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上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

得したこと②

2025-07-17 14:53:15 | エッセイ
実家を出て一人暮らしを始めた学生時代。
民間の4畳半の学生寮に置いていた電化製品といえばラジオと電気ゴタツぐらい。
持ち物も、小さなタンス一つと最小限の食器、鍋類。文化的なものは、
後に先輩から1万円で譲ってもらったギター1本だった。

洗濯は手洗いで冷蔵庫もなく、今から思えばどのようにして暮らしていたのだろうと思う。
徒歩で大学に向かい、部活で夕方まで過ごし、それまで出会ったことのない多種多様な先輩や友人たちに揉まれ、
さまざまなアクシデントに出会い、毎日笑ったり泣いたりしながら慌ただしく過ごしていた記憶しかない。
目の前には青い空がどこまでも広がって、新しい出来事が次々と押し寄せてきて、何の不自由も感じす、
時間はあったという間に過ぎていった。

2回生の時には京都のジャズ喫茶でバイトをした。
当時のジャズ喫茶は、本当にジャズ好きな人たちが静寂の中で音に浸り、ただただ耳を傾ける場だった。
それまでジャズとはまったく縁もなく知識もなかった私は、若さゆえの怖いもの知らずの精神のみ。
ただ注文の飲み物を運び、リクエスト曲があれば曲のリストノートをお客さんに見せて指してもらい、
なんとかクリアできていた。岡崎のコンサート会場で出演を終えたあの日野皓正氏やマルウォルドロンがフラッと立ち寄って、突然の生演奏に驚かされた経験もある。

ありがたいことにそれ以来、ジャズはずっと身近にある。お陰で身近な電化製品はステレオ。
それも時代の波に押されてレコードプレイヤーは手放してしまい、今はコンポになってしまった。
夫もかなりのジャズマニアで、我が家にはある程度のLPレコードが眠っている。
つまり最近は手軽にCDばかりか、もっと手軽にパソコンやスマホで聴くことも増えてきた。
しかし、LPレコードの温もりと深みのある音は今でも聴きたくなる。

電化製品も冷蔵庫や炊飯器などの白物家電に対して、テレビやオーディオデッキなどは黒色が中心で黒物家電というようだ。
パソコン類は家電に入るのかどうか定かではないけれど、「書く」という仕事では個人的に大きな変化を体験してきた。
コピーライターとして仕事をするようになって、原稿用紙に文字を埋めることは大きな喜びだった。
納得のいくコピーができるまで、頭や心どころか身体中で悪戦苦闘。
原稿用紙にお気に入りのモンブランの万年室で清書するときは心が躍ったもの。マスの大きさやインクの色にもこだわった。

コピーからインタビューものに移行していたころ、「手書きより随分ラク」、
「段落ごと移動ができて便利よ」と勧められたのがワープロだ。
確かに仕事は捗り、書き上げた原稿は何枚もの原稿用紙ではなく、1枚のフロッピーディスクに収まった。

ワープロを使い始めて何台か消耗したころ、コンピューターなるものが我々フリーランスのライターにまで普及してきた。「もうワープロなんて古すぎる」「驚くほどの機能がついて、そのまま原稿も遅れるよ」
と勧められ手にしたのが、可愛いブルーの「アイ・マック」だった。世の中の98%はWindowsだったけれど、仕事柄マックを選択。時代を調べてみると1998年だ。
そのアバンギャルドなデザインは話題になったけれど、もうフリーズするわするわ。
小型テレビ大のimacを両手に抱え、日本橋の電気屋に何度駆け込んだことかわからない。
それから数年してノート型の「マックブック」に変更して、もう5〜6台買い換えている。
その間に2人の娘は成人し、それぞれの道を歩み始めた。

電化製品の過渡期を経験してきた身として、驚いているのが最近のZ世代を中心にしたレトロブームだ。
不便で不完全な過去にひかれるのだとか。
そういえば街で昭和風の服装の若者を時々見るし、純喫茶も人気だそう。
またレコード文化が再燃して、LPレコードの売り上げがCDを上回っているようなのだ。
デジカメやスマホではなくフィルムカメラとか、
手書きのためのガラスペンや万年室も人気と聞くと、なぜか嬉しくなってきた。
人にはやはり手間をかけることでの心の落ち着きや温もり、出会ったことはなくてもノスタルジックな感覚は
母の懐にいるような優しさを生み出してくれるのだろう。

固定電話しかなかった時代から、コードレス電話へ、さらにはどこでも電話できる携帯電話からスマホへ。
文字に託していた言葉が、話して伝わるようになり、今では感情が伝わらない電子文字になって、
相手の都合などお構いなく、どこからでもメールできる。
何もかもがあまりに便利過ぎて、素っ気なくて、
Z世代は「便利=豊か」ではないと気づいたのかもと言われたら本当に嬉しくなってきた。

不便な時代も便利な時代も体験できている私たち世代はやっぱり得した気分になってくる。
それにしても白物家電が出回る前の女性の働きぶりを知ったら、
今の女の子たちはぶったまげるどころではないだろう。
ちなみにぶったまげるの語源は
「たまげる=魂消る」、つまり魂が消えてしまうぐらいの思いをすることだそうだ。
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得したこと

2025-05-25 17:08:29 | エッセイ

「これまでの人生で得をしたことってありますか?」
もしこんな質問をされたら、ぜひ答えたいと思っていることがある。
 60年後半から70年代に青春期をすごした私たちは、
ほとんどの電化製品の誕生から普及までを自分自身の成長の過程で見て育ったことだ。
 もののない時代も今のように物があふれる時代も知っていることで、
どんな場面に出くわしても融通が利く生き方ができるのではないかと思っている。

 私が物心がついた頃に我が家にあった電化製品といえば、
暗めの照明器具とラジオ、そして小さな扇風機ぐらいだったろう。
 電話器も黒色のハンドル付きで、ハンドルを回すと電話交換手(当時の花形職業)が出て、
相手の番号を伝えてつないでもらうというアナログ世界。
 ダイヤル式でカラー電話が出回り始めた時にはぶったまげてしまった。

 白物家電が我が家にやってきたのは、電気洗濯機、白黒テレビ、電磁冷蔵庫の順だったか。
いわゆる主婦にとっての三種の神器だ。
 それまで洗濯物は、母が外の炊事場ですべて手洗い。
手がちぢかむような寒い日も暑い日もたらいに洗濯板を置いて、
家族全員の洗濯物をゴシゴシもみ洗いし、2回ほどすすぎ洗いをしたら手で固く絞り上げ、干していくという重労働だった。

 洗濯機はそれを一度にやってくれるのだから、暮らしの革命とも言われたわけである。
 さらに洗濯機の横には手回しの脱水器がついていて、洗った洗濯物を1枚ずつ通すと、
せんべいのようにペッタンコになって出てきた。当初はそれが面白くて、
きょうだいで順番に脱水器を回させてもらったものだ。
 ただ、さすがに母はこれでは生地が傷みそうだとあまり使ってなかったと思う。

 白黒テレビは当時、娯楽の王様。
  実家は地方の田舎町でチャンネルは2つほどしかなかったが、
夕食が終わるとテレビの部屋に集まって家族全員で楽しみに観ていた。
当時はプロレスが人気で、住み込みの職人さんたちも縁側に腰掛け、一緒に楽しんでいた光景は今も思い出す。

 近所でもお金持ちの家では早々とテレビが備え付けられ、
夕方になると兄と2人でお向かいの家に「テレビを見せてください」と行っていた幼い頃の思い出もある。
そんなのどかな時代だった。

 電気冷蔵庫はそれほど感激しなかったかもしれない。それまでは木製の冷蔵庫で、
氷屋さんが毎日「まいど!」と30センチほどの四角い氷を配達してくれていて、
それがなくなるほうが寂しかった気がする。
 ただし母からすれば、それまで流水で冷やしていたスイカや麦茶、保存がきかないお肉に魚、卵など
電気だけで長持ちできるようになったのだから相当嬉しかっただろう。
その間にはプロパンガスのコンロも登場して、母の朝の仕事はずいぶん楽になった。

 のちには、電気ゴタツ、電気掃除機、クーラー、エアコン……が登場して、
主婦の過酷な手仕事も機械に任せる近代的なものへと変わっていた。
その頃は私たちも電気製品化されることに徐々に慣れていった気がする。
 ただ電気ゴタツができるまで、冬場になると毎朝、母の手で練炭や豆炭の火が起こされコタツを温めていたのだ。
洗濯もそうだが、今では想像もできないほどの親の仕事ぶりを知っていることは、
自分が窮地に陥った時など、踏ん張る力になってくれる気がするのだ。
それも電化製品が登場した時代を知っているからこそ。
 そうした体験ができたこと、つまり暮らしの革命の中で育ってきた私たちは
その時々で喜びや感動を得て貴重な体験してきたのだから、
どちらにせよ大きな得をしたことに間違いないだろう。
                           (つづく)
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春の味わい

2025-04-05 16:27:08 | エッセイ


春が近づいてくるとスーパーに行くのが楽しみになってくる。
以前、魚釣りマニアの義兄から海で採れたばかりのワカメを大量にもらったことがあった。
「ええー、こんなにどうしよう!」
海から直行便のワカメは相当汚れていた。

まずはワカメを調理バサミで適当な長さに切って、洗って洗っての繰り返し。
きれいになったら、根元近くの太い茎と葉を切り分ける。
続いて、お湯を沸かして熱湯に茎の部分から投入。
10秒ほどできれいな緑色になったらさっと上げ、水洗いして水気をきり、
少々骨が折れるが、いくつもの小袋に仕分けして冷凍保存に。

「わっ、きれい!!」
生の黒いワカメが、お湯の中で鮮やかな緑色になる瞬間はもうもう幸せ気分。
葉の部分はそのままポン酢で食すと、二度と忘れられない味に。
申し訳ないけれど、市販のワカメとはまったく違う味わいだ。
これがきっかけで毎年春になると、新ワカメをスーパーでも買うようになった。

そして、毎回かつくってしまうのが茎ワカメの佃煮だ。
茎を横にして薄くスライスし、熱湯でさっと茹でたらザルに上げて水洗い。
同量の水・醤油・砂糖に適量のみりんも加えた鍋に、
茎ワカメを入れて火にかけるだけ。
中火から沸騰したら弱火にして20分ほどコトコト煮る。
美味しそうに煮詰まってきたら火を止めて、白ごまを少々。
ご飯のお供にも、酒の肴にも、ご自由に。
美味しすぎるー!

そうこうするうちに八百屋さんに並び始めるのが筍である。
もうだーい好き。
私流の見分け方だが、皮が薄茶色(濃茶でなく)で、小さな穂先が黄色(深緑色でなく)、
根元の赤い粒々が小さいものなら、京筍でなくてもまずます美味。
ぬかと唐辛子を入れた大鍋で湯がいておくと、若竹煮から筍ご飯、天ぷらといろいろ楽しめる。
特に若竹煮には、冷凍にしておいたワカメ(葉)が大活躍。
若竹煮の味をグーンと引き上げてくれるのだ。

その次にやってくる春の味覚が……、空に向かって実るという空豆。
鞘のままグリルで焼く「焼き空豆」は、ほっこりと美味。
春の好物のオンパレードは、想像するだけで春の日々を笑顔にさせてくれる。
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冷や汗

2025-03-23 11:52:06 | エッセイ

駅からの帰り道、
春を目前にして、梅が満開の家もあれば、
ミモザの木が鮮やかで思わず振り返ってしまう家もある。
歩き慣れた道も季節とともにいろんな顔を見せてくれると、
のんびり歩いていた。

その途中、5〜6軒の新しい住宅地を歩きながら、
ここはほんの数年前までは駐車場で、
その前はサツマイモ畑だったことを思い出した。
娘が小さい頃、お友だちと楽しそうに芋掘りをしたこともあったなあーと
懐かしい思いで歩いていたら、イヤな記憶も蘇った。

以前、そこでひったくりに遭ったのだ。
梅田で幼馴染みの友人とご飯を食べて、いっぱいしゃべって地元駅に着き、
のどかな気分で歩いていた時、
左手に持っていたバッグを瞬間にひったくられた。
そして、
高校生ぐらいの男の子2人乗りのバイクが横を走り抜けていったのだ。
自分でも驚いたけれど、「ドロボー!」と叫んでいた私。
頭が空白になって、それでもバッグの中身を
財布、携帯、通帳、カギ……と復唱していた。

そこから自宅マンションまで必死で歩いて帰ろうとするのだが、
転びはしないものの、足が思うように運ばず、
冬だというのに妙な汗をかいていた。
到着してからは管理人室へ直行し、事情を話して警察に連絡してもらった次第だ。

その冷や汗ついでに、
もっと冷や汗をかいたことがあったなと思い出した。
新大阪、新幹線のプラットホームを走り回ったあの日のことだ。

数年前、ある医師との共著で平穏死の本を書かせてもらったことがあった。
在宅介護で平穏死を体験した家族のルポと、
その医師の説く平穏死のためのノウハウをまとめた内容だ。
すべて書き上げ、出版社から送られてきた初稿に、
その医師に最終チェックをしてもらい、
朱の入った(チェック済みの)初稿を新大阪駅の改札で受け取る約束だった。

ところが、約束の時間になっても医師は現れない。
新幹線の発車時間は決まっているため、
イライラしながら待っているとメールが入った。
診察に時間をとられて電車に乗り遅れたため、
新幹線のホームの○号車あたりまで来てもらえないかという内容だった。
私はあわてて入場券を求め、ホームに走った。
もう時間が迫っていたのだ。

医師が乗るはずの新幹線はすでにホームに入っていて、
私はさらにあわてて○号車あたりまで走った。
でも、どこにも医師の姿はない。
もう発車のベルが鳴り出しているのに、
医師は見つからないままドアがしまって、新幹線は走り出した。
「えっーーーー!」
数多くの見送り客も散るように去っていく。

「どうなってんのーーー? どうしようーーー!」
そこへ、電話が入った。
「新幹線の乗り換えもギリギリになってしまって、飛び乗った。何号車のそばの柱に茶封筒入りの原稿を置いてるから!」と。
「わかりました!」と答えている私。
すぐさま、指定の場所の柱に駆け寄ったが、どこにも茶封筒などなかった。

もしかして、次の柱かもと思いながら探し回り、
あり得ないのはわかっているのにホームの端まで走って1本1本の柱の近辺を見て回った。
息を切らしながら、かなりの距離を往復しと思う。
その間、医師から何度電話が入ったことだろう。
「どうしよう!」
私は呆然としながら、誰一人いない静か過ぎるホームに立ち尽くした。

その時、アレ?と気づいたのが、
ホームの端に建つ小さなプレハブ風の小屋だ。
「誰か人がいるかも」などと考えていると、
そのドアがスーと開いて、清掃の係りらしき人が現れた。
これこそ、藁にもすがる思いである。
「すみません、このホームで探し物をしているんですが、茶封筒とか置いてなかったでしょうか?」

その人は私の全身を見て一呼吸おき、ゆっくり聞いた。
「中に何が入ってるんですか?」
「本の原稿です! 何ページもある原稿です!!」
その人は何も答えず、ゆっくり小屋の中に入ると、茶封筒を持って出てきた。
『えーー、あった!』
「原稿が入っているので、確認してください!」
叫ぶ私。
その人は、またゆっくり封筒の中身を確認したと思うと、
「本来なら本部に連絡しなあかんけどな……」
そう言いながら、封筒を手渡してくれた。
「あ、ありがとうございますーーー!」

『どこにありましたか?』と聞きたかったが、言葉にはできなかった。
そのおじさんがまさかキリストには見えなかったけれど、
まさに救世主。
私は嬉しくて何度も何度も頭を下げていた。

もう汗びっしょり。
これが冷や汗でなかったら何だろう。
平静を装いながらホームのエレベーターを降り、
新大阪の構内を行き交う人たちみんなに、
「大切な原稿がありました!!」と
叫びたいくらい気持ちだけが高揚していた。
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まったりユズジャム

2025-02-01 17:02:55 | エッセイ


ユズが出回っている時期、
いつも行く八百屋さんで一盛りのユズを安く手に入れた。
「ユズ味噌田楽でもしようか」
「茶碗蒸しに使おう」
ぐらいに考えていたら、
今度は義姉から我が家にしては大量の柚子をもらった。
「えー、何にしよう!」

プレーンヨーグルトにジャムを入れたいけれど、
「市販のジャムは甘すぎるしなー」と思っていた矢先のこと。
思い出したのがいつかの新聞の切り抜きだ。
「このユズジャムなら簡単で私にもできそう!!」と切り抜いていた読者の投稿記事である。
資料の中から探して、探して、やっと見つけた!

投稿者も10年以上前に新聞で見つけた投稿記事とのこと。
ユズの皮も実もタネもすべて使う、無駄がなく簡単に作れて、
なめらかでとても美味しいジャムだという。
「これこれ、これやん!」

嬉しくなって、さっそく取りかかる。
用意するのはユズの重さの6割ほどの砂糖だけ。
①皮をむいて皮と房に分け、皮は5ミリ程度に刻む。
②房もバラバラにしてザクザク。種も一緒に鍋に入れ、水はひたひたより多めに入れて火にかける。
③煮立ってきたら、砂糖を2回に分けて入れる。
私は待ちきれず時々木べらでやさしくかき混ぜた。
しばらくしてとろみが出て、鍋底にくっつき出したら火から下ろす。
残る作業は、種を箸で取り出すだけ。冷めたら出来上がりだ。

あっという間に透き通った薄黄色のジャムになった。
種にはゼラチン質があって、美しいとろみをつけるその力の偉大さも初めて知ったこと。
この種を取る作業が面倒と、袋に詰めて煮たりすると失敗するらしい。

空き瓶に詰めると、なぜか愛しい宝石箱(瓶?)のよう。
砂糖は少し少なめにしたが、適度の甘さに清々しい苦味が加わって、
簡単に上質のジャムが完成した。ほんとうに美味しい!

きっと昔から語り継がれてきたおばあちゃんの味なんだろう。
見ず知らずの人から教えられ、つながっていく素朴で忘れられない味。
投稿者も、教えてもらった投稿者に感謝しながら毎年作っているそうだ。
温かいつながりがジャムの味を格段に上げる。
来年も作りたくなる手軽さと味わいだ。
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