はしだてあゆみのぼやき

シナリオや小説を書いてる橋立鮎美が、書けない時のストレスを書きなぐる場所

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その6

2017年03月20日 | Weblog
6.消された枕崎台風と敗戦後の混沌

 敗戦後の描写となると、さらに露骨に原作を改変しています。
 最も顕著なのが、原作での8/15の次の回、枕崎台風のエピソードを丸々削除していることです。

 この枕崎台風のエピソードは、原作でもなかなかに不可解な回だったりします。何しろすずが絶望の淵に落とされた8/15の直後の回だというのに、底抜けに明るいのです。
 戦争に負けた上に、広島で入市被爆した伯母夫婦は体調が優れず、台風で納屋はつぶれ、周作は屋根に穴を開け、義母のサンは頭から血を流し、坂道が崩れて径子は泥まみれになり、家長である円太郎は解雇され……。北條家にありとあらゆる災難が降りかかります。
 しかし、その苦境のどん底で北條家の人々は実にいい笑顔で大笑いするのです。(下巻 p.103)


 終いには自棄になって「ほんまに迷惑な神風じゃ!」と笑い飛ばす始末です。

 この大笑い、作中のある伏線を回収したものだと私は解釈しています。その伏線とは、憲兵に叱られるエピソードの前半にサンが漏らした言葉です。
 「みんなが笑うて暮らせりゃええのにねえ」
 この言葉には、当該エピソードのラストで一旦オチが付きます。憲兵に勘違いされたすずに北條家一同が大笑いしている中、すずだけが「素直に笑えんのはうちだけか…………」と拗ねています。
 けれど、この家族のささやかな幸せを願う言葉が実現するのが、枕崎台風のエピソードでの一同大爆笑になるのです。原作漫画を確認しましたが、敗戦後の枕崎台風まで一度も北條家の全員が笑うシーンは出てきません。敗戦後の世界を描く第一回目にこのエピソードを置いたのは偶然ではないと思います。

 その意図は明白でしょう。
 家族みんなが笑うというささやかな願いさえ戦争中は叶わなかったが、戦争が終わったとたん笑えるようになったということです。さらに言えば、戦争中にあった有形無形の抑圧が敗戦で取り除かれ、ようやく心から笑える世の中が到来したということです。


 この一同大爆笑に限らず、枕崎台風のエピソードでは社会の抑圧や箍(たが)が外れた様子がいくつも描かれています。

 周作は占領軍から逃亡する上官に付き添うよう命じられ、出張の準備を始めています。
 解雇された円太郎は、軍事物資を横領して作ったクワを退職金代わりに持ち帰ってきました。

 それまで真面目な勤め人に見えた円太郎からは考えられない行動ですが、敗戦直後の箍が外れた日本社会ではこういう犯罪まがいのこともしないと生きていけなかったのでしょう。
 このクワはおそらく闇市で売って、食料を買う資金に換えたのだろうと想像できます。もしくは、農村へ持っていって食料との物々交換に使われたのでしょう。

 こうした敗戦後の日本の混沌としつつも底抜けに明るかった空気を象徴するエピソードを、原作漫画では面白おかしく描いています。
 しかし、映画版はこれらの混沌とした社会描写を丸々削除してしまいました。それどころか、真逆の印象を与えるエピソードに作り変えてしまっています。

 円太郎は物資を横領してクワを作らずに、機械の図面を焼却処分する様子が描かれました。軍関係の資料を処分せよという命令に従ったのでしょう。
 家計のために軍事物資を横領するアナーキーな円太郎お父さんの存在は消されて、軍の命令に最後まで忠実に従う生真面目な技術者にされてしまいました。

 生活者であるすずの目線で戦争を描くのであれば、戦後の混乱期の闇市で物資を購入するお金の出所は大事でしょう。退職金代わりの新品クワがなければ、どうやって現金を得たのかという疑問が残ります。

 なお映画版のスタッフロールでは、北條家のその後のイメージカットで円太郎がクワを持っていましたが、北條家が持っていた耕作地はすずに好き勝手にさせる家庭菜園レベルの広さでしたので、円太郎がクワで耕作しても家計を支えるのは難しそうだと考えるのは私だけでしょうか。戦後の混乱期に家計は周作からの収入に頼って、リタイアした円太郎は家庭菜園を楽しんでいたのでしょうか。


 もっと酷い改変が行われたのが周作です。
 占領軍からの逃亡を計画していた上官の話が削除されただけではありません。
 原作漫画の次の10月のエピソードでは、周作が徳山で起こった反乱を詔勅で制圧(説得?)するために出張する場面から始まります。
 「正義が飛び去っていく」と感じたのはすずの個人的な感傷などではなく、同じように旧来の正義に固執していた人々が他にもいたことが描かれています。
 それなのに映画版では、周作の出張の理由は具体的には触れられず、「海軍を解体しきるまでは何があっても秩序を守り通すのが法務の仕事じゃ」という台詞に変えられてしまいました。

 軍中枢への求心力が失われて反乱が起こったというエピソードを、軍解体までの秩序維持を決意する話に差し替えるだなんて、真逆の印象を与えようとしているとしか考えられません。

 もちろんミニマムな視点であれば、原作漫画の混沌とした日本も、映画版の秩序を保った日本もどちらも事実ではあるでしょう。敗戦後に軍事物資を横領した工場もあれば、軍の工作に従ってせっせと図面を焼却した工場もあったでしょう。占領軍の追及を恐れて逃亡を図った軍人もいれば、最後まで秩序を保とうと職務に励んた軍人もいるでしょう。
 それらのミニマムな視点での事実の中から何を選んで描くかが、創作するという行為でしょう。原作が何を描こうとしていたかという意図そのものを変更することは、原作への冒涜に他なりません。

 時代考証の結果、原作通りのエピソードは描けなかった可能性もあります。
 例えば、徳山の反乱制圧に呉の軍法会議の禄次は参加していないという記録が残っていたなどの事情があるなら、原作通りにはできないのも理解できます。
 けれど、それならば原作漫画が描こうとした社会の秩序が崩れて混沌とした様を描く別のエピソードを挿入するべきです。間違っても、日本社会や軍は最後まで規律正しく秩序を保っていたという正反対の印象を与えるエピソードに差し替えて良いはずがありません。

 映画も前半では、呉の灯火管制の代わりに列車の海側の窓を閉める命令を出し監視する様子を描くなど、原作の意図を尊重した改変ができていました。
 なぜ戦後描写に限って、正反対の印象を与えるエピソードに変更されたのか、理解に苦しみます。


 ……嘘です。ここまでくれば察しがつこうというものです。
 3つのシーンを原作漫画と映画版の描写の違いに注目してを検討してきました。

 水原哲のエピソードでは、彼の精神を不安定にした海軍内での私的暴力の問題が不自然にピンポイントで消去され、北條家に来た動機がわかりづらく改変されていました。
 玉音放送のエピソードでは、原作で印象的な「正義が飛び去っていく」の言葉が消され、すずの怒りの対象が国や軍ではない解釈を誘導するような変更が加えられていました。
 そして、敗戦後の日本社会の描き方では、正義が飛び去ったことで到来した混沌としつつも明るい世相がなかったことにされ、秩序が(特に軍関連の秩序が)維持されたという描写に改変されてしまっています。

 どれも軍や国にとって都合の悪い描写を避けた結果のように思えます。
 しかも、戦後の描写以外の2つは、エピソード全体の流れは変更せずに細かな台詞の削除や追加で、巧妙に印象を変えようとしています。映像作家としての技術を、原作の持つ軍への批判的な描写を誤魔化すことに注力したかのような印象さえ受けます。
 今回改めて書き出してようやく理解しましたが、水原哲のエピソードから海軍内の暴力を消去する手並みのあまりの巧妙さには脱帽しました。私も初見では見落としましたし、変更に気づかなかった原作ファンも多かったと思います。
 どうしてそこまでして軍や国への批判、無様でみっともない様を描写するまいと改変したのでしょうか? 

 まるでもう存在しない大日本帝国の検閲に怯えているかのような改変ぶりです。検閲の真価は弾圧を恐れるクリエイターやジャーナリストの自粛や自主規制にあるわけですから、いまだにこの社会では厳つい憲兵の亡霊がそこら中を巡回してるのかもしれません。少なくとも“憲兵気取り”がゴロゴロしている社会であることは間違いありません。

 というわけで、個人的に片渕監督の映画版には“自主検閲済”もしくは“海軍検閲済”の称号を贈りたいと思います。


 そうそう、ひとつ予想される反論にあらかじめ答えておきましょう。
 次のシーンを反証に挙げて、片渕監督が日本軍のみっともなさを誤魔化そうとはしていないと主張する人もいるかと思います。

 円太郎「わしらの二千馬力がええ音鳴らしとる」
 円太郎「わしらが日夜工場で働くのは、あれを歩留まりよう仕上げるためじゃ。九一式五百馬力から始めて、ここまできたかのう」
 晴美「ねえ、敵は何馬力なん? ねえ、敵は何馬力――」

 円太郎が自分たちの作った二千馬力のエンジンを誇りながらも、敵のエンジンの性能を尋ねる晴美には答えずじまいという場面です。確かに晴美の問いに円太郎はばつが悪そうでした。
 ですが、『風立ちぬ』の堀越二郎に対して「不利な条件でよくやった! 頑張った! 感動した!!(大意)」という反応が少なくないこの国で、結果的に技術力が劣っていたことが批判やみっともなさにならないことは、片渕監督だってよくわかってるでしょう。「厳しい条件の中、本当にでよくやったよ……(涙)」と努力を評価して、褒めたり感動する人が大半なんじゃないでしょうか。間違っても「敵に性能で劣るエンジンを誇るなよ(呆)」なんて反応が返ってこないことは見越してるわけです。

 そもそも、原作漫画において日本軍が活躍する様子は全く描かれていませんでした。唯一の日本軍の戦闘描写は、初の呉空襲の時の対空砲のささやかな応戦だけです。(中巻 p.121)


 この豆鉄砲のような対空砲が、全編を通してすずが認識した日本軍の戦闘のすべてです。元から軍事には無関心のすずでしたが、米軍機の襲撃は克明に描写されているのと比べると、日本軍の応戦はほとんど目に入りもしなかったという残酷な扱いを受けています。物語の都合上、米軍からの攻撃と被害に描写が傾くのは仕方がない面も大きいのですが、それにしたって日本軍の冷遇ぶりは徹底されています。
 原作漫画での扱いと比べると、日本軍が応戦して自国民を守ろうとしている描写が少し入るだけでも優遇されてると言えます。そして、足りない尺をやりくりしたという割には、日本軍の戦闘描写はしっかり追加されているわけです。

 応戦した記録が資料として残っているので、追加しないわけにはいかなかった?
 監督がミリタリマニアの血を抑えられず、戦闘描写を描かずにいられなかった? 

 すでに見てきた原作漫画にある軍への批判的な描写や軍のみっともなさを描いた描写を改竄せずにそのまま描いていたのなら、その言い訳も成り立つでしょう。けれど、批判に繋がる都合の悪い描写を改竄した上に、原作になかった日本軍が自国民を真面目に守ろうとする描写(原作のすずの視界にはほとんど入らなかった光景)をわざわざ追加したのですから、何らかの意図を持って行ったと推定するのが妥当でしょう。