上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

6月 ジュンブライド(1)

2019-05-23 15:07:49 | エッセイ

 父親というのは、娘の結婚話を一度は否定したくなるものらしい。
私の父もそうだった。

 高校卒業後、私は大阪の短大に入学するため岡山の実家を巣立った。
そのまま大阪で就職し、コピーライターという親には想像もつかない職種に就いて3年。
突然「会ってほしい人がいる」と、否応もなく実家に同行したのが現在の夫である。
 大学卒業後、就職したばかりというまだまだ大人になりきれていない、父にとってはどこの誰とも分からない青年だった。
しかも、両親には内緒だったが、アルバイト先のジャズ喫茶で知り合った相手だった。

 新幹線とバスを乗り継ぎ、わが家を訪れた青年は、ガチガチに緊張しているにも関らず、
傍目にはかなりリラックスして見えたようだ。
 母が用意してくれた焼き肉を、いつも腹ぺこの若者らしく美味しそうに頬張り、
平らげ、次々と継ぎ足される酒をそれは美味しそうに飲んだ。「遠慮も何もないの」と思われるほど、飲んだ。
緊張を通り越してそうなったとは、誰も思えないほどの飲みっぷりだった。
『あ~あ、調子にのちゃって……』とため息をつくのは私だけ。

 温厚なはずの父が、何も言わずにふっと家を出てしまい、深夜まで帰らなかった。
後で母に聞けば、一人で近所の飲み屋に行っていたらしい。
きっと「ああ、末娘も嫁に行ってしまう。しかも、ああいう男と……」と嘆きながら飲んでいたのだろうが、
後々にも私に直接、結婚を反対することはなかった。

 父の熱く深い気持ちは、私からすれば「慮る」しかないのだが、
その後も父の本音を聞く機会もなく、聞こうともせずに結婚へと進んだ。
 だからこそ、彼との生活を頑張ろう、2人で一生懸命生きなければと、私には重石となったのだと思う。
そして、6月の花嫁は幸せになれるらしいという不確かな伝説を信じ、6月2日に式を挙げた。
幸せだったかどうかの結論はまだ出ていないが、我慢強くない性格の2人が相変わらず共に生活を続けているのだから、
ここまで来れば、腐れ縁にしろ、幸せに近いのだろうと思い込んでいい年齢になってしまった。
 
 父と末娘である私との関係とは、いったいどういうものだったのだろう。
母との関係のように深く日常の生活を語ることもなければ、くだらない話に時間を費やすことも、
自分の深い思いを議論し合うこともなかった。
 それでも、生活の端々で見せた父の顔や言葉が、幾つになってもいつも断片的にこぼれるように飛び出してくるのである。

 父は毎日欠かすことなく、午前10時と午後3時には、お気に入りのお茶をたしなんだ。
自分でお茶屋さんに出向き、買い求めた軸茶を細長い木製盆に並んだ萩焼の煎茶の器で楽しむのだ。
鉄瓶で沸騰したお湯を冷まし、急須に入れてしばらく時間を置き、
5つ並んだ小さな湯のみに、濃い色のお茶をそれは愛おしいそうに接いでいく。
 そして、渋くて甘くぬるいお茶をゆっくり美味しそうに味わいながら、お茶休息を楽しんだ。
「こんなに美味しいお茶は余所ではいただけません」
 とその時間をめがけてやって来る客人もいたほど。
そんな風流な面もあった父だが、相当に細かい人でもあった。とにかく無駄使いが嫌いだった。

 まだまだ貧しい時代で、私たちの夕食のおかずが1~2品だけという日でも、父には毎晩酒の肴としてお刺身が用意された。
そのお刺身につける醤油は、「最後の一切れを食べ終わる時点でなくなるだけの量を見計らってお皿に入れるべし」という人なのだ。
お腹がいっぱいになれば、お刺身一切れも無理をせず残せる人だった。
焼き肉用のタレも、水炊きのポン酢も同様、声に出して注意はしないが、必要量以上に使うのを嫌った。

 食後使った爪楊枝も使い捨てるのではなく、仕事用の机の引き出しに直し、
専用の小振りのナイフで先を削って、再度使っていた。
 私が近所の友だちに電話をしていると、「そんなことは直接言いに行きなさい」と叱られ、長電話をしていれば、父の視線が気になった。

 習性というものは恐ろしい。
飽きれて見ていたはずの私が同じようなことをしてしまうのである。
 ほんの少しの指の汚れを拭くためにティッシュをパッパと使う娘を横目に、もったいないと思ってしまう。
ラップは必要な量しか出せないし、一度かけただけのラップなら、もう1回使えるかもと使わないのに捨てられない。
スーパーで食品を包んだナイロン袋をそのまま捨てることなく、ゴミ袋として使う。
シャンプーも歯磨き粉も、マヨネーズも、逆さにして最後の最後まで使わないと気が済まない。
古くなったタオルやTシャツを使い捨て雑巾にと切って取っておくのだが、裏も表も使わないと思い切り捨てられない。
 家計はどんぶり勘定なのに、部分的には究極の「もったいない精神」の持ち主なのである。

 ノーベル平和賞受賞者でケニアの環境副大臣であったワンガリ・マータイさんによって、
日本ならではの「もったいない」という言葉とその精神が世界的に広まった時には、
「よくぞ見つけてくださいました」と握手を求めたい心境だった。
 でも、よくよく考えてみれば、提唱者がなぜ日本人ではなかったのか、少しもったいない気がしてならなかった。
コメント
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