私は水仙の夫です。
長いことブログを読んでいただきありがとうございました。
励ましのお言葉をいただきありがとうございました。
水仙は、丁度一か月前の平成26年3月30日21時50分他界いたしました。
今日は初月忌にあたります。
少し振り返ってみました。
前回の診察で小脳に腫瘍が見つかり、2月27日にそこにXナイフをする予定でした。
しかし、2月20日頃から何も食べたくなく、食べてもすぐに吐くような状態になりました。
また、歩くことも大変になってきました。
それで2月25日に入院し、検査をしたところ、胆道をガンが圧迫し胆汁が出にくくなっていて、少し黄疸にもなっていて、画像を見ると腹水もたまっていました。
いつも見ている者には、黄疸も腹水も気付かない程でした。
肝臓には転移は見つからないけれど、その為に食欲が無いのではないかと言うことになりました。
それで、内視鏡で胆道にステントを入れることになり、すぐに実施しました。
しかし、十二指腸もガンが圧迫していて内視鏡が通らず出来ませんでした。
本人は脳の手術を何時するのか気にしていました。
また、私や子ども行くと感謝の言葉を言うようになりました。
最初は食事が出ていましたが、食べれないので、点滴になりました。
その間辛いと言うのでので、ロキソニンやGS顆粒を出してもらっていました。
3月に入ると起きれなくなり、黄疸や腹水も目立つようになりました。
本人は、以前から延命治療や、体中に管を刺すことはいやだと言って、医師や看護師にそのことを伝えていたので、辛いのだけを取るようにしていました。
その間、やなせたかしの『わしたしが正義について語るなら』を読んでいました。これが最後の本になりました。
3月10日頃になると、目の中も黄疸がひどくなり、腹水も一目見ただけで分かるようになってきました。
頭を上げてとか、体を横に向けてと言うだけになりました。
緩和医療チームと相談して出来るだけ辛さを取るようにお願いしました。
話すのもやっとという感じです。
3月20日から麻薬を使い始め、昼夜とも、うとうとするようになりました。
医師、看護師の話によると、しゃべれなくても耳は聞こえているということでした。
どこか辛い処はないかと聞いても首を振るだけで、言葉にはなりませんでした。
3月30日の昼頃、娘が病院へ行っていましたが、医師から呼吸が少し荒くなってきたと連絡があり、病院へ向かいました。
酸素吸入は以前からしていましが、痰がかかり喉がゼイゼイするので痰を吸引してもらっていました。
ウトウトしていて変わりないように見えたので、5時頃娘は帰り、僕が泊ることにしました。
そして、9時頃痰をとってもらったところ、看護師が「もう近いかもしれないので身内の方を呼んだらどうかですか」と言われ慌てて子供達や兄弟に連絡しました。
そして、病室へ戻ったら下顎呼吸していて医師も来ていました。
僕が手を握り名前を呼んで、握り返し何か言ったみたいなのが最後でした。
上の娘は滋賀県から3月に入り家に帰っていたし、息子は海外出張を止めて家にいましたが、死に目に会ったのは僕だけでした。
しかし、毎日娘二人と息子が病院に来てくれていました。その日も日曜日だったので、3人とも会って帰ったところだったので良かったと思っています。
発見されてから足掛け7年になりますが、海外旅行にも5回行ったし、北海道から沖縄まで旅行に行けたし、短い間でしたが思い出をいっぱい作ってくれました。
病気になってからは、ボランティアに関心を持ち、何か出来ることをしたいと言っていました。がんセンターのパネラーにもなり、病院の患者会のお世話も少し出来ました。
妻は旅行が好きだったので、何月になったら何処へ行こうという目標を立てて生活するのが一番励みになったような気がします。今年の1月か2月にふぐ料理を食べたいと言って、何度か車に乗りかかりましたが、途中で辛いから止める言って帰ったこともありました。
また、妻は応援して下さった皆様にも感謝の気持ちでいっぱいでした。
いつも、「今日はブログを書くよ」と言っていましたが、ついに1月12日に書いたのが最後になってしまいました。
妻は、闘病生活をしている方々のブログをいつも見ていました。そして、「あの人は更新がないね。どうしたのかね」と寂しく言っていました。今年の1月頃には「私もだんだんブログが書けなくなてきわ」と言っていました。
つるさん、はーちゃん、ゆきさん、momiさん、かっちゃん、あじさいさん、まくさん、ふうさん、リスさん、かしさん、とまとさん、その他多くの応援して下さった方々ありがとうございました。
私も励まして下さった皆様に心から感謝しております。ありがとうございました。
闘病生活をされている皆様が少しでも元気のなられることをお祈りしております。
また、何か思い出したら書かせていただきます。
長いことブログを読んでいただきありがとうございました。
励ましのお言葉をいただきありがとうございました。
水仙は、丁度一か月前の平成26年3月30日21時50分他界いたしました。
今日は初月忌にあたります。
少し振り返ってみました。
前回の診察で小脳に腫瘍が見つかり、2月27日にそこにXナイフをする予定でした。
しかし、2月20日頃から何も食べたくなく、食べてもすぐに吐くような状態になりました。
また、歩くことも大変になってきました。
それで2月25日に入院し、検査をしたところ、胆道をガンが圧迫し胆汁が出にくくなっていて、少し黄疸にもなっていて、画像を見ると腹水もたまっていました。
いつも見ている者には、黄疸も腹水も気付かない程でした。
肝臓には転移は見つからないけれど、その為に食欲が無いのではないかと言うことになりました。
それで、内視鏡で胆道にステントを入れることになり、すぐに実施しました。
しかし、十二指腸もガンが圧迫していて内視鏡が通らず出来ませんでした。
本人は脳の手術を何時するのか気にしていました。
また、私や子ども行くと感謝の言葉を言うようになりました。
最初は食事が出ていましたが、食べれないので、点滴になりました。
その間辛いと言うのでので、ロキソニンやGS顆粒を出してもらっていました。
3月に入ると起きれなくなり、黄疸や腹水も目立つようになりました。
本人は、以前から延命治療や、体中に管を刺すことはいやだと言って、医師や看護師にそのことを伝えていたので、辛いのだけを取るようにしていました。
その間、やなせたかしの『わしたしが正義について語るなら』を読んでいました。これが最後の本になりました。
3月10日頃になると、目の中も黄疸がひどくなり、腹水も一目見ただけで分かるようになってきました。
頭を上げてとか、体を横に向けてと言うだけになりました。
緩和医療チームと相談して出来るだけ辛さを取るようにお願いしました。
話すのもやっとという感じです。
3月20日から麻薬を使い始め、昼夜とも、うとうとするようになりました。
医師、看護師の話によると、しゃべれなくても耳は聞こえているということでした。
どこか辛い処はないかと聞いても首を振るだけで、言葉にはなりませんでした。
3月30日の昼頃、娘が病院へ行っていましたが、医師から呼吸が少し荒くなってきたと連絡があり、病院へ向かいました。
酸素吸入は以前からしていましが、痰がかかり喉がゼイゼイするので痰を吸引してもらっていました。
ウトウトしていて変わりないように見えたので、5時頃娘は帰り、僕が泊ることにしました。
そして、9時頃痰をとってもらったところ、看護師が「もう近いかもしれないので身内の方を呼んだらどうかですか」と言われ慌てて子供達や兄弟に連絡しました。
そして、病室へ戻ったら下顎呼吸していて医師も来ていました。
僕が手を握り名前を呼んで、握り返し何か言ったみたいなのが最後でした。
上の娘は滋賀県から3月に入り家に帰っていたし、息子は海外出張を止めて家にいましたが、死に目に会ったのは僕だけでした。
しかし、毎日娘二人と息子が病院に来てくれていました。その日も日曜日だったので、3人とも会って帰ったところだったので良かったと思っています。
発見されてから足掛け7年になりますが、海外旅行にも5回行ったし、北海道から沖縄まで旅行に行けたし、短い間でしたが思い出をいっぱい作ってくれました。
病気になってからは、ボランティアに関心を持ち、何か出来ることをしたいと言っていました。がんセンターのパネラーにもなり、病院の患者会のお世話も少し出来ました。
妻は旅行が好きだったので、何月になったら何処へ行こうという目標を立てて生活するのが一番励みになったような気がします。今年の1月か2月にふぐ料理を食べたいと言って、何度か車に乗りかかりましたが、途中で辛いから止める言って帰ったこともありました。
また、妻は応援して下さった皆様にも感謝の気持ちでいっぱいでした。
いつも、「今日はブログを書くよ」と言っていましたが、ついに1月12日に書いたのが最後になってしまいました。
妻は、闘病生活をしている方々のブログをいつも見ていました。そして、「あの人は更新がないね。どうしたのかね」と寂しく言っていました。今年の1月頃には「私もだんだんブログが書けなくなてきわ」と言っていました。
つるさん、はーちゃん、ゆきさん、momiさん、かっちゃん、あじさいさん、まくさん、ふうさん、リスさん、かしさん、とまとさん、その他多くの応援して下さった方々ありがとうございました。
私も励まして下さった皆様に心から感謝しております。ありがとうございました。
闘病生活をされている皆様が少しでも元気のなられることをお祈りしております。
また、何か思い出したら書かせていただきます。