◎父の存在、それが「この世」に無くなった時、
父の死が、その瞬間が「この世」にやってきた時に、
私は耐えることが出来るのだろうか?
そんなことを父の反応の延長上に考える時、
切なくて、やるせなくて、悲しくて、寂しくて・・・。
どうにもコントロールできない私の感情が剥き出しになる!
お父さん、私はこんなにもお父さんのことが大好きなんだね・・・。
お父さん、私はこんなにもお父さんのことを愛しているんだね・・・。
(肉体)人間はいつか死ぬ。
それは父においても例外ではない。
さてさて、私はこれを一体どうやって乗り越えられるのだろう?
(8/7(日)・17日目の文中より)
◎そう・・・私が一人、「父の死」を受け入れられず、「父の死」に覚悟が出来ずにいる。
私自身においても、父に対してやれる事はやり切った、後悔というものは全く無い!
それに、「認知症」という姿になってまで私たちを導いてくれた父を、私は心から尊敬しているし、父は父の人生を楽しく大いに生き切ったのだとも思えている。
でもしかし、だけどしかし、私は「父の死」を受け入れられない・・・。
「父の死」を止めているのは私ではないか?「父の死」は私を待ってくれているのではないか?・・・とさえ思う。
私がちゃんと「父の死」を受け入れ、私が志す「死を祝福する」ということが出来るようになるまで、きっと・・・その日その時まで。
(8/14(日)・24日目の文中より)
今回の父の救急搬送からずっと書き綴っているブログの中で、私は上記のように「父の死」「死というもの」に対してとても恐れを抱いている。
私の奥底にある太い根っこのような「死というもの」。
そして、そこから伸びる「不安」や「悲しみ」や「寂しさ」や「切なさ」や「やるせなさ」が、ひげ根っこのように私の心の中を張り巡っている。
これは、地球上の「死というもの」に対する、人類共通の感情的な側面、人類共有の憂える思いだと思う。
脳内出血で父が50歳で倒れたとき、私は父に対して悔いのないように接することの種を、自分の心に蒔いた。→『始まりの種』
それが数年経ってから芽吹き、見事に私は父にやれる事はやり切った花を咲かせることが出来た。
そして今、最後の刈り取り(根っこの引き抜き)だけが残った。
「父の死」に対して、その時を迎えても・・・「ああすればよかった」「こうすればよかった」といった類の後悔は私には全くない。
それにもかかわらず、私は「父の死」「死というもの」そのものが受け入れられない・・・、(感情的に)気が狂わんばかりになる。
それほどに、「死」というものの既成概念は根深いのものなのだろう。
特に、近しい「家族の死」は、確立したと思っていた自分の死生観を、感情的側面から大いに揺るがすことを知った。
比較的「他人の死」に対して、私は客観的に自分の死生観を通して見られるようになっていた。
だか、ここにきて愛する(愛すべき)「家族の死」というものに直面した私の態度は、そうは簡単には行かなかった。
最後の刈り取り(根っこの引き抜き)とは、「父の死」を祝福すること。
「死というもの」に感謝し、「死というもの」を愛すること。
それは「父に感謝する」ということ、「父を愛する」ということと同じなのだと私は思う。
◎私の中にある、根強い思い、「死は悲しいもの」。
私の底にある、根深い思い、「死は悪いもの」。
これを一新するのだ!
「死は喜ばしいもの」、「死は良いもの」。
「死」は「生」と同じで「素晴らしいもの」なんだ!
「父の生」を喜ぶように、私は「父の死」を喜びたい!
「父の生」を讃えるように、私は「父の死」を讃えたい!
「父の生」を祝福するように、私は「父の死」を祝福したい!
「生」と「死」を私はちゃんと繋げたい!
(8/21(日)・31日目の文中より)
今日、9月6日は父の73歳の誕生日。
お父さん、おめでとう!
この世に生まれてきてくれてありがとう!
私を娘として迎えてくれてありがとう!
お父さんに出会えて良かったよ、お父さんの子供で幸せだったよ!
お父さんが死んでも、ちゃんとその死を祝福するよ!
「お父さんの生」を祝福するように、私は「お父さんの死」をちゃんと祝福するよ!
「お父さん、私はこんなにもお父さんのことが大好きなんだね・・・」
「お父さん、私はこんなにもお父さんのことを愛しているんだね・・・」
・・・そう思わせてくれるほど、
お父さんはこんなにも私を愛してくれていたんだね!
私は、お父さんにこんなにも愛されていたんだね!
ありがとう、お父さん、おめでとう、お父さん、大好きなお父さん!
父の死が、その瞬間が「この世」にやってきた時に、
私は耐えることが出来るのだろうか?
そんなことを父の反応の延長上に考える時、
切なくて、やるせなくて、悲しくて、寂しくて・・・。
どうにもコントロールできない私の感情が剥き出しになる!
お父さん、私はこんなにもお父さんのことが大好きなんだね・・・。
お父さん、私はこんなにもお父さんのことを愛しているんだね・・・。
(肉体)人間はいつか死ぬ。
それは父においても例外ではない。
さてさて、私はこれを一体どうやって乗り越えられるのだろう?
(8/7(日)・17日目の文中より)
◎そう・・・私が一人、「父の死」を受け入れられず、「父の死」に覚悟が出来ずにいる。
私自身においても、父に対してやれる事はやり切った、後悔というものは全く無い!
それに、「認知症」という姿になってまで私たちを導いてくれた父を、私は心から尊敬しているし、父は父の人生を楽しく大いに生き切ったのだとも思えている。
でもしかし、だけどしかし、私は「父の死」を受け入れられない・・・。
「父の死」を止めているのは私ではないか?「父の死」は私を待ってくれているのではないか?・・・とさえ思う。
私がちゃんと「父の死」を受け入れ、私が志す「死を祝福する」ということが出来るようになるまで、きっと・・・その日その時まで。
(8/14(日)・24日目の文中より)
今回の父の救急搬送からずっと書き綴っているブログの中で、私は上記のように「父の死」「死というもの」に対してとても恐れを抱いている。
私の奥底にある太い根っこのような「死というもの」。
そして、そこから伸びる「不安」や「悲しみ」や「寂しさ」や「切なさ」や「やるせなさ」が、ひげ根っこのように私の心の中を張り巡っている。
これは、地球上の「死というもの」に対する、人類共通の感情的な側面、人類共有の憂える思いだと思う。
脳内出血で父が50歳で倒れたとき、私は父に対して悔いのないように接することの種を、自分の心に蒔いた。→『始まりの種』
それが数年経ってから芽吹き、見事に私は父にやれる事はやり切った花を咲かせることが出来た。
そして今、最後の刈り取り(根っこの引き抜き)だけが残った。
「父の死」に対して、その時を迎えても・・・「ああすればよかった」「こうすればよかった」といった類の後悔は私には全くない。
それにもかかわらず、私は「父の死」「死というもの」そのものが受け入れられない・・・、(感情的に)気が狂わんばかりになる。
それほどに、「死」というものの既成概念は根深いのものなのだろう。
特に、近しい「家族の死」は、確立したと思っていた自分の死生観を、感情的側面から大いに揺るがすことを知った。
比較的「他人の死」に対して、私は客観的に自分の死生観を通して見られるようになっていた。
だか、ここにきて愛する(愛すべき)「家族の死」というものに直面した私の態度は、そうは簡単には行かなかった。
最後の刈り取り(根っこの引き抜き)とは、「父の死」を祝福すること。
「死というもの」に感謝し、「死というもの」を愛すること。
それは「父に感謝する」ということ、「父を愛する」ということと同じなのだと私は思う。
◎私の中にある、根強い思い、「死は悲しいもの」。
私の底にある、根深い思い、「死は悪いもの」。
これを一新するのだ!
「死は喜ばしいもの」、「死は良いもの」。
「死」は「生」と同じで「素晴らしいもの」なんだ!
「父の生」を喜ぶように、私は「父の死」を喜びたい!
「父の生」を讃えるように、私は「父の死」を讃えたい!
「父の生」を祝福するように、私は「父の死」を祝福したい!
「生」と「死」を私はちゃんと繋げたい!
(8/21(日)・31日目の文中より)
今日、9月6日は父の73歳の誕生日。
お父さん、おめでとう!
この世に生まれてきてくれてありがとう!
私を娘として迎えてくれてありがとう!
お父さんに出会えて良かったよ、お父さんの子供で幸せだったよ!
お父さんが死んでも、ちゃんとその死を祝福するよ!
「お父さんの生」を祝福するように、私は「お父さんの死」をちゃんと祝福するよ!
「お父さん、私はこんなにもお父さんのことが大好きなんだね・・・」
「お父さん、私はこんなにもお父さんのことを愛しているんだね・・・」
・・・そう思わせてくれるほど、
お父さんはこんなにも私を愛してくれていたんだね!
私は、お父さんにこんなにも愛されていたんだね!
ありがとう、お父さん、おめでとう、お父さん、大好きなお父さん!