宗家一族の先祖の方々は、明治時代までずっと世之主の次男が居住したと言われる直城とその周辺に約500年ほど居住していました。
この地には、金城の五間殿内、宗の四間殿内などがあったそうです。この殿内(とぅんち)は、琉球士族の内、総地頭職にある親方家を指す尊称です。王族である御殿の下に位置し、高い格式を誇る家柄であるそうです。当家は北山王の家系になりますので、琉球の三山を統一した中山王であった第一尚氏の尚 思紹王(しょう ししょうおう)とは親族ではなかったわけですが、もと王族として殿内と呼ばれる屋敷に居住できたのでしょう。金城とは金山家のことで、こちらは琉球王の親族で、大屋子として琉球から赴任され居住していました。
明治期のお爺様の記録によると、金沢一門、平良家、土持家などの島の有力者もこのあたり一帯に居住していたそうです。
前回の記事で話に出ていた世之主神社の側にある直城が造成中の航空写真がありましたので、現在との比較で掲載します。残念ながら、一番古い写真で1975年(昭和50年)頃ですので、直城が存在していた頃の写真や地図などは見つかっていません。もしそれより古い居住地図などをお持ちの方がいらしたら、ぜひ情報提供をお願いします。
明治31年の大型台風
直城に約500年ものあいだ先祖代々の土地で暮らしてきたわけですが、明治31年に超大型の台風がきて、近隣の屋敷は全て倒壊してしまったようです。金城の五間殿内や宗の四間殿内も倒壊。今から123年前のことです。現存する殿内が見られないのは、非常に残念です。いったいどんなお屋敷だったのだろうと、想像を膨らませるしかありませんが。本当に残念。。。
この地に居住していた家々は、それぞれ別の場所に移り住んでおり、当家も別の場所に移り住みました。
お爺様がこの地を出て新しい土地に移住したことを記述している文面に、「近代なるために」という文言がありますが、明治期に入り日本全体が近代化してきて、島も少しずつ近代化の波が来ていたようです。島の中心地はこの古城地付近から和泊町へと移り、小学校も創立されました。
この古城地付近は当時はまだ道路も整備されておらず狭く険しい山道が多かったようなので、生活するのには不便な土地だったこともあると思います。そんな理由もあって、先祖代々の土地を台風災害をきっかけに出てしまたったのでしょう。
当家の新しい居住先や、上記の写真に記述のウファチジについてはまた別記したいと思います。
ブログを応援してくださってる皆様、続きを希望してくださっている皆様、沖永良部の世之主や当家に興味を持ってくださって、ありがとうございます。とても嬉しく思っております。沖永良部は小さな島ですが、歴史や自然の魅力が詰まった素敵な島だと思いますので、当家のご先祖様が生きた島の応援もよろしくお願いします。