はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

『パンズ・ラビリンス』を再見してギレルモ・デル・トロ監督への信頼を深める

2023年03月12日 | Weblog
ダークファンタジーの名作『パンズ・ラビリンス』が一週間限定公開ということで映画館で見てきました。
初見時は『マッチ売りの少女』モチーフの結末に強い反発を覚えて「アンチ・ファンタジーじゃないか!」と憤ったものですが、改めて見るとその一点を除けば橋立さんの好みばかりで構成されている映画だったのだと再認識。
伏線や小道具の使い方が実に堅実で、本当によくできたお話だと惚れ惚れしました。そして、いくつか新しい気づきを得たので書き留めておきます。

冒頭の地下の魔法世界のおとぎ話。地上の世界にあこがれるお姫様が親の反対を振り切って地上に出るくだりに強烈な既視感。これ『かぐや姫の物語』じゃないですか。どちらもおとぎ話のモチーフの普遍性を押さえているということでしょう。
あと、スペイン内戦期の想像力豊かな少女が主人公といえば『ミツバチのささやき』なわけで、本当に橋立さん好みの要素ばかりです。この映画。

そして今回の再見で一番印象に残ったのが、敵役であるビダル大尉。
マチズモの信奉者でファシストで有能な将校という絵にかいたような敵役なのですが、過剰にフェティッシュな属性が盛り込まれて怪しい魅力を放っています。
特に注目したのは、髭剃りの時に鏡に映る自分の首をカミソリで切る仕草。終盤のカットでは、鏡の首が映るあたりにカミソリの傷跡が何本も走ってるのが見えます。(初見のDVDでは見えませんでした)
拷問の準備をしながら自慢げに解説するようなサディストの印象の強いビダル大尉ですが、自傷衝動を抱えたマゾヒストでもあったのです。
切り裂かれた頬を自分で縫合するシーンも印象的ですが、この人物は痛みや暴力そのものを信奉している節があります。
そして、自分にも他人にも異様に厳しいストイックな人物に見えて、要所要所で他罰的に動いて自分のプライドを保つことを優先させるせこさを垣間見せる。兎撃ちの農夫たちを誤解で撃ち殺した責任を部下に擦り付けるせこさと言ったらありません。
全体としてファシスト描写の解像度の高さが半端じゃありません。

それだけ解像度の高い描写をされているだけあって、ビダル大尉はどうしても敵役としての魅力を纏っています。
ビダル大尉の持つ悪の魅力にはギレルモ・デル・トロ監督もおそらく自覚的で、だからこそ彼の最期の願い――自分の死にざまを息子に伝えてほしい――という保守派的ロマンチシズムをメルセデスに全否定させているのだと思います。
最期の願いまで無下にされるなんてさすがに可哀想だ、哀れだと同情を買う危険を冒してでも、ファシストは「名前も残さない(残してはいけない)」と明示する必要があると判断したのでしょう。
こうした判断を下せるところが、監督の信頼できる所です。

ただ、物語的に明示的に否定してみせても、悪の魅力というのは消えるものではありませんし、人を惹きつけてしまうものです。
今回の再見で、ビダル大尉のフェティッシュな悪の魅力に「これは危険だな……」と思ったのですが、同時に思い出したのが『シェイプ・オブ・ウォーター』のストリックランドです。
マチズモ・ファシスト・高圧的な軍人というビダル大尉と同じ属性をを併せ持つ、ありていに言えば同じ類型のキャラクターなのですが、ストリックランドにはビダル大尉のような悪としての魅力を感じませんでした。
ほとんど同じメンタリティを持ちながらも、生理的嫌悪感や人としての卑小さを印象付ける描写がされており、悪のカリスマやセクシーさとは無縁の人物になっています。
この悪の魅力の減退は、必要以上に魅力的になってしまったビダル大尉への“反省”に基づいているような気がしてなりません。
私の勘違いかもしれませんが、こうした心配りができる(ように見える)監督への信頼がますます深まりました。