はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その4

2017年03月20日 | Weblog
4.問題提起1:水原哲はどうして北條家を訪れたのか?

 まずは、すずの幼馴染みの水原哲についてです。
 映画版における描写だけで「なぜ北條家に来たのか?」を解釈できるだろうか? という問いを立てたいと思います。

 もちろん原作にはこの問いの“答え”が描かれています。
 けれど、改変された映画版のみの情報で、この問いにどう答えられるかが気になって仕方がないのです。

 大前提として、水原の北條家訪問が相当な異常な行動だということが理解されてるかが不安です。納屋で寝るように告げる時の周作のただならぬ雰囲気で察することもできるでしょうが、水原の訪問自体が異常事態であることを確認しておきましょう。

 義姉径子のサブエピソードで匂わせているように、家制度の支配下にある時代です。いくら周作が容認したとはいっても、家制度の下の日本で水原を泊めることは最悪すずが姦通罪に問われかねない事態です。
 そもそも兵士の入湯上陸とはいえ、若い男が幼馴染み程度の関係の娘の嫁ぎ先の家に押しかけて風呂を借りるだけでも図々しい行為です。ましてや泊まっていくなどというのは、非常識極まりない行為であったのは間違いありません。
 これが遠縁でも親戚関係だったり、円太郎や周作(家主かその跡取り)との交友関係を頼って来たのなら、まだ理解できるのですが……。嫁いだ娘の元幼馴染みなんて赤の他人も同然です。
 周作がすずを母屋から締め出す(=水原に妻を差し出すと同義)という衝撃の展開に目が眩みがちですが、そもそも北條家に水原が来ること自体がおかしいのです。

 原作漫画でも極めて現実味の薄い展開なのですが、この現実味の薄いメロドラマを成立させるために色々と設定を積み重ねています。
 周作がリンとの関係で後悔を抱いていたというのが、ひとつ。妻を差し出すという極端な行動に周作が走る感情の熱量が、リン周りの描写を削った映画版にはどうしても足りません。
 さらに言えば、すずが生理不順からくる不妊であったことも無視できない設定です。間違いがあっても子供の心配まではしなくていいというのは、やはり大きかったと思います。この不妊設定も映画版ではオミットされてしまっています。

 細かな設定の改変も気になりますが、今検討している問題は水原が北條家を訪れた理由でした。

 では、映画版の水原はどのような人物として描かれていたのか簡単に振り返っておきましょう。
 原作漫画における最重要人物であるリンを差し置いて出番を確保されている水原ですが、実はかなり印象が違っています。
 原作漫画の水原は、かなり乱暴者の虐めっ子として描かれていました。乱暴者で評判のすずの兄要一と同じような悪評が立てられています。すずに対しても、遊びのためにちびた鉛筆を奪い、床穴に落として失くしています。しかも逆ギレして髪を引っ張るなど、乱暴者っぷりを発揮しています。その罪滅ぼしとして、事故で溺死した兄の遺品である鉛筆を彼はすずにやるのです。一見手の付けられない乱暴者だけれど、律儀な面もある少年として水原は描かれていました。

 一方映画版では、乱暴だった描写は概ね削られて、特に理由もなく鉛筆をやるような好少年、もしくはすずに気がある描写へと改変が加えられています。他にも、周作と円太郎が結婚前に浦野家を訪れた帰り道、道に迷ったのは水兵さんのせいだと語られていました。おそらくすずを嫁として奪っていくことへの意趣返しを水兵(=水原)がしたのだと思われます。
 このように、映画版では<水原→すず>の思慕が強調されています。
 逆に原作漫画にあった<すず→水原>の思慕を匂わせる描写はいくつか削られています。水原の摘んだ椿を見て物思いにふけるシーンや、すずが水原の千人針だけは妹すみに代わって縫っていたエピソードがカットされています。

 すずに慕われていたのではなく、すずを慕っていたと印象を変えられた水原が北條家の玄関に現れます。映画の描写を素直に読み取れば、「子供のころから秘めていた恋愛感情の故に嫁いだ幼馴染みを訪ねた」と解釈するのが自然です。
 乱暴な喧嘩友達だった水原から毒気を抜いて、ロマンティックラブの要素を強調してるように思われます。しかし、原作漫画における水原とは、そういうキャラクターだったのでしょうか?

 もうひとつ、水原の訪問を理解するうえで重要な言葉が「普通」です。すずに対して「普通じゃ」「普通じゃ」と愛おしそうに言う水原は、どうやら「普通でない」「まともでない」状況にあると自分を認識していることが察せられます。
 しかし、映画版ではどう「普通でない」のかは語られません。映画内の描写から色々と想像を膨らませることはできるでしょうが、鑑賞者によって大きく解釈が分かれそうなところです。

 けれど、原作漫画ではそのものずばり水原の台詞で正解が書かれています。(中巻 p.88)


「ほいでもヘマもないのに叩かれたり 手柄もないのにヘイコラされたりは」
「人間じゃのうてワラやカミサマの当たり前じゃないかのう」

 実に明快です。海軍内での訳も分からず殴られてばかりの生活。陸に上がれば、軍人様だと持ち上げられる生活。そのどちらも水原にとっては「人間の当たり前から外された」まともではないものだったのです。
 海軍の中も外の日本社会も、水原にとっては心安らぐ場所ではなくなっていた。軍にも陸にも居場所がなかった。
 だからこそ、水原は北條家を訪ねて来たのです。彼にとっての「普通」=違和感がなく心安らぐ場所は、かつての幼馴染みのすず以外には期待できないものだったのでしょう。

 周作に語った「同期もだいぶ靖国へ行ってしもうて集会所へも寄りにくうなった」という理由も、丸っきりの嘘ではないにしろ方便の要素のほうが強いでしょう。また、「同期が少ない=軍隊内での上下関係に縛られない仲間が少ない(orいない?)」ことが軍に対して居心地の悪さを感じさせる要因だと考えれば、すずに打ち明けた本音とも矛盾しません。

 この解釈は、原作漫画での水原との出会いでも補強されます。北條家に訪ねてきた水原との出会いの瞬間から、かつての水原とは別人であることが強調されています。なにしろ、出会い頭にすずを俵担ぎして、ニコニコと水汲みを手伝うのです。子供の頃はガキ大将気質の乱暴者で、すずとは口喧嘩ばかりしていたという水原がです。
 初めから「普通の状態ではない」そして「まともな精神状態ではない」ことを示唆する描写で水原は現れています。

 やや話が逸れますが、原作漫画では水原以外にも海軍生活に精神がまいってしまった兵士が登場します。その兵士のバックボーンはほとんど語られていませんが、朝日遊郭の遊女テルと自殺未遂を起こしています。
 水原が軍隊生活で精神がまいっていたというのは、私の勝手な妄想ではなく原作漫画の世界観に沿った解釈です。自殺未遂の話を聞いた後、すずは水原との別れを思い出しているという念の入れようで、自殺未遂の兵士と水原は無関係なものではなく関連付けて解釈するようにという補助線を原作者こうの氏は引いています。
 この話をテルから聞く原作漫画の描写こそ、『この世界の片隅に』という作品ならではの面白さの一つだと私は高く評価していただけに、映画版でばっさりカットされていたのが残念でなりません。

 閑話休題。

 上に引用した水原の台詞は、彼の北條家訪問という異常な行動を理解するには不可欠な台詞だったにもかかわらず、なぜだか映画版では削られてしまいました。
 代わりに挿入されているのが、青葉の艦上での短い描写。おそらく南洋での戦闘のフラッシュバックです。素直に読み取るならば、映画版での水原を「普通でない」状態にしたのは水兵としての戦闘体験ということになります。
 けれど、戦闘体験からのトラウマが水原を精神をおかしくしたのだとすると、北條家への訪問について説明ができないと思うのです。戦場で過酷な経験をして精神を病んだ兵士が、果たして銃後の安寧な生活や幼馴染みに救いを求めるのか疑問だからです。そうした兵士は銃後の社会に馴染めず、同じような過酷な体験をした兵士だけのコミュニティや戦場に逃げ込むというのがよくある描写ではないでしょうか。この定石に従うなら、水原は同じような体験を共有している水兵仲間=海軍内に引き籠るほうが自然なのです。100%あり得ない描写とまでは言いませんが、北條家にすずを訪ねた動機付けとして解釈するには説得力が薄いと感じます。

 そして、設定に疑問の残る戦闘フラッシュバックを挿入することで、原作漫画において水原という青年をおかしくしてしまった原因である、軍隊内での暴力や軍人を持ち上げる世相への居心地の悪さも消えてしまいました。
 後者はまだ映画版にも「わしゃあ、英霊呼ばわりは勘弁じゃけえ」という台詞に残滓としても残っています。とはいえ、それも水原のロマンス要素を増量した映画版では「すずの心の中でも大勢いる英霊にまとめられてしまうのは嫌だ」「愛するすずには水原哲という個人として覚えていて欲しい」という恋愛感情の発露として解釈することもできてしまいます。
 そして、水原をおかしくした主要因と設定された過酷な戦闘体験との繋がりも不自然になってしまっています。原作漫画の“軍人を持ち上げる世相に馴染めない、気持ち悪い→英霊として奉られたくない”はスムーズに繋がりますが、映画版では“過酷な戦闘を体験して心がまいっている→英霊として奉られたくない???”と関連性が断絶されてしまっているのです。

 なぜ映画版では、水原の異常な行動の核心ともいえる台詞をカットしてしまったのでしょうか? 尺が足りなかったというのは通用しません。わざわざ戦闘のフラッシュバックシーンを追加しているのですから。リン周りの描写をざっくりと、しかも粗雑に削除してまで残した水原の登場シーンだというのに、あんまりじゃないですか。
 それとも、ピンポイントで水原の行動を説明する台詞を消さなくてはいけない何らかの理由があったのでしょうか? 謎は深まるばかりです。


 手始めに、映画版で行われた小さな改変が原作の持っていた意味をがらりと変えてしまった点を取り上げてみました。意味が180度変わったとまでは言いません。しかし、少なくとも明確な答えが提示されていたところをピンポイントで消去して、わかりづらくしてしまったのは間違いありません。そして、原作で明示されていたのとはまったく別の行動原理が水原という人物に附与されかねない描写に差し替えられてしまいました。

 映画のみの鑑賞であれば、やや説明不足ながらもなんとなく流してしまえる描写だったかもしれません。けれど、それは原作漫画の『この世界の片隅に』とは別の内容です。
 逆に原作漫画を先に読んでいた場合、原作から得た情報を脳内で補完して、映画版も違和感なく鑑賞できたかもしれません。または、個々の変更点が小さいために、水原の行動原理が微妙に変更されてることを見落としていたかもしれません。
 この映画にはこういう改変が少なくありません。この小さいながらもニュアンスを大きく変える変更がなされているのが曲者だと考えています。


 次の段に移る前に、私の問題意識が細かすぎると感じている人もいるでしょうか。
 ぶっちゃけて言うなら、水原が精神の安定を欠いた原因が海軍内での暴力だったとしても、過酷な戦闘体験だったとしても、大きな意味合いは変わらない。どちらも広い意味での戦争体験が兵士の精神を壊したという設定は維持されている。そう擁護する方もいるかもしれません。
 では、海軍内での暴力も過酷な戦闘体験も同じようなもので、入れ替え可能だと考えている方は、次の状況を仮定してみてください。
 原作で「過酷な戦闘で精神を病んでしまった」という日本兵の設定が、映画や他のメディアに翻案される際に「軍隊内での暴力で精神を病んだ」という設定に改変されてしまったとしたら、どうでしょうか?
 入れ替え可能であれば、問題ないと言えるはずです。断言できますか?

 “軍隊内での暴力→過酷な戦闘体験”の改変は許容できて“過酷な戦闘体験→軍隊内での暴力”の改変は許容できないという人は、日本軍の内部での暴力という問題を直視したくない、隠蔽したいという欲望を抱えている恐れはありませんか。