祖母の二人を看ていた時期があった。
今度田舎へ行くときは父がポックリ逝ってから・・・などと笑い話(でも、けっこう本気!)で思っていたらしいが、実際の父にはどうやらそんなシナリオは持ち合わせていなかったようだ。
私とみみかが父を看ていれば、母も施設に預けるのとは違った安心感があるかも知れない。
田舎の祖母の顔を見に行くことが出来るかも知れない。
母に話してみよう!
父がいる生活かあ~!
なんだか楽しみになってきた~!
医療行為が必要なくなったとき、父は今の病院を退院せねばならなくなる。
普通の状態であれば(と言っても、認知症だけどねえ~)、もちろん父が帰る場所は長年住み慣れた「父の家」である。
しかし、寝たきりの四肢不自由で、オムツ替えやお風呂の介護がそれまで以上に必要になった父が帰る場所・・・。
この時点で、母の表面的な意識は「どこかの施設に入れるしかない」だった。
(内面ではもちろんいろいろあるわけで・・・)
自宅介護にこだわる私とて、寝たきり状態にある父を、(仮に母が看る気持ちがあっても)母が一人で看ることは非常に難しいと思えた。
私とみみかが手伝うには距離的にも時間的にも限界があり、満足のいく納得できる介護は到底無理だろう。
それは頭で分かっていても、どうしても『施設』はイヤだ!
父を『施設』に寝たきりにするなんて、絶対にイヤだ~!
そう、叫ぶ私がいる。
どうにかならないものか!?
訪問介護を利用して、父を自宅で看ることは出来ないのだろうか・・・?
退院しての「生活」をただ寝たきり状態で過ごすのではなく、「家」という空間と時間の中で、家族と一緒に過ごすことは出来ないのだろか?
たとえ寝たきりでも、「家」で家族と共に過ごす共通の時間は、本当の意味での「生活」の一部として厚みのある生きた時間のような気がする・・・。
きっと、それこそが「暮らし」なのだろう。
ふっと、思った。
父の認識が低下した今だから、母じゃなくともよくなったのだ。
「家」に対する執着も認識も、今はもう父には無いかもしれない。
それなら、実家である必要も無いかもしれない!
私とみみかのいる「我が家」でも構わないのかも知れない!?
元々「我が家」は父のための「家」でもあったのだ。
(神子屋教育の場/我が家①②③参照)
そうだ!そうしよう!
「我が家」で父を看よう!
母でなくとも実家でなくともいいのなら、私とみみかが父と一緒に暮らせばいい!
そう思うやいなや、私の口元は緩んでなんだかちょっと嬉しくなった。
浮かんできた自分の考えに、心の中が踊っているように私は感じた。
父がいる生活を思い浮かべると、とても楽しい気分になった。
私の中の「ドヨヨ~ン曇り空」がすっかり晴れて光が差したわけでは無かったが、雲の厚みがほんの少しでも薄くなったように感じた。
みみかに話すと、みみかも「じいじおったら楽しそう!」と乗り気だった。
母にとってもいいかも知れない。
実は、祖母(母の母)が90歳を超え、田舎で一人暮らしをしている。
その祖母が認知症らしき症状が出てきていて、心細くなっては一人娘の母に「来て欲しい」と寂しがるのだ。
以前、母は認知症の父を引き連れ、田舎で父と祖母の二人を看ていた時期があった。
今度田舎へ行くときは父がポックリ逝ってから・・・などと笑い話(でも、けっこう本気!)で思っていたらしいが、実際の父にはどうやらそんなシナリオは持ち合わせていなかったようだ。
私とみみかが父を看ていれば、母も施設に預けるのとは違った安心感があるかも知れない。
田舎の祖母の顔を見に行くことが出来るかも知れない。
母に話してみよう!
父がいる生活かあ~!
なんだか楽しみになってきた~!