愉快な認知症🇯🇵

我が家流/父から学ぶ「これでいいのだ!」人間本来の姿

愉快な認知症の父、死す!?/100日目に浮かんだ思い

2012年01月04日 | 心模様
胃瘻(いろう)も回避し、口から食事が採れるようになって元気になった父。
医療行為が必要なくなったとき、父は今の病院を退院せねばならなくなる。
普通の状態であれば(と言っても、認知症だけどねえ~)、もちろん父が帰る場所は長年住み慣れた「父の家」である。

しかし、寝たきりの四肢不自由で、オムツ替えやお風呂の介護がそれまで以上に必要になった父が帰る場所・・・。
この時点で、母の表面的な意識は「どこかの施設に入れるしかない」だった。
(内面ではもちろんいろいろあるわけで・・・)

自宅介護にこだわる私とて、寝たきり状態にある父を、(仮に母が看る気持ちがあっても)母が一人で看ることは非常に難しいと思えた。
私とみみかが手伝うには距離的にも時間的にも限界があり、満足のいく納得できる介護は到底無理だろう。

それは頭で分かっていても、どうしても『施設』はイヤだ!
父を『施設』に寝たきりにするなんて、絶対にイヤだ~!
そう、叫ぶ私がいる。

どうにかならないものか!?
訪問介護を利用して、父を自宅で看ることは出来ないのだろうか・・・?
退院しての「生活」をただ寝たきり状態で過ごすのではなく、「家」という空間と時間の中で、家族と一緒に過ごすことは出来ないのだろか?

たとえ寝たきりでも、「家」で家族と共に過ごす共通の時間は、本当の意味での「生活」の一部として厚みのある生きた時間のような気がする・・・。
きっと、それこそが「暮らし」なのだろう。

ふっと、思った。
父の認識が低下した今だから、母じゃなくともよくなったのだ。
「家」に対する執着も認識も、今はもう父には無いかもしれない。

それなら、実家である必要も無いかもしれない!
私とみみかのいる「我が家」でも構わないのかも知れない!?
元々「我が家」は父のための「家」でもあったのだ。
神子屋教育の場/我が家①②③参照)

そうだ!そうしよう!
「我が家」で父を看よう!
母でなくとも実家でなくともいいのなら、私とみみかが父と一緒に暮らせばいい!

そう思うやいなや、私の口元は緩んでなんだかちょっと嬉しくなった。
浮かんできた自分の考えに、心の中が踊っているように私は感じた。
父がいる生活を思い浮かべると、とても楽しい気分になった。
私の中の「ドヨヨ~ン曇り空」がすっかり晴れて光が差したわけでは無かったが、雲の厚みがほんの少しでも薄くなったように感じた。

みみかに話すと、みみかも「じいじおったら楽しそう!」と乗り気だった。

母にとってもいいかも知れない。
実は、祖母(母の母)が90歳を超え、田舎で一人暮らしをしている。
その祖母が認知症らしき症状が出てきていて、心細くなっては一人娘の母に「来て欲しい」と寂しがるのだ。
以前、母は認知症の父を引き連れ、田舎で父と祖母の二人を看ていた時期があった。

今度田舎へ行くときは父がポックリ逝ってから・・・などと笑い話(でも、けっこう本気!)で思っていたらしいが、実際の父にはどうやらそんなシナリオは持ち合わせていなかったようだ。

私とみみかが父を看ていれば、母も施設に預けるのとは違った安心感があるかも知れない。
田舎の祖母の顔を見に行くことが出来るかも知れない。

母に話してみよう!
父がいる生活かあ~!
なんだか楽しみになってきた~!

愉快な認知症の父、死す!?/父が与えた自由

2011年12月02日 | 心模様
私たちへの父の認識に暗雲が立ち込めてきた・・・。
悲しいやら寂しいやら切ないやらの複雑な思いはあるが、しかし一方で私は思った。
父の認識が無くなることは、父が母に与えた自由なのではないだろうか・・・と。

母にしか出来なかった父への対応、そういったことからの解放。
そして、与えられた母の自由な時間と行動。

最近の母を見ているとそう思う。
父は母を解放し自由を与えたのだと・・・。

自由とは愛である。
愛とは自由である
最後に残るのは「無償の愛」である。

人間、最終的な魂の目的は「本当の愛」を知る・・・だと私は思っている。
「愛こそ全て」だとも。

認知症になった父はとてもピュアだった。
ピュアな父に対して、私たちは見返りを求めない愛をあらわす以外なかった。
認知症になることで、父は私たちの「無償の愛」を引き出してくれていた気がする。

それに、ピュアだった父自身、私たちに対して見返りなんぞ何も求めてはいなかった。
今もそうだ・・・。
父は、母に、私たちに「無償の愛」で存在してくれている。

そうか!
そうだったのか!
私たちに対する認識が無い父は、「無償の愛」そのものだったのか!!

愉快な認知症の父、死す!?/ドヨヨ~ンの曇り空

2011年10月23日 | 心模様
父がデイケア施設から救急搬送されたあの日、あれから3ヶ月が過ぎた。

このブログ更新も1ヶ月滞ってしまった。
滞った理由は、秋晴れの中、我が家の自然農畑の農作業に追われていたこともある。
だけど、ほんとの理由はそれだけじゃない。
秋晴れとは対照的に、私の心の中はドヨヨ~ンの曇り空なのだ。

父の現状を言うと、「元気」である。
担当医も驚きを口にするほど、首を上げようとしたり手足を動かしたり、ベッドの中で一人運動会を開催している。
相変わらずのチューブ食だが、口からはゼリーを食べさせてもらえるまでになった。
肉体的な「死」という領域から遠ざかり、「元気」に(ベッド上で)動いていると言える状態になったのだ。

しかし・・・父の肉体的な「元気」に反比例するかのように、父の私たちに対する「認識」が急降下した。
父の状態を伝えてくれる母が、口を開けば必ず言うようになった。
「『お母さんよ、お母さんよ』って声かけるけど、あんまり反応無いわあ」・・・と。
それに、父の顔から笑顔が消えた。
いわゆる無表情。(痰吸引などで苦しかったり痛がったりの、嫌だという表情はあるけどね・・・)

最初のうちは、「ふーん」とか「そうなん」とか母の言葉を何気にかわしていた。
けれど、日が経つにつれ、なんとも言えない「ドヨヨ~ン曇」が、私の心の中を覆っていることに気が付いた。
母の繰り返す言葉が、私の心の中の「ドヨヨ~ン曇」を重く厚くした。
その言葉を聞きたくない・・・、そんな父を見たくない・・・、潜在的にそう思うようになっていた。

現に、2週間近く私は父に会いに行っていない。
みみかは早々からそれ(父の認識)に気付いていたのか、「じいじに会いに行くのいらんなあ」と以前から言っていた。

私にとって、質は違うが「父の死」と同じくらい、大きな壁が目の前に立ちふさがった感じがした。
自分が感じている感情をどうコントロールしたらいいのか、それがどこから来るものなのか、どう処理したらいいのか分からなかった。
何をしていても、常に私の心の中はドヨヨ~ンの曇り空だった。

無表情で声も発しない父。
母の言うように、私たちに対する認識が無いような父。
それがとても切なくて悲しくて、その事を考えると気分が悪くなった。
「父の死」とはまた違う、何と言えない気持ちが私を翻弄した。

認知症であっても反応してくれるお茶目な父をやたらと思い出す。
チンプンカンな反応であっても、それなりのコミュニケーションが通っていたころの父を、やたらと思い出してしまう。
あんな表情を・・・あんな反応を・・・あのころのコミュニケーションを取れなくなったことが、このところすっごく悲しくて仕方がない。
私のことを分かってるうちに逝って欲しかったとさえ思う・・・。

「長期戦」になるかも知れないこれから、父のことをどう思ったらいいのだろう。
相手に認識がない・・・ってのは、なかなか辛い。
またもや私は、自分のうちに確立したと思っていた対応が、感情的側面からそれを表現できないでいる自分に直面している。
実際に、自分のこととして実体験しなければ味わえない諸々の心模様。

「私たちに対する父の認識」の変化・・・。
私はこれを明らかに受け入れられずにいる。


【生きているだけで価値がある!】
そのままありのままの父を愛したかった、受け入れたかった。 → 関係性を超えて1・夢の中の父

父の認知症に対する私の原点。
そう思えた私だったのに・・・。

【死を迎えるその時に、自分を思いやり愛してくれている温かい存在が、自分のそばに自分の目の前にいてくれる。そう感じることが出来たなら、彼は/彼女は救われ旅立てる。妻である、夫である、娘である、息子であるという関係性を超え、一人の人間として私は彼(父)に対して存在すればいい】 → 関係性を超えて2・恐れと不安

結局の問題は、自分がどんな態度でいられるのか、どんな姿勢で臨めるのか。
ただそれだけのことと、私は解ったつもりでいたのに・・・。


「私のことを認識していない父」が、私の目の前に存在している。
このことを、私はどのように観察し、分析し、実践するのだろう?
なにせ、父の認知症の始まり当時、私はこのことを一番に恐れていたのだから・・・。

ドヨヨ~ンの曇り空、いつかはきっと晴れるだろうか?

私が出来ること

2009年02月22日 | 心模様
私が父に対して出来ることのなかで、これだけはどうしても手抜きが出来ないという事柄が一つある。
それが『料理』である。

今でこそ、一通りの家事が出来るようになった私だが、かつての私は本当に何も出来ない人だった。
特に、料理に関してはほとんど興味が無かったし好きでもなかった。
どちらかと言うと苦痛で、自分から好んですることはほとんど無かった。
母の体調が悪いときでさえ、自分から進んで料理をした記憶が無い。
(今となっては大変申し訳なく思っていますです・・・ハイ。)

何も出来ないそんな私が20代前半に結婚をした。
これで料理の腕も上がるかと思いきや、結婚した旦那様は好き嫌いの多い偏食者で、私の数えるほどのレパートリーでクルクル毎日をこなせ、「納豆さえあれば十分!」という納豆好きな人だった。
わざわざ旦那様のためにと作った新たなメニューも、(彼にとって)余計なものを入れたり余計な手を加えたりすると、とても嫌がられた。

そんな「毎日納豆でもいい!」的な好き嫌いの多い偏食者の彼に対して、当時の私の料理技術では、到底彼の口に合うような気の効いたものなど作れるはずもなかった。
それに、(栄養満点の)納豆さえあればそれで良いわけで、固定されたレパートリーの数以上の必要もない!・・とくれば当然の結果、料理に興味を持つ必要の無い環境である、私の料理の腕も上がるはずはなかった。

独身時代も結婚時代も含め、そんな料理の腕しかない私が、たまに実家で食事を作ることがあった。
(半分は致し方なくの嫌々だったが・・・。)

そんな時「何が食べたい?」と、私が父にリクエストを募ると、父は必ずこう答えた。
『なーんでもいい!』『作ってくれるものは、なーんでも美味しい!』と。
普段から人にお世辞を言ったり、人をおだてたりする事のない父には珍しく、この時ばかりはとても前向き(?)な発言だった。
過去数回同じことを聞いたが、私の記憶に残る限り、父は毎回同じことしか私に言わなかった。

数少ない娘の手料理に、父は飢えていたのか・・!?
はたまた、料理を苦手とする私に対する気休めだったのか・・!?
しかし、こう言われるたび、私はなんだか気恥ずかしさを感じつつも、心の中ではちょっと嬉しくもあった(みたいだ)。

それを証拠に、父に対して食事を作るたび、あの時の『なーんでもいい!』『作ってくれるものは、なーんでも美味しい!』と言ってくれた父を、今になっても必ず思い出す。
そして、あの頃の父には食べさせてあげられなかった『美味しい手料理』を作ってあげたい!と、心の底から思うのだった。

あの当時、苦手意識いっぱいで嫌々作っていた私の手料理・・・そして。
今も決して『得意』とは言えないけれど、みみかの存在と不殺生菜食の取り組みのおかげで、何とかそれなりに楽しく美味しく料理が出来るようになった、今の私の手料理。
きっと、さぞかし、間違いなく、お味も違うことでしょう!
何と言っても、父に対する思いの入った今の私の手料理は、過去のもののそれとは雲泥の差でしょうから。

私の手料理を口に運ぶ父に「美味しい?」と尋ねると、『ウーン!』と大きくうなずいて美味しいよ!という笑みを浮かべる。
ちゃんとした言葉が出なくなった父ではあるが、言葉にすれば『なーんでもいい!』『作ってくれるものは、なーんでも美味しい!』こう言ってくれているに違いない、きっと。

今日は疲れているからちょっと手を抜こうと頭で考えても、心があの時の父の言葉と父の表情を思い出し、『あの時の父に報いたい!』『私が出来る唯一のことをしてあげたい!』そう思ってしまう私がいる。
ゆえに、父の食事を作る際の料理には、絶対に手抜きが出来ない私なのである。


『哀しい気持ち』と『違和感』と『無償の愛』

2009年02月19日 | 心模様
父の果てしない『物欲』に対抗するため、試行錯誤で対応してきた数々の作戦・・。
その後、相変わらずの『物欲』を顕にしていた父に対し、本当に無くなっては困るものや大事なものを、各自の自己管理の徹底の元、ある程度の放任で父の遊び場として範囲を広げ提供し、父の『物欲』への対抗処置を緩和してみた。

すると、マインドコントロール的な表情の父は姿を消したが、『自分の物は自分の物・人の物も自分の物』という子供らしい『物欲』は、やはり変わらずそのままだった。
父の手によって本棚から取り出された大小様々な本が、どんぐりを口いっぱいに頬張るリスのように、父の衣類のポケットというポケットに次から次にとパンパンに詰め込まれた。
その姿には、苦笑するも思わず吹き出してしまえる滑稽さがあった。

ズボンのポケットいっぱいに詰め込まれたどんぐり・・いやいや本たちの重みで、ずり落ちてくるズボンを指差して、母に苦情を訴える父。
『このズボン、ゆるいぞ!落ちてくるぞ!』と言葉にはならないが、父から伝わる怒りのお姿に、『そりゃあ~、お父様!そんだけ沢山詰め込んだら、ゴムの力もかないまへん!』と、心の中でツッコム私。

ある種の滑稽さと明るさ(?)を取り戻した父の姿に、ちょっと安堵な気持ちの私ではありましたが、正直なところ、常に私の心の中にあったのは・・・『哀しい気持ち』と『違和感』なのでありました。
父の行動に対抗・対応・対処するたびに、いつも心に残る後味悪い気持ちと違和感。

本当のところ・・・。
どうしてあげたらいいのか?
本当にこの対処の方法でいいのか?
【父に対して、一番いい対応の仕方が分からない!】
そんな気持ちが溢れ出してきて、悲しくて、淋しくて、切なくて、なんとも言えない『哀しい気持ち』が心に充満し、どうしたらいいのか/これでいいのか『分からない』という『違和感』が、私の心にいつまでも残り後を引いていた。

私の目の前に現れる、子供のような父。
そんな父の遊びたい思いや『物欲』からの行動を、【満足させてあげたい!満たしてあげたい!】というのがホントのところ、私の奥底の本音だった。
しかし、私の本音を生かそうと思えば、必ず絶対、何かしらの支障が出る。
父の子供のような『物欲』に振り回され、家の中では宝探しの連続になり、かくれんぼの延長になり、昼夜逆転に動き回る超人の父に、家族は疲れ果てることだろう。

対応の仕方が『分からない』という『違和感』は、私が取っている父に対する対処法や行動が、私の本音とは違うことをしなければならない『違和感』であり、それを感じながらしている行為が本当に正しいことなのか『分からない』ということでもあった。
だって、私は自分の本音をちゃんと『分かっている』のだから・・。
それに矛盾したことをしているのだから、『違和感』を感じるのは当然だった。

結局のところ、そういう本音がありながら、私が取る対処法や行動は、父の目に触れないよう物を隠したり、あらかじめの思惑で父の行動を阻止したりするしかなかったのだ。
そしてそれは、本音とは明らかに矛盾した正反対の対処法や行動を取ることになるしかなかった。
私の本音を生かしつつ、父にとっても周りにとっても一番いい方法、そんな良い方法は本当に無いのだろうか?

対応の仕方が『分からない』という『違和感』は、私の心を重くした。
そして何よりも、自分の本音と矛盾したことを敢えてしなければならないことで感じる『哀しい気持ち』の方が、はるかに重く私の心を締めつけた。

それに、連日の父の行動に若干疲れ気味になると、無意識に意地悪心が出てくることもある。
例えば:【夜中に目覚めてしまい活動を始める父に】
暗いので、電気を点けてあげよう。
寒いので、ストーブを点けてあげよう。
眠れないなら、一緒に起きて共に時間を過ごしてあげよう。
と、言うのが奥底の本音。

でもね:【実際やりがちな対処法と行動は】
まだ暗いのに~!と→ 寝たふり。
もう寒いやん!と→ 布団の中。
まだ早いし寒いし普通は寝てる時間やし~!と→ 起きない。
とまあ、常識枠を超えられない私は、八つ当たり的な態度で父に対応することも多々あったりする。

そういった奥底の本音とは違う【優しくない態度】を取って傷付けるのは、父ではなく私自身なのだ。
奥底のもっと奥底の私が言う、「課題は『無償の愛』だよ」と。

だけど、どうしたらいいの?
うん、それは、目下のところ模索中で分からないけれど。
父は私の『無償の愛』を引き出してくれる存在なのだ・・きっと。
それだけは『分かる』、それだけは『違和感』無く感じている、今日この頃である。