上村悦子の暮らしのつづり

日々の生活のあれやこれやを思いつくままに。

9月 看板(2)

2019-09-19 20:33:48 | エッセイ

私には忘れられない看板がある。
もう遠い昔の話。地方出身の短大生だった私は、当時、夢中になっていたジャズ喫茶への帰り道、
京都東山の小さな文房具屋の軒先に、「洋裁おしえます」と素っ気なく書かれた看板というべき小さな紙きれが風に揺れているのを見つけた。

これが縁というものなのだろう。
それまで洋裁のことなど頭の片隅にもなかったのに、なぜか急に興味がわいて、ためらうことなく店の戸を開けた。
そして、中から出てきた大柄の中年女性に洋裁を習いたいと伝えたのだ。
その女性は笑顔をつくることもなく、「来週の月曜日からどうぞ」と素っ気ない言葉を返してきた。
 
その淡々としたやりとりが「先生」と私の出会いだった。
それから短大を卒業し、コピーライターになりたいと小さなデザイン事務所を転々とした3年ほどの間、
私は母の懐に帰るように先生のもとに通いつめたのである。
 
先生は東京生まれの東京育ちで、長い京都生活にもかかわらず、言葉も気性も江戸っ子のまま。
母と同年代にしては長身で、背筋をシャンと伸ばして、辛口にピシッピシッとものを言う人だった。
「ねえ、ねぇ、ちょっと面白いと思わない?」が口癖で、ほんの少し興味があるものを見つけると、
じっとしてはいられない性分。文房具屋の奥さんも洋裁の先生という肩書も、あまり似合わない人だった。

そのうえ褒め上手で、才能などあるやらないやら分かりもしない私ををつかまえて、
「あなたは将来、きっと売れっ子のコピーライターになれるわよ」だの、
「口の中でソッと甘さの広がる砂糖菓子みたいな子だね」と、暗示にかけるように繰り返すものだから、
私も居心地の良さに自然と足が向いたのである。
 
エスニック風ブラウス、、ボタンを30個もつけた赤いワンピース、大きなポケット付きの茶色のワンピース、
Aラインのジャンパースカート、友人の披露宴用のお嬢さま風ワンピース、母のボウブラウス、
そして、最後には自分のためのウエディングドレスまで、今では想像もできないほどの洋服を精力的に縫いあげた。

しかも、洋裁以外でも、絵の好きな先生に連れられて、岡崎近辺の風景を写生して歩いたり、
本物のヌードモデル(オバサン)をスケッチする夜間の絵画教室に通ったりと京都・岡崎周辺を歩き回った。
また汗をかくと、古い銭湯を探索しようと、日の高いうちから洗面器片手に繰り出し、泊めてもらって夜中まで話し込んだこともあった。
母とも違う、同世代の友人やボーイフレンドとも異なった面白さや楽しさがあって、私にとっては特別の時間だった。
 
私はこの出会いで、ささやかな日常の何でもを楽しみながら、前向きに明るく生きるためのエッセンスを学んだのである。
それまでの私の周り女性といえば、女としての役割に縛られ、その拘束にも気づかず、周りの目や世間体を気にする人ばかりだった。
グチらず、こぼさず、良き母であろう、良き妻であろうと、しんどさを顔に出さない人ばかりだったのである。

先生はそれを否定することもなく、自然に、私の目の前から取っぱらってくれた。
「やりたいことはどんどんやらなきゃ、美しいものをたくさん観て、おいしいものはどんなことがあっても食べてみなくっちゃあ」と。
 
それから私が結婚し、仕事や出産で足が遠のき、2人の娘を連れて再訪したのが10数年後。
親子の対面のように涙を流す私を笑顔で迎えながら、「こんないい子たちによく育てたじゃないの」 とまた褒めてくれた。
そして、私の小さな仕事一つひとつを手に取り、「こんな仕事ができるようになってよかったね」と喜んでくれた。
旦那さんを先に看取り、高齢になっての不自由なひとり暮らしでも、
取材のたびにひょっこり立ち寄る私を「よく来たじゃないの」と、気丈な母のように迎えてくれた。
 
それが、「私ね、もうそろそろダメなような気がするの」と気弱な言葉が出るようになって間もなくだった。
何度電話をしても通じず、案じていた矢先、脳硬塞で倒れたという知らせを東京住まいの息子さんからいただいた。
意識は回復しても言葉が出ず、体が不自由なってしまったままの先生は、
見舞う私に喜びながらも、手真似で「忙しいのだから早く帰れ」といってきかなかった。
きっと「ねえねえ、楽しいと思わない?」
と言えなくなった自分をあまり見せたくないのだろう察した私は、後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
 
私にとって、それが先生との最後の出会い。
訃報が届いたのは、実の母を亡くす3か月前のことだった。
先生の遺作となった句集に残されていた短歌2首。
「エッセイに先生の事書きました コピーライターの彼女の年賀」
「若きらに洋裁教える刻過ごす その日日のさま書きてありたり」  

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9月 看板(1)

2019-09-16 09:35:56 | エッセイ

旅に出で見知らぬ小さな町を歩くとき、いろいろな看板を見る楽しみがある。
大衆食堂「満腹」、ラブホテル「夜間飛行」、ペンション「ウッドぺッカー」など、
その商売ならではの屋号を見つけ、「クスッ」とひとり笑いするのも楽しい。
また、数珠屋さんの軒先に大きな木製の数珠がかかっていたりするように、
商品そのものの形を見せる実物看板を探すのも面白いものだ。

海外での店探しでも、重宝するのが看板だ。
クロワッサンの看板が目印のベーカリー、白い泡がこぼれそうな大ジョッキならビアホール、
大きなロブスターが描かれていたらレストラン、ぶどうの看板ならワイン関係の店と一目瞭然。

でも、中にはちょっと想像がつかないのものもある。
ある本で読んだのだが、オランダでは、おじさんが舌を出したり、口をあけている「舌出し男」や「口あけ男」の看板は
薬局のシンボルだそうだ。もしかすると、昔のオランダでは、薬局が医者の役目もしていたのだろうか。

また、日本ではあまり好まれないヘビも、ヨーロッパでは知恵のシンボルとして、
あるいは医学の神を象徴する生き物として尊ばれ、看板に描かれていれば薬局を意味するというのだから、
まさに「所変われば品変わる」である。

日本で看板が使われるようになったのは室町時代のころからだそう。
古くは平城京の時代に開かれた市で、商品の目印として掲げたのが起こりともいわれている。

数年前にイタリアを旅したときに訪れたポンペイの遺跡は、その古い歴史と規模の大きさに驚かされたが、
その古き町にもパン屋や居酒屋などの看板があったそうだ。
古い石の道を歩いていると、古代の人々が看板を目印にそれぞれの品物を求めて、往来を行き交う姿が目に浮かぶようだった。
 
人間にとって、看板といえば「顔」だろう。
顔は千差万別、十人十色。不思議なくらいいろんな顔の人がいるものだが、選べるものなら男であれ女であれ、
やはり美形に生まれた方が何かと有利である。
「性格だ」「愛嬌よ」とはいってみても、第一印象は何といっても顔。
中には美形とはいえ、底意地の悪さが顔に出ている人もいたりするが、
そういう特別の方は別として、なぜか美形の友人が多く、常に引き立て役人生を歩んできた私が、
身にしみて感じる何十年来の結論でもある。

最近は、プチ整形が流行していて、ほんの少し顔をいじっただけで、人生観も変わり、異性の目も変わったという人も多い。
しかし、美のみを追求して顔にメスを入れることに抵抗がある人も多いはず。
顔の形は変えられないにしても、喜ばしいことに表情だけは、自分の努力で何とかなるものらしい。

聞いた話によると、顔には表情筋がたくさんあって、笑うときに使う筋肉は8つくらいなのに、
怒ったときや、辛いとき、イヤだなあと思うときに使う筋肉は20以上あるそうだ。
それを毎日、繰り返すとどうなるのか。
恐ろしいことに、「イヤだなあ顔」や「怒り顔」のほうがよりスピーディーに形成されるわけである。

街を歩いていて感じるのだが、女性は特に表情が顔に出るような気がする。
若いうちは肌にも弾力があり、楽しいことや希望、夢をいっぱい抱えているから、そんなに気にもならないのだろうが、
50代・60代になると、そうはいかない。
「穏やかで優しい表情の人」と「怒ってもいないのにきつい表情の人」の2つのタイプに不思議なくらい別れてしまうものらしい。

もし自分の努力で少しでも優しい表情になれるなら、努力のし甲斐があるというもの。
テレビを観ているときでも少し意識して、口角をあげてみたり、眉間のシワを伸ばしたり、作り笑いをしてみたり……と、
努力しない手はないだろう。
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