上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

土筆摘み(2)

2019-03-09 10:01:56 | エッセイ
その中でも忘れられないのが、ブドウ酒である。
私が5〜6歳の頃だったはず。ぶどうの最盛期を迎える頃、
母は顔見知りの八百屋さんで安く分けてもらった大量のぶどうを、夕食後の片付いたテーブルに広げた。
ぶどう酒作りとは言っても、作り方はシンプルそのもの。
ぶどうを皮ごとつぶして、発酵を待つだけなのだ。

人間が最初に酒を発見したのは、神話の時代だそうである。
狩猟時代に、山や野から果実を持ち帰り、積んでおいていたら自然に野生酵母が発酵して、
いい香りを放ち、酒が発見されたというのだから、わが家で作るブドウ酒もその程度の工程である。

とはいえ、本格的な赤ワインも、果皮や種ごとつぶして発酵させるのだから原理は同じだろう。
赤ワインの赤は皮の色素が溶け出したものだし、皮や種に含まれるタンニンが深い味わいの渋みも生み出す。
もちろんワインにふさわしいぶどうの品種が吟味され、
発酵のための適温や時間など微妙なプロの技はあるのだろうが、
基本の作り方は同じである。ただ、わが家のブドウ酒はワインと比べられるほど高尚でもなく、
当時は少々お酒が飲めた母にとって、だれに遠慮もなく飲めるもお楽しみのひとつだったのだろう。

母がぶどう酒作りに用意したのは、確か、2〜3枚の白い布巾とアルマイトの大きなボール。
ぶどうをザルに入れてよく洗い、水気を切ると、房からぶどう粒をはずし、布巾に広げてさらに水気を切った。
そのぶどう粒をボールにすべて移し、手のひらでぶどうを丹念に押しつぶしていくのである。
 
私は、このつぶす作業が粘土遊びのようでたまらなく面白かった。
あたりには、ぶどうの甘い香りが立ち込め、なぜかほんわか幸せ気分。
時々、手につくぶどうの汁をなめながら、
絞りたてのジュースをほんの少しコップに入れて飲ませてもらえるのが、何より嬉しかった。

今から思うと、その小さな幸せが何度もほしくて、眠い目をこすりながら、
母のそばを離れなかったのだろう。
母はぶどうをつぶし終えると、きれいな布巾でこして、
残りをていねいに絞り、貯蔵ビンにお玉で手際よく入れ替えた。
最後に新聞紙を折りたたんで蓋代わりにし、口の回りを白い紐で何重にも結わえると、
眠らせ発酵させるために地下室に運んだ。 

指し物師だった祖父が建てた実家には、貯蔵用の地下室があった。
かつての防空壕だったようだ。

父が仕事用に使っていた4畳半の部屋の下にあたる。その部屋につながる廊下の下が、
地下室の入り口用の引き戸になっており、その戸を開けると、5段程の板の階段で地下室に降りることができた。

また、その廊下も、地下室への降り口の幅だけ、上に上げられる設計で、大きい物の出し入れには、
廊下も引き上げられたままの状態になり、銀行の集金や仕事の打ち合わせで父のもとを訪れた客人たちは、
珍しい家の構造にかなりびっくりしていたものである。

地下室内の壁は基礎工事の石積みのままで、その石が棚の役目をしており、
石の棚には母の手作りの漬物や味噌類が所狭しと並んでいた。
一歩地下室に入るだけで、空気は地上よりヒヤッと冷たくて、
いくつもの漬物が混ざった特有の匂いがプーンとして、
子どもにはあまり心地いい場所ではなかった。
 
大雨の年には地下室にまで水が溜まったこともあったようだが、幼い頃、この地下室には何か悪魔か、
幽霊が潜んでいそうな気がして、私ひとりでは決して入れなかった場所である。
母の後をついて入っても、まず辺りを見回し、誰もいないことを確認せずにはいられなかった部屋。
兄がいたずらをして押し入れに入れられることがよくあったが、
「これ以上悪いことをしたら、今度は地下室に入れるぞ」という父の声に、
私は兄以上にゾッとしたものである。
 
ただ、その後、ぶどう酒がどう減っていったか、幼い私は気に留めることもなかった。