はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

『この世界の片隅に』拾遺

2017年03月30日 | Weblog
 とても共感できる記事があったのでリンクしておきます。

『この世界の片隅に』と凶器としての「普通」(http://mess-y.com/archives/42351)

 “絵描き”としてのすずの解釈や広島の扱いについては私と違う点もありますが、概ね納得できる分析だと思います。「まとも」であることと「平凡」であることの峻別や、それらを「普通」と括ることで抑圧の道具としてきたし、今もしているという批判的視点は大変勉強になりました。

 そして、原作漫画の当時の社会における女性を描いた側面に注目すれば、当然リンとの子供をめぐる会話や義姉径子の映画版で削除された台詞が重要になってくるわけで、自分の解釈が独りよがりなものではないとわかって嬉しく思いました。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その10

2017年03月20日 | Weblog
10.おわりに

 だいたい言いたいことは書いたので、そろそろ終わりにしましょう。
 映画版に高く評価される点があるのは十分わかってます。それでも、原作漫画に愛着のある身としては、どうしてもひとこと言わずにはいられない点があったのです。
 全然、ひとことじゃ済みませんでしたが。

 最後に思い付きの小ネタとして、原作漫画に出ている米軍の伝単の中身を挙げておきます。(下巻 p.88)


 この文面の内容、どこかで見たような……。玉音放送から言い訳と自己正当化の部分を削除して、臣民に命令している部分だけを抜き出したらだいたい同じ意味になるんじゃなかろうか?

 なんていう爆弾発言を残して終わりたいと思います。
 これは真面目に検証していないので話半分に聞いてください。完全に一致しているわけではありませんが、論旨はとても似ているんですよ。

 どちらも一億総玉砕を散々煽られている日本臣民に「武装解除して粛々と降伏するように(勝手に武装蜂起するのだけは止めてくれ!)」と告げる目的は同じなので、似たような論旨、内容になるのは当たり前と言えば当たり前なんですよね。
 それなのに、片方は所持してるだけで逮捕され、もう片方はわざわざ謹聴させられるだなんておかしなものです。

 「(正義が)飛び去っていく」直前、落とし紙にされた伝単が風に煽られて飛んでいくのですが、果たしてあれは伝単だけを意味していたのでしょうか? ひょっとしたら論旨が同じ天子様のお言葉も空しく飛び去っていったという解釈も……。

 と、まあ、原作漫画はいくらでも深読みできる余地のある作品なので、ねちねち読み込んでいくと面白い新発見がまだまだ見つかると思います。


 きっと映画版のほうが今の世相にカスタマイズされていて、大ヒットにつながっているのでしょう。
 けれど、そういう世相に私は背を向けて、今は筆を置きたいと思います。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その9

2017年03月20日 | Weblog
9.“絵描き”としてのすず=右手について

 映画版への最大の問題点の指摘は終わりましたが、軍への批判性に限らず不満があります。
 それが“絵描き”としてのすずの解釈です。

 “絵描き”とは「絵の才能である人。絵を描くことで世界を認識し、表現する生き方をする人」というような意味合いで使っています。単に絵を描く芸術のセンスがあるだけでなく、絵を描かずにはいられない人、絵を描くことに依存している人というニュアンスも込めています。

 すずが“絵描き”であることは、数々の描写でも明らかですし、すでに多くの人に指摘されています。
 すずは実家に帰った時の小遣いで、真っ先にスケッチブックを買い、馴染み深い故郷広島に別れを告げるためにスケッチするような人物です。また、出征している兄要一に結婚を知らせるハガキにも、祝言のご馳走の絵を描いて報告しています。見たり考えたりすることと、絵を描くことが密接に繋がっているような人物であることがわかります。
 そして、絵を描かずにはいられない人物でもあります。朝日遊郭で迷子になった時も、地面に絵を描いていました。普通の人はまずしない行動ですよね。手持無沙汰だと絵を描かずにはいられない人物のようです。
 そして、絵はすずにとって一番頼りになるコミュニケーションツールでもありました。晴美を失う直前の防空壕で、爆撃の衝撃と音に怯える晴美を慰めるために描いたのも家族の似顔絵でした。

 これだけ深く絵を描くことに依存しているからこそ、絵を描く右手を失ったことが命を奪われるにも等しい被害だという枠組みの物語となっています。
 『この世界の片隅で』という作品は、“絵描き”としてのすずの一生を描いた作品という側面もあります。


(1)慰めと癒しの物語としての“絵描き”の一生

 まず、原作漫画を私がどう読み解いていたかを記していきます。所々に映画版への愚痴が差し挟まれますが、ご容赦ください。

 すずは上に挙げたような“絵描き”、言わば芸術家としての才能を秘めた人物であったのですが、実は原作漫画において絵自体はさして上手いと描写されていません。

 すずが実際に描いた印象的な絵というと、少女期に水原の代わりに描いたうさぎの跳ねる海の絵くらいです。
 その後も生活の端々で絵を描いている描写はあるものの、描いた絵自体にはほとんどフォーカスが当たりません。コミュニケーションツールとして重宝されることはあっても、絵自体は凡庸な漫画的な絵として描かれています。
 ある時点までは。

 その、ある時点とは、すずが右手を失う瞬間です。爆風で右手を失ってから、失われた右手がどことも知れない場所ですずの想像を形にした絵を描きはじめます。
 シロツメクサの花畑に立つ晴美の絵です。(下巻 pp.42-43)


 すずの描く絵の質がこの時点から急激に変わっているのが一目瞭然です。
 これ以降、すずの失われた右手が描く絵は、それまでのちょっと絵が達者な素人レベルを超えて、こうの氏が渾身の力を入れて描いた絵として描写されることになります。

 この絵の変化をどう解釈するべきでしょうか。
 日常の合間に描いていたすずの絵は達者な素人レベルでしたが、右手を失って初めてすずは絵の才能を開花させたのではないでしょうか。
 悲劇性を強調する解釈ですが、守れなかった美晴を偲び、姪の幸福を空想の世界で願わずにはいられない強い想いが才能が花開くきっかけになったのだと考えれば、突飛ではないと思われます。

 こうして開花したすずの絵の才能は、もっぱら失われた右手の描く空想として現れます。以下に列挙してみます。

 ・助かった美晴が花畑で幸せそうに笑っている絵。
 ・紅で描いたリンの一生を想像した連作。
 ・鷺と兎を伴いながら天へと上っていく軍艦青葉。
 ・戦死した兄要一が南洋で生き残った姿を夢想した漫画『鬼イチャン冒険記』。
 ※最終回「しあはせの手紙」では全編に渡って右手の描く孤児の半生と手紙の文面が描かれるのですが、これはイレギュラーなのでここでの考察からは外します。

 これらの絵にはもう2つ共通している点があります。
 1つは絵の主題が“失われたもの”であること。晴美、リン、青葉、要一とすべて死んだり、破壊されたりしたものたちです。
 もう1つの共通点は、絵を描く画材もすずの人生から失われたものだということ。晴美を描いた鉛筆だけは由来が不明ですが、他はすべて消失した描写がされている画材ばかりです。
 リンの生涯を描いた紅と青葉を描いた羽ペンは、戦闘機の機銃掃射で手提げ袋ごと破壊された様子が克明に描かれています。鬼イチャン冒険記を描いたチビた鉛筆は、少女期のエピソードで教室の床下に落した鉛筆です。

 失われた右手が、失われた画材で、失われた人や物を描く。
 これらの共通点から、絵が描かれている場所はこの世ならざる場所(あの世)であり、失われたものを追悼する意味を込めて描かれていたと解釈するのが妥当でしょう。


 映画版への愚痴になりますが、こういう繊細な意味付けが損なわれているのが映画版の気に食わない点です。
 花畑での幸福な美晴の姿は右手の描く絵ではなく、意識を失ったすずの夢として処理されてしまいました。
 『鬼イチャン冒険記』もチビた鉛筆で右手が描いたものではなく、すずの曖昧な空想にされてしまいました。生き残った鬼イチャンが人さらいの“ばけもん”そっくりに扮する『鬼イチャン冒険記』のオチがあるからこそ、橋の上で周作と間違えた“ばけもん”の存在意義が意味を持つというのに……。
   「ひょっとしたら要一も生きていて、人さらいの“ばけもん”に扮して日本に返って来ている可能性もあるかもしれない」
   「そこかしこにあふれる身なりの怪しい不審者の中に兄が紛れているかもしれない」
   「どんな姿になっていても、生きて日本に帰ってきてほしい」
 あの“ばけもん”にはそんな儚い願いが込められているというのに、伏線が張られていないので台無しですよ! ラスト近くの“ばけもん”の唐突な描写も、映画版での粗雑さが際立っている箇所のひとつです。
 そして、わざわざ右手を登場させて羽ペンで描いた青葉の昇天は、リアルに描写したせいですずの右手が描いたようには見えないというチグハグさ……。


 さて、失われた右手が描く空想(すずの願う情景)という形ですずの絵の才能は開花しました。凡百の作品なら、そのまま右手の描く想像によってすずの心が癒されていき心の均衡を取り戻す所です。
 しかし、こうの氏はさらに過酷な展開を続けます。

 すずは失われたものたちを偲び、追悼するために右手の描く絵を想像しているのですが、そのことによって慰められることはあっても癒されることはありませんでした。右手の絵――すずの“絵描き”としての才能や想像力をもってしても、すずの心を癒すことはできませんでした。

 そのことを明示しているのが、歪んだ背景です。
 すずの壊れた心を表現するために背景を左手で描いたような歪んだ絵で表現していたのですが、最後の直前までその歪んだ背景が消えることはありませんでした。

 歪んだ背景が元に戻るのは、広島から孤児を連れ帰り、自分の娘として育てると決めた瞬間でした。
 原作漫画ではカラー見開きで、右手が絵筆(すずの人生において失われたと描写されていない画材です)で描いた呉の夜景が描かれています。そこでようやくすずは、歪んだ背景=歪んだ心から解放されます。

※実はカラー見開きの呉の夜景の後、背景を確認できるのは最後の1コマだけです。元から背景の描線が荒い漫画なので、この最後の1コマの背景が右手が描いたものなのか、左手が描いた歪んだものなのか、判断に苦しみました。小一時間ほど他の個所と比較して、畳の目を表現する線が整っているので、右手で描いたに違いないと結論付けました。

※また、ここの絵筆は、闇市で見かけた絵の具セットである可能性もあります。すずの人生から失われた画材ではなく、“手に入れられなかった”画材を右手が手にとることで、すずの未来が開けたことを象徴させたという解釈もできます。出来すぎかもしれませんが、美しい構造ではあります。


 これは、漫画家であり“絵描き”でもある作者こうの氏にとって、とても残酷な内容でもあります。
 絵の才能を開花させた右手の絵でも、すずの心は癒せなかった。すなわち絵は人を救えなかったという物語を描いてきたわけですから。

 では、何がすずの歪んだ心を癒したのでしょうか?
 それは、孤児の娘という自分より弱く、生きるのに困難な存在を生かそうと決めたことなのだと考えます。自分の助けが無くては生きられない誰かを生かそうとすることが、自分自身の生きる力となり心の傷を癒すのです。それは、絵に象徴される芸術の力にも成し得ないことでした。

 この解釈を支える台詞が、原作漫画の別の箇所に明確に描かれています。
 それは、8/6に義姉径子が晴美のことですずに辛く当たったことを謝り、北條家に残りたければ残っていいと告げる場面でのセリフです。

 「わたしはあんたの世話や家事はどうもない むしろ気がまぎれてええ」
 「失くしたもんをあれこれ考えずにすむ………」

 ここでの<径子→すず>の関係を<すず→孤児>に置き換えると、最終回「しあわせの手紙」でのすずの心が癒される過程とピタリと一致します。

 失ったものをいくら偲んでも、傷ついた心が癒されることはない。むしろ、今生きている他者を生かそうとすることが、傷ついた心を癒し自分の生きる力の源となる。
 原作者こうの氏がこの作品で描こうとしたものの一つであることは間違いないでしょう。
 
 ……にもかかわらずですよ。この感動のラストと呼応する径子の台詞が、映画版ではカットされているのですよ! 勘弁してくれという気持ちになりませんか?

 尺が足りないとか、原作漫画での台詞回しがこなれていないとか、カットしても主題が伝わりやすいとか……。カットしたくなる誘惑はわからなくもないです。けれど原作ファンとしては、すずという人物が物語のラストで見せる心の変化を解釈するうえで重要な伏線なんですから、削らずに活かしてほしかったと思うのです。


(2)まるで違う“絵描き”像

 一方、映画版で“絵描き”としてのすずはどのように解釈されていたでしょうか?
 なお、原作漫画では漫画ならではの表現手法(左手で描いた歪んだ背景など)を駆使して表現しているので、そのままで映像化は不可能なのは重々承知しています。
 仕方がない面があるとはいえ、どれだけ変更されたかを見ていきましょう。

 まずは、右手を失った直後の夢で、すずが花畑での晴美を空想するシーンです。
 原作漫画では、右手が初めて死者を描く才能覚醒の重要な瞬間なのですが、映画版では右手は出てきません。すずの夢、願望を写した美しい情景として現れます。

 では、すずの才能の覚醒はいつなのでしょうか?
 実は映画版では才能の覚醒の瞬間はありません。強いて言えば、小学生の時に水原の絵を代筆した時の才能が順調に育って、すずの中で息づいていたという描かれ方をされています。

 それを象徴するのが、呉への初めての空襲のシーンです。
 空に広がる対空砲の色付きの煙を見上げて、すずは絵筆で空に絵の具を塗っている様子を夢想し、心の中で「ああ……今、ここに絵の具があれば……」とつぶやきます。“絵描き”としての豊かな感性が息づいている証です。

 原作漫画のこの大コマの影だけで描かれた戦闘機を、“すずの想像力の現れ”だと解釈したのだと思われます。(中巻 p.120)


 たしかに山影から飛び出した戦闘機の陰が放射状に広がる姿に写実性はなく、絵画的な雰囲気をまとっています。
 けれど、この大コマに見られる描写や絵柄の変化は、原作漫画ではしばしば差し挟まれている手法です。このコマ以外にすずの想像力が現実の情景に重なると解釈できる描写はありませんし、このコマを“すずの想像力の現れ”と解釈する根拠は薄いように思います。

 一方、不思議なことに、映画版ではすずが“絵描き”の才能を保ち続けていたという解釈と矛盾しかねない設定があります。
 水原が泊まりに来た日の会話で「久しぶりなんか? 絵を描くのは」と問われて、すずは肯定します。憲兵にスケッチを咎められたエピソードを受けて、しばらく絵を描いていないとすずの生活を設定したと思われます。

 けれど、原作漫画でのすずの台詞は「…どうもいけんわ しばらく(鷺を)見んけんねえ」でした。江波ではよく見ていた鷺を、呉では見かけないから上手く描けないという設定になっています。
 原作漫画では憲兵に見とがめられた後も、絵を描くこと自体は止めていないという設定になっています。さすがに野外でのスケッチは控えたでしょうが、リンに頼まれた絵を届けに行ったり、遊郭のテルに南の島の風景を雪の上に描いたりと絵を描き続けているエピソードがちょくちょく挿入されているのです。

 この違いをどう受け止めるかは読み手、鑑賞者に任せます。
 けれど、憲兵に一度叱られたからと絵を描くことを止めてしまって、それでいながら子供の頃からの絵の才能をすくすくと育み続けたという映画版の設定には、ご都合主義的なものを感じてどうも好きになれません。
 原作漫画の手持無沙汰だとつい落書きを始めてしまうすず。見せる人も褒めてくれる人もほとんどいないのに絵を描かずにはいられない、“絵描き”の業を密かに背負っていたすずの才能が、右手を失うことで初めて開花したという悲劇を私は愛します。


(3)“絵描き”のすずと遊郭の女性たち

 すずの絵を褒めてくれる相手の話題が出たので、彼女の絵を褒めてくれた数少ない登場人物、遊郭のリンとテルの話をしましょう。

 すずは迷子になったところをリンに助けられた後日、リンに頼まれた絵を描いて再び朝日遊郭を訪ねます。
 これ、原作漫画でも引っかかりを覚えた点でした。いくらすずがお人好しだからといって、わざわざ遊郭の女性を訪ねるものだろうか? と、現実味の薄い展開に感じていました。

 けれど、今回“絵描き”としてのすずを題材に読み解いていた時に閃いたことがあります。
 それは、すずの絵を褒めてくれる人、評価してくれる人は、実家の妹のすみの他には遊郭の女性たちしかいなかったのではないかということです。

 とても意外なことに、姪の晴美もすずの絵で喜んでいる描写がないのです。日常的にすずが絵を見せているはずなのに、晴美がすずの絵を喜ぶ描写はありません。防空壕で家族の落書きを描いて晴美を慰めているのが、直接絵を見せている唯一の場面です。偶然かもしれませんが、この発見にはかなり驚きました。

※なお、映画版では空襲で大漁となった魚の絵を晴美と楽しそうに描いている回想が挿入されています。この描写自体は極めて自然なもので違和感はありません。むしろ、原作漫画でこういう晴美との絵を通しての交流が描かれていないのが不思議なくらいです。その描かれていなかったことに意味を見出そうとするのが、この段の考察になります。


 北條家の面々からすずの絵への反応がまったく描かれていないのは、絵や芸術への無理解を暗示しているのかもしれません。すずに家事労働を課す北條家が“絵描き”としてのすずを抑圧する存在であるのは論ずるまでもないでしょう。むしろ、“絵描き”のすずを抑圧する存在であることを際立たせるために、他の面では申し分のない善良な家族として描かれている節さえあります。

 “絵描き”であるすずは、しょっちゅう絵を描いているのですが、それを価値のあるものと評価してくれる人が彼女の周囲にはいません(美晴でさえも!)。まして、発表する場所や機会なんて望むべくもありません。
 そんなすずがリンに絵を描いて欲しいと頼まれて、張り切ってしまったと考えれば、わざわざ絵を届けに遊郭に寄ったことにも説明が付くと思うのです。

 そして、もう一人、リンの生涯を描く紅の元々の持ち主、遊女のテルともすずは絵を通して交流を深めます。(中巻 p.112)


 雪の上に描いたこともあり決して上手くないのがご愛敬ですが、すずが描いた絵で喜んでくれた数少ない人物がこのテルだったというのは、“絵描き”としてのすずを読み解いていくうえで大事なことだと思うのです。

 絵を描くのが大好きでアイデンティティの一部であるのに、世間からは絵を評価されることのないすず。
 貧困のため(男社会を通してしか)文化に触れられなかった遊郭のリンやテル。

 この2つがたがいに求め合い、結びついたことには必然性があったように思えてなりません。
 すずの絵そのものを、世の中に認められることのない日陰の存在として、遊郭の女性たちに重ね合わせることもできます。その後の運命も、現世で花開くことなく儚く消えてしまったという意味で共通しています。
 当時の日本社会の女性への抑圧をさりげなく描いている作品だけに、深読みのし過ぎということはないと思います。

 そして、抑圧されたすずの絵は、風邪を拗らせて死んでいくテルの(おそらくは最後の)喜びとなったのです。
 絵には死に瀕した人を慰め、笑顔にする力はあるのです。壊れた心を癒す力はないとしても、絵(芸術)には絵にしか成し得ない価値があることを、この場面は象徴しているのだと思うのです。

 なお、映画版では“絵描き”としてのすずを気にかける役割は、出番を消された遊郭の女性たちに代わって、水原に割り振られています。原作漫画にあった社会から抑圧された兵隊としての側面は、映画版の水原から消されているのはすでに読み解いた通りです。
 水原がすずの絵を気にかけていたのは、幼馴染みとしての個人的な好意によるもので、深い意味合はないと解釈するのが妥当でしょう。


(4)“絵描き”の才能としての凝視

 私の映画版への不満点で、一番共感を得られそうにない点について記しておきます。

 映画版で世間的に高い評価を受けていながら、個人的には受け入れられないシーンが2つあります。
 ひとつは、呉に入港する戦艦大和を見て、大和での炊事や洗濯を心配して驚くシーン。
 もうひとつは、初めての呉への空襲で対空砲の色付きの煙を絵具になぞらえるシーンです。

 我ながらひねくれていると思います。世間的には大絶賛の演出ですからね。
 前者は生活者としてのすずを強調する描写として絶賛されてますし、後者も絵描きとしての才能を秘めたすずを表現する場面として色んな人が褒め称えています。

 原作漫画ではどうだったでしょう?
 どちらの場面も驚いて目を見開いて凝視するという、ある種平凡で面白味のない驚き方をしています。映像作品としての面白味を出すという視点で見れば、映画版の描写は間違いなく原作漫画から改良されていると言えるでしょう。

 けれど、この目を見開いて凝視するとう驚き方こそ、“絵描き”であるすずの現れだと私は思うのです。
 今までの生活での想像を超えた情景を前にした時、すずは何をおいても凝視して観察してしまう人でした。大和の場面では凝視のあまり身を乗り出して段々畑から落ちますし、初空襲では自分の身の危険も忘れて見上げ続けています(一応、晴美を庇おうとはしている)。
 この初めての情景を目に焼き付けようと観察する性質こそ、すずの芸術家としての資質の現れだと思っていただけに、演出が変えられて残念な気持ちがあるのです。
 食事の心配をするより、絵の具の空想を重ねるより、始めて見る情景には何を置いても観察をする人物としてすずを理解していただけに、映画での描き方にどうしても違和感を覚えてしまうのでした。(ただし、明らかに面白味の増す演出への差し替えなので、批難するのも大人げないというジレンマを抱えています)

 同じような観察をしている場面が、原作漫画ではもう2つあります。
 初めて飛行機雲を見た時、すずは倒れそうなほど背を反らせて仰ぎ見ています。
 そして、8/6のきのこ雲にもやはり目を見開いて驚き、他の家族が家の中の入った後も一人外に残って見上げ続けています。

 すずの失われた右手が初めて描く晴美の空想に、観察したばかりの飛行機雲がさっそく取り入れられているように、すずの凝視を“絵描き”としての才能の現れだという解釈は的外れではないと思います。

 なお、この凝視に入るかどうか微妙なのが、1945年7月の夜の空襲で呉の市街地が全焼する様子を庭から見下ろす場面です。見開き2ページを使って大延焼を描いているのですが、ここでのすずに観察しているというニュアンスはなく、呆然としているように見えます。さすがに、今まさに火に巻かれて人が死んでいると想像できる情景を前にしては、観察するどころではなかったようです。

 さて、すずが驚愕しながら観察した対象を並べてみると、現在の私たちとの認識のギャップを実感できます。
 ・規格外の大きさの戦艦・大和
 ・初めての空襲(空を覆うような戦闘機の大群)
 ・初めて目にする飛行機雲
 ・原爆のきのこ雲

 これらの4つの初めての情景にすずは同じように驚き、観察眼を向けました。
 現在の私たちの常識に照らし合わせれば、原爆のきのこ雲が別格で、次いで戦闘機の群れと戦艦大和、もの珍しさがガクッと下がって飛行機雲という順位付けがされるでしょう。
 けれど、この4つの情景がどれも初めて目にする情景で、同じ観察の対象だという視点ですずは生きてたわけです。きのこ雲と飛行機雲が同じ“始めて見た観察対象”にカテゴライズされるという認識のギャップを知ることも原作漫画の面白さだと思います。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その8

2017年03月20日 | Weblog
8.消えたくすのき公

 ずいぶんと攻撃的な書き方になってしまったので、指摘の主旨は今までと同じながらもっと軽くて笑える点について言及したいと思います。

 少々細かい点なのですが、映画版で削除されて残念だったもののひとつが、くすのき公です。
 楠公飯で楠木正成が出てきただろうって?
 いや、もっと深くて情けない意味がくすのき公には込められていたと思うのです。

 そもそも、原作漫画で楠公飯が出てきた回の戦中レシピのエピソード。あれが、ただの戦時中の生活の知恵やほのぼの描写だと思ってる人がいるんじゃないかと不安に思っています。
 映画の宣伝でもすずが笑いながら調理しているシーンが出てきますが、ほのぼのした日常生活を印象付ける【だけ】のシーンじゃないと思うのですよ。

 結論から言うと、あれは台所に国策プロパガンダが入ってくる様子を描いているわけでしょう。
 楠公飯という名称自体が、楠木正成の人気というか知名度にあやかっているわけですが、楠木正成が天皇への忠を貫いた理想の軍人像として、国威発揚の宣伝キャラとして盛んに使われいたのは周知のことだと思います。
 だからこそ、少ない米でかさを増す不味い炊き方に「楠公飯」だなんて大仰な名前を付けて流行らせようとしたわけです。

 あまりにも不味かったので楠公飯のプロパガンダは失敗しただけじゃないか? という向きもあるかもしれません。
 けれど、その前に出てきた春の野草レシピもプロパガンダの一環と解釈するべきだと考えています。

 原作漫画では、摘んできた野草や食材を描いたスケッチブックの一角にマンガちっくな「くすのき公」がしつこく描かれています。(上巻 p.113-115)


 野草レシピもくすのき公=国威発揚の宣伝キャラとセットで描写されていることには意味があると勘ぐるべきです。

 そして、調理法を説明するナレーション部分は文語調になっていて、文字媒体から得た情報を元にすずが野草を調理していることが暗示されています。
 映画版では、野草の調理法を教えてくれた刈谷さんが本(おそらく雑誌)を見ながらすずに説明している描写になっており、文字媒体を通して知った知識であることが明示されています。これは良改変だと思います。さらに、ノベライズ版では刈谷さんの婦人雑誌が情報源であることが明示されています。

 これらの描写から、野草の調理法も楠公飯と同じ雑誌の記事から得た知識であると考えるが妥当だと思われます。

 それで、野草レシピも雑誌を通して得られた知識として何が問題が? 
 たとえ国策プロパガンダだったとしても、役に立つ知識が得られたのならいいじゃないか。

 そういう意見もあるでしょう。
 しかし、プロパガンダというのは一見して役に立ちそうな情報とセットになることで流布されるもの。そういう面を描いていると見るべきだと思うのです。
 原作漫画には他にも、連載一回分丸々使って戦中の『愛國いろはかるた』を紹介するだけの回もあったりと、日常生活に戦争や国策プロパガンダが忍び込んでくる描写を意図的に盛り込んでいます。


 さて、台所向け国策プロパガンダゆるキャラとして登場したこの「くすのき公」。一回だけの捨てキャラではありませんでした。原作漫画では、もう一度登場シーンががあります。
 それが、戦後の闇市で残飯雑炊を食べた後のカットです。(下巻 p.191)


 「UMA~」とローマ字(敵性言語の文字!)で感嘆するすずと径子の上空に、くすのき公が飛んでいます。
 これが意味するところは明らかですが、あえて解釈しておきます。
 こうの氏は、この残飯雑炊に舌鼓を打つ場面で、楠公飯や野草レシピのことを思い出すようにと読者に強いているわけです。残飯雑炊と台所に入ってきた国策プロパガンダ料理を関連付けて読み取るようにと。

 さらに嫌なことを指摘しておきます。残飯を雑炊にして食べているのは敗戦直後の最も食糧難が厳しい時期だったからで、本来は人間の食用ではありません。軍の食堂から出る残飯というのは、本来養豚業者が豚の餌として回収するものです。

 つまり、米軍にとっての豚の餌に、味においても栄養面でもはるかに劣るものを、大日本帝国は国策プロパガンダで国民に広めようとしていたわけです。
 すずや径子は美味しさに破顔していますが、食を通して圧倒的な貧しさ、国力差というものを思い知らされている瞬間でもあるわけです。
 完敗とはこのことです。情けなさや居た堪れなさに、笑うしかありません。

 天駆けるくすのき公は澄ました顔をしてますが、居た堪れなさに飛び去った(=昇天した)と解釈するのが妥当でしょう。
 そして同時に、実際の占領軍との接触が増えることで、くすのき公に代表される戦時中の国策プロパガンダが、すずたち庶民の中からも消えていったことも象徴しているのだと思います。

 映画版のすずが野草を調理する様を見て「戦争中も厳しい食糧事情の中、工夫してたんだなあ」と感心したり、ほほえましく思う人もいるようですが、原作漫画ではこういうどんでん返しの伏線でもあったことを忘れて欲しくないわけです。

 原作漫画を読んだ時から、ゆるキャラ「くすのき公」は好きなキャラだっただけに(上巻で一番好きなキャラかもしれない)、映画版で消されてしまったのは残念でした。
 映像化しづらい要素だと思い覚悟はしていましたが、ここでも大日本帝国の情けなさを意味する描写はカットされるのかよと思ったのです。


 ちなみに、映画の脚本やコンテに準拠しているらしいノベライズにおいては、残飯雑炊の美味さに感動した理由は、塩や醤油といった調味料が不足している中で久しぶりに口にした濃い味付けだったからだとされていました。
 ……嘘じゃないでしょうし、そういう面があったことは否定できません。でも、残飯雑炊と対比すべきはくすのき公が広めた戦中のレシピだということは、改悪してほしくなかったと思うのです。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その7

2017年03月20日 | Weblog
7.悪い意味で“普通の日本人”

●「海の向こうの米や大豆」の暴力性?

 5.の敗戦の日の描写の解釈で、後回しにしていた点を検証していきます。
 玉音放送後のすずの台詞の改変、米や大豆を通して植民地主義の暴力を察するという展開についてです。

 まず違和感を覚えるのは、「輸入した米や大豆を通して植民地支配、植民地経営の構造的暴力に気づくことができるのか?」という疑問がわくからです。
 1945年の出来事です。被植民地の知識人層ならともかく、日本内地の若い主婦であるすずが植民地支配の構造的暴力を理解するというのは不自然に感じませんか。
「今の価値観で過去を批判するな」なんていうしょうもない難癖がありますが、“植民地支配の構造的暴力”なんて概念は典型的な現代人の価値観ではないでしょうか。少なくとも、1945年の普通の日本人である北條すずが触れる機会のなかった価値観であるのは間違いありません。
 では、すずは自力で植民地支配の構造的暴力に気づいたのでしょうか? 私も正義をめぐる考察では、このシーンに限りすずに驚異的な察しの良さを認めているので、頭ごなしに否定するわけにもいきません。

 片渕監督はトークイベント(http://konosekai.jp/report/1183/)で次のように語っています。

「できるだけ今回の映画では、現代の我々から見た理念みたいなものを、すずさんの上に重ねないようにしようと思ったので、そういう意味でも、彼女は当時の食べていたものから、自分たちの行ったことが身に沁みてしまうとうことにしたかったんです。」


 えーと……片渕監督にとっては、“植民地支配の構造的暴力”という概念が現代的な価値や理念ではなく、1945年の日本の主婦が食べ物から無理なく発想しうる概念だったと理解しているようです。にわかには信じられません。

 ……ところが、どうやら必ずしも間違いではなかったようです。
 原作漫画、映画版双方を対象とした『この世界の片隅に』のある感想会に参加した時に、当時の庶民の中にも植民地からの米が内地で流通してることについておかしいと感じていた人がいるという話を聞きました。
 「あんな安い値段で流通してるなんて、まともな手段で入手した米のはずがない」という感覚で、朝鮮や台湾といった植民地に何らかの無茶を押し付けなければ米を内地で流通している値段で輸入できないことは推測可能だったようです。さらに、朝鮮や台湾が大量の穀物輸出を行えるような豊かな農業地域ではないという当時の一般常識を押さえておけば、十分推測できたことなのでしょう。
 というわけで、「海の向こうの米や大豆」から植民地支配の暴力に気づく筋道は成り立ちうるようです。違和感を覚えた私のほうが間違っていました。

 けれど、物事はそう簡単にはいきません。上に引用したトークイベントで、片渕監督は次のようにも語っています。
 
「それまでのすずさん自身が、朝鮮の方に暴力を振るっている場面があったか?というと無いんですよ。そういうところを彼女は目撃もしていない。」


 当時の呉には港湾労働者や工場労働者として少なくない朝鮮人が働いていたようですが、彼らへの暴力(差別や抑圧を含む広い意味での暴力)をすずは見たこともないというのが、監督の解釈であり映画版の設定のようです。当然、植民地からの米や大豆も暴力=「まともでない手段で輸入した」とは思いもせずに生活してきたことになります。
 けれど、8/15の玉音放送に激昂していた時に、太極旗を見て一気に悟ったというわけです。

 なんだか、狐につままれた気分です。原作漫画の解釈が頭を離れないせいなのか、映画版のすずが何に対して怒り、どうして怒りが覚め、慟哭するに至ったかが上手く呑み込めないのです。
 少し整理してみましょう。

 1.すずの怒りの発端は、米軍の圧倒的暴力への反発、抵抗心でした。
 2.その怒りが、戦争に協力する(銃後の暮らしを守ることも戦いと認識する)ことに繋がります。
 3.日本の戦争に協力する気満々だったすずは、敗戦を受け入れた玉音放送に激昂します。
 4.怒りのままに水汲みに走ります。
 5.太極旗を見て、輸入米から植民地への暴力性に気づいて泣き崩れました。

 4.の時点での心情が鍵であるように思います。玉音放送を聞いての怒りを引きずりつつ、日本の植民地支配の暴力性に気付くことによって打ち砕かれる怒りとは何か? 
 2.(1)で検討してうまく解釈できないと否定した、反暴力の倫理観からの怒りと解釈するのが妥当でしょうか。米軍への反発から生まれた暴力への反抗心を核に激昂して徹底抗戦を叫んだものの、自分を含む日本社会が植民地へ暴力を振るってきたという現実に直面して怒りが挫かれ、後悔するに至った……。
 その後のすずの言動と矛盾するため一度は否定しましたが、この解釈しかないように思われます。後の言動との不一致は、脚本上の瑕疵ということなのでしょう。

 反暴力の怒り
 →太極旗が揚々と翻るのを見る
 →被植民地出身者は敗戦を喜んでる?
 →そう言えば、毎日食べてる米も大豆も朝鮮産や台湾産だった
 →もしかして、日本は暴力的に食料や資源を奪ってた?
 →日本も暴力を振るってきたなら、この怒りに正当性はない
 →泣き崩れるしかない。

 この迂遠な連想ゲームがすずの頭の中で一瞬で起きていたため、すんなり呑み込めなかったようです。反暴力の怒りと米や大豆の間に直接の関連性がなく、発想の飛躍が大きいことも混乱の原因でした。さらに言うなら、反省の対象が原作と映画版で違うことも、私の頭の中で不協和音を奏でていたようです。

 原作漫画では国が掲げた正義にすがって戦争に参加する意思を持ったことがすずの罪であり、後悔の対象でした。
 対して映画版では、植民地支配の暴力で得たものを(それと知らずに)享受していたことが罪であり、後悔の対象となっています。

 「尊い犠牲」という意味を剥奪されたことへの怒りや、戦争に参加する決意を罪として問われるという原作にあった要素は、全否定されないまでも薄れています。戦争への態度がどのようなものであれ、「海の向こうの米や大豆」を食べて生活していたこと自体が加害であり、責められるべきものだと映画版は描いています。


●大雑把な言葉「うちらのこれまで」

 後悔や反省の対象が原作漫画から変わっていることを象徴するのが、改変された次の台詞です。

 「飛び去っていく……うちらのこれまでが。それでいいと思っていたものが」

 原作漫画では、ここで飛び去っていくのは正義(=大日本帝国が聖戦遂行のために掲げた大儀)だったわけですが、映画版では「うちらのこれまで」という今までの生活もすべてひっくるめて否定しています。
 生活の基本である食料からして瑕疵のあるものだったのだと認識したのだから、生活すべてを否定して反省するのが正しい。映画版のほうが戦争に加担していた庶民の反省を深く描いている。
 ……なんて、評価を下している人もいるかもしれません。

 けれど、私は「うちらのこれまで」という大雑把な括りが曲者だと睨んでいます。

 その証拠に、映画版ではさらにどんでん返しが待っています。
 敗戦後の11月、着底した青葉の残骸と水原の傍らを通り過ぎながら美晴を思い出す場面で、すずは「笑顔の容れもの」として生きることを決意します。
 ここは水原や美晴に象徴される今まで生きてきた中での後悔を、どう受け止めて生きていくかが描かれる場面なのですが、映画版では晴美の笑顔に代表される良かった思い出だけに言及されていたと記憶しています。その良かった思い出の足元では植民地支配の暴力で他者を踏みつけていたことに気づいたはずなのに、そのことへの言及はありません。
 あえて嫌な言い方をするなら、笑っていた晴美も「海の向こうの米や大豆」を食べていたはずなのですが、そのことはすずの頭の中からすっぽり抜けてしまっているのです。8/15のすずの後悔や反省はどこへ消えてしまったのでしょう。
 別に晴美にまで植民地支配の暴力の責任を負わせたいわけではありません。しかし、ここで「晴美(罪のない子供)のためなら、海の向こうで誰を飢えさせても仕方がない」という言い訳を用意したら、植民地主義の暴力容認まで一直線ではないでしょうか。

   反省する点もあったかもしれないが、畑での慟哭はナイーブすぎた。
   植民地支配の暴力を後悔? そんなこと言って、美晴の笑顔まで否定するつもりか?
   反省なんて辛気臭いことは忘れて、明るい面だけ見て逞しく生きていこう。
   誰かを踏みつけなくては生きていけない。それが人生だ。仕方がない。

 こんな声が聞こえてきそうな意味の逆転、反省の無効化が起こっていないでしょうか。

 なお、原作漫画では「記憶の器」というもっと価値中立的な表現で、後悔の気持ちをも受け入れて生きていくしかないという決意が先に台詞で表現されています。その後に、晴美の記憶は笑顔とともに思い出して、大事にして生きていくという台詞に続くのです。
 そもそも原作では晴美との思い出を支えた戦中の日常を雑に否定していないので、意味の逆転が起こるべくもないのですが。否定され、反省すべきは国の掲げた正義とそれを信じてすがったことだと線引きされていました。付け加えるなら、日常生活の足元で起きていた暴力に気づかずに見過ごしてきたことや、その暴力を止めるために何をしなくてはならないかも、反省とともに考えていかなくてはならないでしょう。でも、そこまでです。晴美の笑顔に代表される戦中の生活において楽しかったことや良かったことをいくら肯定しても、8/15の慟哭や反省とは矛盾しないのです。

 雑に広く薄く反省するポーズを取っておいて、後から「良い所もあった」「全否定するのも間違いだ」と言って、手のひらを返したように過去を肯定し、反省を有耶無耶にして無かったようにふるまう……。

 一億総懺悔という言葉を思い出しませんか?
 反省の主体を“雑に広く薄く”とれば「一億総懺悔」になり、
 反省の対象を“雑に広く薄く”とれば「うちらのこれまで」になる。
 こんな風に思うのですが、いかがでしょう。どちらも反省や責任を有耶無耶にする詐術ではないでしょうか。

 そして、“雑に広く薄く”設定された反省は、晴美の笑顔の記憶というポジティブな印象で簡単に覆されてしまいます。
 少なくとも、8/15の後悔と反省の対象を「うちらのこれまで」と雑に表現してしまったがために、畑での慟哭と美晴との思い出の肯定が不協和音を奏でてしまっています。
 映画版を評価する人は、この不協和音をどう処理しているのでしょうか?

 後から出てきた晴美の「笑顔の容れもの」で、慟哭の中身がかき消されていませんか?
 8/15の慟哭を、一億総懺悔的な粗雑な反省の素振りだけで済ませてしまってませんか?


●他にも見られる慟哭の軽減化、無効化

 原作至上主義者の難癖だと思われているかもしれません。
 けれど、映画版において、すずの後悔と反省を軽減化、無効化する描写はここだけではないのです。

 8/15の慟哭を振り返ってみます。

 「うちも知らんまま死にたかったなあ……」

 原作漫画にあったこの言葉は比喩ではないでしょう。このまま命を絶っていたかもしれないほどすずは深く絶望していました。
 「うちも」という主語に注目してください。すでに死んだ人たち(はやり晴美か?)と自分を比較して、偽りの正義の正体を知らずに死ねたことを羨ましく感じているのがわかります。

 そして、原作漫画では、ここで失われた右手が現れます。泣き崩れるすずの頭を撫で、泣き止ませると消えて行きます。
 この右手はしばしば重要な場面で、すずの空想と思われる絵(や手紙)を描くという形で登場するのですが、すずに直接介入するのはこの一回きりです。なので他の出現例と比較することはできませんし、言葉による説明も一切ないので、このシーンでの意味を特定の解釈に収束させることはほぼ不可能です。
 けれど、最大公約数的に次のようには言えるかと思います。
 失われた右手はすずが死を口にするほど深く絶望していた時、しかも他に誰も助けてくれる人がいない孤独な状況で、すず自身を慰め死を思いとどまらせた。
 他の誰も助けてくれない孤独の中、死を止めるために差し伸べられた奇跡のように私には思われました。

 対して映画版ではここの描写はどうだったでしょう。

 「ああ……何も考えんボーっとしたうちのまま死にたかったなあ……」

 死を願う趣旨は同じですが、原作よりも柔らかい印象です。「うちも」という主語が変更されたために、他の死者を思い起こして比較する生々しさが消えているためでしょう。死を願う本気度や切迫感が薄い印象を受けます。
 そして、失われた右手の慰め(救いの手)は畑の慟哭には出てきません。泣き崩れたすずの姿からカメラがパンして、野菜と畑に刺さった焼夷弾を写して場面が切り替わります。
 植民地支配の暴力性に気づいたが故の絶望は、本気で死を願うほど深いものではなく、右手の助けという奇跡や神秘体験がなくても回復できる程度のものだったのでしょうか。

 失われた右手が出現するのはその後、敗戦直後の北條家の家族団らんの場面ですずの頭を撫でるのです。言うなれば、北條家の家族と支えあって生きていく気力を取り戻したすずの「もう大丈夫」という安堵感を象徴するようなタイミングで出てきます。
 失われた右手は元から抽象度が高くて解釈や演出の良し悪しを判断しづらい存在なのですが、この改変は意味を変えすぎだろうと思うのです。
 百歩譲って、すずの生命力や絶望の中でも生きようとする意志を、畑の植物の逞しさに重ねて表現したかったので右手の演出は削除したというのなら理解はできます。しかし、だったら家族団らんなんてぬるい場面に右手を流用するんじゃないと言いたくなります。

 ……書き出したことでかえって難癖くさくなってきましたね。右手の演出の変更には不満大なので、つい感情的な書き方になってしまいました。

 でも、映画版で追加されたこの敗戦直後の家族の団らんに潜む欺瞞は大きいですよ。
 とっておきの白米を炊いて家族みんなで食べるわけですが、その米にすずは後ろめたさを感じなかったのでしょうか? ついさっきまで、米や大豆に象徴される植民地支配の暴力に衝撃を受けて慟哭していたのは何だったのでしょう。後悔で泣き崩れていたのは、ただのポーズだったのでしょうか。

 内地米だから植民地とは関係ない? そのとっておきの内地米を今まで秘蔵できていたのは、植民地からまともでない方法で収奪してきた米を食べていたからでしょうが!

 銀シャリ様の前では、いかなる反省や後悔も無効である。

 ……こういうことでしょうか? 家族みんなで白米ご飯を囲んでいたら、植民地支配の暴力の反省だなんて辛気臭いことは忘れてしまうものなんでしょう。
 片渕監督もさすがに意図していなかったでしょうが、この極めて現金な態度は、ある意味戦中派の日本人の生々しい姿を写しています。

 冗談めかして書きましたが、これこそが戦前、戦後の日本人に一貫する態度のような気がしてなりません。夕餉のすずだけでなく、さっさと敗戦を受け入れた多数派の人々の行動原理もこの一言で説明できてしまいます。
 なお銀シャリには、生存に必要不可欠な食料/物資という意味と、贅沢や儲けという意味の両方が当てはまります。広辞苑によると「設け/儲け」には、「利潤」の他に「食物」や「ご馳走」という意味もあるようなので、「もうけの前では、いかなる反省や後悔も無効である」と言い換えてもいいのですが、「銀シャリ様」のほうが語感的に面白いと思いませんか。

 あー……今になって気づきましたが、この8/15の白米ごはんを囲んでの一家団らんが、枕崎台風の大笑いの代わりに挿入されていたわけですね。一応、戦争が終わったタイミングで家族みんなで笑顔になってますし、灯火管制から解放された明りの灯る夜景も戦争の抑圧が取り除かれた解放感を象徴してます。
 原作の意図を汲んだ良改変と言いたいところですが……。お上品すぎるきらいがあって私は好きになれません。原作の「迷惑な神風じゃ!」にあった神州日本の幻想を笑い飛ばすような豪快さ、自由さが失われてしまって、既存の価値観や美徳の延長線上に納まっているあたり、混沌を嫌い秩序を称える映画版らしい改変だと思います。


 原作の北條すずという架空の人物は、玉音放送の直後に徹底抗戦を叫んで激昂したかと思えば、飛び去っていく正義について思いを巡らせ、町に翻る太極旗を見て植民地主義の暴力を理解して慟哭し、本気で死を願うほど絶望したところを、失われた右手(自分の半身)に救われるという、とてもユニークで複雑な精神を持った主人公だったわけです。笑顔と共に晴美を思い出すという台詞も、負の記憶も引き受ける「記憶の器」というストイックな宣言と共に発せられました。

 それが、一億総懺悔的な雑な反省を済ませた後は、銀シャリ様を前にして後悔した内容をきれいさっぱり忘れ、「笑顔の容れもの」として良かった思い出に浸り、前向きに逞しく生きていく人物に変えられてしまいました。片渕監督が志向した当時の普通の日本人らしさはよく出ています。悪い意味で。戦後の日本人の典型と言ってもいいでしょう。
 これはただの嫌味ではなく、片渕監督がインタビュー等で語っているように、敗戦当時の日本人の日記等を参考にして敗戦時のすずの言動を解釈、再構築したのなら、当時の日本人の生々しい無責任さが映画版のすずに反映されるのも当然だったのかもしれません。

 ともあれ、8/15のすずの慟哭を原作よりも軽いものだと印象づけようとする態度は映画版において一貫しています。そして、家族の絆(団らんや笑顔)で慟哭を引き起こした負の感情(後悔や絶望)を和らげて、有耶無耶にしてしまう手法も共通しています。
 これらの改変がどれだけ意図的にしたものかはわかりません。
 けれど、あの慟哭の重さを軽減しようという意図があったのだとしたら、鮮やかとしか言いようがありません。

 素朴に、好意的に解釈するならば、「敗戦前後のすずの精神的な危機を支えたのは北條家との絆だった」というテーマを新たに立てて、そのテーマに合わせて描写や台詞を調整した結果、輸入食料から植民地支配の暴力に気づいたという改変と予期せぬ不協和音が生じたということでしょう。
 でも、それは「うちらのこれまで」なんて雑な形で否定する対象を括った瑕疵を容認する理由にはなりません。

 それよりは、もっと単純に、原作にあるすずの慟哭や後悔、反省を快く思わない層――大日本帝国の偽りの正義や植民地支配の暴力を反省したくない層――に媚びるために改変したと考えるほうがスッキリします。「媚びる」という表現が気に入らないなら、「反感を買わない」と言い直してもいいです。
 すずの心の声から「正義」を削除し、慟哭するほど後悔した「これまでのすべて」も晴美の笑顔の記憶で上書きして消してしまう。銀シャリ様を前に笑顔を浮かべる家族の団らんの図を出しておけば、直前の後悔の内容と矛盾していても異を唱える日本人なんているはずがない。
 映画版が達成しているこの成果を最初から狙っていたと考えるほうが自然ではないでしょうか。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その6

2017年03月20日 | Weblog
6.消された枕崎台風と敗戦後の混沌

 敗戦後の描写となると、さらに露骨に原作を改変しています。
 最も顕著なのが、原作での8/15の次の回、枕崎台風のエピソードを丸々削除していることです。

 この枕崎台風のエピソードは、原作でもなかなかに不可解な回だったりします。何しろすずが絶望の淵に落とされた8/15の直後の回だというのに、底抜けに明るいのです。
 戦争に負けた上に、広島で入市被爆した伯母夫婦は体調が優れず、台風で納屋はつぶれ、周作は屋根に穴を開け、義母のサンは頭から血を流し、坂道が崩れて径子は泥まみれになり、家長である円太郎は解雇され……。北條家にありとあらゆる災難が降りかかります。
 しかし、その苦境のどん底で北條家の人々は実にいい笑顔で大笑いするのです。(下巻 p.103)


 終いには自棄になって「ほんまに迷惑な神風じゃ!」と笑い飛ばす始末です。

 この大笑い、作中のある伏線を回収したものだと私は解釈しています。その伏線とは、憲兵に叱られるエピソードの前半にサンが漏らした言葉です。
 「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」
 この言葉には、当該エピソードのラストで一旦オチが付きます。憲兵に勘違いされたすずに北條家一同が大笑いしている中、すずだけが「素直に笑えんのはうちだけか…………」と拗ねています。
 けれど、この家族のささやかな幸せを願う言葉が実現するのが、枕崎台風のエピソードでの一同大爆笑になるのです。原作漫画を確認しましたが、敗戦後の枕崎台風まで一度も北條家の全員が笑うシーンは出てきません。敗戦後の世界を描く第一回目にこのエピソードを置いたのは偶然ではないと思います。

 その意図は明白でしょう。
 家族みんなが笑うというささやかな願いさえ戦争中は叶わなかったが、戦争が終わったとたん笑えるようになったということです。さらに言えば、戦争中にあった有形無形の抑圧が敗戦で取り除かれ、ようやく心から笑える世の中が到来したということです。


 この一同大爆笑に限らず、枕崎台風のエピソードでは社会の抑圧や箍(たが)が外れた様子がいくつも描かれています。

 周作は占領軍から逃亡する上官に付き添うよう命じられ、出張の準備を始めています。
 解雇された円太郎は、軍事物資を横領して作ったクワを退職金代わりに持ち帰ってきました。

 それまで真面目な勤め人に見えた円太郎からは考えられない行動ですが、敗戦直後の箍が外れた日本社会ではこういう犯罪まがいのこともしないと生きていけなかったのでしょう。
 このクワはおそらく闇市で売って、食料を買う資金に換えたのだろうと想像できます。もしくは、農村へ持っていって食料との物々交換に使われたのでしょう。

 こうした敗戦後の日本の混沌としつつも底抜けに明るかった空気を象徴するエピソードを、原作漫画では面白おかしく描いています。
 しかし、映画版はこれらの混沌とした社会描写を丸々削除してしまいました。それどころか、真逆の印象を与えるエピソードに作り変えてしまっています。

 円太郎は物資を横領してクワを作らずに、機械の図面を焼却処分する様子が描かれました。軍関係の資料を処分せよという命令に従ったのでしょう。
 家計のために軍事物資を横領するアナーキーな円太郎お父さんの存在は消されて、軍の命令に最後まで忠実に従う生真面目な技術者にされてしまいました。

 生活者であるすずの目線で戦争を描くのであれば、戦後の混乱期の闇市で物資を購入するお金の出所は大事でしょう。退職金代わりの新品クワがなければ、どうやって現金を得たのかという疑問が残ります。

 なお映画版のスタッフロールでは、北條家のその後のイメージカットで円太郎がクワを持っていましたが、北條家が持っていた耕作地はすずに好き勝手にさせる家庭菜園レベルの広さでしたので、円太郎がクワで耕作しても家計を支えるのは難しそうだと考えるのは私だけでしょうか。戦後の混乱期に家計は周作からの収入に頼って、リタイアした円太郎は家庭菜園を楽しんでいたのでしょうか。


 もっと酷い改変が行われたのが周作です。
 占領軍からの逃亡を計画していた上官の話が削除されただけではありません。
 原作漫画の次の10月のエピソードでは、周作が徳山で起こった反乱を詔勅で制圧(説得?)するために出張する場面から始まります。
 「正義が飛び去っていく」と感じたのはすずの個人的な感傷などではなく、同じように旧来の正義に固執していた人々が他にもいたことが描かれています。
 それなのに映画版では、周作の出張の理由は具体的には触れられず、「海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」という台詞に変えられてしまいました。

 軍中枢への求心力が失われて反乱が起こったというエピソードを、軍解体までの秩序維持を決意する話に差し替えるだなんて、真逆の印象を与えようとしているとしか考えられません。

 もちろんミニマムな視点であれば、原作漫画の混沌とした日本も、映画版の秩序を保った日本もどちらも事実ではあるでしょう。敗戦後に軍事物資を横領した工場もあれば、軍の工作に従ってせっせと図面を焼却した工場もあったでしょう。占領軍の追及を恐れて逃亡を図った軍人もいれば、最後まで秩序を保とうと職務に励んた軍人もいるでしょう。
 それらのミニマムな視点での事実の中から何を選んで描くかが、創作するという行為でしょう。原作が何を描こうとしていたかという意図そのものを変更することは、原作への冒涜に他なりません。

 時代考証の結果、原作通りのエピソードは描けなかった可能性もあります。
 例えば、徳山の反乱制圧に呉の軍法会議の禄次は参加していないという記録が残っていたなどの事情があるなら、原作通りにはできないのも理解できます。
 けれど、それならば原作漫画が描こうとした社会の秩序が崩れて混沌とした様を描く別のエピソードを挿入するべきです。間違っても、日本社会や軍は最後まで規律正しく秩序を保っていたという正反対の印象を与えるエピソードに差し替えて良いはずがありません。

 映画も前半では、呉の灯火管制の代わりに列車の海側の窓を閉める命令を出し監視する様子を描くなど、原作の意図を尊重した改変ができていました。
 なぜ戦後描写に限って、正反対の印象を与えるエピソードに変更されたのか、理解に苦しみます。


 ……嘘です。ここまでくれば察しがつこうというものです。
 3つのシーンを原作漫画と映画版の描写の違いに注目してを検討してきました。

 水原哲のエピソードでは、彼の精神を不安定にした海軍内での私的暴力の問題が不自然にピンポイントで消去され、北條家に来た動機がわかりづらく改変されていました。
 玉音放送のエピソードでは、原作で印象的な「正義が飛び去っていく」の言葉が消され、すずの怒りの対象が国や軍ではない解釈を誘導するような変更が加えられていました。
 そして、敗戦後の日本社会の描き方では、正義が飛び去ったことで到来した混沌としつつも明るい世相がなかったことにされ、秩序が(特に軍関連の秩序が)維持されたという描写に改変されてしまっています。

 どれも軍や国にとって都合の悪い描写を避けた結果のように思えます。
 しかも、戦後の描写以外の2つは、エピソード全体の流れは変更せずに細かな台詞の削除や追加で、巧妙に印象を変えようとしています。映像作家としての技術を、原作の持つ軍への批判的な描写を誤魔化すことに注力したかのような印象さえ受けます。
 今回改めて書き出してようやく理解しましたが、水原哲のエピソードから海軍内の暴力を消去する手並みのあまりの巧妙さには脱帽しました。私も初見では見落としましたし、変更に気づかなかった原作ファンも多かったと思います。
 どうしてそこまでして軍や国への批判、無様でみっともない様を描写するまいと改変したのでしょうか? 

 まるでもう存在しない大日本帝国の検閲に怯えているかのような改変ぶりです。検閲の真価は弾圧を恐れるクリエイターやジャーナリストの自粛や自主規制にあるわけですから、いまだにこの社会では厳つい憲兵の亡霊がそこら中を巡回してるのかもしれません。少なくとも“憲兵気取り”がゴロゴロしている社会であることは間違いありません。

 というわけで、個人的に片渕監督の映画版には“自主検閲済”もしくは“海軍検閲済”の称号を贈りたいと思います。


 そうそう、ひとつ予想される反論にあらかじめ答えておきましょう。
 次のシーンを反証に挙げて、片渕監督が日本軍のみっともなさを誤魔化そうとはしていないと主張する人もいるかと思います。

 円太郎「わしらの二千馬力がええ音鳴らしとる」
 円太郎「わしらが日夜工場で働くのは、あれを歩留まりよう仕上げるためじゃ。九一式五百馬力から始めて、ここまできたかのう」
 晴美「ねえ、敵は何馬力なん? ねえ、敵は何馬力――」

 円太郎が自分たちの作った二千馬力のエンジンを誇りながらも、敵のエンジンの性能を尋ねる晴美には答えずじまいという場面です。確かに晴美の問いに円太郎はばつが悪そうでした。
 ですが、『風立ちぬ』の堀越二郎に対して「不利な条件でよくやった! 頑張った! 感動した!!(大意)」という反応が少なくないこの国で、結果的に技術力が劣っていたことが批判やみっともなさにならないことは、片渕監督だってよくわかってるでしょう。「厳しい条件の中、本当にでよくやったよ……(涙)」と努力を評価して、褒めたり感動する人が大半なんじゃないでしょうか。間違っても「敵に性能で劣るエンジンを誇るなよ(呆)」なんて反応が返ってこないことは見越してるわけです。

 そもそも、原作漫画において日本軍が活躍する様子は全く描かれていませんでした。唯一の日本軍の戦闘描写は、初の呉空襲の時の対空砲のささやかな応戦だけです。(中巻 p.121)


 この豆鉄砲のような対空砲が、全編を通してすずが認識した日本軍の戦闘のすべてです。元から軍事には無関心のすずでしたが、米軍機の襲撃は克明に描写されているのと比べると、日本軍の応戦はほとんど目に入りもしなかったという残酷な扱いを受けています。物語の都合上、米軍からの攻撃と被害に描写が傾くのは仕方がない面も大きいのですが、それにしたって日本軍の冷遇ぶりは徹底されています。
 原作漫画での扱いと比べると、日本軍が応戦して自国民を守ろうとしている描写が少し入るだけでも優遇されてると言えます。そして、足りない尺をやりくりしたという割には、日本軍の戦闘描写はしっかり追加されているわけです。

 応戦した記録が資料として残っているので、追加しないわけにはいかなかった?
 監督がミリタリマニアの血を抑えられず、戦闘描写を描かずにいられなかった? 

 すでに見てきた原作漫画にある軍への批判的な描写や軍のみっともなさを描いた描写を改竄せずにそのまま描いていたのなら、その言い訳も成り立つでしょう。けれど、批判に繋がる都合の悪い描写を改竄した上に、原作になかった日本軍が自国民を真面目に守ろうとする描写(原作のすずの視界にはほとんど入らなかった光景)をわざわざ追加したのですから、何らかの意図を持って行ったと推定するのが妥当でしょう。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その5-2 

2017年03月20日 | Weblog
5.問題提起2:すずは愛国婦人? 彼女は何に激怒したのか? (後半)

(2)原作漫画を読み解いていく

 では、原作に沿ってこの一連の場面を読み解いていきましょう。
 繰り返しますが、ここは原作漫画でも解釈が難しいシーンの一つで、精読と能動的な解釈が要求される箇所だと思います。
 私が初めて原作を読んでいた時も、玉音放送直後に怒りを露わにするすずにあっけにとられました。どうしてこんな言動をするのかと狼狽えて、何度もページを遡って読み返しました。作中で語られていない知識も動員して、ようやく一つの解釈にいたりました。
 その時の私の解釈を以下に、整理していきます。

 大前提として、原作漫画ではすずが国策や戦時動員に消極的である様子がしばしば描写されていたのを押さえておきましょう。
 海軍記念日の講演会の知らせを前にした義母サンとすずの態度の対比を見てください(上巻 p.123)


 「寝んようにせんと……」とすずはいかにも行きたくなさそうです。一方、普段温厚そうなサンは「行ってみたいねエ!」と漏らし、それを聞いたすずはひっくり返っています。
 すずにとって海軍主催の講演会は退屈そうなものでしかなく、行きたがる人がいることさえ想像できなかったことがよくわかります。実際、後のコマですずは講演中に居眠りしています。

 ここに象徴されるように、すずにとっての戦争とは「波風立てずにやり過ごすもの」でした。
 そんなすずがユーカリの木から爆撃機を見上げるシーンで、初めて怒りや抵抗心を見せるところまでは映画版と同じです。


●伝単丸めのシーンの意味

 原作漫画では伝単を扱うすずが淡々としています。
 直前のシーンで屈しないと決意した米軍からの降服を勧めるメッセージが書かれている紙を、すずは無表情のまま淡々と丸めていきます。伝単を撒いた米軍への怒りを秘めているようには見えず、無関心であるように見えます。(下巻 p.90)


 「届けて燃やしんさるだけです」
 「こうして揉んで落とし紙にするほうが無駄がなくてええ」
 
 これまでに描かれてきたすずの、生活者の視点が戦争協力に優先する態度がここでも一貫されています。米軍への抵抗心を抱いたすずは例外的な状態で、いつもの戦争には無関心で日常に埋没しているすずの姿に戻ったように見えます。

 また、周作が指摘しているように、拾った伝単を国や軍に届け出ないのは間諜行為として憲兵に摘発される行為です。
 戦争に協力する愛国婦人としてはあり得ない行為であるわけです。

 この伝単のシーンの前後では、どちらも怒れるすずが描かれています。前には米軍の暴力に屈しないと静かに決意するすずが、後には徹底抗戦するんだと怒りを露わにするすずがそれぞれ描かれています。すずの気持ちはこの場面だけ冷えていて、前後の感情の流れとは明らかに浮いていて、不自然です。
 なぜ、作者であるこうの氏は「怒りを忘れたかのような、それまでと同じ生活優先のすずの態度」「模範的な愛国婦人像に明らかに反した言動」を挟んだのでしょうか? 

 この不自然さを解消するために、片渕監督はここに“暮らしを守る≒銃後の戦い”という思考を匂わせる台詞を追加しました。すでに見てきたように、すずがこの場面で国の戦争に参加する意識、愛国婦人的な意識に目覚めていれば、前後の怒りを一見スムーズに繋ぐことができます。

 けれど、私は原作漫画を次のように解釈しました。
 前後に描かれる二つの怒りが同じものではない、直接的には連続していないと明示するために、淡々とした日常を優先させるそれまでのすずを描いたのではないか。
 そう、ユーカリの木での静かな怒りと、玉音放送の激しい怒りは別のものだと明示するために、あえて間に愛国婦人ではあり得ないクールダウンしたすずを描いたのではないかと思うのです。


●玉音放送の怒りの瞬間

 米軍への怒りでなければ、すずは何に怒っていたのでしょうか? すでにわかっている人も大勢いるでしょうが、あえてここまで引っ張ってきました。
 戦争継続を諦めた日本国や日本軍への怒りです。そして、敗戦の決定を素直に受け入れた国民(具体的にはそばにいた隣保の人々)への怒りです。

 「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね?」
 「いまここへまだ五人も居るのに!」
 「まだ左手も両足も残ってとるのに!!」
 「うちはこんなん納得出来ん!!!」

 これらのすずの怒りの台詞のうち「最後の一人まで」「まだ五人も」「まだ左手も両足も」「納得出来ん」といった部分に注目した場合に、ありうる解釈であるのは異論はないと思います。
 作品内で描かれている以外の知識を導入することになりますが、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね?」というのは当時国が率先して掲げていたスローガン「一億総玉砕」を想起させる言葉です。
 原作漫画では直接的には描写されていませんでしたが、「一億総玉砕」的な考えが宣伝されていて、すずも影響を受けていたことが怒りの言葉からうかがえます。

 ここで、太平洋戦争を扱った既存の作品でもお馴染みの国策プロパガンダの概要を簡単に書き留めておきます。

 国民全てが武器を手にして玉砕覚悟で戦い抜かなくてはならない。(映画では省かれていますが、原作漫画ではすずも竹槍訓練に参加している様子が描かれています)
 なぜならば、この戦争は天皇陛下が大儀・正義のために始めた聖戦だからである。
 故にどのような犠牲を払ってでも、この聖戦を遂行するのが正しい日本人のあり方である。

 今までこうしたスローガンを掲げていたのに、一転して敵に降参すると国や軍が言い出しました。
 そのことに対して、すずは激怒したわけです。
 なぜか? 上記プロパガンダの「どのような犠牲を払ってでも」の「犠牲」をすずはすでに払っていたからです。

 かけがえのない右手と姪の美晴の命、そして原爆で生家の家族は全員生死不明という大きすぎる被害をすずは受けました。
 けれど、その被害は日本国民すべてが聖戦のために払うべき「尊い犠牲」であるとされていました。国や軍はそう宣伝し、社会全体もその理想を受け入れていました。だからこそ、すずは自分が受けた大きな被害を「尊い犠牲」として正当化して、諦めて受け入れていたわけです。「聖戦なのだから仕方がない」「日本人すべてが払う犠牲なのだから、自分が受けた被害も享受するしかない」と。

 なのに、国は一転してその正義を取り下げて、敗北を受け入れたと言いだした。
 自分が払った犠牲は何の為だったのか? 無意味だったのか!?
 その苛立ちが、次の台詞に集約されています。

 「うちはこんなん納得出来ん!!!」

 この解釈は以下の2つの描写からも裏付けられます。

 1つは、映画版で削除された言葉。
 「この国から正義が飛び去っていく」
 当初の激昂が去った時に、すずの心に浮かんだのがこの言葉です。この時のすずにとって“正義”が関心の的であったことは、とても大事な点です。
 正義のために耐え忍んできたのに、その正義を掲げていた側が正義を投げ捨てた。おそらくは自分たち自身が犠牲を払うのを避けるために。
 先に犠牲を払わされたすずにとっては、正義の取り下げは裏切りに他なりません。怒りがこみ上げるのも当然です。

 もう1つは、家の陰で泣き崩れている義姉径子。
 彼女はすず以上の被害を受けています。母として自分の命より大事な娘、美晴を奪われたのですから。
 すずよりも大人の径子は、人前では気丈に淡々と敗戦を受け入れた様子を見せていましたが、一人になるとすずと同じように無念さのあまり泣き崩れていることが描かれています。
 このタイミングで径子が衝撃を受けるのは、国が掲げた正義を取り下げてしまったために娘の死に与えられていた意味――聖戦のための尊い犠牲という意味が奪われてしまったからに他なりません。
 国が始めた戦争に翻弄され、払わされた犠牲の意味さえ一方的に奪われた悲しみを表現するのでなければ、ここで泣き崩れる径子を入れる必要はないはずです。

 ここまでは、実は映画のみの鑑賞でも勘のいい人なら推測できる内容でしょう。
 伝単の時の愛国婦人的な台詞に惑わされなければ(あの台詞をさして意味のないものだと無視すれば)、すずの怒りの対象が勝手に正義を投げ捨てた国への怒りだというのは読み解けます。

 けれど、この解釈はある矛盾点を抱えています。
 ずっと戦争に無関心で、直前まで愛国婦人ではありえない行動をとっていたすずという人物が、どうして玉音放送の後に極端に愛国主義的な主張を振りかざしたのか? という問題です。
 この点をあからさまな矛盾だとして、すずの怒りの対象が国や軍であるという解釈を否定した人もいるかもしれません。

 そう、確かに原作漫画でも読み解くのが困難な点です。すずの心情の描写自体が不足しているので、想像力を駆使して補完せざるを得ないのですが、私は次のように解釈しました。

 すずの怒りの発端は、自分だけが犠牲を払ったことに対する「納得出来ない」という憤りでした。
 しかし、社会や政治には無関心で、戦争による時局の変化も仕方がないと受け入れるだけだった彼女には、その憤りを自分の言葉で訴える術がありませんでした。胸に沸き起こる「納得出来ない」という憤りを形にするのに使える言葉は、周囲に溢れていた国策スローガン=愛国主義的な言葉しかなかったのではないでしょうか。
 胸に燃える憤りを訴えるための言葉として、当時の日本社会に流布していたほぼ唯一の言葉・思想である国策スローガンを借りて叫んだのだろうと私は解釈しました。

 飛躍した解釈だと驚かれる人もあるでしょう。
 けれど、すずが自分の考えを述べる言葉に乏しく、借り物の言葉に頼るという描写は原作漫画の別の個所にあるのです。

 朝日遊郭のリンと二度目に出会った時の会話がそれです。病院で生理不順による不妊だと診断されたすずがリンに悩みを相談するのですが、その時の会話が強烈なのです。
 すずは当時の普通の良識ある婦人らしい言葉を借りてきたかのように話します。(中巻 pp.38-40)
 

 「(夫や家族が)子供が出来んとわかったらがっかりしてじゃ」
 「出来の良えアトトリを残さんと それがヨメのギムじゃろう」(カタカナ表記にすずの“できあいの言葉を借りて来た感”がにじみ出ています)
 (ヨメのギムが挫折したらどうなるん? と聞かれて)「実家へ帰される」

 これらのすずのタテマエめいた言葉に対して、遊女のリンは自分の実体験からのあけすけな言葉を投げ返してきます。
 「うちの母ちゃんはお産のたびに歯が減ったよ」「しまいにゃお産で死んだよ それでも(子供を産むのが)楽しみなもんかね?」
 「男が生まれるとも限らんが」「出来がええとも限らんが」
 「帰ってどうなるん?」「それ…そんなに恐ろしい事なん?」

 借り物の言葉で良妻賢母的なタテマエを口にしていたすずは、リンの実感のこもった問いかけにタジタジとなり、悩みの立脚点を失っていきます。そして、終いには「(子供は)困りゃあ売れるしね!」「女の方が高いけえアトトリが少うても大丈夫じゃ」「世の中巧うできとるわ」と遊女視点から見た子供の価値をあっけらかんと語られて、すずは絶句するのです。
 こうした会話を通して、すずは「なんか悩むのがあほらしうなってきた…」と良妻賢母的なタテマエが自分自身の実感とは違うことに気づかされていきます。

 この場面に象徴されるように、すずには自分の言葉で考えて口にするという習慣がありません。そもそもそういう教育を受けていませんし、彼女の才能は言葉よりも絵を描くことにあるからです。
 だから、玉音放送を聞いた後、敗戦が宣言されて自分の払った犠牲が無意味にされた時も、その怒りを表現するには世の中に溢れている言葉を借りてきて、すがるしかなかったのだと私は考えます。
 彼女が叫んだ「一億総玉砕」的な怒りの言葉が借り物の言葉だったとすれば、その後すぐに萎れてしまったこととも辻褄があいます。

 すずの激昂した言葉に賛同する人はいませんでした。近所の人々の醒めた驚きの顔を見て、すずはすぐに怒りを鎮め、力なくうなだれます。怒りの言葉が心の中の実感に深く根差したものであったのならば、賛同されなかったからといって簡単に怒りが醒めることはなかったでしょう。
 これはリンの言葉によって良妻賢母的なタテマエが簡単にぐらついたこととも、相似を成していると考えられます。

 これが多分に想像力で補完した解釈だというのは自覚しています。想像によって原作漫画の情報不足を補完しているという点では、私も片渕監督も同じです。なので、どちらの解釈が説得力があるか、納得できるかは読者の判断に任せて、次の段に移りたいと思います。


●飛び去った正義

 前段で触れましたが、すずの怒りが覚めるタイミングが原作漫画と映画版では決定的に違っています。
 怒りが受け入れられなかったすずは、すぐに意気消沈して水汲みにでかけます。義姉径子がラジオの片づけをしているのと同じように、日常生活に埋没しすることで逃避しようとしているかのようです。
 そして、映画版で削られ、迂遠な植民地主義の正否に差し替えられたあの心の声が大きく写されます。

 「飛び去っていく」
 「この国から正義が飛び去っていく」

 怒りの対象が、それまで掲げていた正義をかなぐり捨てた国であるなら、この言葉は不可欠です。片渕監督はインタビュー(https://webnewtype.com/report/article/92131/)で「あのシーンですずさんは日本という国をいきなり背負わなくてもいいんじゃないか?と思ったんです」と語っていますが、怒りの対象がすずを裏切った国であると読み取れば、ここで国が出てくるのは当然であり、必然というものです。……ひょっとして片渕監督は原作漫画でのすずの怒りの対象が、国や軍以外だと解釈していたのでしょうか? 

 映画版の不可解さはさておき、原作漫画でやや引っかかるのは、主語が“正義”であることです。まるで“正義”が飛び去る主体、例えば鳥であるかのように表現されています。さながら“正義”という鳥がが自主的に大日本帝国という枝に留まっていたのに、勝手に飛び去っていったかのようです。
 その“正義”を錦の御旗として掲げていた国が、都合が悪くなると途端に手放したことにすずは納得いかなかったはずなのに、「正義を手放した」というような表現にはなっていません。

 なぜでしょうか? 
 この時点では、すずは飛び去っていく“正義”をまだ信じていた、信じていたかったのかもしれません。
 皆が信じていた“正義”は本物だった。それなのに国や日本人が背を向けたので、“正義”は飛び去っていった。それでも、自分だけはまだ正義を信じ続けたいと考えていたのでしょう。

 そこで、太極旗が揚がるのを目にします。
 “正義”が失われたことに、怒るのでも悲嘆にくれるのでもなく。生き残るために“正義”を捨てて敗北を受け入れたのでもなく。敗戦を寿ぐように植民地の旗が掲げられたのを見たすずは、そこで初めて気づいたのでしょう。信じた“正義”がそもそも紛い物であったことに。米軍の爆撃機を見上げてあれほど憎んだ“暴力”が、自分の足元でより弱い立場の人々に振るわれていたことにに気づかないふりをしてきたことに。

 ここでのすずの察しの良さが、不自然という評があるのは頷けます。元々察しが悪く、言葉による思考や表現は不慣れなすずらしからぬ描写ではあります。それまで朝鮮人をはじめとする植民地出身者への暴力や差別が全く描写されていなかったために、太極旗だけで一気に悟ってしまうのは飛躍があると感じるのも当然だと思います。
 けれど、映画版のように米や大豆という生活物資を媒介としても、スムーズに植民地主義の暴力を自覚できるかといえば、疑問が残ります。

 ただ、太極旗を目にした時のすずは、普通の状態ではなかったことも考慮しておく必要があると思います。“正義”だの“暴力”だの“植民地主義”だの考えるのは、それまで描かれてきたすずの人物像に似合わないのは確かですが、それを言うなら玉音放送に激昂したすずから否定しなくてはなりません。愛国婦人さながらに徹底抗戦を叫ぶすずは許容しておきながら、植民地主義の暴力に気づいて後悔するすずを「らしくない」と否定するというのではご都合主義ではないでしょうか。

 以下は、個人的な妄想含みの解釈になりますが、この時すずは生まれて初めて“正義”や“暴力”、さらに言えば国や戦争という社会について真剣に考えていたのではないかと思うのです。敗戦という衝撃と「納得出来ない」という憤りが、すずに今まで考えずに済ませてきた社会や正義について考えることを強いていたのではないでしょうか。
 原作漫画の描写に沿って表現するなら、自分たちを置き去りにして飛び去っていく“正義”について必死に考えている時に、この最大の不幸を喜ぶかのように植民地の旗が翻るのを見たわけです。敗戦の今まで掲げることができなかった旗があること=去っていった“正義”が抑圧していた証だと理解するのも、ありえない話ではないと思います。

 そして、最後にすがった“正義”も偽物だったと気づかされたすずは、絶望するしかありませんでした。
 それまで戦争に無関心、(主観的には)無関与を続けてきたすずに、戦争の責任を引き受けさせるのは少々強引な展開とも言えます。むしろ、「積極的に戦争に協力したことはない」「世情に流されていただけ」という言い訳や逃げ道を塞ぐために、わざわざすずに徹底抗戦を叫ばせて、国の掲げた“正義”に固執させたかのようです。
 ここでもう一度、2.で引用したこうの氏のインタビューを振り返ってましょう。

「庶民は自分たちが悪いという罪の意識も責任感もないまま、簡単に戦争に転がってしまうことがありうることを、いまの時代に伝えなくてはいけないと思ったのです。」


「責任感もないまま、戦争に転がってしまう」からといって、仕方がなかったと免罪されるわけではないという価値判断が、このすずの絶望を描かせたのだと私は解釈します。


●まとめ

 長くなりましたので、ここまでの検討をまとめておきます。
 原作漫画からの変更点は絶対量で測れば少ないと言えます。それでも、原作漫画と明らかに矛盾する展開は避けつつ、いくつかの重要なポイントがずらされています。その結果、与える印象が大きく変わってしまうばかりか、肝心の怒りの対象が特定できなくなってしまっています。

 1.伝単を紙として再利用する場面で、すずが戦いに主体的に協力、参加しているかのような台詞を追加。
 2.“正義”をめぐる心の声を削除。正義の話が植民地からの米や大豆の話に差し替えられる。
 3.1と2により、すずが激昂した対象は正義を捨てた国や軍ではなく米軍? というミスリードが生まれ、慟哭に至るまでのすずの心情変化がうまく追えなくなってしまっている。
 4.原作漫画にあった「正義に固執するという形での戦争への支持、執着→後悔と絶望」という流れが曖昧化されている。

 4.については、後で項目を立てて詳細に見ていきたいと思います。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その5

2017年03月20日 | Weblog
5.問題提起2:すずは愛国婦人? 彼女は何に激怒したのか?

 本作のクライマックスの一つである、玉音放送前後の描写について読み解いていきたいと思います。
 そこで、「すずは愛国婦人だったのか?」という問いを立てたいと思います。

 映画版の感想を読んでいて驚いた点のひとつに、すずを愛国婦人(=戦争をする軍や国に積極的に協力する女性)と解釈している人が少なからずいたことです。
 確かに、原作漫画でも能動的な解釈が不可欠で、読み取るのが大変な箇所ではあります。すずを愛国婦人と誤解する要素があるのも理解できますが、原作漫画を精読して「すずは愛国婦人ではありえない」という結論に達していたので違和感が大きかったのです。

 それまで軍や戦争を遠くのもの、自分には直接関係のないものとして遠ざけてきた、または意識してこなかったすずという女性が、玉音放送の直後に逆上して徹底抗戦を叫んだ。
 この心情の変化が『この世界の片隅で』という作品の要の一つであることは間違いありません。とても長くややこしい検証となると思いますが、お付き合いいただけたら幸いです。

(1)映画版での描き方を読み解いてみる

●放送前の状態を振り返っておく

 すずの激昂を検証するにあたって、ユーカリの木から爆撃機(B29?)を見上げるところから彼女の心情を確認していきましょう。

 「そんな暴力に屈するもんかね」

 原作漫画にもあった、“敵”(直接的には爆撃機であり、交戦相手である米軍および連合国軍)に対して抵抗する意思を初めて見せる台詞です。後に玉音放送の直後に怒りを爆発させる、怒れるすずの萌芽とも言える場面です。
 意外なことに、すずはこの瞬間まで“敵”について口にすることはありませんでした。怒りや反発を見せることはもちろん、話題にすることすらしていません。姪晴美と右手を奪った爆撃に対しても、呉の市街地を焼け野原にした空襲に対しても、敵を意識することはありませんでした。代わりに、何もできなかった自分を責め、自分の心が歪んでいると認識して心が壊れてしまいました。
 普通の主婦どころか、相当にユニークな精神の持ち主です。
 そんなすずがついに“敵”を認識して対抗心を見せるのですが、きっかけは原爆――広島から障子を飛ばしてくるほどの圧倒的な暴力だったと見るのが自然です。


 次の場面では、米軍の爆撃機がばら撒いた伝単(ビラ)を丸めて落とし紙(便所用の尻拭き紙)を作っています。ここで映画版で追加されたすずの台詞に注目したいと思います。

 「何でも使うて暮らしつづけるのがうちらの戦いですけん」

 今まで戦争を遠ざけ、何が敵であるかも意識してこなかったように生きてきたすずが、暮らしを続けることを「うちらの戦い」と認識しはじめたという重要な改変です。
 では、ここですずが口にする「戦い」とは誰とのどういう戦いでしょうか? 当然、この時点での「戦い」と言えば大東亜戦争であり、敵は米軍をはじめとする連合国であると解釈するのが自然でしょう。

 日常を破壊する“戦争そのもの”という抽象的なものから、日常生活をなんとか守ろう、屈するまいとしているという解釈をする人もいるかもしれません。けれど、すずが“戦争そのもの”と戦う決意を固めていたのであれば、玉音放送を聞いた直後に徹底抗戦を叫んで戦争継続を訴えたことと決定的に矛盾します。この矛盾を解消しないかぎり、ここでの「戦い」の敵は、国が戦っている米軍(連合国)と解釈せざるを得ないでしょう。
 実際、この時点ですずが戦争を遂行しているもう一つの勢力、日本(軍)を敵や暴力で抑圧してくる存在として認識している描写は全くありません。


●怒りの瞬間

 こうして大東亜戦争に主体的に参加する意識をもったすずに、8/15がやってきます。
 ノイズまみれの玉音放送を聞いたすずは、淡々と終戦を受け入れる近所の人々の前で怒りを爆発させます。そして、呆然とするご近所さんをよそに、怒りのまま水を汲みに走ります。家の陰で晴海を思って泣き崩れる義姉・径子を傍目して……。

 ここに至るまでの流れを考えると、ここでのすずの怒りの対象は“敵”つまり米軍に代表される連合国軍であると解釈するのが最も自然であるように思えます。

 米軍(=原爆という圧倒的暴力)への怒りや憎しみからようやく徹底抗戦を決意したのに、国が戦争を辞めると一方的に宣言してしまった。
 まだ、敵への怒りは収まっていない。
 最後まで戦いぬきたい。
 この結末には納得できない。

 映画版を見ていると、すずの憤りをこのように解釈したくなります。直前のシーンで自分なりの「戦い」をすると口にしているのですから。すずを戦争協力に積極的な愛国婦人だったと解釈する感想を散見したのも、映画での描写を一つ一つ辿っていくと頷けます。

 しかし、果たしてこの解釈でいいのでしょうか?
 原作との相違点は後で詳述しますが、ここで一つの疑問を投げかけておきます。
 敵との徹底抗戦を望んで怒ったのなら、どうしてすずは水汲みに走ったのでしょうか?

 すごく不思議な行動です。敵への怒りと水汲みからの畑の水やり。この二つには何の繋がりもありません。目の前の隣保の仲間に徹底抗戦を貫こうと説得しないのはなぜでしょうか? 敵への怒りが原動力だったならば、そのほうが自然ではないでしょうか?

 映画では勢いに任せて流れていきますし、すずの行動の大枠は原作の描写に沿っているのでスルーしてしまいがちなのですが、かなり変な行動をとっています。支離滅裂と言ってもいいくらいです。
 怒りのあまり気が動転していたという理由を導入するならば、どんな奇怪な言動もアリになってしまいますが、他に説明できるでしょうか?

 では、すずの怒りの対象は米軍以外に向けられたものだったのでしょうか?
 ここでは「何かおかしいぞ?」という疑問点を残して、次の段階に移ります。


●怒りが覚める時

 怒りに任せて汲んだ水で、すずは畑に水を撒こうとします。その時、呉の町に一枚の太極旗が掲げられ、風にはためくのを見てすずは崩れ落ちました。

 「飛び去っていく……うちらのこれまでが それでいいと思っていたものが」
 「ああ……海の向こうから来たお米……大豆 そんなもんでできとるんじゃなあ……うちは……」
 「暴力で従えて……じゃけえ、暴力に屈せんとならんのかね」

 原作から台詞(すずの心の声)が変更され、一部で物議をかもしている場面です。
 私はこの改変に怒り心頭なのですが、この台詞の改変の妥当性を検証するのは、ここではひとまず置いておきます。

 ともかく怒りに駆られていたすずは、敗戦直後に掲げられた太極旗を見て、これまでの日本の植民地主義の暴力を悟って、怒りから覚めます。そしてそのまま泣き崩れて後悔にくれます。
 そういう感情の流れなのですが、前段から引き継いだ疑問点がここでも引っかかることになります。

 すずの抱く怒りは、そもそも日本が暴力を振るっていたことで消えてしまうようなものだったのか? という疑問です。
 米軍への怒り、恨み、屈服しないという抵抗心といった感情は、日本の正否や善悪に関係なく持ち続けることができるのではないでしょうか? 特にすずは米軍の軍事攻撃の直接的な被害者ですので、日本がどうであれ怒りを保持するほうが自然ともいえます。

 仮に日本が植民地からの食料に頼らず、食料自給率が高かったならば――日本の植民地経営が理想的で人道を踏み外したものでなかったのであれば――、すずは怒りのままに徹底抗戦を主張し続けてもよかったのか? なんて揶揄する設問でも立てたくなるのです。

 となると、すずの怒りは米軍以外に向けられたもの、例えば巨大な暴力を行使する者すべてに対する純粋な抵抗心だったのでしょうか? 
 米軍も日本軍も暴力で他者(より弱い存在)を虐げてきたから良くないという倫理観に根差した怒りだったのでしょうか。一度は徹底抗戦のために協力しようと決意した日本軍も暴力を振るう主体だったと理解したので、怒りが覚めて泣き崩れるしかなかった。
 なるほど、この解釈で映画版での怒りの描写は一通り説明できそうですが……。

 そうだとすると、別の問題が持ち上がります。
 なるほど、悪しき暴力を振るうすべてに抵抗しようというのがすずの怒りの正体だったとしましょう。では、連合国軍も日本軍も弱者を虐げる暴力を振るってきたのが明らかになった時点で、その双方に抵抗する新たな戦いを決意しなければなりません。反暴力の戦いは、日本軍に協力する形でしか成し得ないわけではないのですから。
 なのに、すずが全ての植民地主義に抵抗する戦いを始めた描写はその後ありません。
 被植民地の独立闘争のように、宗主国の圧倒的な暴力に対抗するために暴力を批判しつつ武力闘争に走るというのは、ひとつの立場としてあり得なくはありません。けれど、そうした闘争や活動にすずが身を投じることはありませんでした。
 ひとしきり泣き崩れただけのすずに、反植民地闘争の戦士を重ねるのは無理というものです。

 長々と解釈を試みてみましたが、クライマックスでありながら映画版のすずの心情変化は上手く読み取れないということを確認したかったのです。

 反米上等の愛国婦人だったとすれば、植民地への暴力に気づいて怒りが覚めた説明が付きません。
 反暴力の立場だったとすれば、その場で泣き崩れてそれきりの態度と矛盾します。

 この結論に納得出来ないようでしたら、各々で映画版の描写を元に解釈を試してみてください。ただし、片渕監督がわざわざ原作を改変してまで消去した“正義”という概念を使わずに解釈を組み立ててください。
 極めて困難だと思います。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その4

2017年03月20日 | Weblog
4.問題提起1:水原哲はどうして北條家を訪れたのか?

 まずは、すずの幼馴染みの水原哲についてです。
 映画版における描写だけで「なぜ北條家に来たのか?」を解釈できるだろうか? という問いを立てたいと思います。

 もちろん原作にはこの問いの“答え”が描かれています。
 けれど、改変された映画版のみの情報で、この問いにどう答えられるかが気になって仕方がないのです。

 大前提として、水原の北條家訪問が相当な異常な行動だということが理解されてるかが不安です。納屋で寝るように告げる時の周作のただならぬ雰囲気で察することもできるでしょうが、水原の訪問自体が異常事態であることを確認しておきましょう。

 義姉径子のサブエピソードで匂わせているように、家制度の支配下にある時代です。いくら周作が容認したとはいっても、家制度の下の日本で水原を泊めることは最悪すずが姦通罪に問われかねない事態です。
 そもそも兵士の入湯上陸とはいえ、若い男が幼馴染み程度の関係の娘の嫁ぎ先の家に押しかけて風呂を借りるだけでも図々しい行為です。ましてや泊まっていくなどというのは、非常識極まりない行為であったのは間違いありません。
 これが遠縁でも親戚関係だったり、円太郎や周作(家主かその跡取り)との交友関係を頼って来たのなら、まだ理解できるのですが……。嫁いだ娘の元幼馴染みなんて赤の他人も同然です。
 周作がすずを母屋から締め出す(=水原に妻を差し出すと同義)という衝撃の展開に目が眩みがちですが、そもそも北條家に水原が来ること自体がおかしいのです。

 原作漫画でも極めて現実味の薄い展開なのですが、この現実味の薄いメロドラマを成立させるために色々と設定を積み重ねています。
 周作がリンとの関係で後悔を抱いていたというのが、ひとつ。妻を差し出すという極端な行動に周作が走る感情の熱量が、リン周りの描写を削った映画版にはどうしても足りません。
 さらに言えば、すずが生理不順からくる不妊であったことも無視できない設定です。間違いがあっても子供の心配まではしなくていいというのは、やはり大きかったと思います。この不妊設定も映画版ではオミットされてしまっています。

 細かな設定の改変も気になりますが、今検討している問題は水原が北條家を訪れた理由でした。

 では、映画版の水原はどのような人物として描かれていたのか簡単に振り返っておきましょう。
 原作漫画における最重要人物であるリンを差し置いて出番を確保されている水原ですが、実はかなり印象が違っています。
 原作漫画の水原は、かなり乱暴者の虐めっ子として描かれていました。乱暴者で評判のすずの兄要一と同じような悪評が立てられています。すずに対しても、遊びのためにちびた鉛筆を奪い、床穴に落として失くしています。しかも逆ギレして髪を引っ張るなど、乱暴者っぷりを発揮しています。その罪滅ぼしとして、事故で溺死した兄の遺品である鉛筆を彼はすずにやるのです。一見手の付けられない乱暴者だけれど、律儀な面もある少年として水原は描かれていました。

 一方映画版では、乱暴だった描写は概ね削られて、特に理由もなく鉛筆をやるような好少年、もしくはすずに気がある描写へと改変が加えられています。他にも、周作と円太郎が結婚前に浦野家を訪れた帰り道、道に迷ったのは水兵さんのせいだと語られていました。おそらくすずを嫁として奪っていくことへの意趣返しを水兵(=水原)がしたのだと思われます。
 このように、映画版では<水原→すず>の思慕が強調されています。
 逆に原作漫画にあった<すず→水原>の思慕を匂わせる描写はいくつか削られています。水原の摘んだ椿を見て物思いにふけるシーンや、すずが水原の千人針だけは妹すみに代わって縫っていたエピソードがカットされています。

 すずに慕われていたのではなく、すずを慕っていたと印象を変えられた水原が北條家の玄関に現れます。映画の描写を素直に読み取れば、「子供のころから秘めていた恋愛感情の故に嫁いだ幼馴染みを訪ねた」と解釈するのが自然です。
 乱暴な喧嘩友達だった水原から毒気を抜いて、ロマンティックラブの要素を強調してるように思われます。しかし、原作漫画における水原とは、そういうキャラクターだったのでしょうか?

 もうひとつ、水原の訪問を理解するうえで重要な言葉が「普通」です。すずに対して「普通じゃ」「普通じゃ」と愛おしそうに言う水原は、どうやら「普通でない」「まともでない」状況にあると自分を認識していることが察せられます。
 しかし、映画版ではどう「普通でない」のかは語られません。映画内の描写から色々と想像を膨らませることはできるでしょうが、鑑賞者によって大きく解釈が分かれそうなところです。

 けれど、原作漫画ではそのものずばり水原の台詞で正解が書かれています。(中巻 p.88)


「ほいでもヘマもないのに叩かれたり 手柄もないのにヘイコラされたりは」
「人間じゃのうてワラやカミサマの当たり前じゃないかのう」

 実に明快です。海軍内での訳も分からず殴られてばかりの生活。陸に上がれば、軍人様だと持ち上げられる生活。そのどちらも水原にとっては「人間の当たり前から外された」まともではないものだったのです。
 海軍の中も外の日本社会も、水原にとっては心安らぐ場所ではなくなっていた。軍にも陸にも居場所がなかった。
 だからこそ、水原は北條家を訪ねて来たのです。彼にとっての「普通」=違和感がなく心安らぐ場所は、かつての幼馴染みのすず以外には期待できないものだったのでしょう。

 周作に語った「同期もだいぶ靖国へ行ってしもうて集会所へも寄りにくうなった」という理由も、丸っきりの嘘ではないにしろ方便の要素のほうが強いでしょう。また、「同期が少ない=軍隊内での上下関係に縛られない仲間が少ない(orいない?)」ことが軍に対して居心地の悪さを感じさせる要因だと考えれば、すずに打ち明けた本音とも矛盾しません。

 この解釈は、原作漫画での水原との出会いでも補強されます。北條家に訪ねてきた水原との出会いの瞬間から、かつての水原とは別人であることが強調されています。なにしろ、出会い頭にすずを俵担ぎして、ニコニコと水汲みを手伝うのです。子供の頃はガキ大将気質の乱暴者で、すずとは口喧嘩ばかりしていたという水原がです。
 初めから「普通の状態ではない」そして「まともな精神状態ではない」ことを示唆する描写で水原は現れています。

 やや話が逸れますが、原作漫画では水原以外にも海軍生活に精神がまいってしまった兵士が登場します。その兵士のバックボーンはほとんど語られていませんが、朝日遊郭の遊女テルと自殺未遂を起こしています。
 水原が軍隊生活で精神がまいっていたというのは、私の勝手な妄想ではなく原作漫画の世界観に沿った解釈です。自殺未遂の話を聞いた後、すずは水原との別れを思い出しているという念の入れようで、自殺未遂の兵士と水原は無関係なものではなく関連付けて解釈するようにという補助線を原作者こうの氏は引いています。
 この話をテルから聞く原作漫画の描写こそ、『この世界の片隅に』という作品ならではの面白さの一つだと私は高く評価していただけに、映画版でばっさりカットされていたのが残念でなりません。

 閑話休題。

 上に引用した水原の台詞は、彼の北條家訪問という異常な行動を理解するには不可欠な台詞だったにもかかわらず、なぜだか映画版では削られてしまいました。
 代わりに挿入されているのが、青葉の艦上での短い描写。おそらく南洋での戦闘のフラッシュバックです。素直に読み取るならば、映画版での水原を「普通でない」状態にしたのは水兵としての戦闘体験ということになります。
 けれど、戦闘体験からのトラウマが水原を精神をおかしくしたのだとすると、北條家への訪問について説明ができないと思うのです。戦場で過酷な経験をして精神を病んだ兵士が、果たして銃後の安寧な生活や幼馴染みに救いを求めるのか疑問だからです。そうした兵士は銃後の社会に馴染めず、同じような過酷な体験をした兵士だけのコミュニティや戦場に逃げ込むというのがよくある描写ではないでしょうか。この定石に従うなら、水原は同じような体験を共有している水兵仲間=海軍内に引き籠るほうが自然なのです。100%あり得ない描写とまでは言いませんが、北條家にすずを訪ねた動機付けとして解釈するには説得力が薄いと感じます。

 そして、設定に疑問の残る戦闘フラッシュバックを挿入することで、原作漫画において水原という青年をおかしくしてしまった原因である、軍隊内での暴力や軍人を持ち上げる世相への居心地の悪さも消えてしまいました。
 後者はまだ映画版にも「わしゃあ、英霊呼ばわりは勘弁じゃけえ」という台詞に残滓としても残っています。とはいえ、それも水原のロマンス要素を増量した映画版では「すずの心の中でも大勢いる英霊にまとめられてしまうのは嫌だ」「愛するすずには水原哲という個人として覚えていて欲しい」という恋愛感情の発露として解釈することもできてしまいます。
 そして、水原をおかしくした主要因と設定された過酷な戦闘体験との繋がりも不自然になってしまっています。原作漫画の“軍人を持ち上げる世相に馴染めない、気持ち悪い→英霊として奉られたくない”はスムーズに繋がりますが、映画版では“過酷な戦闘を体験して心がまいっている→英霊として奉られたくない???”と関連性が断絶されてしまっているのです。

 なぜ映画版では、水原の異常な行動の核心ともいえる台詞をカットしてしまったのでしょうか? 尺が足りなかったというのは通用しません。わざわざ戦闘のフラッシュバックシーンを追加しているのですから。リン周りの描写をざっくりと、しかも粗雑に削除してまで残した水原の登場シーンだというのに、あんまりじゃないですか。
 それとも、ピンポイントで水原の行動を説明する台詞を消さなくてはいけない何らかの理由があったのでしょうか? 謎は深まるばかりです。


 手始めに、映画版で行われた小さな改変が原作の持っていた意味をがらりと変えてしまった点を取り上げてみました。意味が180度変わったとまでは言いません。しかし、少なくとも明確な答えが提示されていたところをピンポイントで消去して、わかりづらくしてしまったのは間違いありません。そして、原作で明示されていたのとはまったく別の行動原理が水原という人物に附与されかねない描写に差し替えられてしまいました。

 映画のみの鑑賞であれば、やや説明不足ながらもなんとなく流してしまえる描写だったかもしれません。けれど、それは原作漫画の『この世界の片隅に』とは別の内容です。
 逆に原作漫画を先に読んでいた場合、原作から得た情報を脳内で補完して、映画版も違和感なく鑑賞できたかもしれません。または、個々の変更点が小さいために、水原の行動原理が微妙に変更されてることを見落としていたかもしれません。
 この映画にはこういう改変が少なくありません。この小さいながらもニュアンスを大きく変える変更がなされているのが曲者だと考えています。


 次の段に移る前に、私の問題意識が細かすぎると感じている人もいるでしょうか。
 ぶっちゃけて言うなら、水原が精神の安定を欠いた原因が海軍内での暴力だったとしても、過酷な戦闘体験だったとしても、大きな意味合いは変わらない。どちらも広い意味での戦争体験が兵士の精神を壊したという設定は維持されている。そう擁護する方もいるかもしれません。
 では、海軍内での暴力も過酷な戦闘体験も同じようなもので、入れ替え可能だと考えている方は、次の状況を仮定してみてください。
 原作で「過酷な戦闘で精神を病んでしまった」という日本兵の設定が、映画や他のメディアに翻案される際に「軍隊内での暴力で精神を病んだ」という設定に改変されてしまったとしたら、どうでしょうか?
 入れ替え可能であれば、問題ないと言えるはずです。断言できますか?

 “軍隊内での暴力→過酷な戦闘体験”の改変は許容できて“過酷な戦闘体験→軍隊内での暴力”の改変は許容できないという人は、日本軍の内部での暴力という問題を直視したくない、隠蔽したいという欲望を抱えている恐れはありませんか。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その3

2017年03月20日 | Weblog
3.映画版の第一印象

 やや寄り道となりますが、ここで映画版の第一印象を記しておきます。
 悪印象と好印象の両方があったのですが、悪印象を一言で言い表すと――
 
「独立した映像作品として成立していない」でした。
 
 私は遊郭周りの描写こそ『この世界の片隅に』という作品の醍醐味だと考えていますので、遊郭やリン関連の描写が不自然にぶつ切りにされた映画版にこういう悪印象を持つのは自明ではあります。
 けれど不思議なのは、映画版だけでは明らかに不自然、意味不明な描写になっているのにも関わらず、そのことを不満とする声が(私のような原作のリンに固執するファン以外からは)ほとんど聞こえないことです。

 背表紙の一部が切り取られた帳面。桜の花弁が入った紅。これらの意味深に描写された小道具たちは、劇作上何の意味を持っていたのか劇場版からは読み取れません。
 また、ラスト付近で再登場する“ばけもん”も、劇場版の描写からは意味不明です。
 リン関連の不自然なぶつ切り描写に関しては、言わずもがなでしょう。
 これらの意味を知りたければ、原作に当たって伏線や込められた意味を知るしかありません。肝心な部分は原作漫画を読んで補完して欲しいと、丸投げしていると言わざるをえません。

 海外での上映が決まったようですが、これだけ原作漫画に丸投げした描写を残したままで不安を感じないのでしょうか? 原作漫画が翻訳・出版されていない国や地域で上映した場合、すでに挙げた意味深な小道具や描写に疑問を持った観客はどうすればいいのでしょうか? 「原作漫画を読んでください」とは言えません。“ばけもん”なんて、いかにも素っ頓狂な民俗学的解釈をされてしまいそうですけれど、あのままで本当に大丈夫なんでしょうか?

 「独立した映像作品として成立していない」というのは、こういう意味です。

 映像作品として限られた時間に収めるためには仕方がなかった、という言い訳は受け付けません。限られた時間の中で、無用な混乱や誤解を生じさせない映像を完成させるのが映画監督の仕事なのですから。

 ちなみに、同じ片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』では、クライマックスの冒険の動機づけとなる謎の真相が観客には伏せられたまま物語が閉じます。主人公たちが真相を聞くシーンだけが省略されて物語が続くので戸惑いますが、特に不都合なく最後まで鑑賞できます。物語を読み取るうえで重要なのは真相の中身ではなく、主人公たちが謎を追う冒険を通して大人の世界を垣間見たという経験なので、大胆な省略を行っても物語は破綻しないと判断したのでしょう。
 このように、片渕監督は映像作品の情報の制御において確かな技術と才能を持っています。ですので、単なる技量の不足で映画版が不自然な断片描写になったとは考えづらいのです。
 むしろ原作改変の不満をリン関連に集中させることを狙って、あえて不自然なぶつ切りをしたのではないかとさえ疑っています。


 監督への疑念はさておき、映画の好印象についても一応触れておきましょう。
 原作に依存しないと意味不明な描写があったり、脚本上の瑕疵があったとしても“良い映画”や“名作映画”というのはあり得ますし、それを否定するものではありません。
 加点方式で10000点を付けたいほど感動したという人の感性や感想を否定はしません。けれど、映画単独では解釈不能な不備を残しており、明らかに減点要素を抱えた作品だということは押さえておきたかったのです。

 好印象を抱いたのは、やはり時代考証の部分です。
 原作漫画から丁寧な資料集めや考証が評価されていましたが、原作漫画の考証の不備をさらに訂正して深化していたのには舌を巻きました。
 広島の川船の形状やスケッチブックの形といった小さなものから、建物疎開の様子といった大きなところまで、よくもまあ訂正したものだと感心します。原作で空襲後に晴美に防火用水槽の水を飲ませていた(腹を下す恐れが……)のを顔を洗うだけにしたりと、ケアレスミスの訂正にも余念がありません。
 また、水原哲の訪問の際、原作では行火(あんか)の炭を水で溶いて絵を描いていましたが、これも万年筆のインクを皿に移す描写に変更されています。おそらく再現してみて、炭を水で溶いても絵を描くには向かないと判断したのだと思います。

 中でも凄いと思ったのが、空襲後のラジオ放送です。特に1945/8/6の岡山放送局の放送の冷え冷えとした感触は、観客だけが何が起こっているかを知っているからこそのもので、映画(映像作品)ならではの表現だと感動させられました。ここの演出だけでも、見て損のない映画であるのは間違いありません。
 空襲描写の緻密さも素晴らしかったです。特に対空砲の破片が大粒の雹のように地上に降ってくる描写は他の作品で見たことがなく、とても興味深いものでした。空襲の被害というと火にまかれたり爆風にやられてたりするイメージが強かったのですが、味方の対空砲の破片に殺されるという可能性を説得力を持って描写したのは稀なので、高く評価しないわけにはいきません。
 後は、空襲の火災による煤で干していた洗濯物が汚れてしまって、洗いなおさないといけないという描写にも唸らされました。空襲の直接の被害が無くても、様々な面で生活が圧迫されることを示しており、生活者としてのすずに焦点を当てた映画版ならではの良改変だったと思います。

 極めて個人的な興味から面白かったのが、呉駅前に土嚢を円形に並べた簡易防空壕です。ベトナム戦争のドキュメンタリ映画で、同じような形の青天井の防空壕がハノイ市の道路脇に作られていたのを見たことがあったので(ハノイのものはコンクリート製)、戦中の日本にも同じ形状の壕があったとわかって興味深かったです。

 映画版も、緻密な時代考証で今までにない知見が得られるという意味で十分良作であることは否定しません。
 とりわけ原作漫画の上巻に相当する部分については非常に丁寧に作られており、改変にするにしても原作を尊重しているのがわかります。
 それがよくわかるのが次の改変です。

 すずが北條家に嫁入りした日の夜、原作漫画では灯火管制が厳しいと周作に諭されるシーンがあります。これは軍港・呉の特殊性、広島市よりも軍の統制が厳しい地域であるという世界観を説明するエピソードだったのですが、なぜか映画版ではカットされ、照射訓練のエピソードに差し替えられました。
 改変はされましたが、映画版では同じ世界観を説明する別のエピソードで補完されています。列車で呉市内に入る時に、海側の窓を閉めるように命じられるのがそれです。

 原作漫画から変更したら、別の部分で必要な情報をちゃんと補完する。観客に提示するべき情報に目が行き届いているのがわかります。片渕監督本来のポテンシャルなら、これくらいのことはできて当然だと思うのですよ。
 この改変は映画版でも上手く処理している箇所なので、良改変の例として挙げておきました。後でも言及するかもしれません。

 全編にわたってこの調子で原作の情報を毀損せずにいてくれたら、心おきなく名作と認定できたのですが……。
 では、次の段から私が何に失望したのかを見ていこうと思います。