4月29日
ここ宝塚はとても良いお天気で、ベランダの窓から心地よい風が吹いてきます。
今日は母の命日なので、少し母のことを書いてみようと思います
私の母は、よしの父と結婚するまでは、
宮崎の神々の宿る街・高千穂に住んでいました
独身時代は、地元でアパレル関係の仕事をしていたと聞いています。
そのせいか、母が大事にとっていた独身時代の服は全部、
洋服屋さんのオーダーメイドか、母自身が仕立てた生地の良いものばかりでした。
けっこう今でも着られそうな、オシャレな物もありました。
母は和裁の学校に通っていたことがあったので、着物も自分で縫っていました。
私が子供の頃は、足踏み式のミシンや編み機がいつでも使えるように置いてあったし、
またよくミシンを使って、いろんなものを作っていました。
得意なこと
「和裁」「洋裁」「編み物」「料理」
ようするに手先の器用な人だったのです。
私とは正反対・・・( -_-)
独身時代は、仕事や趣味、旅行を満喫して過ごしていた母も
父と出会って結婚してからは仕事を辞め、
当時、父が暮らしていた兵庫県(尼崎市)に引っ越してきました。
時代は繰り返す?
結婚して兵庫県(宝塚市)に引っ越してきた今の私と同じ
兵庫県時代のことは、あまり多くのことを聞いたことはありませんが、
食料品の買い物に商店街に行ったら、
宮崎では見たことのない魚ばかりでびっくりして、なかなか買えなかったと言っていました。
ちょうど私が宝塚に引っ越してきた当初、近所のスーパーに行ったときに
とても新鮮とは思えない魚や野菜ばかりが、
宮崎よりも高い値段で売っていた時の驚きに似ています(笑)
兄が産まれた後、父が体調を崩したのをきっかけに、
宮崎へ戻ってきた母。
それから数年後に私が産まれました。
子供の頃はそんなに感じなかったけれども、母はけっこう厳しい人でした。
たとえば、食べ物
小学校にあがる前までは、おやつは果物で、
お菓子をほとんど食べたことがありません。
小学生になってからも、駄菓子屋さんのお菓子は買ってもらえなかったし
お祭りの屋台の食べ物も、不衛生だからと買ってもらえませんでした。
だから、周囲が昔の駄菓子屋さんのお菓子の話をすると、
私はほとんどわからんけれども。
当時は、それが特に「厳しい」と感じたこともなかったし
不思議なことに、私自身も特にどーしても食べたい!と思ったことがなかったです。
食べ物以外にも、いろんなことに厳しかった母でしたが
なぜか私が読む「本」に関しては、
欲しいと言えば、何冊でも買って読ませてくれたし、
誕生日&クリスマスの時だけは、欲しいおもちゃを買ってくれました。
仕事もしていて、忙しかった母ですが、
仕事がお休みの日も、のんびりと過ごすことなく、
家にいても何かしら動いていました。
ジッとしているのが苦手だったようです。
また、愚痴はほとんど言わず、あまり感情を表に出さない我慢強い人でしたが、
反面、頑固なところもありました。
病院嫌いなのもそうです。
余程のことが無い限り、病院へは行きたがらない母でしたが、
これは母の一族に共通しているところで・・・
祖母も、伯父や叔母も、筋金入りの病院嫌い
そしてこの私も、そんな血をひいたようで病院が嫌いです
(長年、病院勤務だったけど、働くのと、診察を受けるのとは大違いじゃ)
ようやく行った病院で、祖母と同じ病気が見つかり、
大きな手術、人工肛門、長い入院生活を送ることになってしまいましたが、
そんな時も母が、何か泣きごとを言ったのを聞いたことがありません。
愚痴も言わなかったし、辛いとか、そんな言葉も一度も聞きませんでした。
それは病院のスタッフに対してもそうだったようで、
担当のナースが、「痛かったら痛いって言ってくれていいのに~」とよく言ってました。
心の中では、どんなふうに思っていたかわかりませんが、
そんな時まで我慢強いところは、祖母にそっくりでした。
それに対して私は、常に不安定で、
どうして、引きずってでも早くに病院へ連れていかなかったのだろう?
どうして、もっといろんな治療を模索できなかったのだろう?
どうして、セカンドオピニオンをしなかったのだろう?
どうして、どうして、どうして??
後悔はいつまでも続きます。
母に対して、何もしてあげられなかった自分が情けなく、
最後まで、ほんとうにダメな娘でした。
もし今、母がまだ元気でいたら
母の新婚当時のこともいろいろ聞かせてもらえたのに。
こちらに来てもらって、想い出の地、尼崎市にも連れて行ってあげられたのに。
母に別れを告げた日の朝も、
今日と同じような、青々とした空が広がっていました
ここ宝塚はとても良いお天気で、ベランダの窓から心地よい風が吹いてきます。
今日は母の命日なので、少し母のことを書いてみようと思います
私の母は、よしの父と結婚するまでは、
宮崎の神々の宿る街・高千穂に住んでいました
独身時代は、地元でアパレル関係の仕事をしていたと聞いています。
そのせいか、母が大事にとっていた独身時代の服は全部、
洋服屋さんのオーダーメイドか、母自身が仕立てた生地の良いものばかりでした。
けっこう今でも着られそうな、オシャレな物もありました。
母は和裁の学校に通っていたことがあったので、着物も自分で縫っていました。
私が子供の頃は、足踏み式のミシンや編み機がいつでも使えるように置いてあったし、
またよくミシンを使って、いろんなものを作っていました。
得意なこと
「和裁」「洋裁」「編み物」「料理」
ようするに手先の器用な人だったのです。
私とは正反対・・・( -_-)
独身時代は、仕事や趣味、旅行を満喫して過ごしていた母も
父と出会って結婚してからは仕事を辞め、
当時、父が暮らしていた兵庫県(尼崎市)に引っ越してきました。
時代は繰り返す?
結婚して兵庫県(宝塚市)に引っ越してきた今の私と同じ
兵庫県時代のことは、あまり多くのことを聞いたことはありませんが、
食料品の買い物に商店街に行ったら、
宮崎では見たことのない魚ばかりでびっくりして、なかなか買えなかったと言っていました。
ちょうど私が宝塚に引っ越してきた当初、近所のスーパーに行ったときに
とても新鮮とは思えない魚や野菜ばかりが、
宮崎よりも高い値段で売っていた時の驚きに似ています(笑)
兄が産まれた後、父が体調を崩したのをきっかけに、
宮崎へ戻ってきた母。
それから数年後に私が産まれました。
子供の頃はそんなに感じなかったけれども、母はけっこう厳しい人でした。
たとえば、食べ物
小学校にあがる前までは、おやつは果物で、
お菓子をほとんど食べたことがありません。
小学生になってからも、駄菓子屋さんのお菓子は買ってもらえなかったし
お祭りの屋台の食べ物も、不衛生だからと買ってもらえませんでした。
だから、周囲が昔の駄菓子屋さんのお菓子の話をすると、
私はほとんどわからんけれども。
当時は、それが特に「厳しい」と感じたこともなかったし
不思議なことに、私自身も特にどーしても食べたい!と思ったことがなかったです。
食べ物以外にも、いろんなことに厳しかった母でしたが
なぜか私が読む「本」に関しては、
欲しいと言えば、何冊でも買って読ませてくれたし、
誕生日&クリスマスの時だけは、欲しいおもちゃを買ってくれました。
仕事もしていて、忙しかった母ですが、
仕事がお休みの日も、のんびりと過ごすことなく、
家にいても何かしら動いていました。
ジッとしているのが苦手だったようです。
また、愚痴はほとんど言わず、あまり感情を表に出さない我慢強い人でしたが、
反面、頑固なところもありました。
病院嫌いなのもそうです。
余程のことが無い限り、病院へは行きたがらない母でしたが、
これは母の一族に共通しているところで・・・
祖母も、伯父や叔母も、筋金入りの病院嫌い
そしてこの私も、そんな血をひいたようで病院が嫌いです
(長年、病院勤務だったけど、働くのと、診察を受けるのとは大違いじゃ)
ようやく行った病院で、祖母と同じ病気が見つかり、
大きな手術、人工肛門、長い入院生活を送ることになってしまいましたが、
そんな時も母が、何か泣きごとを言ったのを聞いたことがありません。
愚痴も言わなかったし、辛いとか、そんな言葉も一度も聞きませんでした。
それは病院のスタッフに対してもそうだったようで、
担当のナースが、「痛かったら痛いって言ってくれていいのに~」とよく言ってました。
心の中では、どんなふうに思っていたかわかりませんが、
そんな時まで我慢強いところは、祖母にそっくりでした。
それに対して私は、常に不安定で、
どうして、引きずってでも早くに病院へ連れていかなかったのだろう?
どうして、もっといろんな治療を模索できなかったのだろう?
どうして、セカンドオピニオンをしなかったのだろう?
どうして、どうして、どうして??
後悔はいつまでも続きます。
母に対して、何もしてあげられなかった自分が情けなく、
最後まで、ほんとうにダメな娘でした。
もし今、母がまだ元気でいたら
母の新婚当時のこともいろいろ聞かせてもらえたのに。
こちらに来てもらって、想い出の地、尼崎市にも連れて行ってあげられたのに。
母に別れを告げた日の朝も、
今日と同じような、青々とした空が広がっていました