はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その3

2017年03月20日 | Weblog
3.映画版の第一印象

 やや寄り道となりますが、ここで映画版の第一印象を記しておきます。
 悪印象と好印象の両方があったのですが、悪印象を一言で言い表すと――
 
「独立した映像作品として成立していない」でした。
 
 私は遊郭周りの描写こそ『この世界の片隅に』という作品の醍醐味だと考えていますので、遊郭やリン関連の描写が不自然にぶつ切りにされた映画版にこういう悪印象を持つのは自明ではあります。
 けれど不思議なのは、映画版だけでは明らかに不自然、意味不明な描写になっているのにも関わらず、そのことを不満とする声が(私のような原作のリンに固執するファン以外からは)ほとんど聞こえないことです。

 背表紙の一部が切り取られた帳面。桜の花弁が入った紅。これらの意味深に描写された小道具たちは、劇作上何の意味を持っていたのか劇場版からは読み取れません。
 また、ラスト付近で再登場する“ばけもん”も、劇場版の描写からは意味不明です。
 リン関連の不自然なぶつ切り描写に関しては、言わずもがなでしょう。
 これらの意味を知りたければ、原作に当たって伏線や込められた意味を知るしかありません。肝心な部分は原作漫画を読んで補完して欲しいと、丸投げしていると言わざるをえません。

 海外での上映が決まったようですが、これだけ原作漫画に丸投げした描写を残したままで不安を感じないのでしょうか? 原作漫画が翻訳・出版されていない国や地域で上映した場合、すでに挙げた意味深な小道具や描写に疑問を持った観客はどうすればいいのでしょうか? 「原作漫画を読んでください」とは言えません。“ばけもん”なんて、いかにも素っ頓狂な民俗学的解釈をされてしまいそうですけれど、あのままで本当に大丈夫なんでしょうか?

 「独立した映像作品として成立していない」というのは、こういう意味です。

 映像作品として限られた時間に収めるためには仕方がなかった、という言い訳は受け付けません。限られた時間の中で、無用な混乱や誤解を生じさせない映像を完成させるのが映画監督の仕事なのですから。

 ちなみに、同じ片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』では、クライマックスの冒険の動機づけとなる謎の真相が観客には伏せられたまま物語が閉じます。主人公たちが真相を聞くシーンだけが省略されて物語が続くので戸惑いますが、特に不都合なく最後まで鑑賞できます。物語を読み取るうえで重要なのは真相の中身ではなく、主人公たちが謎を追う冒険を通して大人の世界を垣間見たという経験なので、大胆な省略を行っても物語は破綻しないと判断したのでしょう。
 このように、片渕監督は映像作品の情報の制御において確かな技術と才能を持っています。ですので、単なる技量の不足で映画版が不自然な断片描写になったとは考えづらいのです。
 むしろ原作改変の不満をリン関連に集中させることを狙って、あえて不自然なぶつ切りをしたのではないかとさえ疑っています。


 監督への疑念はさておき、映画の好印象についても一応触れておきましょう。
 原作に依存しないと意味不明な描写があったり、脚本上の瑕疵があったとしても“良い映画”や“名作映画”というのはあり得ますし、それを否定するものではありません。
 加点方式で10000点を付けたいほど感動したという人の感性や感想を否定はしません。けれど、映画単独では解釈不能な不備を残しており、明らかに減点要素を抱えた作品だということは押さえておきたかったのです。

 好印象を抱いたのは、やはり時代考証の部分です。
 原作漫画から丁寧な資料集めや考証が評価されていましたが、原作漫画の考証の不備をさらに訂正して深化していたのには舌を巻きました。
 広島の川船の形状やスケッチブックの形といった小さなものから、建物疎開の様子といった大きなところまで、よくもまあ訂正したものだと感心します。原作で空襲後に晴美に防火用水槽の水を飲ませていた(腹を下す恐れが……)のを顔を洗うだけにしたりと、ケアレスミスの訂正にも余念がありません。
 また、水原哲の訪問の際、原作では行火(あんか)の炭を水で溶いて絵を描いていましたが、これも万年筆のインクを皿に移す描写に変更されています。おそらく再現してみて、炭を水で溶いても絵を描くには向かないと判断したのだと思います。

 中でも凄いと思ったのが、空襲後のラジオ放送です。特に1945/8/6の岡山放送局の放送の冷え冷えとした感触は、観客だけが何が起こっているかを知っているからこそのもので、映画(映像作品)ならではの表現だと感動させられました。ここの演出だけでも、見て損のない映画であるのは間違いありません。
 空襲描写の緻密さも素晴らしかったです。特に対空砲の破片が大粒の雹のように地上に降ってくる描写は他の作品で見たことがなく、とても興味深いものでした。空襲の被害というと火にまかれたり爆風にやられてたりするイメージが強かったのですが、味方の対空砲の破片に殺されるという可能性を説得力を持って描写したのは稀なので、高く評価しないわけにはいきません。
 後は、空襲の火災による煤で干していた洗濯物が汚れてしまって、洗いなおさないといけないという描写にも唸らされました。空襲の直接の被害が無くても、様々な面で生活が圧迫されることを示しており、生活者としてのすずに焦点を当てた映画版ならではの良改変だったと思います。

 極めて個人的な興味から面白かったのが、呉駅前に土嚢を円形に並べた簡易防空壕です。ベトナム戦争のドキュメンタリ映画で、同じような形の青天井の防空壕がハノイ市の道路脇に作られていたのを見たことがあったので(ハノイのものはコンクリート製)、戦中の日本にも同じ形状の壕があったとわかって興味深かったです。

 映画版も、緻密な時代考証で今までにない知見が得られるという意味で十分良作であることは否定しません。
 とりわけ原作漫画の上巻に相当する部分については非常に丁寧に作られており、改変にするにしても原作を尊重しているのがわかります。
 それがよくわかるのが次の改変です。

 すずが北條家に嫁入りした日の夜、原作漫画では灯火管制が厳しいと周作に諭されるシーンがあります。これは軍港・呉の特殊性、広島市よりも軍の統制が厳しい地域であるという世界観を説明するエピソードだったのですが、なぜか映画版ではカットされ、照射訓練のエピソードに差し替えられました。
 改変はされましたが、映画版では同じ世界観を説明する別のエピソードで補完されています。列車で呉市内に入る時に、海側の窓を閉めるように命じられるのがそれです。

 原作漫画から変更したら、別の部分で必要な情報をちゃんと補完する。観客に提示するべき情報に目が行き届いているのがわかります。片渕監督本来のポテンシャルなら、これくらいのことはできて当然だと思うのですよ。
 この改変は映画版でも上手く処理している箇所なので、良改変の例として挙げておきました。後でも言及するかもしれません。

 全編にわたってこの調子で原作の情報を毀損せずにいてくれたら、心おきなく名作と認定できたのですが……。
 では、次の段から私が何に失望したのかを見ていこうと思います。