その中でも忘れられないのが、ブドウ酒である。
私が5〜6歳の頃だったはず。ぶどうの最盛期を迎える頃、
母は顔見知りの八百屋さんで安く分けてもらった大量のぶどうを、夕食後の片付いたテーブルに広げた。
ぶどう酒作りとは言っても、作り方はシンプルそのもの。
ぶどうを皮ごとつぶして、発酵を待つだけなのだ。
人間が最初に酒を発見したのは、神話の時代だそうである。
狩猟時代に、山や野から果実を持ち帰り、積んでおいていたら自然に野生酵母が発酵して、
いい香りを放ち、酒が発見されたというのだから、わが家で作るブドウ酒もその程度の工程である。
とはいえ、本格的な赤ワインも、果皮や種ごとつぶして発酵させるのだから原理は同じだろう。
赤ワインの赤は皮の色素が溶け出したものだし、皮や種に含まれるタンニンが深い味わいの渋みも生み出す。
もちろんワインにふさわしいぶどうの品種が吟味され、
発酵のための適温や時間など微妙なプロの技はあるのだろうが、
基本の作り方は同じである。ただ、わが家のブドウ酒はワインと比べられるほど高尚でもなく、
当時は少々お酒が飲めた母にとって、だれに遠慮もなく飲めるもお楽しみのひとつだったのだろう。
母がぶどう酒作りに用意したのは、確か、2〜3枚の白い布巾とアルマイトの大きなボール。
ぶどうをザルに入れてよく洗い、水気を切ると、房からぶどう粒をはずし、布巾に広げてさらに水気を切った。
そのぶどう粒をボールにすべて移し、手のひらでぶどうを丹念に押しつぶしていくのである。
私は、このつぶす作業が粘土遊びのようでたまらなく面白かった。
あたりには、ぶどうの甘い香りが立ち込め、なぜかほんわか幸せ気分。
時々、手につくぶどうの汁をなめながら、
絞りたてのジュースをほんの少しコップに入れて飲ませてもらえるのが、何より嬉しかった。
今から思うと、その小さな幸せが何度もほしくて、眠い目をこすりながら、
母のそばを離れなかったのだろう。
母はぶどうをつぶし終えると、きれいな布巾でこして、
残りをていねいに絞り、貯蔵ビンにお玉で手際よく入れ替えた。
最後に新聞紙を折りたたんで蓋代わりにし、口の回りを白い紐で何重にも結わえると、
眠らせ発酵させるために地下室に運んだ。
指し物師だった祖父が建てた実家には、貯蔵用の地下室があった。
かつての防空壕だったようだ。
父が仕事用に使っていた4畳半の部屋の下にあたる。その部屋につながる廊下の下が、
地下室の入り口用の引き戸になっており、その戸を開けると、5段程の板の階段で地下室に降りることができた。
また、その廊下も、地下室への降り口の幅だけ、上に上げられる設計で、大きい物の出し入れには、
廊下も引き上げられたままの状態になり、銀行の集金や仕事の打ち合わせで父のもとを訪れた客人たちは、
珍しい家の構造にかなりびっくりしていたものである。
地下室内の壁は基礎工事の石積みのままで、その石が棚の役目をしており、
石の棚には母の手作りの漬物や味噌類が所狭しと並んでいた。
一歩地下室に入るだけで、空気は地上よりヒヤッと冷たくて、
いくつもの漬物が混ざった特有の匂いがプーンとして、
子どもにはあまり心地いい場所ではなかった。
大雨の年には地下室にまで水が溜まったこともあったようだが、幼い頃、この地下室には何か悪魔か、
幽霊が潜んでいそうな気がして、私ひとりでは決して入れなかった場所である。
母の後をついて入っても、まず辺りを見回し、誰もいないことを確認せずにはいられなかった部屋。
兄がいたずらをして押し入れに入れられることがよくあったが、
「これ以上悪いことをしたら、今度は地下室に入れるぞ」という父の声に、
私は兄以上にゾッとしたものである。
ただ、その後、ぶどう酒がどう減っていったか、幼い私は気に留めることもなかった。
私が5〜6歳の頃だったはず。ぶどうの最盛期を迎える頃、
母は顔見知りの八百屋さんで安く分けてもらった大量のぶどうを、夕食後の片付いたテーブルに広げた。
ぶどう酒作りとは言っても、作り方はシンプルそのもの。
ぶどうを皮ごとつぶして、発酵を待つだけなのだ。
人間が最初に酒を発見したのは、神話の時代だそうである。
狩猟時代に、山や野から果実を持ち帰り、積んでおいていたら自然に野生酵母が発酵して、
いい香りを放ち、酒が発見されたというのだから、わが家で作るブドウ酒もその程度の工程である。
とはいえ、本格的な赤ワインも、果皮や種ごとつぶして発酵させるのだから原理は同じだろう。
赤ワインの赤は皮の色素が溶け出したものだし、皮や種に含まれるタンニンが深い味わいの渋みも生み出す。
もちろんワインにふさわしいぶどうの品種が吟味され、
発酵のための適温や時間など微妙なプロの技はあるのだろうが、
基本の作り方は同じである。ただ、わが家のブドウ酒はワインと比べられるほど高尚でもなく、
当時は少々お酒が飲めた母にとって、だれに遠慮もなく飲めるもお楽しみのひとつだったのだろう。
母がぶどう酒作りに用意したのは、確か、2〜3枚の白い布巾とアルマイトの大きなボール。
ぶどうをザルに入れてよく洗い、水気を切ると、房からぶどう粒をはずし、布巾に広げてさらに水気を切った。
そのぶどう粒をボールにすべて移し、手のひらでぶどうを丹念に押しつぶしていくのである。
私は、このつぶす作業が粘土遊びのようでたまらなく面白かった。
あたりには、ぶどうの甘い香りが立ち込め、なぜかほんわか幸せ気分。
時々、手につくぶどうの汁をなめながら、
絞りたてのジュースをほんの少しコップに入れて飲ませてもらえるのが、何より嬉しかった。
今から思うと、その小さな幸せが何度もほしくて、眠い目をこすりながら、
母のそばを離れなかったのだろう。
母はぶどうをつぶし終えると、きれいな布巾でこして、
残りをていねいに絞り、貯蔵ビンにお玉で手際よく入れ替えた。
最後に新聞紙を折りたたんで蓋代わりにし、口の回りを白い紐で何重にも結わえると、
眠らせ発酵させるために地下室に運んだ。
指し物師だった祖父が建てた実家には、貯蔵用の地下室があった。
かつての防空壕だったようだ。
父が仕事用に使っていた4畳半の部屋の下にあたる。その部屋につながる廊下の下が、
地下室の入り口用の引き戸になっており、その戸を開けると、5段程の板の階段で地下室に降りることができた。
また、その廊下も、地下室への降り口の幅だけ、上に上げられる設計で、大きい物の出し入れには、
廊下も引き上げられたままの状態になり、銀行の集金や仕事の打ち合わせで父のもとを訪れた客人たちは、
珍しい家の構造にかなりびっくりしていたものである。
地下室内の壁は基礎工事の石積みのままで、その石が棚の役目をしており、
石の棚には母の手作りの漬物や味噌類が所狭しと並んでいた。
一歩地下室に入るだけで、空気は地上よりヒヤッと冷たくて、
いくつもの漬物が混ざった特有の匂いがプーンとして、
子どもにはあまり心地いい場所ではなかった。
大雨の年には地下室にまで水が溜まったこともあったようだが、幼い頃、この地下室には何か悪魔か、
幽霊が潜んでいそうな気がして、私ひとりでは決して入れなかった場所である。
母の後をついて入っても、まず辺りを見回し、誰もいないことを確認せずにはいられなかった部屋。
兄がいたずらをして押し入れに入れられることがよくあったが、
「これ以上悪いことをしたら、今度は地下室に入れるぞ」という父の声に、
私は兄以上にゾッとしたものである。
ただ、その後、ぶどう酒がどう減っていったか、幼い私は気に留めることもなかった。