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はしだてあゆみのぼやき

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いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その4

2017年03月20日 | Weblog
4.問題提起1:水原哲はどうして北條家を訪れたのか?

 まずは、すずの幼馴染みの水原哲についてです。
 映画版における描写だけで「なぜ北條家に来たのか?」を解釈できるだろうか? という問いを立てたいと思います。

 もちろん原作にはこの問いの“答え”が描かれています。
 けれど、改変された映画版のみの情報で、この問いにどう答えられるかが気になって仕方がないのです。

 大前提として、水原の北條家訪問が相当な異常な行動だということが理解されてるかが不安です。納屋で寝るように告げる時の周作のただならぬ雰囲気で察することもできるでしょうが、水原の訪問自体が異常事態であることを確認しておきましょう。

 義姉径子のサブエピソードで匂わせているように、家制度の支配下にある時代です。いくら周作が容認したとはいっても、家制度の下の日本で水原を泊めることは最悪すずが姦通罪に問われかねない事態です。
 そもそも兵士の入湯上陸とはいえ、若い男が幼馴染み程度の関係の娘の嫁ぎ先の家に押しかけて風呂を借りるだけでも図々しい行為です。ましてや泊まっていくなどというのは、非常識極まりない行為であったのは間違いありません。
 これが遠縁でも親戚関係だったり、円太郎や周作(家主かその跡取り)との交友関係を頼って来たのなら、まだ理解できるのですが……。嫁いだ娘の元幼馴染みなんて赤の他人も同然です。
 周作がすずを母屋から締め出す(=水原に妻を差し出すと同義)という衝撃の展開に目が眩みがちですが、そもそも北條家に水原が来ること自体がおかしいのです。

 原作漫画でも極めて現実味の薄い展開なのですが、この現実味の薄いメロドラマを成立させるために色々と設定を積み重ねています。
 周作がリンとの関係で後悔を抱いていたというのが、ひとつ。妻を差し出すという極端な行動に周作が走る感情の熱量が、リン周りの描写を削った映画版にはどうしても足りません。
 さらに言えば、すずが生理不順からくる不妊であったことも無視できない設定です。間違いがあっても子供の心配まではしなくていいというのは、やはり大きかったと思います。この不妊設定も映画版ではオミットされてしまっています。

 細かな設定の改変も気になりますが、今検討している問題は水原が北條家を訪れた理由でした。

 では、映画版の水原はどのような人物として描かれていたのか簡単に振り返っておきましょう。
 原作漫画における最重要人物であるリンを差し置いて出番を確保されている水原ですが、実はかなり印象が違っています。
 原作漫画の水原は、かなり乱暴者の虐めっ子として描かれていました。乱暴者で評判のすずの兄要一と同じような悪評が立てられています。すずに対しても、遊びのためにちびた鉛筆を奪い、床穴に落として失くしています。しかも逆ギレして髪を引っ張るなど、乱暴者っぷりを発揮しています。その罪滅ぼしとして、事故で溺死した兄の遺品である鉛筆を彼はすずにやるのです。一見手の付けられない乱暴者だけれど、律儀な面もある少年として水原は描かれていました。

 一方映画版では、乱暴だった描写は概ね削られて、特に理由もなく鉛筆をやるような好少年、もしくはすずに気がある描写へと改変が加えられています。他にも、周作と円太郎が結婚前に浦野家を訪れた帰り道、道に迷ったのは水兵さんのせいだと語られていました。おそらくすずを嫁として奪っていくことへの意趣返しを水兵(=水原)がしたのだと思われます。
 このように、映画版では<水原→すず>の思慕が強調されています。
 逆に原作漫画にあった<すず→水原>の思慕を匂わせる描写はいくつか削られています。水原の摘んだ椿を見て物思いにふけるシーンや、すずが水原の千人針だけは妹すみに代わって縫っていたエピソードがカットされています。

 すずに慕われていたのではなく、すずを慕っていたと印象を変えられた水原が北條家の玄関に現れます。映画の描写を素直に読み取れば、「子供のころから秘めていた恋愛感情の故に嫁いだ幼馴染みを訪ねた」と解釈するのが自然です。
 乱暴な喧嘩友達だった水原から毒気を抜いて、ロマンティックラブの要素を強調してるように思われます。しかし、原作漫画における水原とは、そういうキャラクターだったのでしょうか?

 もうひとつ、水原の訪問を理解するうえで重要な言葉が「普通」です。すずに対して「普通じゃ」「普通じゃ」と愛おしそうに言う水原は、どうやら「普通でない」「まともでない」状況にあると自分を認識していることが察せられます。
 しかし、映画版ではどう「普通でない」のかは語られません。映画内の描写から色々と想像を膨らませることはできるでしょうが、鑑賞者によって大きく解釈が分かれそうなところです。

 けれど、原作漫画ではそのものずばり水原の台詞で正解が書かれています。(中巻 p.88)


「ほいでもヘマもないのに叩かれたり 手柄もないのにヘイコラされたりは」
「人間じゃのうてワラやカミサマの当たり前じゃないかのう」

 実に明快です。海軍内での訳も分からず殴られてばかりの生活。陸に上がれば、軍人様だと持ち上げられる生活。そのどちらも水原にとっては「人間の当たり前から外された」まともではないものだったのです。
 海軍の中も外の日本社会も、水原にとっては心安らぐ場所ではなくなっていた。軍にも陸にも居場所がなかった。
 だからこそ、水原は北條家を訪ねて来たのです。彼にとっての「普通」=違和感がなく心安らぐ場所は、かつての幼馴染みのすず以外には期待できないものだったのでしょう。

 周作に語った「同期もだいぶ靖国へ行ってしもうて集会所へも寄りにくうなった」という理由も、丸っきりの嘘ではないにしろ方便の要素のほうが強いでしょう。また、「同期が少ない=軍隊内での上下関係に縛られない仲間が少ない(orいない?)」ことが軍に対して居心地の悪さを感じさせる要因だと考えれば、すずに打ち明けた本音とも矛盾しません。

 この解釈は、原作漫画での水原との出会いでも補強されます。北條家に訪ねてきた水原との出会いの瞬間から、かつての水原とは別人であることが強調されています。なにしろ、出会い頭にすずを俵担ぎして、ニコニコと水汲みを手伝うのです。子供の頃はガキ大将気質の乱暴者で、すずとは口喧嘩ばかりしていたという水原がです。
 初めから「普通の状態ではない」そして「まともな精神状態ではない」ことを示唆する描写で水原は現れています。

 やや話が逸れますが、原作漫画では水原以外にも海軍生活に精神がまいってしまった兵士が登場します。その兵士のバックボーンはほとんど語られていませんが、朝日遊郭の遊女テルと自殺未遂を起こしています。
 水原が軍隊生活で精神がまいっていたというのは、私の勝手な妄想ではなく原作漫画の世界観に沿った解釈です。自殺未遂の話を聞いた後、すずは水原との別れを思い出しているという念の入れようで、自殺未遂の兵士と水原は無関係なものではなく関連付けて解釈するようにという補助線を原作者こうの氏は引いています。
 この話をテルから聞く原作漫画の描写こそ、『この世界の片隅に』という作品ならではの面白さの一つだと私は高く評価していただけに、映画版でばっさりカットされていたのが残念でなりません。

 閑話休題。

 上に引用した水原の台詞は、彼の北條家訪問という異常な行動を理解するには不可欠な台詞だったにもかかわらず、なぜだか映画版では削られてしまいました。
 代わりに挿入されているのが、青葉の艦上での短い描写。おそらく南洋での戦闘のフラッシュバックです。素直に読み取るならば、映画版での水原を「普通でない」状態にしたのは水兵としての戦闘体験ということになります。
 けれど、戦闘体験からのトラウマが水原を精神をおかしくしたのだとすると、北條家への訪問について説明ができないと思うのです。戦場で過酷な経験をして精神を病んだ兵士が、果たして銃後の安寧な生活や幼馴染みに救いを求めるのか疑問だからです。そうした兵士は銃後の社会に馴染めず、同じような過酷な体験をした兵士だけのコミュニティや戦場に逃げ込むというのがよくある描写ではないでしょうか。この定石に従うなら、水原は同じような体験を共有している水兵仲間=海軍内に引き籠るほうが自然なのです。100%あり得ない描写とまでは言いませんが、北條家にすずを訪ねた動機付けとして解釈するには説得力が薄いと感じます。

 そして、設定に疑問の残る戦闘フラッシュバックを挿入することで、原作漫画において水原という青年をおかしくしてしまった原因である、軍隊内での暴力や軍人を持ち上げる世相への居心地の悪さも消えてしまいました。
 後者はまだ映画版にも「わしゃあ、英霊呼ばわりは勘弁じゃけえ」という台詞に残滓としても残っています。とはいえ、それも水原のロマンス要素を増量した映画版では「すずの心の中でも大勢いる英霊にまとめられてしまうのは嫌だ」「愛するすずには水原哲という個人として覚えていて欲しい」という恋愛感情の発露として解釈することもできてしまいます。
 そして、水原をおかしくした主要因と設定された過酷な戦闘体験との繋がりも不自然になってしまっています。原作漫画の“軍人を持ち上げる世相に馴染めない、気持ち悪い→英霊として奉られたくない”はスムーズに繋がりますが、映画版では“過酷な戦闘を体験して心がまいっている→英霊として奉られたくない???”と関連性が断絶されてしまっているのです。

 なぜ映画版では、水原の異常な行動の核心ともいえる台詞をカットしてしまったのでしょうか? 尺が足りなかったというのは通用しません。わざわざ戦闘のフラッシュバックシーンを追加しているのですから。リン周りの描写をざっくりと、しかも粗雑に削除してまで残した水原の登場シーンだというのに、あんまりじゃないですか。
 それとも、ピンポイントで水原の行動を説明する台詞を消さなくてはいけない何らかの理由があったのでしょうか? 謎は深まるばかりです。


 手始めに、映画版で行われた小さな改変が原作の持っていた意味をがらりと変えてしまった点を取り上げてみました。意味が180度変わったとまでは言いません。しかし、少なくとも明確な答えが提示されていたところをピンポイントで消去して、わかりづらくしてしまったのは間違いありません。そして、原作で明示されていたのとはまったく別の行動原理が水原という人物に附与されかねない描写に差し替えられてしまいました。

 映画のみの鑑賞であれば、やや説明不足ながらもなんとなく流してしまえる描写だったかもしれません。けれど、それは原作漫画の『この世界の片隅に』とは別の内容です。
 逆に原作漫画を先に読んでいた場合、原作から得た情報を脳内で補完して、映画版も違和感なく鑑賞できたかもしれません。または、個々の変更点が小さいために、水原の行動原理が微妙に変更されてることを見落としていたかもしれません。
 この映画にはこういう改変が少なくありません。この小さいながらもニュアンスを大きく変える変更がなされているのが曲者だと考えています。


 次の段に移る前に、私の問題意識が細かすぎると感じている人もいるでしょうか。
 ぶっちゃけて言うなら、水原が精神の安定を欠いた原因が海軍内での暴力だったとしても、過酷な戦闘体験だったとしても、大きな意味合いは変わらない。どちらも広い意味での戦争体験が兵士の精神を壊したという設定は維持されている。そう擁護する方もいるかもしれません。
 では、海軍内での暴力も過酷な戦闘体験も同じようなもので、入れ替え可能だと考えている方は、次の状況を仮定してみてください。
 原作で「過酷な戦闘で精神を病んでしまった」という日本兵の設定が、映画や他のメディアに翻案される際に「軍隊内での暴力で精神を病んだ」という設定に改変されてしまったとしたら、どうでしょうか?
 入れ替え可能であれば、問題ないと言えるはずです。断言できますか?

 “軍隊内での暴力→過酷な戦闘体験”の改変は許容できて“過酷な戦闘体験→軍隊内での暴力”の改変は許容できないという人は、日本軍の内部での暴力という問題を直視したくない、隠蔽したいという欲望を抱えている恐れはありませんか。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その3

2017年03月20日 | Weblog
3.映画版の第一印象

 やや寄り道となりますが、ここで映画版の第一印象を記しておきます。
 悪印象と好印象の両方があったのですが、悪印象を一言で言い表すと――
 
「独立した映像作品として成立していない」でした。
 
 私は遊郭周りの描写こそ『この世界の片隅に』という作品の醍醐味だと考えていますので、遊郭やリン関連の描写が不自然にぶつ切りにされた映画版にこういう悪印象を持つのは自明ではあります。
 けれど不思議なのは、映画版だけでは明らかに不自然、意味不明な描写になっているのにも関わらず、そのことを不満とする声が(私のような原作のリンに固執するファン以外からは)ほとんど聞こえないことです。

 背表紙の一部が切り取られた帳面。桜の花弁が入った紅。これらの意味深に描写された小道具たちは、劇作上何の意味を持っていたのか劇場版からは読み取れません。
 また、ラスト付近で再登場する“ばけもん”も、劇場版の描写からは意味不明です。
 リン関連の不自然なぶつ切り描写に関しては、言わずもがなでしょう。
 これらの意味を知りたければ、原作に当たって伏線や込められた意味を知るしかありません。肝心な部分は原作漫画を読んで補完して欲しいと、丸投げしていると言わざるをえません。

 海外での上映が決まったようですが、これだけ原作漫画に丸投げした描写を残したままで不安を感じないのでしょうか? 原作漫画が翻訳・出版されていない国や地域で上映した場合、すでに挙げた意味深な小道具や描写に疑問を持った観客はどうすればいいのでしょうか? 「原作漫画を読んでください」とは言えません。“ばけもん”なんて、いかにも素っ頓狂な民俗学的解釈をされてしまいそうですけれど、あのままで本当に大丈夫なんでしょうか?

 「独立した映像作品として成立していない」というのは、こういう意味です。

 映像作品として限られた時間に収めるためには仕方がなかった、という言い訳は受け付けません。限られた時間の中で、無用な混乱や誤解を生じさせない映像を完成させるのが映画監督の仕事なのですから。

 ちなみに、同じ片渕監督の『マイマイ新子と千年の魔法』では、クライマックスの冒険の動機づけとなる謎の真相が観客には伏せられたまま物語が閉じます。主人公たちが真相を聞くシーンだけが省略されて物語が続くので戸惑いますが、特に不都合なく最後まで鑑賞できます。物語を読み取るうえで重要なのは真相の中身ではなく、主人公たちが謎を追う冒険を通して大人の世界を垣間見たという経験なので、大胆な省略を行っても物語は破綻しないと判断したのでしょう。
 このように、片渕監督は映像作品の情報の制御において確かな技術と才能を持っています。ですので、単なる技量の不足で映画版が不自然な断片描写になったとは考えづらいのです。
 むしろ原作改変の不満をリン関連に集中させることを狙って、あえて不自然なぶつ切りをしたのではないかとさえ疑っています。


 監督への疑念はさておき、映画の好印象についても一応触れておきましょう。
 原作に依存しないと意味不明な描写があったり、脚本上の瑕疵があったとしても“良い映画”や“名作映画”というのはあり得ますし、それを否定するものではありません。
 加点方式で10000点を付けたいほど感動したという人の感性や感想を否定はしません。けれど、映画単独では解釈不能な不備を残しており、明らかに減点要素を抱えた作品だということは押さえておきたかったのです。

 好印象を抱いたのは、やはり時代考証の部分です。
 原作漫画から丁寧な資料集めや考証が評価されていましたが、原作漫画の考証の不備をさらに訂正して深化していたのには舌を巻きました。
 広島の川船の形状やスケッチブックの形といった小さなものから、建物疎開の様子といった大きなところまで、よくもまあ訂正したものだと感心します。原作で空襲後に晴美に防火用水槽の水を飲ませていた(腹を下す恐れが……)のを顔を洗うだけにしたりと、ケアレスミスの訂正にも余念がありません。
 また、水原哲の訪問の際、原作では行火(あんか)の炭を水で溶いて絵を描いていましたが、これも万年筆のインクを皿に移す描写に変更されています。おそらく再現してみて、炭を水で溶いても絵を描くには向かないと判断したのだと思います。

 中でも凄いと思ったのが、空襲後のラジオ放送です。特に1945/8/6の岡山放送局の放送の冷え冷えとした感触は、観客だけが何が起こっているかを知っているからこそのもので、映画(映像作品)ならではの表現だと感動させられました。ここの演出だけでも、見て損のない映画であるのは間違いありません。
 空襲描写の緻密さも素晴らしかったです。特に対空砲の破片が大粒の雹のように地上に降ってくる描写は他の作品で見たことがなく、とても興味深いものでした。空襲の被害というと火にまかれたり爆風にやられてたりするイメージが強かったのですが、味方の対空砲の破片に殺されるという可能性を説得力を持って描写したのは稀なので、高く評価しないわけにはいきません。
 後は、空襲の火災による煤で干していた洗濯物が汚れてしまって、洗いなおさないといけないという描写にも唸らされました。空襲の直接の被害が無くても、様々な面で生活が圧迫されることを示しており、生活者としてのすずに焦点を当てた映画版ならではの良改変だったと思います。

 極めて個人的な興味から面白かったのが、呉駅前に土嚢を円形に並べた簡易防空壕です。ベトナム戦争のドキュメンタリ映画で、同じような形の青天井の防空壕がハノイ市の道路脇に作られていたのを見たことがあったので(ハノイのものはコンクリート製)、戦中の日本にも同じ形状の壕があったとわかって興味深かったです。

 映画版も、緻密な時代考証で今までにない知見が得られるという意味で十分良作であることは否定しません。
 とりわけ原作漫画の上巻に相当する部分については非常に丁寧に作られており、改変にするにしても原作を尊重しているのがわかります。
 それがよくわかるのが次の改変です。

 すずが北條家に嫁入りした日の夜、原作漫画では灯火管制が厳しいと周作に諭されるシーンがあります。これは軍港・呉の特殊性、広島市よりも軍の統制が厳しい地域であるという世界観を説明するエピソードだったのですが、なぜか映画版ではカットされ、照射訓練のエピソードに差し替えられました。
 改変はされましたが、映画版では同じ世界観を説明する別のエピソードで補完されています。列車で呉市内に入る時に、海側の窓を閉めるように命じられるのがそれです。

 原作漫画から変更したら、別の部分で必要な情報をちゃんと補完する。観客に提示するべき情報に目が行き届いているのがわかります。片渕監督本来のポテンシャルなら、これくらいのことはできて当然だと思うのですよ。
 この改変は映画版でも上手く処理している箇所なので、良改変の例として挙げておきました。後でも言及するかもしれません。

 全編にわたってこの調子で原作の情報を毀損せずにいてくれたら、心おきなく名作と認定できたのですが……。
 では、次の段から私が何に失望したのかを見ていこうと思います。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その2

2017年03月20日 | Weblog
2.こうの漫画特有の難しさ

 私は映画版の解釈に不満たらたらなわけですが、その不満が生じる原因はこうの史代氏の描く漫画にもあることは無視するわけにはいきません。

 元々こうの氏の漫画の特徴として、さりげなさがあります。さりげなく描写された伏線を見つけ出したり、能動的に解釈したりしないと意味を汲み取れない箇所が少なくありません。このさりげなさが能動的に読み取っていくこうの漫画独特の面白さを産むのですが、わかりづらさにも繋がっています。
 元々わかりづらい表現を抱えているので、読者ごとに異なる解釈が生じることは避けられません。故に、片渕監督が映画版で見せた解釈と私の解釈が異なるのも、ある程度は仕方がない面もあります。

 そして、このさりげなさに実験的な作風が相まって、漫画でしか表現しえない面白さを原作漫画は抱えています。
 いきなり重要シーンのネタバレとなりますが、原爆投下の翌日に隣保館から出てくる場面を見てください。(下巻 p.83)


 コマの右端にさりげなく「黒い何か(人影?)」が描かれています。私がそうであったように、初見でこの「黒い何か」を見落とす人は少なくないでしょう。このコマだけをピックアップするとまだ目につきますが、漫画を読んでいると人物と台詞に視線が向くため、本当に見落としやすくなっています。
 そして、次のページでここで人が死んだという台詞に驚いて、慌ててページを戻して読み返して衝撃を受けたことと思います。黒焦げになりながら広島から歩いてきた被爆者を、人間だと気づかずに見過ごしていたという作中人物の驚愕と後悔を、読者にも体験させる驚くべき仕掛けです。
 しかし、ページをめくって戻れない映画では、最初からはっきりとわかるように「真っ黒に汚れた人がしゃがみこんでいる様」が描かれていました。

 このような漫画表現に特化した描写を駆使している原作である以上、映像化に際して表現を変えたり、多層的な意味が削られたりするのは仕方がない面もあることは理解しています。


 そして、この“さりげなさ≒わかりづらさ”は漫画的表現に限ったものではありません。描写している戦中の社会に対する批判的な視点も、はやりさりげなくわかりづらく描かれています。
 『ユリイカ』2016.11月号からの孫引きになりますが、こうの氏はインタビューで以下のように語っています。元のインタビューは『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』(福間良明,吉村和真,山口誠 編著 青弓社)に収録されているようです。

「戦争中の資料を調べると、竹やり訓練でトルーマンとかチャーチルに見立てた的を刺したり、紙に描いてわざわざそこを歩くようにしたり、という描写があるんですけど、そういう特定の誰かを糾弾する様子は排除しました。というのも、庶民は自分たちが悪いという罪の意識も責任感もないまま、簡単に戦争に転がってしまうことがありうることを、いまの時代に伝えなくてはいけないと思ったのです。そういうのを入れちゃうと「この時代の人はこういうことをやっているからダメなんだ」と思って終わりなんですよ。[……]描くことで、逆に、いまの私たちとは違うんだっていうような、甘えのようなものが出てくるような気がしたのです」

 こういう問題意識の下、こうの氏は戯画的とも言える軍国主義下の社会の描写を避けるため、主人公すずに「戦争や軍に興味がなく、できるだけ遠ざけようとする」というパーソナリティを附与しました。そういうすずの目を通して見た世界からは、戦争に関するものは極力排除されています。
 しかし、まったく描いてないわけではありません。軍や戦争に無頓着なすずの目には映らなくても、彼女の周りにいる軍関係者や軍に好意的な人物から、当時の軍や社会への違和感の表明や批判的な言及がさりげなく為されています。

 ピンとこない方も少なくないでしょうから、1つだけ例示しておきましょう。義母サンが、海軍記念日に海軍中佐の講演会に参加した帰りの言葉です。(上巻 p.127)


 この「大ごとじゃ思えた頃が懐かしいわ」の台詞は、海軍記念日を祝して日の丸や旭日旗がたくさん翻る呉の街を見ながらのものです。足が悪いのに講演を聞きに行きたいと願うほど海軍(日本軍)に好意的な典型的な呉市民であるサンから見ても、1944年5月の海軍記念日の祝い方や社会の様相が「大ごと」=尋常ではないと感じられたことが読み取れます。また1944年以前のサンの記憶する“普通の時代”においては、海軍の街・呉においてもこれほど日の丸や旭日旗が翻ってなかったことも推測できます。この日の講演の演題は女子勤労動員や防空疎開でしたので、戦況の悪化の兆しも「大ごと」に含まれるかもしれません。
 これが映画版になると、同じ台詞が米を瓶で精米しながら発せられ、呉の上空を飛ぶ戦闘機や兵士の出征を見送る民家の情景を写していきます。「大ごと」の対象は、悪化した食料事情や戦況を指していると解釈するのが自然でしょう。日の丸や旭日旗が多数翻る世相の変化への漠然とした不安という要素は消えてしまいました。

 この批判性のさりげなさが原作漫画の面白さであると同時にネックにもなっていて、批判的な側面を弱めたり無視したりして解釈する読者が少なくないように思えます。極端な読み方の中には「こうの氏は当時の社会をありのままに描写して、軍や日本を批難してないから良い(大意)」なんていうものもあります。酷いものになると「イデオロギー的に偏った作品は当時の軍や日本を悪し様に描いているけれど、こうの氏が初めて当時の日本を正しく描いてくれた(大意)」などと、戦争を題材とした既存の作品を貶めるだしに使う人もいるようです。

 けれど、引用したインタビューにある通り、戦時中の戯画的な熱狂はあえて「排除した」ものであって、排除された漫画の描写が「当時の社会のありのまま」ではないことは明らかです。本末転倒というか、漫画『この世界の片隅に』も他の戦争を題材とした作品同様に、作り手が意図をもって過去の事象を取捨選択して構成した創作作品という当たり前のことが忘れ去られてしまっているようです。

 そして、映画版は原作漫画の批判性を薄めて、極端な読み方を助長するような改変が為されているように感じています。こうの氏があえて「排除した」という前提を知ったうえで、映画版に関する片渕監督のインタビュー等を読むと不安が募ります。過去の戦争作品の“記号的な戦時中描写”に異を唱えて、徹底的な調査をした自負があるのはわかるのですが、映画版の“リアルな戦時中の情景”を強調しすぎると、歴史修正主義に利用されかねないと思うのです。

 こういう危機意識のもと、原作漫画と映画版の描写の違いを読み解いていきたいと考えています。
 
 なお映画版の台詞の引用は、記憶に頼るのは不安だったので映画の脚本やコンテを参照したというノベライズ版に準拠しています。

いち原作ファンとして映画版『この世界の片隅に』の見過ごせない改変について その1

2017年03月20日 | Weblog
1.導入

 さて、いきなり反感を買いそうなテーマを掲げましたが、どこから語ればいいでしょうか。
 原作漫画と映画版の違いをネチネチとあげつらって解釈していく予定なので、基本ネタバレ上等のスタンスで語っていくつもりです。未読・未見の方はご注意ください。

 まずは、この問題に対する私の基本的な立場を明らかにしておきましょう。
 私は古いこうの史代ファンでした。『夕凪の街・桜の国』でブレイクする以前から注目をしていて、具体的には2001年の夏コミで『こっこさん』の同人誌版を購入して以来のファンです。以来、主にコミティアでサークル“の乃野屋”の新刊チェックをするようになりました。その頃に入手した同人誌版『夕凪の街』や『ぴっぴら帳・完結編』のサイン本は今でも宝物です。即売会にはすっかり足を運ばなくなりましたが、今でもこうの史代氏の商業新刊が出ると購入するくらいには好きではあります。

 一方、片渕須直監督にも恨みはありませんでした。
 むしろ『アリーテ姫』は好きな作品です。映画版『この世界の片隅に』(以下、映画版と略します)でも評価されている考証の手間のかけ方といい、理詰めの展開といい、今でもいい映画だと思っています。『BLACK LAGOON』のようなミリタリ趣味を題材とした作品も、娯楽作品として楽しんでいました。
 ただし、映画版のクラウドファウンディングには“嫌な予感”がして、迷った末に不参加を決めました。片渕監督のミリタリ趣味に沿って原作を切り取ったら、原作の良さが毀損されるのでは……と、恐れてのことです。
 予感が的中した今となっては、当時の判断を褒めてやりたい気分です。

 私が原作の良さ、漫画『この世界の片隅に』を読む醍醐味や「他の作品では味わえないユニークな面白さ」と考えているのは、朝日遊郭のリンやテルとの交流の部分です。戦前、戦中の遊郭を内部の芸妓の視点で描いた作品や、逆に外部の客(軍人)の視点から描写した作品は珍しくないと思うのですが、当時の庶民の(中ではかなり恵まれた)女性の視点から見た作品に出会ったのは初めてでした。もし、そういう視点の作品が他にあるなら知りたいと思います。
 そこで描かれているすずとリンたちとの価値観の相違や衝突こそが、原作漫画の特有の価値であり面白さだと思い、高く評価していました。だからこそ、私にとって肝心な遊郭周りの描写をごっそりカットした映画版には辛口です。

 また、原作漫画は主人公すずの“絵描き”としての半生をも描いた作品なのですが、映画版の絵描きとしてのすずの解釈には色々と納得いかない点があり、そこにも不満を感じています。

 このようなスタンスで、私が映画版に感じている不満を書き記していきたいと思います。
 私の視点や指摘が独自性の高いものだとも思っていません。これから私が指摘していく内容の大半は、同じような意見をネット上で見かけたことがあるものです。そうした映画版への違和感、不満点を記すと、しばしば映画版の熱心な支持者に批難されているのを見るにつけ、賛同しているこうの史代ファンもここにいるのだと書いておきたくなったのです。

プリミュ観たぷり

2017年01月28日 | Weblog
 『ライブミュージカル「プリパラ」み~んなにとどけ!プリズム☆ボイス2017』を見てきました。1/27(金)の夜の部です。

 内容は、ロッポンギのプリズムストーンの青井めが姉ぇ&めが兄ぃに騙されたらぁら(小学生らぁら、以下"小らぁら")が2014年のプリパラタウンにタイムスリップしてしまって……。歴史改変しようとするめが姉ぇの妨害を退けるため、かつての自分(大人らぁら、以下"大らぁら")や仲間たちを励ましてプリパラ一期の歴史を守っていくというもの。
 実質的にライブを織り込みつつの一期の名場面ダイジェストで、大変楽しく鑑賞できました。普段ライブ等には行かない人なのでサイリウムを持ってなかったのだけが心残りでしたが。

 みれぃ押しとしては、あの「プリパラは好きぷり?」のシーンを生で見られたというだけで感動モノでした。あとは、ちゃん子ちゃんの「割と好きです」も再現してくれてて……。あの台詞を作り手側も名台詞、名シーンとして認識してくれているのが判ってとても嬉しかったですね。

 内容で少々気になったのは、青井めが兄ぃがレオナに「男の子なのにプリパラでアイドルしてるなんておかしい」的な台詞を言った点。細かい所ですが、男の子であるレオナがプリパラに入れることに「驚く」キャラはいても「おかしい」とは誰も言わない。男の娘アイドルを非難したり揶揄したりする言葉は向けられない。それがプリパラ本編で守られてきたラインでしたし、一部ファンに高く評価されてきた点だと思っていたので、どうしても気になってしまいました。続く「男の子なら筋肉」というジェンダーロールを押し付けるような展開もプリパラらしからぬ印象。ハチャメチャなギャグがてんこ盛りでありながら、プリパラが意図的に避けてきたネタだったと思うのですよ。
 まあ、本筋ではないちょっとしたギャグシーンなので、目くじら立てるのも無粋かもしれませんが……。脚本の坪田文氏を確認するとTVアニメのプリパラには参加されていないようで、本編の微妙なニュアンスを保つ事が難しかったのかなと感じました。

 もう一点気になったのは、悪さをした青井めが姉ぇ&めが兄ぃに本家赤井めが姉ぇ&めが兄ぃが罰(電撃攻撃?)を与えたこと。個人的に「どんなに悪意を持って悪いことをしたキャラでも、改心して謝ったらそれでノーサイド」「罪に対して罰を与えるという発想を作中のキャラ(特に主人公のらぁら)が持たない」というのがプリパラの特色・他作品にはない特殊な倫理性だと考えていたので、反省している悪役に明確に罰が下ったのが意外でした。
 小学生のらぁら=子供が罰を与えたり、求めたりすることを良しとしないのが、「み~んなトモダチ!み~んなアイドル!」の精神ではなかったのかと思うんですよね。ちなみに南委員長が時折持ち出す校則違反の罰則はルールに則った違反行為に対するペナルティなので、罪に対する罰とは別口と解釈してます。あろまとみかんの悪戯に対するお仕置きも然り。
 まあ、二期のひびきvsみれぃ辺りから緩くなっていた特色ではありますし、罰したのもシステム(という名の大人の事情)サイドのめが姉ぇ&めが兄ぃなので、脚本上の瑕疵というほどのことでもないのですが……。

 なんだか細かいところをつつきすぎて個人的なプリパラ論になってきたので、ミュージカルの思い出に戻ります。

 みれぃ押しなので、どうしてもみれぃを目で追っていたのですが、ダンスにやたらと力(ちから)が籠っていたように感じました。動きがパワフルというよりも……力を加減していない感じ。ジャンプは毎回目一杯足を上げて飛んでたし、振りも腕に力が入っているように見えたし、全員が踊ってる最中に一人だけターンを入れてたりもあったかな。とにかく力みまくってて、全力で踊ってる感じがひしひしと伝わってきました。
 芹澤優さんの素なのか、常に全力を出しきろうとする努力の人・みれぃのキャラ付けなのかは判りませんが、とてもみれぃらしさが感じられてよかったです。
 あと、大らぁらと二人でセンターに立つ瞬間がけっこうあって、「プリパラの中心はこの二人! らぁみれ最高!!」と思っている橋立さん的には眼福でした。いや、そふぃさんも好きですし仲間外れにするつもりはないんですけどね。むしろ、拙い所の残るらぁみれをそふぃが引っ張り上げる「解放乙女ヴァルキュリア」の構図で、そふぃには二人より一段高い所にいるのが似合ってるよねー、なんて思うのです。

 そうそう、そふぃさんと言えば……。足細っ!!! と、驚愕しました。他のキャラが白いブーツやソックスの中、黒のニーソックスのそふぃさんのおみ足が一際すらっと見えて、大変美しゅうございました。
 コスモお姉さま(山本希望さん)はキャラの再現度でレオナを押してましたが、二次元キャラと遜色のない脚線美のそふぃさんが一番だったと思います。

 もちろんレオナも可愛くて、浮世離れ感が高かったです。とにかくちっちゃくて、触ったら壊れてしまいそうなお人形さんのような可憐さにあふれてました。
 そして、相方のドロシーは……面白かった! 「芸人かいっ!」と言いたくなるくらい、アニメ本編に負けず劣らずの楽しい茶々やアドリブを堪能させてもらいました。
 シオンは特にドレシの持ち歌での男前度が高かったですね。それと、ちょくちょくみれぃにちょっかいを出していて、顔に手を伸ばす様なしぐさをしてたような……。シオみれ最高か!(橋立さんはたいていのみれぃ絡みのカプならいける口です)
 
 主人公のらぁらはというと……「う゛ぇええええ!?」でした。いや、小らぁら役の久家心ちゃんが、らぁらの特徴である少し濁った驚き声の「う゛ぇえええ!?」を真似していたのが印象的だったんですよ。かなり頑張ってました。
 そして、本家である大らぁら茜屋日海夏さんの「う゛ぇええええ!?」の安定感たるや。まさに生らぁら!(当然ではあるのですけど) 設定的に小らぁらが将来の自分で、見た目に反して少しだけ自分のほうが年下という難しい役どころを演じきっていました。
 あとは……アニメのOP「Realize!」のラスト、大小のらぁらが見つめ合っているシーンが大好きなので、二人のらぁらが歌うシーンも素敵感満載!
 そして、小らぁらが震える声で「Make it!」を歌い始めててからのクライマックス! 思い出してまた泣けてきました。

 メインキャスト以外の面々も、ちゃん子ちゃんは細かくドスコイ系の仕草を仕込んでくるし、ファルルはカーテンコールで貴婦人っぽいお辞儀を貫いてるし、青井めが姉ぇ&めが兄ぃもいかにもプリパラ世界にいそうな小悪党を熱演してくれたし……。出演者の全員が楽しそうに、そして全力でプリパラの世界を再現してくれいるのが伝わってきて、本当に嬉しかったです。

 今回の公演にはもう行けそうにないので、次があるなら今度はいい席を取れるように頑張りたいなと思います。

大事なことを書き忘れてた

2013年07月23日 | Weblog
自民党の落書き憲法案に改正されても、中華人民共和国レベルになるだけだよね。
今でさえデタラメ司法でろくに守られてない人権の保障がさらに薄くなって、無根拠に逮捕・拘禁されたり、場合によっちゃあ拘束中に謎の死を迎えたりするだけだよ。政府与党のマスコミへの圧力なんてのも既にあるわけだし、大して変わらないよね。
そうそう、報道の自由度ランキングがどこまで下がるか楽しみだなー。先進国の最低ラインを軽々と下回ると予測。どんだけ下がっても、内向きに「日本は悪くない」と言い合うだけなんだろうけどねー。

で、中華人民共和国レベルってそんなに悪くないと思い直した。
あの国で張芸謀は『活着』を撮ったんだよ。姜文は『鬼子来了』を撮ったんだよ。
何を怖れることがある。

反日左翼宣言

2013年07月23日 | Weblog
まあ、選挙結果に絶望しつつ、この狂気じみた右傾化が何年くらいで止まるかなあと考えると死にたくなります。
ですが、『always look on the bright side of life』を聞いて、なんとか早計な自殺だけは思い止まりました。

とりあえず、死んだ時には反日左翼と呼ばれるような立派な生き方をしたいなあと決意しました。
どうも今の日本で反日左翼と罵倒されないことは、人間として最低限の倫理観を失った状態だと認識しましたので。
どんと来い獄中死。

つらつらと現段階での認識をメモ書きです。

2004年のアメリカ大統領選挙でブッシュが再選された時、アメリカ国民はどれだけ愚かなのかと思ったものですが、もう日本人は笑えませんね。
自分たちの人権を削減すると宣言している政党を圧倒的多数が支持することは、自国民を殺して負債を増やす戦争をはじめた愚か者をリーダーに選び続けることに輪を掛けて愚かだと思います。

共産党の11議席だけはよいニュースですが、所詮は11/242、5%弱の議席数です。どれほど国会でいい質疑、論争を繰り広げても、ほとんど何も止められないと覚悟しなくてはなりません。破滅的な法案の数%を阻止できたとしても、残りの95%以上は通過してしまうのでしょう。
色々と矛盾や問題を抱えつつも、安定して成長することのできた戦後の日本国憲法体制は崩壊するのでしょう。あの落書きみたいな自民党憲法案によって……。自ら立憲体制と人権を捨てた歴史的愚行として、歴史に残ることでしょう。

とはいえ、いくつか安倍自民党政権が長期化する悪夢の展望はあるものの、基本的に数年で自滅するとは考えています。
アベノミクスとやらは、広い国内需要を喚起することはできずに失敗すると見てますから。再配分の強化どころか、逆進性の拡大。さらにはセーフティネットの弱体化。一時的にボーナスが出たり不安定な雇用が増えたりしたところで、中~低所得層は消費なんて怖くてできないでしょう。
2~3年で馬脚を現しそうですが、その前に外交関係で自滅する可能性も高いかと。その場合は自民党復活の芽を残すことになるので痛し痒しですが。
運悪く失敗が明らかにならず、長期にわたって経済成長を装うことができたなら、メキシコのような格差極大社会に向かっていくことになるでしょう。

アベノミクスの失敗が明らかになった後はどうなるんでしょうかね? 今回の選挙で維新の息の根が止まらなかったので、次はみんなか維新あたりですか? 結局、メキシコ化は止まらなそうです。


外交・軍事面について。
まあ、憲法は高い確率で弄られるでしょう。で、石破待望の国防軍が創設されてどうなるのか?
自民党の支持者のみなさんが望んでいるような近隣国との領土問題はいっさい解消しないでしょうね。自衛隊が国防軍になったら、周辺国が恐れをなして領土的主張をしなくなるとでも? ありえないでしょう。で、自衛隊のままだと軍事的に侵略される? それも、ありえない事態でしょう。
国防軍にしても外交的なメリットとしてはほぼ皆無なんですけどね……。中国、ロシア、北朝鮮が対日軍事力を増強する口実を与えるだけです。で、それに対抗してこっちも軍事費増大ですか? 人口減少、経済縮小傾向にある国が? 正気の沙汰とは思えませんねえ。末期のソ連のように過剰な軍事費に耐えられずに衰退していくのを、中国とロシアはニヤニヤしながら眺めながら待つことになるんでしょう。あーあ、ばからし。

国内の右派のみなさんが妄想されているような尖閣や竹島、北方領土で国防軍が大活躍みたいな展開はまずないでしょう。アメリカが極東での紛争を許容する事態というのは、今のところちょっと考えづらい。米国債を一番多く買っているのが中国だという状況が変わらないかぎり、アメリカが日本よりも中国を優先させる事態は変わらないでしょう。
一番の憂慮は、安倍のような極右が短気を起こして、日本が一国で軍事行動に走ることですが……。これも、北朝鮮が自滅前提でヤケッパチの攻撃をしかけてくる程度の確立(ほぼ0%)でしょうね。

今の自民党が望んでいる状態というのは、イスラエル化かなあと妄想中です。右派にとっては理想の国でしょう? 一応民主主義国家とはいえ、軍と右派が安定して権力中枢を掌握。国内の対抗勢力は戦争、紛争状態を理由に抑圧し放題。自国周辺で思うままに軍事行動が可能で、どんな無茶な軍事行動をしても同盟国アメリカ様は承認してくれる。
でもね、安倍がアメリカを含む先進国で白眼視されてるように、対米外交・対米ロビー活動が稚拙すぎる日本(自民党)ではイスラエルにはなれっこありません。せいぜい軍事独裁下の韓国がいいところでしょうね。ベトナム戦争の時の韓国軍のように、アメリカの利害の関わる紛争地へ無料or廉価な傭兵として駆り出されるのでしょう。そうして軍事行動に国全体が馴らされていくのでしょう。あー、やだやだ。

ついでに言うと、支持率喚起のための遠隔地への派兵とかやられたら最悪です。死ぬのが兵隊だけで、自国の被害が出ない戦争なんて大変盛り上がりますからね。近い所でブッシュJr.のイラク戦争。サッチャーのフォークランド紛争もそうですか。
死んだ兵隊は靖国メソッドで(そういや、政教分離の緩和も自民党狙ってましたねえ……)褒め称えれば、国に文句を言わせなくできる奴隷根性の染み付いた国民性ですからね。遠くで戦争をすればするほど、国内政治は安定するのでしょう。そうして若い兵士の命が消費されていくわけです。
派兵先はアフリカの紛争地で、軍事支援を名目に介入している中国軍と小競り合いなんてことになったら、国を挙げての熱狂間違いなしでしょうよ。

とりとめもありませんが、そういう最悪の事態となった時に、反日左翼として獄中死する覚悟を決めたという決意を記しておきます。

絶望の印

2012年12月16日 | Weblog
どんなに早くても、あと4年。
おそらくは15~20年間にわたって、今日の選挙結果の苦渋を舐めさせられることになるんだろう……。

この国の人間がカジュアルに、左派や左翼、サヨクを冷笑し嘲笑してきたつけは、とんでもなく高くつくことになると予測しておく。

『ラン』(森絵都/理論社)

2008年07月10日 | Weblog
橋立さんの肌にしっくりくる森さんの二年半ぶりの新刊です。
相変わらず上手くて一気に読んでしまいました。
偏執狂的に伏線が回収されていく心地よさと、劇的な展開を避けてトホホな脱力系の笑いにそれていく可笑しさは変わらずです。

しかし、それだけに不満もあるのでした。

そのいち
 ぎゃふんぎゃふん、はどこへ消えた?

これだけ伏線回収に執着しているのに、「ぎゃふんぎゃふん」にオチがついていないのはちょっと肩透かし。
あー、これはネタバレなのかしらん?


そのに
 これ! というシーンは無かったかなあ?

『つきのふね』の「ぼくわとうといものですか?」とか
『風に舞い上がるビニールシート』の「お行儀のよいセックス」とか
『いつかパラソルの下で』の「イカイカ祭」とか
『17レボリューション』の「薄暗い幸福感」とか
橋立さんの脳髄に染み付くフレーズが無かったのは残念至極。
しかし、これは贅沢というものかしらん。

パンズ・ラビリンス

2008年06月07日 | Weblog
現実逃避のためにDVDを借りてきて鑑賞。

ファンタジーを期待していたのに、あまりにも身も蓋もないアンチ・ファンタジーに愕然としてしまいました。

うーん。映像面で評価されているのは判るのですけどね……。
ここまで身も蓋もないアンチ・ファンタジーには拒絶反応を示してしまいます。
あーもー、どうしてそう判り易過ぎな解釈が可能な状態で終わらせちゃうんでしょう。
もっと説明を省いておけば、絵の面白い良作映画として記憶しておけたのにい。

とはいえ橋立さんも魔が差すと、こういう露悪趣味なアンチ・ファンタジーをやっちゃってしまうので要注意なのでした。
特にフランコ独裁下のスペインの描写は露悪趣味として楽しかったですよ。
あれ? ラスト以外は意外と気に入ってるのかしらん。