ではでは、認知症でなかった頃の昔の元気な父だったならば、一体どうだったろうか?
正義感のある人であったし、「優しさ」や「温かさ」を持ち合わせてもいた。
「誠実さ」や「真面目さ」もそれなり強かったと思う。
そして「純粋さ」も・・・きっとそれなりにあった。
でもそれは、今の父とは違って、「金が土台」の上で自営し商売をしていた頃の父から表現されたものだ。
自営業の面白さや商売の楽しさなど、「金(経済)」を土台とした「金儲けという遊び」を体験していた父が、その頃に持ち合わせていたものなのである。
今のように「愛が土台」とした上で表現される父の正義感、「優しさ」や「温かさ」、「誠実さ」や「真面目さ」そして「純粋さ」といった内容は、土台自体がまったく別物であるがゆえに全然変わってくるだろう・・・。
その頃の父にとっての「愛」は、おそらく「無償の愛」ではなく「見返りの愛」に近かっただろう。
「金(経済)」を土台としている以上、対価を求めること、報酬、経済をまわすことなど、その土台作りに関わることにはなんら疑問も持たず、異議を唱えることなども決してなかったかも知れない。
だって、それが『アタリマエ』の世界なのだから・・・。
認知症になった父はピュアになった。
ピュアになった父の中で、お金の概念と認識は消えていった。
ある意味・・・認知症になったお陰で、父はお金の概念や認識を手放すことが出来たのかも知れない。
お金の概念や認識のなくなった父には、「金が土台」である世界を生きる必要がなくなったのだ。
「愛」のために働き、「愛」のために生き(生活し)、「愛」を表現するための「愛が土台」の世界に、今父は(存在して)いる。
「無償の愛」そのものの姿で。(参照:→愉快な認知症の父死す!?/父が与えた自由)
人間本来の姿・・・「愛」なんだ!
いや、むしろ、逆の言い方が正しいのかも知れない。
人間本来の姿は「愛」だからこそ、父はお金の概念や認識を捨て、「金が土台」の上を生きるのをやめたのだ。
「金が土台」の世界を生きる限り、必然的に「金」のために働き、「金」のために生きる(生活する)ことになる。
どうあがいても、土台がそうである限り「金」に関わらないと生きて行けない仕組み・システムになっている。
これは対価を求める世界であり、報酬を要求する世界であり、見返りを期待し土台とする世界だ。
「金が土台」の世界の上に「愛」を表現することは、本質的には不可能なのだ。
「愛」とは無償であり、見返りを求めない世界であり、そのままの姿で存在することだから。
父はこのことを、ちゃんと選択したのだと思う。
「愛」という姿でいる(存在する)ことを。
究極のところ・・・
「金が土台」だと、本来の人間の姿である「愛」ではいられない。
「愛が土台」だと、そのままの存在である「愛」でいられる。
・・・・・と言うことは、
「金が土台」だと「愛」でいられないから、わざわざ認知症になる。
「愛が土台」だとそのままでいられるから、認知症になる必要はない。
・・・・・とも言える。
「金が土台」のこの世界に「愛」は無いのだろうか!?
本当はあるんだ!「愛」はある!
個々の中に埋蔵された「愛」はある!
その土台の上に、一生懸命表現しようともがき苦しむ「愛」はある!
じゃあどうして、個々の愛は埋蔵されたままなのか?
じゃあどうして、土台の上に「愛」は表現され得ないのだろうか?
それは、「金が土台」だからだ。
「金が土台」で「愛」を表現しようとすると・・・
今のような社会の仕組み、世界のシステムが出来上がる。
「愛」はいつしかなおざりにされ、「金」をむさぼり取リ合うようになる。
人々の中の純粋な「愛」の多くは、死んでしまうことになる!
では、「愛が土台」ならば、どんな風になるだろう?
「愛が土台」で「愛」を表現しようとすると・・・
奉仕が仕組みを作り、与え合いの精神がシステムを作る。
もはやそこには「愛」しかない、「金」をむさぼり取る必要は無くなる。
人々の中の純粋な「愛」は喜びに満ち、大いに表現されることになる!
「愛」のために働き、「愛」のために生きる(生活する)世界に、「金」は要らないのだ。
これまで記してきた、一連のショートステイ先の施設側の対応。
そこで働く、施設長や看護師や介護士やケアマネなど人々の対応。
そして、医療現場や葬儀屋・・・などなど。
お金が関係しなかったなら、それはどうのような対応になっていたのだろうか。
「愛が土台」だったなら、どんな風に変わることが出来るのだろうか。
全てのことにおいて言える。
「金が土台」の世界を生きることをやめて、「愛が土台」の世界を生きることを選択したならば・・・。
人間本来の姿「愛」であることを、自分が選択したならば・・・。
「愛」のために働き、「愛」のために生きる(生活する)世界に、「金」は要らない。
※4/20現在、父はとりあえず元気である。
再入院から退院を経て、あの賑やかな認知症フロアーのある施設に戻っている。
したがって、今のところ実際に、どの葬儀屋も利用するに至ってはいない。
◎当ブログで掲載した文章を、挿絵漫画入りで本にしました。
詳しくはこちら。
虹色アーチ/ウェブサイト版「愉快な認知症」
正義感のある人であったし、「優しさ」や「温かさ」を持ち合わせてもいた。
「誠実さ」や「真面目さ」もそれなり強かったと思う。
そして「純粋さ」も・・・きっとそれなりにあった。
でもそれは、今の父とは違って、「金が土台」の上で自営し商売をしていた頃の父から表現されたものだ。
自営業の面白さや商売の楽しさなど、「金(経済)」を土台とした「金儲けという遊び」を体験していた父が、その頃に持ち合わせていたものなのである。
今のように「愛が土台」とした上で表現される父の正義感、「優しさ」や「温かさ」、「誠実さ」や「真面目さ」そして「純粋さ」といった内容は、土台自体がまったく別物であるがゆえに全然変わってくるだろう・・・。
その頃の父にとっての「愛」は、おそらく「無償の愛」ではなく「見返りの愛」に近かっただろう。
「金(経済)」を土台としている以上、対価を求めること、報酬、経済をまわすことなど、その土台作りに関わることにはなんら疑問も持たず、異議を唱えることなども決してなかったかも知れない。
だって、それが『アタリマエ』の世界なのだから・・・。
認知症になった父はピュアになった。
ピュアになった父の中で、お金の概念と認識は消えていった。
ある意味・・・認知症になったお陰で、父はお金の概念や認識を手放すことが出来たのかも知れない。
お金の概念や認識のなくなった父には、「金が土台」である世界を生きる必要がなくなったのだ。
「愛」のために働き、「愛」のために生き(生活し)、「愛」を表現するための「愛が土台」の世界に、今父は(存在して)いる。
「無償の愛」そのものの姿で。(参照:→愉快な認知症の父死す!?/父が与えた自由)
人間本来の姿・・・「愛」なんだ!
いや、むしろ、逆の言い方が正しいのかも知れない。
人間本来の姿は「愛」だからこそ、父はお金の概念や認識を捨て、「金が土台」の上を生きるのをやめたのだ。
「金が土台」の世界を生きる限り、必然的に「金」のために働き、「金」のために生きる(生活する)ことになる。
どうあがいても、土台がそうである限り「金」に関わらないと生きて行けない仕組み・システムになっている。
これは対価を求める世界であり、報酬を要求する世界であり、見返りを期待し土台とする世界だ。
「金が土台」の世界の上に「愛」を表現することは、本質的には不可能なのだ。
「愛」とは無償であり、見返りを求めない世界であり、そのままの姿で存在することだから。
父はこのことを、ちゃんと選択したのだと思う。
「愛」という姿でいる(存在する)ことを。
究極のところ・・・
「金が土台」だと、本来の人間の姿である「愛」ではいられない。
「愛が土台」だと、そのままの存在である「愛」でいられる。
・・・・・と言うことは、
「金が土台」だと「愛」でいられないから、わざわざ認知症になる。
「愛が土台」だとそのままでいられるから、認知症になる必要はない。
・・・・・とも言える。
「金が土台」のこの世界に「愛」は無いのだろうか!?
本当はあるんだ!「愛」はある!
個々の中に埋蔵された「愛」はある!
その土台の上に、一生懸命表現しようともがき苦しむ「愛」はある!
じゃあどうして、個々の愛は埋蔵されたままなのか?
じゃあどうして、土台の上に「愛」は表現され得ないのだろうか?
それは、「金が土台」だからだ。
「金が土台」で「愛」を表現しようとすると・・・
今のような社会の仕組み、世界のシステムが出来上がる。
「愛」はいつしかなおざりにされ、「金」をむさぼり取リ合うようになる。
人々の中の純粋な「愛」の多くは、死んでしまうことになる!
では、「愛が土台」ならば、どんな風になるだろう?
「愛が土台」で「愛」を表現しようとすると・・・
奉仕が仕組みを作り、与え合いの精神がシステムを作る。
もはやそこには「愛」しかない、「金」をむさぼり取る必要は無くなる。
人々の中の純粋な「愛」は喜びに満ち、大いに表現されることになる!
「愛」のために働き、「愛」のために生きる(生活する)世界に、「金」は要らないのだ。
これまで記してきた、一連のショートステイ先の施設側の対応。
そこで働く、施設長や看護師や介護士やケアマネなど人々の対応。
そして、医療現場や葬儀屋・・・などなど。
お金が関係しなかったなら、それはどうのような対応になっていたのだろうか。
「愛が土台」だったなら、どんな風に変わることが出来るのだろうか。
全てのことにおいて言える。
「金が土台」の世界を生きることをやめて、「愛が土台」の世界を生きることを選択したならば・・・。
人間本来の姿「愛」であることを、自分が選択したならば・・・。
「愛」のために働き、「愛」のために生きる(生活する)世界に、「金」は要らない。
※4/20現在、父はとりあえず元気である。
再入院から退院を経て、あの賑やかな認知症フロアーのある施設に戻っている。
したがって、今のところ実際に、どの葬儀屋も利用するに至ってはいない。
◎当ブログで掲載した文章を、挿絵漫画入りで本にしました。
詳しくはこちら。
虹色アーチ/ウェブサイト版「愉快な認知症」