ユニヴァーサル・ジャパンHP記事

市民社会フォーラムに投稿した記事を主として掲載してゆきます

「粉砕考」・・・繰り返しの言葉の重要性

2008-08-03 13:35:14 | Weblog
短い繰り返しの言葉が、
私たちが「想像」する以上の
影響力をもっていることを論じさせてもらいます。


(1)マントラのもつ影響力

これは、サンスクリット語でマントラmantra、
日本語で呪文でしょうか。
言葉が、生命をもっていることに気づいた人が、
言霊もといったのだろうと思います。

それは、はなゆーさんが「暴徒鎮圧用マイクロ波兵器」の
http://wiredvision.jp/news/200807/2008070822.html
「耳に聞こえない音」を利用した兵器の理解とも
かかわるものだとおもいます。

日本のすぐれた科学者のスピリチュアリズム批判には、
五感で感知できない精妙な存在レベルの可能性を認めて
研究する点が弱いように思えます。

半年くらい前に、このフォーラムにも入っておられる
京都のエイコンズビレッジさんのところに
森田玄さんの話を聞きにゆきました。
きくちゆみさんとharmonics life center
http://www.harmonicslife.net/
をいっしょにやっている方です。

その話とはハワイの「レン博士」のことでした。
http://moritagen.blogspot.com/2008/07/blog-post.html
森田さんの話で覚えている点を言えば
「精神科医であったレン博士は、
ハワイの刑務所内の精神病棟に転勤になります。
精神科医師は彼一人だけですが、
なんと彼が転勤して、その精神病棟の患者がすべて良くなって
精神病棟に患者がいなくなりました。
ジャーナリストが「どんな治療」をされたのですかときくと
「私は、何も治療をしていない。
事務室で瞑想しながら、ただ言葉をとなえつづけていただけだ」
とレン博士は答えました。
「どんな言葉ですか」
「I love youI am sorry.Please forgive me.I love you
(好きだよ、ごめんね、ゆるしね、ありがとう)
と心の中でずっと唱えつづけていました」

私はこの話は本当だと思います。
このフォーラムに加わっているギャンさんも
そのレン博士のような人で
私はギャンさんから学び、
森田氏の習ったのはまったく別の流派で
同じ体験をしているからです。

この現象の科学的説明についてはニューヨーク州立大学の
アーヴィン・ラズロ教授の
『創造する宇宙』や『生ける宇宙』や『叡智の海』の
「Aフィールド」、「ゼロ点エネルギー場」、「量子真空」などの概念、
それはみな同じことを意味する概念ですが
そちらにまかせるしかありません。

アメリカの知識界には、知覚で感知できない
精妙なレベル領域の存在が一定の市民権をもっているのだと思います。
その中で、
悪い人は「暴徒鎮圧用マイクロ波兵器」をつくり
良い人は、人々の幸福に生かそうと探求していると思います。
オシュマンの『エネルギー医学の原理』は、
いわばマイクロ波を人々の心と身体の健康に生かそうとした研究です。

さて、もとの話ですが
この宇宙は精妙なるひとつの存在であり、
その存在が多数にわかれて、
たくさんの粗大な構造をつくりあげています。

私たちが「敵視」する人々や取り組みなどが
私たちと分離した実体なら、
「粉砕」「○○に死を」と言っても
なんら自分たちの側には問題は生じないと思います。

しかし、私たちはひとつの存在が別れて、
多数の構造となって存在して展開しており
基底においてはひとつの土俵の上に
相互に絡み合って
(からみあいは量子理論では
エンタングルメントというらしいです)
存在しています。

問題が生じたら、その問題が生じたレベルを超えて
より高次の存在を出現させる(高次の存在に高まる)しか
解決の道はありません。
そうでないなら、「エンタングルメント」(絡み合った)
存在ですから
問題の本質的解決にアプローチすることはできません。

「粉砕」「○○に死を」は、私たち自身に跳ね返ってくるのです。
エンタングルメントしているから、作用反作用が必ず生じます。

結論ですが

「○○粉砕」とか繰り返す言葉は、
私たちが考えている以上に
このコスモスの存在に影響を及ぼします。
それはこのコスモスが振動の織物のようになっているからだと思います。
そして自分の意図と離れてマイクロ波兵器のように
自分たちをも「粉砕」してゆくことになります。

1970年代は、学生運動が「○○粉砕」の時代でした。
誰もが気軽に「○○粉砕」と叫んで疑問をもたない雰囲気でした。
そして機動隊が大学の建物の封鎖をといてみると
大学の「壁」が粉砕され、壊されていました。
連合赤軍は、自らの仲間を「粉砕」し、
まさしく物的身体構造を「粉砕」しました。
「粉砕」しようとした権力側は、
「粉砕」されまいとして、その反作用から
よけいに「構造」を強化してきて、
今日に至りました。
そして学生運動自体の自己「粉砕」をもたらしました。
(もちろんものごとは多様な原因から展開していますから
ひとつの原因にしぼることはできませんが、一要因として
このことはありうると思います)

「粉砕」のマントラはきわめて強烈に実体化してゆきました。
私のマントラは、
(好きだよ、ごめんね、ゆるしね、ありがとう)
ではありません。
しかし、このマントラをためしても有効でした。
闘う相手に、
(好きだよ、ごめんね、ゆるしね、ありがとう)
のマントラを心の中で唱え続けながら
闘うなら、敵陣営をも「神の子」としてみる
チャベスの精神が生れると思います。

なお、森田さんは、
「私たちはイラク戦争などを止めることができなかった。
無力感を感じていた時に、このレン博士とであった。
レン博士の理論からすると
この「私」がイラク戦争をひきおこしているのだということになる。
だから、イラク戦争についても
(好きだよ、ごめんね、ゆるしね、ありがとう)のアプローチが大切だ。
ブッシュも、この世のすべてが、
あなたの深奥の「私」が生み出していること
だからだ」
と言う趣旨を述べられました。

この論点に私は異をその時となえてしまったのですが、
後で、考えると、やはり、多様な原因があり、多様なアプローチが必要だとい
う視点から考えると
この森田さんの見方も、多様なアプローチの中のひとつとして取り入れるべきだと
思いました。

私たちは、三・三統合アプローチとして
http://raaq.jp/universal/33tougouaproach.html
精妙な知覚で感知できないスピリットレベルの取り組みも
導入したアプローチを提起しています。


(2)すべての立場が、相対的真理をもっている。

今回のサミットに反対の立場をとるかどうかが議論されました。
私は、すべての立場に相対的真理があり
サミットを推進する立場にも相対的真理があり
反対する立場にも相対的真理があり
また推進する立場ではないけども、様々な対案を出してゆく立場にも
相対的真理があると思います。

この世に100%正しい存在があり、100%間違った存在があると
考える立場は、間違いなく間違っていると思います。
「粉砕」とか「○○に死を」は、100%否定をしているので
それはまちがいだと思います。

ヒトラーだって私は100%間違いかというと
100%間違っていたら、あのような影響力をもつことは
できなかったと思います。
相手の存在根拠の正当性を見抜かないと
私たちは相手の支持母体となっている大衆を
こちらに引き付けることはできません。

相手の中に正当性、相対的真理が見えているか  スピリチュアリズム批判にあたって

2008-08-03 13:31:20 | Weblog
いろんなご意見があることを承知で
投稿します。
私の意見は少数派だと思いますが
多様な意見のひとつとしてご容赦ください。

(1)
この前にヒトラーだってその運動が
このコスモスに存在する正当性があったからこそ
登場してきた。
私たちは、相手側のその正当な部分を見抜くことになしに
その影響下にある大衆を私たちの側に引き付けることができない
と投稿させていただきました。

スピリチュアル・ブームを批判する立場の人が
「『エネルギー』や
『波動』などの擬似科学的な用語をもちいて」
と疑似科学として否定してしまわれておられることは
非常に残念なことです。

そこにある相対的真理を見抜くことができない以上、
私たちは、スピリチュアル・ブームの中にある多数の若者たちを
正当に認めて、
ブームの渦中にある彼らを
私たちの側に立ってもらうようにアプローチできません。

彼らは、たとえば、そうした力を身につけた人の世界観のもとに
さらされてしまいます。
たとえば、私は、親戚のつながりから、
あるレイキ・ヒーラーの講習会に参加しましたが
その講師は、
「デモなんかで世の中は良くならない」
「昭和天皇が偉大だった」
とおっしゃい、最初私と意見が対立しました。

スピリチュアリティについてはすばらしい実践的な知識と
実践的力をもっておられて
参加者は、そのヒーリングの事実に感動してファンになります。
そしてその社会観の影響下におかれてしまいます。

じゃあ、「昭和天皇は偉大だった」という歴史認識の持ち主の
彼のひーリング講習のすべてが、嘘であるのかというと違います。
そこには、私たち近代科学文明が
忘れた本物の相対的真理があります。

NHKクローズアップ現代で香山ゆかという人がコメントする番組がありました。
香山ゆかという精神科医は、「スピリチュアルヒーリング」を否定しない
良心的なコメントをしていましたが
本人が実践していないので、本当のところはわかっていません。

私たちの仲間の中に最近精神科医の方も加わっていただきました。
まだ会っていませんが、
とても有益だということがきっとわかってもらえると思います。

あのクローズアップ現代にでてきた女性ヒーラーが身体の外で
空をきってヒーリングしていましたが、
私も同じことをします。
そしてちゃんと結果がでてきます。

この世にあるものは100%嘘ではなく
スピリチュアル・ブームとして膨大な人々を引き付けているのは
そこに未来の人類の福利のためにとても有益なものが
含まれているからこそ、若者たちは引き付けられます。

アメリカでは、ニューヨーク大学のドロレス・クリーガー先生が、
身体にタッチしないハンドヒーリングを研究し、
自らもレントゲン写真ででてくる病片を90%の精度で
手の平でアセスメントできます。
彼女のセラピューティックタッチは、全米の50くらいの看護系大学で
教えられています。
ポーランドの解放闘争の中で地下活動の活動家の中には
互いにクリーガー先生のハンドヒーリングしあったとあり、
世界的にも広がっています。
これは、普通の人がレッスンの中で身につけることができるもので
クリーガー先生もレッスンの中で身につけました。
私は社会フォーラムのみなさんも身につけた役立つのになあと
思います。

「『エネルギー』や『波動』を似非科学という人々に
ジェームズ・L・オシュマンの
『エネルギー医学の原理・・・その科学的根拠』
『エネルギー療法と潜在能力』
をお勧めします。
エンタプライズ社です。
本の値段が高いので一般の人にはおすすめできませんが
この本を読めば、
「似非科学」と批判したことが恥ずかしくなるでしょう。

といっても、わずか数年前まで
私も「似非科学」と思っていたので
「似非科学」だと攻撃する人の気持ちはわかります。
自分の理解できないものは
人はそんなことありえないと思いたいものだと思います。

しかし、似非科学だと批判している間は
私たちは決して、スピリチュアリズムの引き付けられている人々を
私たちの仲間に加えることができません。

あっ、そうそう
河出書房新社の『光の手』上下巻を書いたバーバラ・アンブレナンという
女性は、100%レントゲンと同じものを患者の中にみて
医者といっしょに仕事しています。
うまれつき、肉体をとりまくエネルギーボディが見える人です。
元NASA航空宇宙局につとめていた物理学者です。

同じものが見えても、その解釈は、その人の知的レベルが支配します。
アンブレナンは相当知的レベルが高い物理学者の霊能者ですから
そのあたりにおられる霊能者ではありません。
はじめ、この本を紹介された時は、拒絶反応があったのですが
私がレイキヒーリングをならってからは
すごく参考になる本だとわかりました。


そうそう、もう一言、言うと、
昔、同性愛というと、三輪明広が言っていたように
ひどい差別的状況の中にあったと思います。

私は同じことが霊能力をもって生まれた人々についても
言えるのではないかと思います。
彼らが感じ、見ているものを正当に評価し
法外な値段をとって困っている人からさらに搾取したり
することがないように
社会的に有益なものとして認知する必要があると思います。

シャーマンへの偏見をとりのぞく上では
『シャーマンズ・ボディ』のアーノルド・ミンデルは
その役割を果たしています。

日本では、原子核工学をやっている奥健夫という阪大の先生が
『意識情報エネルギー医学・・・スピリチュアル健康学の道』を書いています。
この本は1600円です。
私には理解できないレベルの専門的な部分がほとんどですが
「似非科学」と決めつけてしまうことが、間違いだということを
理解してもらえるとは思います。

言いたいことは、私たちが、スピリチュアル・ブームの中に
実は有益な本物が含まれているのに
『エネルギー』『波動』は似非科学だという決めつけてしまうと
私たちの側に未来につながる科学と
未来につながる若者たちを私たちの仲間に
迎えいれることできませんよ
ということです。



ただし、私は、サーカーの超能力などの批判のスタンスは適切だと思います。

サーカーは、瞑想とヨガを毎日やっていたら
supernatural power(超能力)にでくわすだろう。
その時、決して、そのような超能力をもとめてはだめだ。
それは悪への転落だということで
スピリチュアリズムが求めているようなもの追求するな
という立場です。
それは、そのような、超能力的なものが無いという批判ではなくて
「超能力的なものはあるけれども
それは道をそれて悪に走ることだ。
どんな多くの人がヨガの道をそれて、
悪の道に転落したことでしょう。」
という形の批判です。

サーカーは、
「超能力を宣伝するグループ」
「お金を多額にとるグループ」
のところに近づくなと教えます。






もうひとつの世界へ、「民主主義経済」と「社会主義」の用語

2008-08-03 13:25:58 | Weblog
テーマソングです。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/music/1babanam.html
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/music/babanam2.wma

「もう一つの世界へ」の道を支持する立場から
紅林さんの投稿に発言させてもらいます。
こういう考えの人もいるンだなあという程度で
お受けとめください。

(1)
村岡氏の文章には、私が考えていることと共通の面があります。
たとえば、「粉砕」について、
またアルタナティブ(もう一つの道)の
ビジョンの重要性について
先日の私の投稿と同一の趣旨が述べられています。

「しかもその質が、従来の「抗議、粉砕」型ではなく、
〈政策主 張・対案提起〉型になってきたことに注目する必要がある」
とあります。

また私が、資本主義を超えるには、文化革命も必要であり
それは物的欲望という物質主義materialismから
内面の充実やスピリットも視野にいれたQOL(quality of life)の視点が必要だと
述べたことにかかわることに近い記述も見られます。

「そして、私たちは欲望追求や浪費に慣れたライフスタイルの自己変革に取り組 むことである。」

(2)

しかし、村岡氏の文章の中の次の点について私の意見を述べたいと思います。

「『赤旗』は 資本主義の 限界」を引用するようになったが、
限界を突破する方向を〈社会主義〉とは提示 しない
(志位和夫委員長の発言を見よ)」
とあることです。

この点については、「社会主義」をかかげるべきだ
とする村岡氏の意見より
私は、「民主主義経済」「経済民主主義」をかかげる
志位氏の発言の方を支持するものです。

志位氏のスピーチの関連するところを軽く読んだ範囲では、
たしかに資本主義の限界を突破する方向を「社会主義」とは述べず
「経済民主主義」の立場から当面の状況に対応すべきだ
と論じているように読めました。
私は志位氏の方が賢明であると考えています。

そう考える理由をいくつか紹介させてもらいます。

第一に、旧来型社会主義のイメージが払拭され、
リニュアルした社会主義イメージが国民の間で浸透していない
今の段階では「社会主義」をかかげても人々に展望を与えることは
できないと見ています。
第二に、資本主義経済からくる厄災に抗する策として
村岡氏は「民主主義経済」に触れませんが、
志位氏たちが、「民主主義経済」「経済民主主義」を掲げていることは
たいへん価値があることだと見ています。

どの用語を使うはこのコスモスに対して
当事者が考える以上に大きな影響を及ぼすと
この間「粉砕」と「materialism」について述べてきました。

志位氏たちの用いる「民主主義経済」「経済民主主義」の用語は
将来、その言葉を受け継ぐ思想家があらわれて
資本主義経済を超える社会像として深化させる可能性がある
用語だと思っています。

その点をもう少し詳述します。


私は、資本主義と旧来型社会主義は、
どちらも、中央部に所属する人々に
決定権が集中しているために
組織の下部が軽視され、
地方が軽視されるという特質を
もっていると思います。

だから、
現在の局面では、「社会主義」のイメージを
村岡氏のように資本主義のアルタナティブとして
提起するより
志位氏らのように「民主主義経済」を強調している方が
適切なスタンスだと考えるわけです。

もちろん、志位氏の「経済民主主義」は
私が述べているような
「人民の人民による人民のための民主主義経済」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/shiminshakaiforum/91minshushugikeizaisengen.html

すなわち企業内部の民主主義構造、
各地域が経済決定権をもって上に登る構造
すなわちホラーキー的な民主主義階層構造
まで徹底した民主主義経済のコンセプトではありませんが

「民主主義経済」という用語をもちいていることは
「民主主義経済」の用語を受け継ぎ、
私が支持するような

資本主義を超える民主主義経済としてとらえる思想家を
生み出すことになる可能性があると思うのです。

だから、私は、志位氏が「社会主義」を使わず
「経済民主主義」を当面のこととして強調していることを
支持します。
そのことは、本人たちが意図したよりも、
今後の歴史に大きな影響を及ぼすとみています。

なぜなら、私は当面ではなく、「民主主義経済」こそ
資本主義を超える経済システムだと考えるからです。

(3)
「社会主義」は、とりわけ旧来型の中央集権経済の社会主義は
もう歴史的に「終わっている」と、私は見ています。
富を一部に集中させる資本主義構造を、「含んで超える」
民主主義経済構造に変革する道こそ、未来への道だと思います。

人々が古いタイプの社会主義というイメージしかもたない現在
「社会主義」をかかげることにどのような意味があるのでしょうか。

サーカーは資本主義を超える社会を構想しました。
(後ろに参考資料をあげておきます)
それをプラウトprogressive utilization theory=進歩的活用理論として
論じました。
数多くのスピーチの中て
私の読んだ範囲では、たった二度だけ、
資本主義を乗り越えたその社会は
「Progresive socialism進歩的社会主義」と
呼ばれるようになるだろう述べていました。
資本主義を超える経済として主に強調しているのは
民主主義経済とDecentralized(非集権、分散、分権) 経済です。

前にレオニードさんと論じた時
レオニードさんは民主主義経済構想は支持できるか
社会主義のネーミングは支持されませんでした。
私は、民主主義経済構造の社会をレオニードさんがめざす時
それをレオニードさんの立場からネーミングして進めばいいし
さまざまな立場から、民主主義経済構造の社会をめざせばいいと
いう趣旨の投稿をしました。
資本主義を超えたその社会のネーミングとして
「社会主義」の用語に愛着がある村岡氏たちは
一部に富が集中しすぎて
多くの人が苦しむ今の社会システム変革のために
「社会主義」と名付けて運動すれば、それはそれでいいと思うのです。

大切なのは多様なアプローチの多様さがあることが
価値あることだ認め合って進むことだとおもいます。

だから、「赤旗」が、今の国民意識の段階で、
資本主義の限界を突破する方向を〈社会主義〉とは提示 しないと
村岡氏が批判的におっしゃているのは疑問に感じるのです。

(4)
資本主義にかわるビジョンの浸透は
私たち市民グループで議論してゆき
新しいイメージをつくることは意義があると思います。
村岡さんのように、「社会主義」を資本主義にかわるイメージとして
前面に出したい人は、旧来型とは違うリニュアルした社会主義像を
人々の前に提出する必要があります。

(5)
村岡氏も全知の神様でもないし、共産党であれ、何党であれ
全知の神様ではない。
誰もが相対的真理を生きていて、
誰の真理がより深く、より広く、時、場所、人により対応しているかの
違いがあるだけだと思います。

せっかく「もうひとつの世界」をめざす
とてもいい企画をしておられるのだから
統合的立場(多様性における統一)の立場にたって
また他を批判しなくても自分の道を進んで
支持者を増やしてゆけばいいと思うのです。

そんなわけで
私はこの村岡さんたちのグループとも、
資本主義文明を超えるというビジョンを共有してゆきたいと思いますが
資本主義の限界を突破する方向を
「社会主義」という用語であらわさないといけない
というスタンスは賛成できません。

(6)
赤旗が、「社会主義」をかかげないからけしからんと村岡氏が言うなら
私が村岡氏のグループは、
一部の富が集中する資本主義的中央集権経済に対して
「民主主義経済、decentralized経済」と言っていないからけしからんと
言っているのと同じで意味がないことだと思うのです。

市民同士の相互交流の進めてゆく上で、
入り口の部分でそのようなことをいわなくても
交流の中で発言してゆけばいいことだと思うのです。
統合的立場にたって市民社会における意識覚醒に
「もうひとつの世界を」のグループのみなさんには
がっばってほしいと思います。

あわせて、もう一つの論点として私が感じるのは、
賢い知識人のみなさんの多くが
自分の正当性を主張するのに
誰かを批判しないといけないという
学問の世界で身につけたであろう
思考パターンをもっておられる場合が
多々あることです。
それは真理論に問題があると思うのです。
(長くなり、論点が多岐にわたるので、ここでは指摘にとどめておきます)

長くなりますので
投稿をここまでとし、後ろに参考資料として上記の論の補足をさせてもらいます。

ユニヴァーサル・ジャパン、 http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/
吉見道夫


資本主義にかわるビジョンとして旧来型社会主義は
もう終わっていると考えるのは
まず、みなさんの共通理解ではないでしょうか。

ネーミングを社会主義とつけるかつけないかは別として
資本主義と旧型主義の中央集権的経済構造に対して
それを超える下からの民主主義的階層構造をもった
資本主義にかわる社会へのビジョンを提起しているものを紹介します。

(1) アメリカのデヴィッド・コーテンのビジョン
①『ポスト大企業の世界』
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/devidkorten/kaheichushinseimichushin/postdaikigyou
youyaku.htm

(2)インドのサーカーのプラウトのビジョン
①プラウティスト・グループ・ニューヨーク・セクター
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/newpra.htm
②サーカーの言葉を引用して「民主主義経済、分権経済を論じたもの」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/prout/bunkenkeizaiminshushugi2.htm
③P.R.Sarkar ,"Proutist Economics"
サーカーの本は普通の出版社からはでていません。
http://www.pia.org.au/index.php?mp_id=61
で入手したらいいと思います。
私は、サーカーのスピーチをまとめたこの本を強く推薦します。
きっと驚かれると思います。

(3)
吉見(私)も「ホラーキー社会論」としてまったく別の言葉で
資本主義にかわるビジョンを提起しています。
ケン・ウィルバーの『進化の構造』のホロン論を活用したものです。
マルクスがヘーゲルを活用して人類解放理論をつくりあげたように
現代のヘーゲル(自称)たるケン・ウィルバーを摂取するなら
21世紀の人類解放思想につくりあげることが可能だと思います。

私の試論です。
以下の「ホラーキー革命」と「ホラーキー社会論」をご覧ください。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/horaakyshakairon/00hyoushi-mokuji.html


これらは、資本主義を超える旧来型社会主義像にかわる対案です。
この中でもっとも完成度が高いものは、
サーカーのものだと私は考えています。

こうした議論を旧来型社会主義像に
こだわっている人々ととも
論議し、市民の中にまったくリニュアルされた
資本主義を超える社会像を
浸透させることが先行すべきだと思います。
それなしに「社会主義」をかかげても無力だと思うのです。



一部の収入が増大するより、薄く広く収入が増大するようにするほうが、地域経済活性化につながる。

2008-08-03 13:19:11 | Weblog
前回の投稿の
「人民の人民による人民のための民主主義経済改革の対案を深めようhttp://raaq.jp/universaljapan/?p=126」
にレオニードさんのコメントを頂きました。
ありがとうございます。

(1)
今、その投稿が手元にありませんが゛
レオニードさんの論点は、私の記憶では
「トヨタ幹部の収入1億2200万円が関連する
従業員全員の方に配分されたとして一人3万円だから
景気向上への効果はない」
「派遣社員の正社員との格差をなくすべきだ」
というような論点ではなかったかと思います。

後者の論点については、
幹部の1億2200万の収入の一部が
年収200万以下の派遣社員を
正社員と同じ待遇をするための財源の一部に
まわされますから理念としては両立します。

問題は、前者の論点です。
すなわち会社幹部たちの収入に上限をもうけ
それが下限のアップ分にまわされるべきだという点です。
(協同組合のような民主主義経済システムでは、
従業員の認知が必要ですから格差は合意できる範囲におさまります。
しかし、資本主義のように幹部と株主で決定する
中央集中経済centralized economy
では、上限、下限が必要だと思います)

論点は、それが格差の是正にはつながるとしても
景気回復の問題とつながるかという点です。

地域の商店街が全国にさびれています。
私のイメージは、全国の小地域の経済が好転しているか
それを含んで中地域規模の経済がまわっているか
その上で大地域規模の経済がまわっているか

「人民の人民のための人民による民主主義経済」めざす立場からは
小地域の経済の好転なしに、
「経済が良くなっている」と論じることはできません。

小地域の経済は、衣食住といった勤労者の生活必需品からなりたちます。
私も今年からわけあって高卒の賃金以下しか収入がありません。
とすると
今まで、休みの日は、
近くの喫茶店でモーニングを食べたついでに
本を読むのが気分転換でした。
ところが、ちょっとでも節約するために喫茶店はやめとこうという意識になります。
服も古いしわのよったのでがまんしておこうという意識になります。
つまり、
給与が下げられることは、
同時に小地域の経済を冷やしているのです。

だから、少数の上位者が決定権をもっている非民主主義という点では
資本主義という封建社会までとかわらないcetralized経済の仕組み
をdecentralized 経済に変えないかぎり
配分は、一部のもの、中央に集中しすぎます。
そのために小地域の経済、地方の経済は、需要が低迷し
さびれてゆきます。
それが、今、私たちの目の前で進んでいる事態だと思います。

貨幣を血液にたとえれば
身体末端の毛細血管を血液がスムーズに循環せず、
冷えている。
頭は、血液があふれすぎて、興奮しすぎている状態
ではないでしょうか。
(投機マネーとして実体経済にまわらない
金融経済が頭の部分)
私はもうすぐ頭の血管が破裂して脳溢血がおきる状態に
近づきつつあるのではないかという気がするのです。

(2)
アメリカ民主党議員の中に
企業トップの報酬を批判するものが出はじめきたと
新聞にありました。
その記事の中に
「平均的な勤労者の年収に対する
米主要500社の最高経営責任者の報酬の比率は
2005年が約370倍、
1970年の約30倍から大きく開いたとの試算もある」

「社会サイクルと高額所得者との格差拡大http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/shiminshakaiforum/82kougakushotoku.html
(後半に具体的な数字をいれて論じています)」

日本もアメリカをまねて、この格差がどんどん開きつつあります。
財務省の法人企業統計調査から分析した表によると
資本金10億円以上の大企業の役員の報酬が
2000年までは、1500万円でした。

ところがどんどん上昇し、2005年には、3000万円近くになっています。
これは1995年から2005年の表ですが、
全企業の一人当たりの従業員給与は、500万円近くから400万円近くに
下がってきています。
そして同じ時期に、大企業の売上高は大きく伸びています。

私は、働く人びとの給与の下限をあげて、
幅広い層の購買力を向上させることにこそ
小地域の商店街の活性化があるのです。
購買力(実質賃金)の強化が大衆的に幅広くなされるべきだという議論を
まったくさずに、商店街の自助努力だけ葉っぱをかけているのが
テレビでみかける昨今の風潮です。

また企業で働いて商品やサービスを提供する側の努力ばかりが激励される
番組があります。
間違いではないと思うけど、それは供給側だけみるので
真理の半分だなあと思います。
それって科学的ではないなあ、
まちがった観念的な精神主義だなあと思うのです。

アメリカの後追いをして極端な富裕者がでるのを当然とする風潮に
私はノーと言いたいと思います。

ユニヴァーサル・ジャパン、 http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/
吉見道夫

  
参考までに
以前の似たような趣旨の投稿を紹介させてもらいます。

資産の上限、収入の下限の設定    2005年12月
http://raaq.jp/universaljapan/?p=127
収入の上限の必要性   2005年12月
http://raaq.jp/universaljapan/?p=128




「唯物論とスピリチュアリズムの論点を『含んで超える』」

2008-08-03 13:16:12 | Weblog
(1)
朝の投稿を読み返して
「当時の超唯物論派・・・は、近代科学的であり
非合理にそまっていたドイツの大衆の心の中に
アプローチできなかったのではなかろうか。」
の超は不必要だったなあと思います。

そこで論点を唯物論から論じます。
私は、マルクス、エンゲルスの失敗のひとつは、
自らの哲学を唯物論materism
とネーミングしてしまったことあるのではないかと
最近思うようになりしました。
いったん、用語として定義され、それが繰り返し使用される中で゛
マルクスやエンゲルスの意図に反して、唯物論という定義が
彼らの理論を後継者がさらに発達させてゆくことへの縛りを
与える要素になってしまったのではないだろうか
と思うのです。
もちろん彼らが説いたのはヘーゲルの弁証法という哲学を
唯物論的に解釈しただけなんだけども
弁証法の理解は深い直観を必要とするために、
後継者の側では唯物論の方が前面にでてしまったような気がします。

アメリカの賢者ケン・ウィルバーは、マルクス主義の解説書を読んで、
たぶんマルクスは唯物論の人だろうと思っていたわけですが、
実際に読んでみるともっていたイメージと違っていたと
語っている箇所がありました。

インドの聖者サーカーは、マルクス主義の唯物論を批判しつつも
弟子に対して「マルクスは、当時の支配者に奉仕し、
人々の意識を眠らせる役割を果たしている宗教を批判したのであって、
決してスピリチュアリティを否定していなかったことを覚えておきなさい」
という趣旨のことを述べていました。

エンゲルスが「唯物論materlismを物質主義materlismと批判する人々がいるが
私たちは物質主義materlism ではなく、idealisms理想主義であり、
私たちは、idealisms観念論を批判しているのだ」
という趣旨の箇所を読んだことがあります。

マルクス、エンゲルスが弁証法的唯物論の思想を作り上げたその時代から
唯物論materlismは人々に説明しなければわかってもらえず
マルクスやエンゲルスの理論を学習した人々のうち、
深い理解力のない人々は
「物質が根源か、観念か根源かで唯物論か観念論かに別れ
物質がこの宇宙の根源であるから、唯物論が正しい」
レベルの浅い理解をした可能性があります。

とりわけ、活動家たちはとても忙しいからじっくり考察するチャンスはあまりなく
レーニンのように亡命していたり、
宮本顕治のように獄中12年であったりして
静かに深い思索をすることができたが
そんな人は例外でたいていは唯物論については浅い理解になってしまったのではないだろうかと思うのです。

資本主義を超えるためには、文化、思想面で、
materialism(物質主義)を超えて、自然環境、平和、文化やスピリット、
生活の豊かさのコンセプトを物質的安定だけでなく、
心の内面的豊かさ(quality of life)を実現してゆくように
大衆的な「文化革命」が必要です。

しかしながら、残念なことはmaterialismという定義が逆に縛りとなって
心の内面の豊かさやスピリットの純真さのような意味での
文化革命は育ちませんでした。

毛沢東の文化大革命は、孔子批判でした。
問題は孔子の体制的なスピリチュアリティ理論を
人民的なスピリチュアリティ理論に組み換えてゆくべきでしたが
materialismという言葉が呪縛となって
孔子のもっていたスピチュアリティの善き面までの全面否定となりました。

今また中国で体制強化思想と結びつく形で
儒教的スピリチュアリティが復活しつつあるのではないかと思います。

私はマルクスと結びついた形でmaterilism哲学のネーミングを
支持している人に、用語を検討できないでしょうかと思います。

そもそも、マルクスとエンゲルスの科学的社会主義は、サン・シモン
フーリエ、オーエンなどの「空想的社会主義者」が
理想社会を実現しようとするidealismの運動があった。
マルクスやエンゲルスは、その理想的精神を支持しつつも
実際に実現しようとしたら、
実際の経済社会の中に理想を実現する基盤を見いだされなければ
理想は実現できず、単なる観念で終わってしまう。
そこで、現実社会の科学的分析の上に立って、
理想社会実現への道筋をあきらかにしよう。
この現実の社会の分析の土台を重視した点を哲学的に
materialismとなづけたんだと思います。

ヘーゲル哲学の観念に縛られていたとき、
フォイエルバッハの唯物論materialism哲学に出会って
感動したあまり、マルクスとエンゲルスは自らの哲学のネーミングを
間違えてしまって「唯物論materialism」と名付けてしまった。
あまり本を読んで勉強しない人は、
フォイエルバッハ・レベルの機械的唯物論という
浅薄なレベルで理解してしまう。

世界中に巨大な影響与えたので、各地域のリーダーの中には、
スターリン、毛沢東、ポル・ポトなどのように
宗教施設を破壊するような人々を登場させてしまいました。

予想だにしなかった展開に
マルクス、エンゲルスもあの世?でなげいているとと思いますが
(ちなみにサーカーのスピリチュアリティ哲学では「あの世」はありません)

しかし、materialismと自らの哲学をネーミングして
後世の人々に誤解を与えてしまったことには責任があると思います。
誰もが自分の理論を理解できる知的レベルがあるという
人間観をもっていたことがマルクスの間違いでした。

(マルクスだけではなく多くのその間違いをみます。
小泉順一郎の「勝ち組み・負け組み」も、この世の中の人々が、同じ能力をもっているということを前提にしています。
これは「努力しないやつが悪い」という前提です。努力しても誰もが東京大学に合格できるわけではないし、野球選手になれるわけでないし
私は自分の力をだしてこつこつと世の中に貢献する人はすべて報われる社会にしないとあかんと思うのです)

「言葉」は私たちが予想する以上に
このコスモスに影響を及ぼしてしまうのだと私は思います。


『ドイツ・イデオロギー』』というマルクスの本を読んだことがありますが
それは天上の神々の観念形態の批判ではなく、
地上の人々の苦悩が、その神々を生み出しており、地上の批判が必要だと
論じていたように思います。

こうしたマルクスやエンゲルスといういわゆる「マルクス主義」の
創始者のスタンスは正当なものだと思います。

(3)
観念論やスピリチュアリズムは、江原氏たちの言説に典型的なように
一部の財あるものの支配する非民主的な経済構造、
すなわち、さまざまな社会問題の背景にある
社会構造の変革のテーマを回避させる役割があります。

劣悪な労働環境で働く人びとが、みんなで団結して
法律や社会のありようを変革してゆくというテーマから
人びとを意識をそらせる役割を、
日本のスピリチュアリズムは担っています。

個人の問題だけに収斂して
よりよい社会構造という集合体のテーマにゆきません。
その点での観念論やスピリチュアリズム批判は
唯物論側からする正当な批判だとは思います。

ところが、サーカーのスピリチュアリティや
ケン・ウィルバーの理論では
個体と集合体は、切っても切り離せない関係にあります。
そこには社会構造批判につながる論点がでてきます。

江原氏らスピリチュアリズムの言説の最大の問題は、
個体の苦悩が、このコスモスの一領域である
魂のレベルだけで解決するという点にあります。
その結果、この地上での苦悩の解決のために
マルクスのようにこの地上の批判がでてこないわけです。

サーカーは、三層における人類解放理論を説いています。
①スピリットのレベル
宗教が課題とした魂、スピリットの救いを実現する道筋を
瞑想的哲学で実践的に示しました。
②心のレベル
集合体の内面、すなわち文化面ではすべての存在を尊重するネオ・ヒューマニズムを説きました。
さらに個体の内面において、宗教や〇〇主義といった心に枠をはめるドグマから
いかに「知性を解放」し、心の無限に拡張してゆくことが大切を説きました。
③物的身体的レベル
集合体においてマルクスのように、資本主義構造にかわる
民主主義経済、decentralized非集権的経済を説き
実現可能な資本主義文明を超える展望を示しました。
個体においては、菜食などの食べ物論、ヨガなどの身体レッスン論を述べました。

個体においては身体的健康の上に健全な心が育ち、健全なスピリットが育つわけです。
集合体においては物的レベルで誰もが安心して暮らせる社会の上に健全な文化が育ってゆくわけです。

人々の人気を博している人は、それなりにその存在根拠があり
人々のある側面のニーズに応えていることを見抜き
私たちがこれから誕生させる資本主義を超える文明が
そうした人々のニーズを満足させるものとして
展望する必要があります。

人々の物的ニーズだけでなく、文化的ニーズ、そして魂のニーズにも
応えるアプローチをする時

このとき、私たちは勝利すると思うのです。
地上を正義ある平和の地にすることに
勝利すると思うのです。


橋下知事による解雇反対!・・府立高校「教務補助員」350人の首切り

2008-08-01 08:12:35 | Weblog
私の所属している組合の上部組織の会議で
来年4月から雇い止め(首切り)が提案されている
府立高校教務補助員の人が
次のような訴えをされたそうです。 

教務補助員は
年間100万円程度の収入で、20年・30年と働いてきました。
その350人全員が橋下知事によって
来年四月から解雇されます。
http://hatarakikata.net/modules/topics/details.php?bid=36
http://hatarakikata.net/modules/topics/details.php?bid=51&cid=1

まさしくこうした方々の雇用を守り
また収入を増やしてゆく中にこそ
地域経済の活性化の道があります。
(もちろん、基幹産業の重要性を否定するわけではありませんが、
こうした末端の人びとの雇用と生活を破壊する
改革になんの意味があるでしょうか)

本末転倒の橋本改革の本質が
如実に現れていることなので
以下、みなさんに紹介させてもらいます。


私たちは、大阪府立高校で教務、図書司書、化学・生物・家庭科の
実習補助員をしています。
私たち非常勤職員350名の一方的な首切りが発表になって・・・・・
(中略)・・・・

 試案が発表になってすぐに行われた
「非常勤教職員の縮減・廃止の撤回と制度の存続を求める要求書」
署名は、2週間という短期間にもかかわらず
11,997筆を集約することができました。・・・

 「これだけの人々が私たちを応援してくれてはる!
そうや!まだまだこれからや!」という気持ちでいた時、
6月20日に行われた府労組連による団体交渉に、
私を含め3名が参加しました。
もちろん、簡単に首切りが白紙撤回になるとは
思っていませんでしたが、
橋下知事から出た言葉は、
私たちの必要性は認めながらも、
あくまで自分の政治的判断で優先順位をつけて、
首切りをする!というものでした。

 「私たちの雇用は、知事の中では、
御堂筋のイルミネーションよりも優先順位は下
ということなのか?」
という問いに、知事は私の目を見てはっきりと
「私のビジョンではそうです!」と言い切りました。

一瞬、「えっ?いま、何て言いました?」って感じでした。
その上、私たちの首切りを止めさせたいのなら、
その分の予算を他の人件費を削って出すようにしてください!
とまったく問題をすり替えているのです。


 腹立たしいのを超えて、情けないです。

 これが府の長たる知事の言葉でしょうか?
知事のこの言葉に、その場の全員が怒りで騒然となりましたが、
一向に耳を傾けようとはしませんでした。

府民の生活を守るのが知事なんじゃないですか!
いま、まさに首を切られようとしている私たちも府民です!
私たちの解雇の本当の理由って何なんでしょうか?
大型開発はそのままで、
「解雇回避の努力」はしていただいたのでしょうか?私は納得でき
ません。


 私たちは、学期雇用でその上、
働ける日数は自分に意思に関係なく限られていて、
年間100万円程度の収入で、20年・30年と働いてきました。
それが、なぜいま、こんな扱いを受けなければならないのでしょう
か?
はっきりと、「あなた達はイルミネーションより下!」と言われた私
たちのこの気持ちをどう言ったらわかってもらえるのか、
言葉がみつかりません。


 それでもみんな、自分の気持ちを押し殺して仕事をしています。
これからの生活のことを考えると、不安でいっぱいです。
 私たちは、もちろん、生活のための仕事ではありません。
それだけではなく、それぞれ仕事へのプライドや情熱をもっている
し、
大袈裟かもしれませんが、私たちがいなくなれば、学校は回らない!
と言う気持ちを持っています。
 それをわかってもらえないのが、本当に残念です。私たちが辞め
て喜ぶのはたった一人!たった一人なんです!大阪府内で非正規で
働く百数十万人の方々のためにも、こんな「非正規首切り」の暴挙
を許すことはできません。

 いまここで、私一人がみんなの仕事に対する気持ちや思いを
伝えきることはできませんが、
少しみんなの声を伝えたいと思います。
 「私たちが仕事をしている、
化学・生物の実験室・準備室、家庭科の実習室・準備室には、
クーラーがありません。
そんな環境の中で、ある化学の実習助手の方は、
年間100~150回程の実験に取り組んで、
準備、後片付けはもちろん、340種類にも及ぶ薬品の管理もされて
います。・・・・(略)」と話されています。
・ ・・
・ (略)
 。
 「私は家庭科で実習助手補助をしています。勤続11年です。
針1本、鍋1個まで用意しています。
実際、楽しいことばかりではありません。
でもいままで続けてこられたのは、・・・・・・
、ミシンのないご家庭が増えていて、
ぞうきん1枚縫うことの少なくなっているいまこそ、自分の手で1
つの物を作り上げる達成感を味わってほしいし、
調理実習でも炊飯器ではなく、
鍋でご飯を炊いたり、
食べることや後片付けの大切さを知ってほしいと思っています。
 でもいま、そのわずかの機会さえもなくなろうとしています。
先生方は、担任業務や日々の雑務に追われ、
実験や実習の用意や後片付け、
食品の衛生管理など、到底無理な状況です。
あまりにも現場の声を無視しすぎです。
このしわ寄せがどこにいくかわかっていない!
私たちは、怒りと不安でいっぱいです!
でも絶対にあきらめません!
いまできることを精一杯して、雇用を守ります。
みんな働きたいんです!
 みなさん、力を貸してください。
よろしくお願いします

似て非なる「道州制」と「decentalized分権経済」

2008-08-01 08:09:32 | Weblog
(1)
橋本知事はテレビにで、自分の改革に見通しはなく、
場当たりだということを語っていました。
すなわち、
「当面の出血はとめた。
どうするかはこれから考える。
道州制の実現こそ私の目的だ」
というような発言でした。

「出血はとめた」というのは、
家計簿でいえば、過剰な支出をとめて、
収入のバランスがとれるように近づけたという趣旨ですが

貨幣を血液になぞらえるなら、
橋本改革は、
社会の「毛細血管」ともういうべき福祉、教育、賃金の部分をも
大幅に削っていますから、
実際には、出血を止めたのではなく、
大阪経済を血行不良の「冷え」症状をいっそう悪化させたに
すぎないと考えます。

橋本知事は天性の弁論家?であり
口がとてもうまく、人々の支持獲得を計算して発言するので
「これからどうするかはこれから考える」と
自分の考えが、行き当たりばったりであることを
正直に言っても、
人びとは、橋本知事のやっている方向しかないと思わせられ
その人気が落ちることはありません。

(2)
さて、「道州制」、あるいは市町村への交付金を自分達で使えるようにする
と語っている彼の「地域主権」についてですが
一見、私たちが主張している
「民主主義経済、decentralized非集権経済」への一歩に見えます。

支配層のイデオローグが「地方分権、地域主権」を
語らざるを得なくなっていることは
それだけ、経済における中央に決定権の集中するシステムが
中央に貨幣が集中しすぎて、
組織の末端や地方を貧窮化させており
支配層もなんからの手をうたざるをえなくなっている
反映だと思います。

しかし、橋本知事や支配層の語る道州制や地域主権は
言葉こそに似ていても、私たちのものとは似て非なるものだということを
述べさせてもらいたいと思います。

一見、道州制と似ている文章の箇所を紹介します。
「中央集権経済を廃止して分権decentralized経済、経済民主主義を提案する」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/prout/bunkenkeizaiminshushugi2.htm
の中ほどに次のようにやや似ている文章があります。

「交通通信が発達しているため、
現代の日本は一つの社会経済単位と考えることもできます。
しかし単身赴任や出稼ぎをしなくてすむように、
北海道、東北、関東、中部、関西、
中国、四国、九州、沖縄レベルのそれぞれの地域で、
基本的必需品については自給できる
地域密着型の経済構造をつり上げる必要があります。
日本が農業や資源で外国にたよらなくてもよい経済構造を作り上げることは、
第一次産品を原料として輸出している国が、
自立的で経済単位として確立してゆくことに連帯することにもなります。
サルカールは「プラウトの計画機構は、中央、 州、地方、ブロックのレベルで機能し

ます」と述べ、
下からの計画経済を主張しています。
私見ですが、そこから類推すると、
日本の場合では、中央が日本全体で、
州が北海道、東北などで、地方が県レベルで、ブ
ロックが郡や市町村レベルだと考えます。
輸出入を調整できるのは日本全体のレベルですから、
日本という領域が一つの社会経済単位であるとしても、
州、地方レベルでも、限りなく生活必需品について
自足できるバランスのとれた経済構造(地域密着型経済構造)づくりを
めざす政策を実施することだと解釈しました。 
日本の場合も当面は現在の国家領域の範囲のもとで
社会経済単位」を各地域に確立することが、課題となります。」

以上が、「中央集権経済を廃止して分権decentralized経済、
経済民主主義を提案する」からの引用です。

この中では
第一に
ブロック⇒小地域⇒中地域⇒大地域という
「下からの民主主義的計画経済」を提案しています。
最下部のニーズを合意を深め、周辺地域と調整を重ねながら
下から上にあげてゆく重層的民主主義構造型(ホラーキー型)経済構造です。
ホラーキーというのは少数の上部のものが
決定権をもつヒエラルヒー階層構造への対案です。
橋下知事や支配層のイデオローグが提唱している道州制は、
ヒエラルヒー構造を変革して
社会の最下部のニーズを汲み上げてゆくてゆくための「地域主権」
という観点はさらさらありません。

第二に
それぞれの地域で可能なかぎり、農業、工業、商業などの
産業構造のバランスをとる必要があります。
そしてそのことは基本的生活必需を地域的に可能にすることにも
つながります。
それぞれの地域で自給でき、その余剰分を
周囲の地域と自由に交易するというのが
それぞれの地域の両者が利を受ける経済構造への道です。

ところが、橋下知事をはじめとする道州制の提唱者には
基本的生活必需品について自給できる経済単位にするという
観点は、まったくありません。

(まとめ)
私はWTO交渉が破綻したことを心から歓迎しています。
これからも破綻しつづけて
そして
世界中が自給的経済単位となり、余剰分を自由に貿易するという
合意をつくりあげてほしいと思います。
工業部門の一部幹部の意向にそってだけ
世界が動き、世界はとんでもないアンバランスを深めつつあります。
蓄積されたアンバランスが破裂することは
地震がそうであるように天地万物の理です。

民主主義経済システムこそ資本主義経済システムの問題を乗り越える道

2008-08-01 08:06:46 | Weblog
こんばんは
吉見です。
テーマソングです。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/music/1babanam.html
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/music/babanam2.wma



「もう一つの世界へ」の道を支持する立場から
紅林さんの投稿に発言させてもらいます。
こういう考えの人もいるンだなあという程度で
お受けとめください。

(1)
村岡氏の文章には、私が考えていることと共通の面があります。
たとえば、「粉砕」について、
またアルタナティブ(もう一つの道)の
ビジョンの重要性について
先日の私の投稿と同一の趣旨が述べられています。

「しかもその質が、従来の「抗議、粉砕」型ではなく、
〈政策主 張・対案提起〉型になってきたことに注目する必要がある」
とあります。

また私が、資本主義を超えるには、文化革命も必要であり
それは物的欲望という物質主義materialismから
内面の充実やスピリットも視野にいれたQOL(quality of life)の視点が必要だと
述べたことにかかわることに近い記述も見られます。

「そして、私たちは欲望追求や浪費に慣れたライフスタイルの自己変革に取り組 むことである。」

(2)
しかし、村岡氏の文章の中の次の点について私の意見を述べたいと思います。

「『赤旗』は 資本主義の 限界」を引用するようになったが、
限界を突破する方向を〈社会主義〉とは提示 しない
(志位和夫委員長の発言を見よ)」
とあることです。

この点については、「社会主義」をかかげるべきだ
とする村岡氏の意見より
私は、「民主主義経済」「経済民主主義」をかかげる
志位氏の発言の方を支持するものです。

志位氏のスピーチの関連するところを軽く読んだ範囲では、
たしかに資本主義の限界を突破する方向を「社会主義」とは述べず
「経済民主主義」の立場から当面の状況に対応すべきだ
と論じているように読めました。
私は志位氏の方が賢明であると考えています。

そう考える理由をいくつか紹介させてもらいます。

第一に、旧来型社会主義のイメージが払拭され、
リニュアルした社会主義イメージが国民の間で浸透していない
今の段階では「社会主義」をかかげても人々に展望を与えることは
できないと見ています。
第二に、資本主義経済からくる厄災に抗する策として
村岡氏は「民主主義経済」に触れませんが、
志位氏たちが、「民主主義経済」「経済民主主義」を掲げていることは
たいへん価値があることだと見ています。

どの用語を使うはこのコスモスに対して
当事者が考える以上に大きな影響を及ぼすと
この間「粉砕」と「materialism」について述べてきました。

志位氏たちの用いる「民主主義経済」「経済民主主義」の用語は
将来、その言葉を受け継ぐ思想家があらわれて
資本主義経済を超える社会像として深化させる可能性がある
用語だと思っています。

その点をもう少し詳述します。


私は、資本主義と旧来型社会主義は、
どちらも、中央部に所属する人々に
決定権が集中しているために
組織の下部が軽視され、
地方が軽視されるという特質を
もっていると思います。

だから、
現在の局面では、「社会主義」のイメージを
村岡氏のように資本主義のアルタナティブとして
提起するより
志位氏らのように「民主主義経済」を強調している方が
適切なスタンスだと考えるわけです。

もちろん、志位氏の「経済民主主義」は
私が述べているような
「人民の人民による人民のための民主主義経済」
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/shiminshakaiforum/91minshushugikeizaisengen.html

すなわち企業内部の民主主義構造、
各地域が経済決定権をもって上に登る構造
すなわちホラーキー的な民主主義階層構造
まで徹底した民主主義経済のコンセプトではありませんが

「民主主義経済」という用語をもちていることは
「民主主義経済」の用語を受け継ぎ、
私が支持するような資本主義を超える
社会の根幹をなすものとしてとらえる思想家を
生み出すことになる可能性があると思うのです。

だから、私は、志位氏が「社会主義」を使わず
資本主義経済が今日問われているとして
「民主主義経済」を当面のこととして強調していることを
支持します。
そのことは、本人たちが意図したよりも、
今後の歴史に大きな影響を及ぼすとみています。

なぜなら、私は当面ではなく、「民主主義経済」こそ
資本主義を超える経済システムだと考えるからです。

(3)
「社会主義」は、とりわけ旧来型の中央集権経済の社会主義は
もう歴史的に「終わっている」と、私は見ています。
富を一部に集中させる資本主義構造は、「含んで超える」
民主主義経済構造に変革する道こそ、未来への道だと思います。

人々が古いタイプの社会主義というイメージしかもたない現在
「社会主義」をかかげることにどのような意味があるのでしょうか。

サーカーは資本主義を超える社会を構想しました。
(後ろに参考資料をあげておきます)
それをプラウトprogressive utilization theory=進歩的活用理論として
論じました。
数多くのスピーチの中て
私の読んだ範囲では、たった二度だけ、
資本主義を乗り越えたその社会は
「Progresive socialism進歩的社会主義」と
呼ばれるようになるだろう述べていました。
資本主義を超える経済として主に強調しているのは
民主主義経済とDecentralized(非集権、分散、分権) 経済です。

前にレオニードさんと論じた時
レオニードさんは民主主義経済構想は支持できるか
社会主義のネーミングは支持されませんでした。
私は、民主主義経済構造の社会をレオニードさんがめざす時
それをレオニードさんの立場からネーミングして進めばいいし
さまざまな立場から、民主主義経済構造の社会をめざせばいいと
いう趣旨の投稿をしました。
資本主義を超えたその社会のネーミングとして
「社会主義」の用語に愛着がある村岡氏たちは
一部に富が集中しすぎて
多くの人が苦しむ今の社会システム変革のために
「社会主義」と名付けて運動すれば、それはそれでいいと思うのです。

大切なのは多様なアプローチの多様さがあることが
価値あることだ認め合って進むことだとおもいます。

だから、「赤旗」が、今の国民意識の段階で、
資本主義の限界を突破する方向を〈社会主義〉とは提示 しないと
村岡氏が批判的におっしゃているのは疑問に感じるのです。

(4)
資本主義にかわるビジョンの浸透は
私たち市民グループで議論してゆき
新しいイメージをつくることは意義があると思います。
村岡さんのように、「社会主義」を資本主義にかわるイメージとして
前面に出したい人は、旧来型とは違うリニュアルした社会主義像を
人々の前に提出する必要があります。

(5)
村岡氏も全知の神様でもないし、共産党であれ、何党であれ
全知の神様ではない。
誰もが相対的真理を生きていて、
誰の真理がより深く、より広く、時、場所、人により対応しているかの
違いがあるだけだと思います。

せっかく「もうひとつの世界」をめざす
とてもいい企画をしておられるのだから
統合的立場(多様性における統一)の立場にたって
また他を批判しなくても自分の道を進んで
支持者を増やしてゆけばいいと思うのです。

そんなわけで
私はこの村岡さんたちのグループとも、
資本主義文明を超えるというビジョンを共有してゆきたいと思いますが
資本主義の限界を突破する方向を
「社会主義」という用語であらわさないといけない
というスタンスは賛成できません。

(6)
赤旗が、「社会主義」をかかげないからけしからんと村岡氏が言うなら
私が村岡氏のグループは、
一部の富が集中する資本主義的中央集権経済に対して
「民主主義経済、decentralized経済」と言っていないからけしからんと
言っているのと同じで意味がないことだと思うのです。

市民同士の相互交流の進めてゆく上で、
入り口の部分でそのようなことをいわなくても
交流の中で発言してゆけばいいことだと思うのです。
統合的立場にたって市民社会における意識覚醒に
「もうひとつの世界を」のグループのみなさんには
がっばってほしいと思います。

あわせて、もう一つの論点として私が感じるのは、
賢い知識人のみなさんの多くが
自分の正当性を主張するのに
誰かを批判しないといけないという
学問の世界で身につけたであろう
思考パターンをもっておられる場合が
多々あることです。
それは真理論に問題があると思うのです。
(長くなり、論点が多岐にわたるので、ここでは指摘にとどめておきます)

長くなりますので
投稿をここまでとし、後ろに参考資料として上記の論の補足をさせてもらいます。

ユニヴァーサル・ジャパン、 http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/

吉見道夫

資本主義にかわるビジョンとして旧来型社会主義はもう終わっていると考えるのは
まず、みなさんの共通理解ではないでしょうか。

ネーミングを社会主義とつけるかつけないかは別として
資本主義と旧型主義の中央集権的経済構造に対して
それを超える下からの民主主義的階層構造をもった
資本主義にかわる社会へのビジョンを提起しているものを紹介します。

(1) アメリカのデヴィッド・コーテンのビジョン
①『ポスト大企業の世界』
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/devidkorten/kaheichushinseimichushin/postdaikigyouyouyaku.htm

(2)インドのサーカーのプラウトのビジョン
①プラウティスト・グループ・ニューヨーク・セクター
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/newpra.htm
②サーカーの言葉を引用して「民主主義経済、分権経済」を論じたもの
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/theory/prout/bunkenkeizaiminshushugi2.htm
③P.R.Sarkar ,”Proutist Economics”
サーカーの本は普通の出版社からはでていません。
http://www.pia.org.au/index.php?mp_id=61
で入手したらいいと思います。
私は、サーカーのスピーチをまとめたこの本を強く推薦します。
きっと驚かれると思います。

(3)
吉見(私)も「ホラーキー社会論」としてまったく別の言葉で
資本主義にかわるビジョンを提起しています。
ケン・ウィルバーの『進化の構造』のホロン論を活用したものです。
マルクスがヘーゲルを活用して人類解放理論をつくりあげたように
現代のヘーゲル(自称)たるケン・ウィルバーを摂取するなら
21世紀の人類解放思想につくりあげることが可能だと思います。
私の試論です。
以下の「ホラーキー革命」と「ホラーキー社会論」をご覧ください。
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/horaakyshakairon/00hyoushi-mokuji.html


これらは、資本主義を超える旧来型社会主義像にかわる対案です。
この中でもっとも完成度が高いものは、
サーカーのものだと私は考えています。

こうした議論を旧来型社会主義像に
こだわっている人々ととも
論議し、市民の中にまったくリニュアルされた
資本主義を超える社会像を
浸透させルことか先行すべきだと思います。
それなしに「社会主義」をかかげても無力だと思うのです。